「香室での小さな実験」
香室には、淡く立ちのぼる煙とほの甘い香りが漂っていた。
雪藍は香料を少しずつ混ぜ合わせながら、慎重に匙を動かしている。
朱華はその隣に腰を下ろし、珍しく子供のような眼差しで覗き込んでいた。
「この粉を混ぜると、香りがやわらぐのだな」
「ええ。ですが、量を誤ると、えも言えぬ匂いになります」
「ふむ……では少し、手を貸してもいいか?」
朱華が差し出した指が、雪藍の指先と触れ合う。
匙を支えるその手の熱に、雪藍の心臓が跳ねた。
ふたりの距離は、自然と近くなる。
朱華の手が触れたことで、雪藍の匙がわずかに揺れる。ほんの一欠片、意図せぬ香料が香炉に落ち、ふわりと煙が立った。だが、その香りは――ちぐはぐで、どこか尖った、不協和音のような香りだった。
「あっ…」雪藍が小さく声を漏らす。
「……少し、香りが喧喧してしまいましたね」
しかし、二人が顔を見合わせているうちに、その香りが熱せられ、他の香りと混ざり合い、次第にその角が取れていく。尖っていた部分はまろやかに、ばらばらだった香りは一つに束ねられ、やがて誰も嗅いだことのない、切なくも美しい奇跡のような香りへと変化していった。
香の煙に包まれた互いの笑顔に、雪藍はその視線を逸らすことができない。
気づけば、朱華の息が触れるほど近い。
静寂の中、鼓動の音だけが耳に響く。
朱華は立ちのぼる奇跡の香りに一度目を閉じて香りを確かめると、次に顔を寄せ、雪藍のうなじのあたりに鼻を近づけ、彼女自身の香りを確かめるように、深く息を吸い込んだ。
「香りもいいが……正直、俺は雪藍の方が、もっと甘くて柔らかそうに思う」
唐突な囁きに、雪藍の頬がぱっと染まる。
「っ、何を、おっしゃるのですか…!」
「確かめてみてもいいか?」
朱華は悪戯っぽく笑い、そっと雪藍の頬に唇を寄せる。雪藍は驚きに目を閉じ、次第にその熱に吸い寄せられるように、朱華の唇を受け入れた。
ひとつ、ふたつ。
重ねるごとに、香と唇の熱が溶け合い、雪藍の震える手は朱華の胸元に添えられる。
朱華はその震えを感じ取り、包むように雪藍の手を握り込んだ。
幾度目かの口づけの最中。
「……こほん。これは…本来なら混ざり合わぬはずの香。いびつな調合です」
唐突な声に、ふたりは飛び上がるように振り返った。そこには、腕を組んで立つ翠芳の姿。厳しい声に雪藍が身を縮める。しかし、翠芳は続けた。
「…けれど、なるほど。いびつだからこそ、これほどまでに心を揺さぶる香りが生まれることもあるのですね。まるで、どこかの皇太子様と、見習い香女のように」
その言葉に、雪藍は息を呑んだ。翠芳は眉をひそめながらも、目尻には明らかな笑みが浮かんでいる。
「殿下、香の調合かと思いきや、こちらは愛の調合でございましたな」
「……す、翠芳!」
雪藍は恥ずかしさに耳まで真っ赤になる。だが朱華は怯まず、きっぱりと声を張った。
「そうだ、愛の調合だ。私は心の底から雪藍を愛している。これは戯れではない」
その真剣な言葉に、翠芳はふっと笑みをこぼす。
「戯れではないことは重々承知いたしました。ですが、香室で香よりも熱を立ちのぼらせるのは、おやめくださいませ」
皮肉とも冗談ともつかぬ言葉を残し、師は肩を揺らしながら去っていった。
残された雪藍は、顔を真っ赤にして俯く。口づけを見られた恥ずかしさと、朱華の力強い愛の言葉、そして師の粋な言葉に、胸がいっぱいになる。
「……朱華様。本当に、私でよろしいのですか」
「お前でなければ、何も意味を持たない」
迷いなく告げられる言葉に、雪藍は涙をこぼしそうになり、朱華の胸へと顔を埋めた。
奇跡のような香の煙が、ふたりをやさしく包み込んでいた。




