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「額田への到着」

章1:懐かしき故郷と、鳳凰の簪

早春の風はまだ冷たさを含み、馬車の窓から見える景色は少しずつ変わってゆく。

野には梅がほころび、山影には白く雪が残る。村を発って数日後、ようやく雪藍の生家――姜姓蘇氏きょうせい・そしの屋敷が視界に入った。


かつて名家とうたわれたその屋敷は古びてはいるが、門扉や庭木はきちんと手入れされ、誇りを守り続けてきた気配があった。


「ここが、雪藍が生まれ育った場所か……」

朱華が感慨深げに呟く。

「……はい。懐かしいです」

雪藍の吐息のような声は、胸の奥の深いところを震わせていた。


馬車が門の前で止まると、両親が並び、うやうやしく出迎えた。

父・遠廉えんれんは、厳格そうな顔つきの中に、娘を思う深い愛情を隠している。母・静蘭せいらんは、雪藍によく似た涼やかな面差しで、穏やかに微笑んでいた。

その母の結い上げた髪に、鳳凰ほうおうかたどった金細工の簪が挿されているのを、朱華の瞳は見逃さなかった。

(鳳凰……皇族の象徴。なぜ、あれを…)

彼の瞳が、意味深に細められる。


章2:食卓の誓い、家族の和解

膳が整えられ、久方ぶりに一家が揃って食事を囲んだ。

母・静蘭せいらんが盃を置き、柔らかく語り出した。

「まだ、雪藍がこの世に生まれる前のこと。私が香を献上し、先帝に深くお喜びいただいたことがございました。その証として、この鳳凰ほうおうかんざしを賜ったのです」

「……鳳凰は、本来皇族のみが許される印のはず」

朱華は思わず声を漏らす。


静蘭は微笑んだ。

「ええ。ゆえに我が家は長らく、この簪を家格を示す象徴としてきました。しかし、これは単なる飾りではなく、雪藍が己の道を歩むときの護りともなるものです」


その時、朱華の視線がふと静蘭の横顔に留まった。

雪藍によく似た、涼やかな面差し。

思わず見入った瞬間、足元で強い痛みが走る。

「っ……」

見やれば、雪藍が朱華の太腿をそっとつねっていた。

朱華は苦笑いをこらえ、何食わぬ顔で盃を掲げ、ごまかす。


和やかな空気が戻ったところで、朱華は真剣な眼差しを雪藍の両親に向けた。

「どうか知っていただきたいのです。私は、心の底から、雪藍を愛している」

場に沈黙が落ちる。


やがて、父・遠廉えんれんが、これまで見せたことのない、深い悔恨の色を瞳に浮かべて口を開いた。


「……殿下。そのお言葉が真であるなら、我らにとって何よりの救い。…我らは、家の名を守ることに必死で、この娘自身を見ていなかった。お前を『蘇氏の娘』としてではなく、ただの『雪藍』として、深く愛してくださる方が現れた…。父として、これ以上の喜びはない。…許せ、とは言わぬ。だが、これだけは言わせてくれ。よく、立派に育ってくれた」


父の不器用な告白に、母・静蘭せいらんも涙を浮かべ、雪藍の手を取る。


「わたくしたちは、この簪に込められた先帝の御心に、家の誇りというかせをかけてしまっていたのかもしれません。…雪藍、本当に申し訳ありませんでした。あなたが、あなたらしく輝くことこそが、蘇氏のまことの誇りです」


