「縁談」
章1:縁談の報せ
春浅き宮中。庭の梅がほの白くほころび、吹き込む風はまだ冷ややかであった。
その日、皇太子朱華は後宮の奥にある清雅殿へと呼び寄せられていた。
広間に足を踏み入れると、玉座に坐する皇上と、その隣に端然とした皇后が待っていた。
ふたりの視線は温かさを含みながらも、決意の色を隠しきれてはいない。
朱華はその気配を悟り、静かに拱手して膝を折った。
「朱華よ」
皇上の声は深く、響きわたった。
「そなたも二十。戦場に立ち、民を安んじた働きも皆が知っておる。才と徳は十分――ゆえにこそ、妃を迎えるべき時が来た」
言葉は重く、広間の空気をさらに引き締める。
皇后が柔らかな声を添えた。
「すでに幾つもの縁談が参っております。三代続く名門の令嬢、遠国よりはるばる参じる王女も…。そして、何より左丞相が推薦する、才色兼備と名高い姫君、蓮花殿もおりますわ」
そのひとつひとつの名を聞くごとに、朱華の胸は重く沈んだ。確かに、いずれも立派な家柄、世間が望む相手である。
しかし――
胸の奥に、ふと、ある面影が浮かぶ。
淡い香を纏い、凛とした眼差しで仕えるひとりの女官――雪藍の姿。
彼女の存在だけが、他の誰とも比べられぬほど鮮やかに心を占めていた。
(もしも彼女を失えば私はただの“皇太子”として、空ろに笑うだけの人間になるだろう)
胸裏に走る痛みを押し隠すように、朱華は深く息をついた。
「……父上、母上。大事なことゆえ、軽々しくは決められませぬ。しばし、考える時を賜りとうございます」
朱華の声には、静かに抗う気配が混じっていた。
皇上はその響きを受け止めるように、じっと息子を見据える。
「よかろう。しかし、朱華よ民も、朝廷も、皆そなたの未来を見つめておる。皇室の安泰を願う声は、そなたひとりの胸の内よりも大きい。忘れるな」
皇后もまた、母としての優しさを含ませつつ言葉を添えた。
「朱華。妃を得ることは、孤独を減らし、そなたを支える力ともなりましょう。けれど…母としては、何よりそなたが幸せであってほしいのです」
その一言に、朱華はかすかに目を伏せた。
幸せ――その言葉を思い浮かべたとき、最初に浮かぶのは雪藍の笑顔であった。
しかし、今の身分で彼女の名を口にすることは叶わない。
朱華はただ、深く拱手して広間を辞した。
庭に出ると、白梅の香がほのかに漂った。
だが、その香りは重くのしかかる縁談の話を和げることはなく、むしろ雪藍を想う切なさをいっそう強くした。
章2:揺れる宮中の噂
皇太子・朱華の縁談の話は、清雅殿を出てわずか数日のうちに宮中へと広まり、まるで春の霞のようにあちこちで囁かれるようになった。
その囁きは次第に女官たちの間へも浸透し、華やかな衣の裾を揺らしながら、彼女らは甘やかに憶測を重ねる。
「大尉の娘は、舞の名手だと聞きましたわ」
「いいえ、わたくしは楚国からの姫君に目があると睨んでおります。政略にもなるでしょう?」
「まあ、けれど、やはり正妃は蓮花様でしょう。あの方ほどの家柄と美貌をお持ちの方はいらっしゃらないわ」
「そうね。香女ごときが、蓮花様に敵うはずがないわ」
最後の言葉は、ひときわ小さな声だったが、その棘は鋭く、近くで香炉の準備をしていた雪藍の耳を正確に射抜いた。
雪藍の心は、静まらなかった。
(……正妃は、蓮花様…)
女官たちの声が、幾度も心の内で反響する。
思い返せば、朱華はいつも気さくに声をかけてくれ、時に真摯に向き合い、時に悪戯めいた微笑を見せてくれた。だが、それらはあくまで「皇太子」と「女官」という隔たりの上に築かれた関係に過ぎぬ。
――わたくしが、望んではならぬこと。
雪藍は己を戒めるように目を伏せた。けれど胸の奥では、抑えようもない痛みがじわりと広がる。
香を選ぶ指がかすかに震え、香木の欠片を取り落としそうになり、慌てて掌に抱きとめる。
「まあ、雪藍。お顔の色が優れませんわ。ご気分でも?」
隣にいた女官が心配げに声をかけてくる。
雪藍は慌てて首を振り、微笑みを作った。
