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「朝靄に溶ける口づけ」

朝の寝所には、淡い光が障子を透かして射し込んでいた。

まだ微睡まどろみの余韻を纏う雪藍が身を起こそうとすると、背後から伸びた朱華の腕がするりと腰を抱き寄せた。


背中に伝わる体温が、夢と現の境を曖昧に溶かしていく。


「……朱華様、もう朝です。…侍女たちが、心配してしまいます」


「俺の腕より、侍女の心配が大事か?」


拗ねたような低い声が耳をかすめ、雪藍の頬は瞬く間に朱に染まる。


「そ、そのような意地悪な聞き方を…」


「本当のことだろう」


朱華はそう囁くと、彼女の髪に顔を埋め、吐息ごと香を吸い込んだ。そこには、彼女が自ら調合した髪油からかすかに移った、甘い沈丁花の香りがした。


「…この髪の香は、お前が調合した沈丁花そのものだ。どうしようもなく、俺を縛る」


その言葉に雪藍は心臓を震わせ、胸の奥で、抗えないほど甘い熱が広がっていった。


「この香は、朱華様のためだけのものです」


と囁き返す。


「……では、もう少しだけ」


消え入るような声でそう告げると、朱華の唇がすぐに重なる。それは昨夜の激しさとは違う、互いの存在を確かめ、魂に染み込ませるような、深く、長い口づけだった。

やがて唇が離れると、朱華は雪藍の潤んだ唇を親指でそっと撫で、掠れた声で囁く。


「…昨夜、お前のすべてを味わったはずなのに、もう、お前の味が恋しい。…雪藍、お前は俺をどうするつもりだ?」


「ん……朱華様……」


抗議の言葉も唇で塞がれ、雪藍は乱れる吐息をもてあそばれるばかりだった。


「……言わせない。お前は俺のものだ。誰にも渡さない」


その囁きは熱を孕み、雪藍の心を蕩かす。

顔を赤くして胸に隠れようとする雪藍の手を、朱華は逃さず取る。そして、まるで貴重な宝物でも見るかのように、その手のひらをじっと見つめた。


「この指が、あの奇跡のような香を生み出し、俺の心を救ったのだな。…そして、この同じ指が、夜には俺の肌をなぞり、俺を狂わせる」


そう言うと、彼は感謝と情欲のすべてを込めて、指先ひとつひとつに、丁寧に口づけを落としていった。


「その恥じる顔も、震える声も……俺だけが知っていればいい」


雪藍は身を震わせ、堪えきれず朱華の胸に額を預け、微睡み始める。

朱華は、その無防備な寝顔を、愛おしくてたまらないというように、そっと指先でなぞった。涼やかな眉の形、小さな鼻、そして昨夜自分が貪った、柔らかな唇の輪郭を。


(…この眉、この鼻、この唇…。昨夜、俺を狂わせたのは、すべてこれか…。何度見ても、飽きぬ)


その愛おしさが、不意に、彼自身の心の奥にある弱さを引き出した。

朱華はふっと力を緩め、雪藍の胸に額を押し当てる。子供のように頬を寄せ、低く掠れた声で呟いた。


「……なぁ、少しだけこのままでいさせてくれないか。お前の匂いを吸わないと、今日一日落ち着かない」


その不意打ちに雪藍の心臓が跳ねる。

朱華は雪藍の掌を自らの頬へと導き、目を細めてすり寄った。


「強いと皆は言うが……お前が隣にいない夜は、眠れなかった。俺はお前にしか安らげない」


雪藍はそっと朱華の肩に手を回し、顔を胸に押し当てながら囁く。


「朱華様……私も、そばにいない夜は寂しくて眠れません……」


朱華は目を細め、ふっと甘えるように雪藍を抱き締める。

「雪藍……もっと俺にくっついてくれ」


雪藍は照れながらも身体を密着させ、髪に顔を埋めて小さな声で返す。


「はい…朱華様の腕が、私の世界のすべてです」


朱華は満足そうに唇を雪藍の髪に押し当て、さらに甘えるように肩をもたれかけた。


「一生、こうして閉じ込めていたい。朝も夜も、夢も現も……すべて俺とだけ過ごしてくれ」


雪藍はそっと手を朱華の胸に置き、指で心臓のリズムを感じながら囁く。


「朱華様……私も、ずっとここにいたいです……」


朱華は笑みを浮かべ、額を雪藍の額に押し当てた。


「雪藍……俺を撫でてくれないか。子どものようだと笑ってもいい、今はそれが欲しい」


「もちろん。そんな風に甘えてくださる朱華様が愛しくて、胸がいっぱいになります」


その言葉に応え、雪藍はそっと朱華の頭に手を添える。まるで極上の香油の滑らかさを確かめるように、その指先は彼の髪を優しく、丁寧に梳いていった。


朱華は雪藍を抱き寄せ、耳朶に唇を滑らせながら囁く。


「俺を甘やかすのはお前だけでいい。……雪藍、誰よりも俺を縛って欲しい」


雪藍は頬を朱華の胸にすり寄せ、静かに応える。


「朝も夜も……決して朱華様を離しません」


「……よく言った」


満足げに微笑んだ朱華は、額と額をそっと触れ合わせ、互いの吐息を感じながら、また新しい口づけを許した。

その瞬間、雪藍は悟る――この人の腕の中こそ、自分の居場所なのだと。

二人だけの朝靄に、幾度も熱が溶けてゆくのだった。

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