「額田への途」
章1:表向きの務め、裏側の想い
春の気配が濃くなる頃、清雅殿の一隅にて、皇太子朱華は侍従を前に文を開いていた。
そこには「地方の香草、香木の調査」という題目が記されている。表向きは香を扱う者たちからの要請であり、実際には宮中に広まりつつある縁談の噂をかわす意図もあった。
朱華は筆を取り、さらさらと添え書きを加える。
「政の一端として、地方の風土と民情を視る必要あり」
これであれば、誰も異を唱えることはできない。
すぐ脇に控える近侍が声を潜める。
「皇太子殿下、額田の地は遠くございます。道中の警護をいかが致しましょう」
朱華は文を閉じ、静かに答える。
「精鋭をつけよ。だが、大仰にはするな。民が萎縮しては視察の意味がない」
そしてふと、脇に立つ雪藍へと視線を移す。
香女としての衣を纏った彼女は、いつもより少し緊張した面持ちをしていた。
「雪藍、お前にも務めを与える。額田は香草の産地でもある。お前の目でその土地の香を確かめてほしい」
その言葉に、雪藍は息を呑んだ。額田――それは彼女がすでに朱華へ語った、生家のある地。
だが、ただの出自ではなく、宮廷の務めとして改めてその名を告げられると、胸の奥に複雑な波が広がる。懐かしさと不安、そして朱華からの信任の重みが入り交じり、声は自然と掠れていた。
「……額田へ。それが、私の務め……なのですね」
朱華は静かに頷き、やわらかな笑みを浮かべる。
「そうだ。お前の才は香だけにとどまらぬ。土地に根づく空気までも、感じ取ってほしい」
女官たちは顔を見合わせ、小声で囁いた。
「皇太子殿下直々に随行を命じられるとは……」
「香女とはいえ、これは異例のこと……」
噂の矢は鋭く、雪藍の背を刺す。
だが朱華はそのざわめきを気にも留めず、彼女の手を取り、静かに握った。
「宮中の喧騒には、さすがに辟易している」
「……ええ」
「ならば、お前を遠ざけるのも一つの策だ。額田であれば、人の口も目も届かぬ」
囁かれる声に、雪藍の胸は熱くなる。
守ろうとしてくれているのだ――その想いが、胸の奥を温かく満たしていった。
こうして「地方視察」の名の下に、朱華と雪藍は額田への途につくことが定められたのである。
章2:門出の宣戦布告
数日後、清雅殿の門前には、簡素ながらも整えられた行列が組まれていた。
朱華は淡い色の常服に身を包み、過度な威儀を避けていたが、その姿には自然と威厳が宿っていた。
雪藍は女官の衣をまとい、香箱を抱えて並ぶ。胸の奥で鼓動が高鳴り、足元がふらつくほどであった。
門前に集う宮人たちは遠巻きにその様子を見つめ、さまざまな囁きを交わす。
「本当に香女まで随行させるのか……」
「額田といえば、辺境に近い地。宮中に残るよりは安全だろう」
その人垣を割るようにして、一人の姫君がすっと前に進み出た。左丞相の娘・蓮花だった。
彼女は朱華には見向きもせず、ただ雪藍だけを、値踏みするような冷たい視線で射抜いた。
「あなたが、雪藍殿ね。殿下を誑かしたという噂の香女…。田舎への物見遊山、楽しんでいらっしゃい。…殿下の隣に立つべき者が誰なのか、お留守の間に、宮廷の皆に、よおく教えておいてさしあげますから」
一方的な宣戦布告を残し、蓮花は扇で口元を隠して優雅に去っていく。
雪藍の背筋に、氷のような悪寒が走る。
だが、横を歩む朱華の背が、それらの雑音をすべて遮ってくれるように思えた。
やがて、朱華が振り返り、雪藍を見やる。
「雪藍。用意はできているか」
「……はい」
その返答は震えていたが、彼女の瞳には確かな決意が宿っていた。
朱華は微かに頷き、馬車の戸を開く。
「では参ろう」
雪藍が足を踏み入れると、淡い香が馬車の中に満ちていた。
それは朱華が密かに焚かせた香であり、彼女を落ち着かせるための心遣いだった。
外では近侍が号令を発し、行列がゆるりと動き出す。宮門をくぐるとき、馬車の中で朱華が彼女の手を強く包み込んだ。
「額田は、決して遠くない。お前の帰る場所であり、我らの歩みを広げる始まりでもある」
その声に雪藍ははっとし、涙をこらえて微笑む。
「……はい、朱華様」
章3:馬車の中の聖域
馬車はゆるやかな坂を下り、都を遠くに置き去りにする。
視界には春の田園が広がり、畦道には菜の花が黄色の絨毯を敷き詰めていた。
農夫が鍬を振るい、子供らが駆け回り、牛を引く老翁が道端に頭を垂れる。
その度に朱華は窓越しに応え、微笑みを返した。
雪藍もまた、袖をのぞかせ、村人の子に手を振る。
「……穏やかな景だな」
朱華の声は低く、だが確かな安堵を帯びていた。
「ええ。こうして民の姿を間近に見ると、宮の中で思い悩んでいたことも、少し小さく思えます」
雪藍が静かに言うと、朱華は彼女を見つめ、柔らかな笑みを浮かべた。
やがて、外の景色は揺らぐように遠のき、馬車の内は二人だけの静謐な世界となる。
朱華はふと雪藍の腰を抱き寄せ、自らの膝にそっと座らせた。
「し、朱華様……っ」
雪藍は驚きに声を洩らし、頬を赤らめる。
「二人だけの空間で、二人だけの時間だ」
朱華は耳もとに囁き、首筋に唇を落とす。
温かく、甘やかな感触が雪藍の背を震わせた。
「もし従者に目撃されたらどうする……? それとも、いっそ見せつけてやろうか」
笑みを含んだ声音に、雪藍は慌てて顔を背ける。
「……本当に困った方です」
拗ねたような声が震えを帯び、朱華の胸に吸い寄せられる。
「困らせるのは、お前だけだ」
そう言って彼は再び頬を撫で、瞳を覗き込む。雪藍は抗えぬまま、その眼差しに身を委ねた。
こうして、都を離れた最初の旅路は、甘やかな秘密を抱えたまま続いてゆく。




