「殿下の厨房日和」
その晩、朱華の私室には、いつもとは違う香りと雰囲気が漂っていた。
机の一角に竈と木台が据えられ、御膳所から運ばれた食材が整然と並べられている。
雪藍は目を丸くした。
「朱華様……これは?」
「雪藍の手料理を味わいたくてな。御膳所に頼み、ここへ器具も食材も運ばせた。今宵は二人で台所を楽しもう」
いたずらっぽく微笑む朱華の言葉に、雪藍は頬を紅潮させながらも、こくりと頷いた。
彼女は準備のために持ってきていた簡素な前掛けを結ぶと、もう一枚を朱華に差し出した。
「朱華様、お召し物が汚れてしまいます。こちらをどうぞ」
「なんだ、これは? 動きにくい」
不満げな朱華に、雪藍は「もう…」と呆れながらも微笑み、彼の背後に回って紐を結んであげる。不意に背後から包み込まれるような距離感に、朱華の動きが一瞬止まり、耳が赤くなった。
雪藍は真剣な面持ちで菜を刻み、味を調えようとする。
朱華も隣に立ち、包丁を手に取ったものの、不器用に大根を切ろうとしては厚さがばらばらになり、時に斜めに転がってしまう。
「朱華様、そんな切り方では煮ても形が崩れてしまいますよ」
雪藍がくすりと笑った拍子に、彼女の手に付いていた餅粉がふわりと舞い、朱華の鼻先にちょこんと付いてしまった。
「も、申し訳ございません、朱華様!」
雪藍が慌てて拭おうとするが、朱華はその手を掴むと、悪戯っぽく笑った。
「…罰だ。お前にも同じ印をつけてやる」
そう言うと、彼は雪藍の鼻先に、自分の指で優しく粉をつけ返す。雪藍は「もう…」と、呆れながらも頬を緩めた。
やがて鍋が煮立ち、湯気と共に香ばしい匂いが立ち上る。
朱華は待ちきれぬように雪藍の手から箸を取り、摘んだ一片を雪藍の唇の前へ差し出した。
「さあ、雪藍。あーんと」
「……朱華様、からかっているでしょう」
戸惑いながらも口にすれば、朱華は満足そうに目を細める。
「美味いな。雪藍の味だ。……だが、困ったな。この味を知ってしまったら、もう御膳所の料理では満足できなくなる。どうしてくれるんだ?」
その嬉しい悲鳴のような言葉に、雪藍の心が蕩ける。次は朱華が自ら口を開き、甘えるように言った。
「俺にも食べさせてくれ」
雪藍は観念したように微笑み、「あーん」と囁きながら朱華の口元に運ぶ。
そのとき、雪藍の視線がふと止まった。
朱華の頬に、白いご飯粒が一つ、ぺたりと貼りついている。
「……もう、子供みたいに」
雪藍はため息をつきながら、そのご飯粒を口づけるようにしてそっと唇で取った。
時が止まる。至近距離で、雪藍の柔らかな唇の感触と、吐息の甘さを感じて、朱華の思考は完全に停止した。いつも余裕のあるはずの皇太子の瞳が、ただ目の前の雪藍を映して、大きく見開かれている。
(……なんだ、今の……反則ではないか……)
ようやく絞り出した声で、朱華は彼女の名を呼んだ。
「雪藍」
その声と、彼の見開かれた瞳に、雪藍は我に返った。
今度は自分の頬に火がつくのを感じ、慌てて鍋へ向き直ろうとしたその背に、朱華の腕が回された。
彼の胸に、雪藍の背中がぴったりと寄り添う。
「…朱華様、料理ができません。どうか、離してください」
「嫌だ」
甘い声が耳もとにかかる。朱華は彼女の肩に顔を埋め、幸せそうに目を閉じた。
「……こうしていると、何もかもどうでもよくなるな。国事も、政も…。ただ、この香りとお前さえいれば、俺は生きていける」
その究極の愛の言葉に、雪藍は身を震わせる。もはや、何も言えなかった。
香り立つ鍋と、寄り添う二人。
そこには夫婦のような、穏やかで甘い空気が満ちていた。




