「掌の甘い余熱」
あれから数日、朱華の心は、名も知らぬ香女の面影に囚われていた。
政務の合間、書を読むふりをしては、窓の外に彼女の姿を探してしまう。あの瑠璃色の瞳と、心を乱した沈丁花の香りを、もう一度――。
その想いは、皇太子という理性の壁の内側で、日増しに熱を帯びていた。
その日の午後、朱華は庭園を望む回廊を、あてもなく歩いていた。
すると、前方から、あの白い面紗の女官が歩いてくるのが見えた。
彼女は黒漆の盆を胸に抱き、その上には儀式で使うのであろう、極上の香木が数本、載せられている。
大切なそれを落とさぬよう、慎重に、しかし凛とした足取りで歩を進めていた。
朱華は咄嗟に柱の陰に身を隠し、息を殺してその姿を見つめる。
その時だった。
角を曲がった先から、高位の妃に仕える女官たちが早足に現れ、雪藍のすぐ脇を通り過ぎようとした。
「きゃっ…!」
一人の女官の袖が、雪藍の持つ盆に強く触れた。
盆が大きく傾ぎ、香木が床に滑り落ちそうになる。
雪藍が悲鳴にも似た声を上げた、その瞬間――。
柱の陰から躍り出た影が、彼女の身体を力強く支えていた。
朱華だった。
彼は雪藍の細い腕を固く掴み、傾いた盆をもう一方の手で支える。すんでのところで、香木は床に落ちるのを免れた。
「……大丈夫か」
低く、耳のすぐそばで響いた声に、雪藍ははっと顔を上げる。目の前には、朱華の整った顔。彼の腕の中に、自分がすっぽりと収まっていることに気づき、雪藍の身体が強張った。
腕を掴む彼の掌が、薄い衣を通して、焼けるように熱い。
「も、申し訳ございません!皇太子殿下とは知らず…!」
ぶつかりそうになった女官たちが、真っ青になってその場に平伏する。
だが、朱華の目は彼女たちを見ていなかった。
ただ、腕の中の雪藍だけを、その黒曜石の瞳で見つめている。
やがて彼は、ゆっくりと雪藍を離すと、盆の上を確かめるように言った。
「…気をつけろ。君が扱うものは、君自身と同じく、国の宝なのだから」
その言葉に、雪藍は息を呑んだ。
自分自身が、宝だと?
驚きに見開かれた瑠璃色の瞳が、不安げに揺れる。
その表情に、朱華の心が、ふっと和らいだ。
彼は、まるで衝動を抑えきれぬように、そっと手を伸ばす。そして、労うように、慰めるように、雪藍の頭をぽん、と一度だけ、優しく撫でた。
「っ……!」
雪藍の肩が、今度は違う意味で大きく跳ねた。
頭に残る、大きな手のひらの感触。
皇太子に、髪を撫でられるなど、ありえない。
朱華は、自らの大胆な行動に気づいたように、一瞬だけ動きを止めると、名残惜しそうに手を離し、何も言わずに背を向けて去っていった。
一人残された回廊で、雪藍はその場に立ち尽くしていた。
腕に残る、彼の手の熱。
頭に残る、彼の掌の温もり。
そして、耳の奥でまだ響いている、「国の宝だ」という、甘い囁き。
心臓が、破れそうなほどうるさく鳴り響いていた。
――一方、朱華は。
雪藍の前から姿が見えなくなる回廊の角を曲がった瞬間、ぴたりと足を止める。
そして、まるで糸が切れたように柱に背を預け、ずるずるとその場にうずくまった。
(……俺は、何を言っているんだ…!『国の宝』? 馬鹿者、あれではまるで、俺の…!)
彼は、先ほどの自分の言葉と行動を思い返し、顔から火が出るような羞恥に襲われる。
(つい、頭を撫でてしまった…。柔らかかった…。それに、あの髪から、甘い香りが…)
手のひらに残る彼女の髪の感触と、鼻腔の奥に残る香りの記憶。そのあまりの甘美さに、皇太子としての威厳も何もかも忘れ、ただただ赤面する。
「…次はない。次こそは、必ず理性を…」
そう呟く声が、誰よりも自分自身に言い聞かせているようで、ひどく震えていた。