「……いいえ、何も。少し煙にあてられただけです」
そう答えながらも、胸の内では別の声がささやいていた。
――殿下にふさわしい方が現れるのは当然のこと。
――けれど、その時わたくしは……どうすればよいのだろう。
噂は花のように咲き乱れ、宮中を満たしていく。
その花の色彩は雪藍の胸に重くのしかかり、やがて深い翳りを落としていった。
章3:額田の告白と皇太子の決意
夜更けの静けさが、清雅殿を包んでいた。外庭の池面に月が揺れ、灯火に照らされた室内は柔らかな影を落としている。
朱華は机上の巻物を閉じ、人払いを命じてから、ただひとり雪藍を呼び寄せた。
女官たちの囁きが雪藍の胸を曇らせていることに、彼は気づいていたからだ。
「……雪藍」
低く、しかし確かな声音で名を呼ぶ。
彼女は畏まって膝を折り、深く頭を垂れた。その肩がわずかに震えているのを、朱華の目は見逃さなかった。
「近頃、宮中が騒がしいのは知っているな」
「……はい。朱華様の御縁談のこと、でしょう」
雪藍の声は掠れていた。心を押し隠すようだった。
沈黙が二人の間を流れる。やて朱華は、灯火に照らされた彼女の横顔を見つめながら、静かに口を開いた。
「…雪藍。…お前の故郷は、どこにある」
不意の問いに、雪藍は目を見開いた。
しばし唇を震わせたのち、視線を落とす。
「……額田にございます」
その名を告げる声には、長く秘めてきた痛みがにじんでいた。
「額田……」朱華はその地名を口の内で転がし、初めて耳にする響きを確かめるように繰り返した。
「ならば、お前は…」
雪藍は小さく息を吸い、俯いたまま続けた。
「…姜姓 蘇氏の出でございます」
その言葉は、凛としながらも哀しみに沈んでいた。
「かつては栄華を誇った家でございました。けれど今は衰え、名ばかりの家柄に……。幼き頃より、わたくしは『家格を飾る器』とされ、心を顧みられることは……ございませんでした」
吐露の最後は震え、胸の奥を押し殺すようだった。
朱華は黙して聞いていた。灯火の明かりが雪藍の横顔を照らし、その瞳に滲む翳りを映し出す。
長い沈黙ののち、朱華はゆるやかに立ち上がり、彼女のそばへ歩み寄った。
「俺は思うのだ。噂や政のしがらみの前に、お前自身を確かめたいと」
雪藍の眉が揺れた。
「……わたくしを?」
「そうだ。やはり額田にあるお前の生家――姜姓蘇氏に、赴こうと思う」
その言葉が落ちた瞬間、雪藍の胸の奥で何かが鋭く鳴った。息が詰まり、指先がわずかに震える。
額田――その名が、封じ込めてきた記憶を容赦なく呼び覚ます。
そこへ、いまや皇太子が訪れるというのだ。心は、不安と、言いようのない温かさとで揺れていた。
朱華は彼女の沈黙を受けとめつつ、ひときわ真摯な声で続けた。
「雪藍……。お前の過去も、生家も、すべてを知らぬままに、ただ傍に置き続けることは、俺にはできない。だが――それを知ったとしても、この俺の心は、決して揺らがないと信じている」
雪藍の胸に、熱いものが込み上げる。
涙が零れそうになり、慌てて俯く。
けれども声は震えながらも確かだった。
「……分かりました。わたくしが手紙をしたためます。額田に戻る旨を……」
朱華は柔らかく頷いた。
その横顔に宿る決意は揺るぎなく、彼女を包む灯火の温もりと共に、雪藍の心を静かに照らしていた。
やがて、筆と紙が几帳の脇に用意される。
雪藍は震える手を押さえ、ひと文字ずつ、生家へ宛てた文をしたためる。その文の端には、彼女が調合した淡い香を染み込ませた小片が添えられた。
――宮中で彼女の存在を象徴してきた唯一のもの。
筆を置いたとき、朱華はそっと彼女の手に触れ、低く囁いた。
「雪藍。どれほどの壁があろうとも、お前を手放すつもりはない」
その言葉に、雪藍の胸は締めつけられる。
叶わぬと知りながらも――朱華の決意に、彼女は初めて未来への小さな希望を抱いた。
夜は深まり、静寂が二人を包む。その沈黙は切なさと共に、確かな絆の灯火を宿していた。




