「香に導かれる帰路」
章1:別れの余韻と、父と母の言葉
朝靄に包まれた額田の屋敷は、どこかしら柔らかな静けさに満ちていた。
朱華が用意させた馬車は、すでに門前で待っている。積み込まれた荷の音が、別れの時が迫っていることを告げていた。
雪藍は縁側に立ち、両親の顔を順に見つめる。
母・静蘭の瞳は娘を思う慈しみに濡れ、父・遠廉は口元を結んだまま、じっとその姿を胸に刻んでいる。
「……母上、父上。しばしのお別れにございます。どうかお身体を大切に」
雪藍が深く頭を下げると、静蘭はすぐに抱き寄せた。
「雪藍……。幼い頃から、よく耐え、一人で生きてきましたね。これからは都で、あなたの心からの幸せを見つけなさい。家のことは案ずる必要はない。私と父上で守ってゆく」
声を震わせながらも、母は娘を慰めるように背を撫でた。
遠廉は少しの沈黙の後、静かに言葉を継ぐ。
「雪藍。おまえの歩む道は、我らが願うよりも険しいやもしれぬ。それでも、おまえ自身の意志で選ぶならば……父として誇りに思う」
雪藍の目には涙がにじんだ。言葉にすれば胸が詰まる。
「はい……必ず、自分の道を歩んでまいります」
その様子を見守っていた朱華は、一歩進み出て、静かに両親に向かって頭を垂れた。
「雪藍を都へお連れするは、私にとって大きな責任。どうかご安心ください。
いかなる困難が待ち受けようと、私が必ずや、この命に代えても彼女を守り抜きます」
静蘭はその真摯な眼差しを受け止め、深く頷いた。
「殿下…あの子を、どうぞ、よろしくお願いいたします」
「はい。私の命を賭してでも」
遠廉もまた、険しい表情の奥に信頼の色をのぞかせた。
「殿下…娘は、まだ幼さを残しております。どうか急かすことなく、ゆっくりと寄り添ってやってください」
「承知いたしました」
そのやり取りを聞きながら、雪藍は胸の奥が熱くなるのを感じた。
やがて門口へ歩み出ると、朱華がそっと雪藍の手を取った。
言葉はなくとも、視線の交わりだけで互いの思いが伝わる。
馬車の扉が閉じ、車輪が土を踏みしめて進み出す。遠ざかる屋敷を見つめつつ、雪藍は小さく息を吐いた。
朱華はその横顔を見つめ、ただ黙って手を握り続ける。
言葉よりも深い愛情の確かめ合いの中で、静かな旅立ちは始まった。
章2:馬車の中での親密な時間
馬車の車輪が土を踏みしめ、規則正しい揺れを刻む。外にはまだ淡い春の空気が漂い、窓越しに見える山影がゆるやかに流れていった。
朱華の隣に座った雪藍は、囁くように口を開く。
「子どものころ、春になると父が庭に白梅を移してくれました。その花が散る頃、母と香を調合するのが、私の楽しみで……」
遠い記憶を辿る声は、どこか柔らかく、朱華の胸を深く打つ。
「その時の香りを、覚えているか?」
朱華が問いかけると、雪藍は小さく笑みを浮かべた。
「ええ。梅と沈香を少し混ぜて……幼い私には、少し大人びた香りに感じられました。
けれど母は、『雪藍の心がそのまま映った香りね』と、そう言ってくれました」
雪藍はそう語りながら、無意識に朱華の指先を探し、そっと重ねる。
指が触れ合った瞬間、馬車の揺れよりも強く胸が高鳴った。
朱華はその小さな手を包み込み、低く温かな声で応じる。
「……その香り、今も胸に残っているようだ。おまえの声と一緒に」
雪藍の頬に朱がさす。視線を逸らそうとした瞬間、朱華がそっと身体を寄せ、肩ごと抱き込んだ。
「雪藍。おまえが語る故郷の思い出を、俺はすべて覚えておきたい。香りも、花も、そしてその笑顔も」
胸の奥が甘く締めつけられ、雪藍は小さな吐息を漏らした。
「…朱華さま。そう言っていただけると、心が、ふわりとほどけてゆくのです」
馬車の揺れは続き、外の風景は移ろいながら遠ざかる。
二人の間には、言葉以上に深い静かな親密さが満ちていた。
章3:二人だけの温泉
道中、馬を先導していた近習が、馬車の窓辺に駆け寄って報告した。
「山の麓に、古くから湧き出る温泉がございます。旅の疲れを癒すには、格好の地かと」
朱華は迷うことなく応じる。
「それはよい。長き道のり、皆も休めるだろう。……それに、私も疲れを落としたい」