両親からの初めての、心からの謝罪と愛情の言葉に、雪藍は堪えきれず、嗚咽を漏らす。

それは、幼い頃からずっと胸の奥にしまい込んできた、孤独が溶けていく音だった。

その涙を見て、今度は静蘭が朱華へと向き直り、深く頭を下げた。


「殿下。名や家格も大切ですが、娘の幸せに勝るものはありません。どうか、雪藍を末永くお守りくださいませ」


朱華は、その手を恭しく取ると、揺るぎない声で答えた。


「お任せください。私が、この命に代えても」


重い空気が晴れ、食事が再び始まると、場の雰囲気は以前とは比べ物にならないほど温かいものに変わっていた。

朱華は、もう遠慮することなく、雪藍の膳に次々と料理を取り分けてやる。


「雪藍、これも食べろ。お前は少し痩せすぎだ」

「しゅ、朱華様…!父上と母上の前で…!」


雪藍が真っ赤になって抗議するが、朱華は楽しげに笑うだけ。


やがて、骨の多い川魚の焼き物が運ばれてくると、朱華はそれを自分の前に引き寄せ、見事な箸さばきで綺麗に骨を取り除くと、その身をほぐして雪藍の皿に乗せてやった。


「ほら。お前は食べ方が下手だからな」


そのあまりに自然な夫のような振る舞いに、雪藍は恥ずかしさで俯いてしまう。


それを見ていた父・遠廉が、ごほん、と大きな咳払いをした。母・静蘭も、扇で口元を隠しているが、その肩はくすくすと震えている。


「…まあ、あなた。なんだか、わたくしたちが邪魔者のようですわね」


「…う、うむ。若者は、元気でよいな…!」


両親の反応に、雪藍はますます顔を赤らめる。

しかし、その胸は、生まれて初めて感じるような、どうしようもなく温かい幸福で満たされていた。


章3:母から娘へ、受け継がれる想い

食後、母は雪藍を自室に呼び、黒漆の小箱を取り出した。


「……これは、そなたに渡すべき時を待っていた簪」


蓋を開けば、金細工の鳳凰が燦然さんぜんと光を放つ。


「母上……これは……」


「帝より賜った証。だが、それは家を飾る器ではなく、そなたを護る楯ともなる。……そなたが己の道を歩む、その時にこそふさわしい」


雪藍の瞳が潤む。


「わたくしは……朱華さまのお傍で、生きとうございます」


静蘭はそっと娘を抱き寄せ、耳元に囁いた。


「ええ。それでよい。鳳凰は従うものではなく、自ら羽ばたくもの…。さあ、飛び立ちなさい」


簪を受け取った雪藍は、その重みに震えながらも深く頷いた。


その夜、自室に戻った朱華は、雪藍が手に握る簪を見つめていた。


(鳳凰……これは、ただの飾りではないな。彼女を愛するだけでは、守りきれぬ時が来る。ならば―)


彼の胸に、ある決意が固まりつつあった。


章4:少女の部屋で、禁忌の夜

その夜。ふたりは雪藍がかつて過ごした部屋に泊まることになった。

文机と古い書棚が置かれた、六畳ほどの部屋。

障子窓から差し込む月明かりが、畳の上に静かな影を落としている。少女の日々の面影がそこかしこに残る部屋で、並べられた布団に座り込み、雪藍は落ち着かぬ面持ちで朱華を見上げた。


朱華は何も言わず、ただ静かに雪藍を見つめている。

その瞳は昏い熱を帯び、言葉よりも雄弁に、目の前の雪藍を求めていると告げていた。

見つめられるだけで身体の芯が甘く疼く。雪藍は視線に耐えきれなくなり、思わず畳に目を落とした。


「……両親が、おりますのに」


絞り出すような、か細い声。それは懇願のようでもあり、諦めのようでもあった。

その言葉を待っていたかのように、朱華は一瞬だけ微笑み、雪藍の隣に音もなく膝をつく。

そして、唇をそっと雪藍の耳元に寄せた。


「お前の声さえ、俺が飲み込んでしまおう」


熱を孕んだ囁きが、肌を粟立たせる。抗う間もなく、朱華の腕がそっと背中に回り、力強く、しかしどこまでも優しく布団の感触へと彼女を抱き寄せた。戸惑いながらも抗えない雪藍の身体が、静かに震える。


「しゅ、朱華様……」


思わず漏れた吐息に、雪藍ははっとしたように両手で慌てて唇を押さえる。

朱華はその仕草を愛おしむように目を細め、囁く。


「そうだ。声さえ殺せば、全ては俺たちだけのものだ」


指先が巧みに帯を解き、衣の合わせがゆっくりと開かれていく。

月明かりに照らされた白い肌が露わになり、夜の冷たい空気に触れて小さく震えた。

漏れそうになる甘い吐息を、朱華の深い口づけが優しく塞ぐ。


襖一枚隔てた先にある日常と、すぐそこにある禁忌。

その狭間で、二人の影は音もなく重なり、互いの熱だけを確かめ合うように深く結ばれた。


しばらくの間、二人は互いの体温と余韻を感じるように、ただ静かに抱き合っていた。

汗ばんだ肌を撫でる夜風が心地よい。朱華の大きな手が、汗で額に張り付いた雪藍の髪を優しく梳いてくれる。


「…静かだな。どうやら、お前の声は、誰にも届いていなかったようだ」


沈黙を破ったのは、朱華の穏やかな囁きだった。

その声に、雪藍は朱華の胸に顔を埋めたまま、くぐもった声で答える。


「……わたしの心臓の音が、あまりにうるさくて……この音だけが、両親の部屋まで聞こえてしまったのではないかと……そればかりが怖くて」


「ふっ……」朱華は小さく笑い、愛おしげに雪藍を抱きしめる力を強めた。


「それは、私にしか聞こえぬ音だ。お前の心臓の音も、熱い吐息も……愛らしい声も、全てな」


その言葉に、雪藍の胸の奥がきゅうっと甘く締め付けられる。

恐ろしくて、恥ずかしくて、けれどそれ以上に、どうしようもなく幸せだった。


「朱華様……」

「ん?」

「……怖かったのです。でも……それ以上に、朱華様をすぐそばに感じられて……嬉しかった、です」


途切れ途切れの、しかし偽りのない告白。朱華は雪藍の額に優しい口づけを落とし、その瞳をまっすぐに見つめた。抑制された情熱の代わりに、今はただ深い愛情がその黒い瞳に満ちている。


「お前は、誰より愛おしい。……今夜はもう何も考えず、俺の腕の中で眠るといい」


その声は、抗いがたいほどの優しさで雪藍を包み込む。

こくりと頷いた雪藍は、朱華の首にそっと腕を回した。互いの鼓動を子守唄に、秘密を共有した二人は、夜が白み始めるまで静かに体を寄せ合ったまま、浅い眠りへと落ちていった。

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