「告白と鳳凰の証」
章1:縁談の宴
額田の視察を終え、都へ戻った一行は清雅殿の広間にて、皇上と皇后に所見を報告した。
表向きには報告、だがその場の空気にはいつもどこか別の緊張が漂っていた。
儀礼が終わるか終わらぬかの折、皇上がふと朱華に問いかける。
「さて、朱華よ。近く縁談の宴を催す。そなたも年頃だ。妃選びの場に臨むことになるが、わしの考えに相違はないか」
宮中の話はいつでも急に誰をも呑み込む。
朱華は一呼吸おき、しかし迷いなく答えた。
「承知いたしました。宴をお待ちしております」
その短い応答に、皇后が柔らかく笑みを含ませて口を開く。
「宴には、諸家の令嬢が集いましょう。楽しむがよい、朱華」
言葉は和やかだが、その背後には圧力と期待がある。朱華は目を伏せず、わずかに笑んでそれを受け流した。だが、雪藍の胸には冷たいものが走る。
宮中で囁かれる縁談の噂を思い出し、頬が一瞬硬くなる。
夜、朱華は雪藍を自室へ呼んだ。扉が閉じられると、面を向けた二人の間に、外の声は届かない。
「雪藍―」
朱華の声はいつもより低く、真剣だった。
「近々、縁談の宴が開かれる。父上が日時を定めたと聞いた」
雪藍はぎゅっと唇を噛み、震える声で答える。
「…承知しております。存じておりますけれど―」
言葉はそこで割れ、堪えていた感情が溢れ出した。
雪藍は膝をつき、声をあげて泣き崩れた。
数日の旅の疲れと、これまで押し殺してきた不安が一気に押し寄せたのだ。
朱華は慌てて彼女を抱きとめる。
背に手を回し、耳元で低く囁く。
「大丈夫だ。俺に任せてくれ。秘策も考えてある。泣くな、雪藍。お前は、そんなに弱くない」
その言葉に、雪藍は肩を震わせながらも、少しずつ落ち着きを取り戻していった。
朱華は涙に濡れた頬に唇を寄せ、なだめるように静かな口付けを落とした。
「今度の宴で、俺は皆の前で、たった一つだけ名を叫ぶ。お前の名だ。その時に、お前は、その声に従って現れてほしい。…頼む」
雪藍は顔を上げ、涙で潤んだ目を朱華に向ける。
彼女は静かに頷いた。
─それが、二人だけの、密やかな計略の始まりだった。
章2:蓮花の輝き、雪藍の覚悟
宴当日。広間は絢爛たる輝きに満ち、香炉からは重厚で高貴な香が立ちのぼっている。
各家の姫たちは刺繍の裾を揺らし、貴石を映す髪飾りが燦然と光った。
その中でも、ひときわ強い輝きを放っていたのが、左丞相の娘・蓮花だった。彼女は最も朱華に近い席に座り、まるで自分がこの宴の主役であるかのように、自信に満ちた笑みを浮かべていた。
「殿下、額田より都の花の方が美しいに違いませんわ」
華やかな声が重なり合うが、朱華の瞳はただ一人を探していた。
一方その頃、女官部屋では、雪藍が「貴き場にふさわしく」装わされていた。
化粧の筆致、衣の色、帯の結び方――全てに意味を持たせよという朱華の指示に従い、震える手で支度を整える。髪には母から譲られし金細工の鳳凰の簪が差された。
それは、母が香を献じ、先帝から賜ったもの。
耳には朱華が祭りの折に贈った小さなイヤリングが揺れていた。
化粧台の前、鏡越しに見た雪藍は自分でも驚くほどに変わっていた。
簪の金色がほのかに光を返し、耳の飾りが誇りを告げていた。
雪藍は手に簪の冷たさを確かめ、深く息をつく。
章3:ただ一つの名
やがて大広間での宴が始まった。
女たちは皆、心の中で己が名を呼ばれることを待ちわびている。
皇后はその光景を満足そうに見つめていた。そして微笑を浮かべて口を開く。
「朱華。妃にする者は決めましたか。今宵は良い候補が集まっているでしょう」
朱華は背筋を伸ばし、まっすぐに父と母の目を見つめた。会場のざわめきが微かに落ち着く。
「はい。私は今宵、妃にする者を定めております」
その言葉だけで、広間の空気が変わった。
囁きはざわめきとなり、誰を選ぶかという視線が朱華へと集中する。皇上が端然と問いかける。
「して、その者の名は?」
朱華はひと息置いて、確かな声で答えた。
「その者の名は――雪藍と申します」
その瞬間、会場は刃のように静まり返った後、ひそひそとした声が波のように広がる。
「雪藍とは誰だ」「あの香女の雪藍か」
「身分が違いすぎる」
皇后の顔は驚きに強張り、言葉を失う。
その沈黙を破ったのは、蓮花の甲高い声だった。
「お待ちください、殿下!その者は、ただの香女!その出自も定かではない卑しい娘です!皇太子妃というものが、国の母となるべき存在であると、お忘れですか!」
その正論が、臣下たちの「その通りだ!」という声を誘発する。
皇上は静かに立ち上がり、席を鳴らすような一喝を放った。
「静かにせよ!」
声に全員が凝視し、重い沈黙が広間を満たす。
皇上は深く息をつき、落ち着いた口調で言葉を続けた。
「朱華よ……香女とな。身分の差はあまりにも大きい。これは我が家の体制と慣例を揺るがす。直ちに承認できぬ」
だが朱華は怯まず、ゆっくりと前に踏み出した。
顔には覚悟の色が濃く映る。
「父上。私が額田へ視察に赴いたのは、政のためだけではありません。実は、今日この日のためでもありました」