雪藍が隣で微笑み、楽しそうに瞳を細めた。
「温泉……初めてなので、楽しみです」
その言葉を聞いた瞬間、朱華の顔から笑みが消え、鋭い光が宿る。
「だが、雪藍の肌を、他の者に見られてはならぬ」
朱華は馬車を降りると、兵士や近習を前に声を張り上げた。
「聞け! 雪藍の肌を覗き見た者は、たとえ誰であろうと極刑に処す! よいな!」
兵たちは顔色を変え、一斉に声を揃えた。「ハッ!」
雪藍は唖然とした後、頬を染めて小さく笑みを浮かべる。
「……そこまで大げさにしなくてもよろしいのに」
だが胸の奥では、朱華に守られているという温かさが、じんわりと広がっていた。
――やがて。
二人きりで湯に浸かると、白い湯気がゆらめき、熱が肌を優しく包み込んだ。
石縁に凭れかかった雪藍の頬は、ほのかな紅に染まっている。
「身体の芯から温まりますね……しかも、肌がすべすべに」
朱華がその横顔に見惚れ、低く囁く。
「……確かに。確かめてもいいか?」
雪藍が驚いて視線を逸らす間に、朱華の手がそっと腕に触れた。湯で潤った肌はしっとりとしていて、指先に吸いつくようだ。
「…じっとしていろ。髪を洗ってやる」
「そ、そんな畏れ多いこと…!朱華様に髪を洗っていただくなど…!」
慌てる雪藍を、朱華は有無を言わさず自分の前に座らせる。そして、長い黒髪を湯に浸し、香りの良い石鹸を泡立て始めた。
皇太子とは思えぬ、少し不器用だが優しい手つきで、彼の指が雪藍の頭皮をマッサージする。その心地よさに、雪藍は思わずうっとりと目を閉じた。
「お前の髪の一筋まで、俺のものだ。俺以外の男に、この手触りを教えるな」
耳元で囁かれる、甘くも激しい独占欲の言葉に、雪藍の身体が熱く震える。
髪をすすぎ終えると、今度は朱華が彼女の瞳を深く覗き込んだ。
「……口づけくらいは許されるだろうか?」
雪藍は湯気の向こうをちらりと気にした後、静かに、しかしはっきりと頷いた。
次の瞬間、朱華の唇が柔らかく重なり、湯気の中で甘やかな口づけが何度も交わされた。
湯から上がると、朱華は大きな手ぬぐいで、雪藍の身体をすっぽりと包み込んだ。
そして、小さな手ぬぐいを手に取り、まるで宝物を扱うかのように、彼女の濡れた髪を優しく拭き始める。
「…湯上がりのお前は、花の蜜より甘い香りがする」
朱華はそう言うと、髪を拭いていた手を止め、雪藍のうなじの線に、そっと指を這わせた。
「…毒だな。俺を駄目にする」
その熱い囁きに、雪藍はもう言葉を発することもできず、ただ彼の胸に顔をうずめるだけだった。
朱華はくすぐったそうに笑うと、彼女の肩を抱き、二人は再び馬車へと戻っていった。
章4:帰路の誓い、都へ
馬車の軋む音が、夜の静けさに溶けていく。
窓の外では、早春の月が雲間から顔を覗かせ、道を仄かに照らしていた。
朱華は雪藍の手を包み込み、しばし言葉を探すように沈黙する。
やがて、その瞳に決意を宿し、低く柔らかな声で囁いた。
「雪藍……俺は、お前のすべてを守る。その笑顔も、その涙も、どんな影からも護り抜く」
雪藍の胸に、あたたかなものが込み上げる。言葉にせずとも、朱華の掌から伝わる熱が、約束の確かさを告げていた。
雪藍は視線を落とし、やがて朱華を見上げて小さく頷く。
「……朱華様。私にとっても、あなたは唯一の方です。どうか、これからも隣に――」
声はそこで途切れ、頬が紅に染まった。
朱華は微笑を浮かべ、雪藍の指先に唇を触れる。
「俺を頼れ。お前が未来を望む限り、俺のすべてを捧げる」
馬車の揺れが、二人の身体を近づける。寄り添った肩越しに、互いの鼓動がひとつに重なり合う。
言葉は少なくとも、そこには誓いよりも強いものがあった。
やがて、遠くに都の城門が見えてくる。
「もう…戻ってきたのですね…」
雪藍は静かに呟き、胸の奥に去来する旅の余韻を噛みしめる。
「お前が帰ってくるのを待っていた場所なのだ」
朱華の声は変わらず穏やかで、しかし力強く、雪藍の手をそっと握った。
春の光、香り、そして互いの存在――すべてが重なり合い、二人だけの静かな幸福を紡ぐ。
馬車の旅が終わり、都の喧騒が二人を優しく包み込んだ。




