表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/100

「掌の甘い余熱」

あれから数日、朱華の心は、名も知らぬ香女の面影に囚われていた。

政務の合間、書を読むふりをしては、窓の外に彼女の姿を探してしまう。あの瑠璃色の瞳と、心を乱した沈丁花の香りを、もう一度――。

その想いは、皇太子という理性の壁の内側で、日増しに熱を帯びていた。


その日の午後、朱華は庭園を望む回廊を、あてもなく歩いていた。

すると、前方から、あの白い面紗の女官が歩いてくるのが見えた。

彼女は黒漆の盆を胸に抱き、その上には儀式で使うのであろう、極上の香木が数本、載せられている。

大切なそれを落とさぬよう、慎重に、しかし凛とした足取りで歩を進めていた。

朱華は咄嗟に柱の陰に身を隠し、息を殺してその姿を見つめる。


その時だった。

角を曲がった先から、高位の妃に仕える女官たちが早足に現れ、雪藍のすぐ脇を通り過ぎようとした。


「きゃっ…!」


一人の女官の袖が、雪藍の持つ盆に強く触れた。

盆が大きく傾ぎ、香木が床に滑り落ちそうになる。

雪藍が悲鳴にも似た声を上げた、その瞬間――。


柱の陰から躍り出た影が、彼女の身体を力強く支えていた。

朱華だった。

彼は雪藍の細い腕を固く掴み、傾いた盆をもう一方の手で支える。すんでのところで、香木は床に落ちるのを免れた。


「……大丈夫か」


低く、耳のすぐそばで響いた声に、雪藍ははっと顔を上げる。目の前には、朱華の整った顔。彼の腕の中に、自分がすっぽりと収まっていることに気づき、雪藍の身体が強張った。

腕を掴む彼の掌が、薄い衣を通して、焼けるように熱い。


「も、申し訳ございません!皇太子殿下とは知らず…!」


ぶつかりそうになった女官たちが、真っ青になってその場に平伏する。


だが、朱華の目は彼女たちを見ていなかった。

ただ、腕の中の雪藍だけを、その黒曜石の瞳で見つめている。

やがて彼は、ゆっくりと雪藍を離すと、盆の上を確かめるように言った。


「…気をつけろ。君が扱うものは、君自身と同じく、国の宝なのだから」


その言葉に、雪藍は息を呑んだ。

自分自身が、宝だと?

驚きに見開かれた瑠璃色の瞳が、不安げに揺れる。

その表情に、朱華の心が、ふっと和らいだ。

彼は、まるで衝動を抑えきれぬように、そっと手を伸ばす。そして、労うように、慰めるように、雪藍の頭をぽん、と一度だけ、優しく撫でた。


「っ……!」


挿絵(By みてみん)


雪藍の肩が、今度は違う意味で大きく跳ねた。

頭に残る、大きな手のひらの感触。

皇太子に、髪を撫でられるなど、ありえない。

朱華は、自らの大胆な行動に気づいたように、一瞬だけ動きを止めると、名残惜しそうに手を離し、何も言わずに背を向けて去っていった。


一人残された回廊で、雪藍はその場に立ち尽くしていた。

腕に残る、彼の手の熱。

頭に残る、彼の掌の温もり。

そして、耳の奥でまだ響いている、「国の宝だ」という、甘い囁き。

心臓が、破れそうなほどうるさく鳴り響いていた。


――一方、朱華は。


雪藍の前から姿が見えなくなる回廊の角を曲がった瞬間、ぴたりと足を止める。

そして、まるで糸が切れたように柱に背を預け、ずるずるとその場にうずくまった。


(……俺は、何を言っているんだ…!『国の宝』? 馬鹿者、あれではまるで、俺の…!)


彼は、先ほどの自分の言葉と行動を思い返し、顔から火が出るような羞恥に襲われる。


(つい、頭を撫でてしまった…。柔らかかった…。それに、あの髪から、甘い香りが…)


手のひらに残る彼女の髪の感触と、鼻腔の奥に残る香りの記憶。そのあまりの甘美さに、皇太子としての威厳も何もかも忘れ、ただただ赤面する。


「…次はない。次こそは、必ず理性を…」


そう呟く声が、誰よりも自分自身に言い聞かせているようで、ひどく震えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