皇上が眉を寄せて問い返す。
「それはどういうことだ?」
朱華は短く息を吸い、声を張る。
「まず、この場に雪藍を呼ぶことを許していただけませんか。全ては雪藍本人の口からお話しさせたいのです」
皇上と皇后は顔を見合わせる。長い秒が過ぎ、やがて皇上は厳しい表情のまま頷いた。
「この場に呼ぶことを許そう。ただし、もしその話が軽率なものであれば、雪藍の命も軽いものと心得よ」
章4:鳳凰の証、愛の勝利
朱華は再び顔を上げ、広間に響き渡る声で命じる。
「雪藍を、こちらへ!」
女官に先導されて現れた雪藍の、息をのむような美しさに、誰もが言葉を失い、視線を奪われた。蓮花でさえも、その気品に満ちた佇まいに、悔しげに唇を噛む。
皇上は、雪藍を鋭い視線で捉え、口を開いた。
「朱華よ、この者は何者だ。どういう出自の者なのだ」
朱華は雪藍をまっすぐ見つめ、静かに、しかし確かな声で促す。
「雪藍。お前の口から、お答えするのだ」
雪藍はその場で静かに跪き、かすかに震える声で告げた。
「姜姓蘇氏の雪藍にございます」
その名に、周囲のざわめきがさらに大きくなる。
皇上は雪藍をじっと見つめ、驚きを隠せない様子で口を開いた。
「あの姜姓蘇氏の出自だったとは…正直、驚いた。
だが今となっては、名家の面影だけが残っているに過ぎないのではないか」
朱華は動じることなく、静かに言葉を継いだ。
「確かに、今は往時の栄華には及びません。ですが、名門は名門――その誇りは今も変わりません。
ぜひ、こちらをご覧いただきたく思います。…雪藍、例の簪を」
雪藍は髪に手を添え、そっと簪を抜き取ると、両手で丁寧に掲げて見せた。
「こちらでございます」
その簪を目にした瞬間、皇后は驚きに目を見開いた。震える声で問いかける。
「その鳳凰を象った簪――鳳凰とは、皇族にのみ許された高貴の印。なぜ、そなたがそのようなものを持っておるのだ?」
雪藍は恭しく一礼すると、静かに、しかし澱みのない声で口を開いた。
「母が香を献上いたしました折、先帝に殊のほかお喜びいただき、この鳳凰の簪を賜ったのでございます」
皇后は驚愕の色を隠せず、思わず息をのんだ。
「な……なんと、先帝からの御品とは――」
広間が静まり返る中、その沈黙を破ったのは、蓮花の震える声だった。
「お待ちくださいませ!先帝からの御品、確かに素晴らしいものにございましょう。ですが、それはあくまでその方のお母上の功績!没落した過去の名誉にすぎませぬ!」
蓮花は立ち上がり、居並ぶ臣下たちに訴えかけるように声を張り上げる。
「今の璃州国に必要なのは、過去の栄光ではございません!我が父、左丞相と共に、未来の国を支える確かな力です!皇太子妃として相応しいのは、この私をおいて他にございましょうか!」
その堂々たる主張に、臣下の一部が「おお…」「確かに…」と頷き、広間の空気は再び揺れ動く。
皇上は黙って簪を見つめ、静かに目を細めた。
広間の幾多の視線が突き刺す中、皇后がやがて、静かに口を開いた。
「朱華。お前の言葉を聞き、そして蓮花殿の言葉も聞きました。家の面目と人の心は、異なる重みを持つ。…わたくしは、この国の未来も案じます。
けれど、それ以上に、わたくしは、息子の幸福を第一に望む母です。よいでしょう——この蘇・雪藍を、朱華の妃として認めます」
周囲は文字通り息を飲んだ。長い沈黙の後、その静寂を破るように皇上が頷いた。
「よかろう。蘇・雪藍を、朱華の妃と認む。異論はないか」
誰も声を上げられない。蓮花は、悔しさに顔を歪め、扇を強く握りしめていた。
雪藍はその場に膝を据えたまま、ただ涙で顔を濡らしている。
彼女がどれほどの不安と恐れを抱え、ここまで来たかを知る者は少ない。
だが今、皇上の言葉は彼女の恐れをひとつずつ溶かしていった。
朱華は静かに雪藍の元へ歩み寄り、深く一礼をしてから、穏やかな声で言葉をかけた。
「これからは、俺の傍で共に歩んでくれ。名にしろ、位にしろ、俺はお前を何より大切にする」
雪藍は顔を上げ、涙で濡れた瞳を朱華に向けた。震える声で、しかしはっきりと答える。
「朱華様…ありがとうございます。私は、朱華様の傍で生きることを、心より望みます」
朱華は雪藍をそっと、そして力強く抱き寄せた。
その腕には、二度と離すまいとする強い決意と、すべてを包み込むような温もりが宿っている。
周囲のざわめきも、宮殿に満ちる無数の視線も、もはや二人の耳には届かない。
そして、朱華は雪藍の唇に、静かに、しかし熱い口づけを落とした。
それは、人々の前で交わされる、永遠の誓いにも似た深い口づけだった。
皇上は肩の力を抜くと、苦笑いを浮かべて呟く。
「やれやれ……親の前で大胆なものだ。全く、見せつけてくれる」
皇后はそんな夫をたしなめるように笑いながら、嬉しそうに付け加えた。
「本当に……。見ているこちらが、かえって照れてしまいますわ」
その軽やかな言葉に、広間の緊張はようやく溶け、祝福の空気が満ちていった。
こうして、二人の関係は宮中において公となった。




