「森の湖に咲く二人の香」
章1:森の湖への誘い
朝の光が柔らかく差し込む雪藍の部屋で、朱華は彼女の肩越しにそっと微笑んだ。
「雪藍、明日、森の湖に行かないか?」
雪藍は驚き、少し目を見開く。朱華の瞳には優しさと、ほんの少しの期待が光っていた。
「明日……森の湖ですか、朱華様?」
「そうだ。幼い頃、耀明と一度だけ行ったことがある場所だ。
静かで、花も咲き、水面は光を反射して美しい。二人だけで、ゆっくり過ごそう」
その言葉に、雪藍の胸が高鳴る。頬を淡く染めながらも自然に微笑んだ。
「はい、ぜひ。……では、明日のために少し準備をいたしますね」
その瞳は、子供のようにきらきらと輝いていた。
章2:香り高い弁当と、新たな記憶
翌朝の台所。雪藍は、朱華のために心を込めて弁当の準備をしていた。
彼女の手つきは、まるで貴重な香木を扱うかのように、どこまでも丁寧で繊細だった。
煮物に添えるシソの葉は、香りが最も立つように細かく刻み、仕上げに指先で軽く揉む。
焼き魚には、皮を薄く削いだ柑橘を数滴だけ落とし、爽やかな香りの驚きを添える。
そのひとつひとつの動作に、彼女の香女としての矜持と、朱華への深い愛情が込められていた。
やがて二人は森の湖へ向かう。
湖畔に到着すると、朱華は澄んだ水面を見つめ、ぽつりと呟いた。
「…ここは、幼い頃、耀明と一度だけ来たことがある場所だ。あの時は、どちらが遠くまで水切り石を投げられるか、競ってばかりだったが…」
彼はそう言うと、隣に立つ雪藍の手を優しく握った。その瞳は、もう過去ではなく、目の前の彼女だけを映している。
「だが、もう寂しい記憶の場所ではない。今はお前と、新たな記憶を刻みたい」
その言葉に、雪藍の胸が温かくなる。
彼女はそっと弁当箱を広げ、朱華の前に差し出した。
「雪藍……香りだけで、もう美味そうだ」
朱華は箸を手に取り、一口食べると目を閉じ、味と香りを噛みしめる。
「……雪藍が作ってくれた料理は、心まで温かくなるな。ありがとう」
その言葉に、雪藍は心からの笑みを浮かべた。
章3:湖での戯れと、熱い視線
湖畔の木漏れ日の下、弁当を食べ終えた二人は、水辺に足を踏み入れた。
水はひんやりと心地よく、日差しに照らされてキラキラと輝く。
雪藍が裾を持ち上げ、白い足で水面をちゃぷちゃぷと叩いて遊んでいると、つるり、と足元の苔むした石がぬめり、彼女の身体がぐらりと傾いだ。
「きゃっ…!」
悲鳴を上げる間もなく、力強い腕が、その細い腰をぐっと引き寄せて支えていた。
「危ないだろう」
朱華だった。彼の腕の中にすっぽりと収まる形になり、雪藍の心臓が大きく跳ねる。
「も、申し訳ございません…」
「いい。…だが、罰として、少し泳いでもらうぞ」
彼は悪戯っぽく笑うと、雪藍を抱いたまま、湖の浅瀬へと進んだ。
水に濡れた薄衣が、雪藍の肌にぴたりと張り付く。
思わず両腕で胸元を押さえる彼女の姿に、朱華の瞳が一瞬、熱を帯びた。
その視線は、彼女の潤んだ唇から、濡れた衣に張り付く肩の線や、水滴が伝う白いうなじを、ゆっくりと、熱っぽくなぞっていく。その雄の眼差しに気づいた雪藍の心臓が、一瞬強く跳ねた。
「朱華さま…どうか、見ないでください…!」
小さな声に、朱華は笑みを浮かべて近づき、肩越しに低く囁く。
「見てはいけないものなど、何もない。お前のすべては、俺のものだ」
その腕に抱かれる感覚は、恥ずかしさを越えて心地よい温もりとなった。やがて湖から上がる頃には、二人の間には水しぶきに濡れた、たくさんの笑顔が咲いていた。
章4:花冠作りと、小さな誓い
岸辺で濡れた衣を乾かしながら、雪藍は朱華のために花冠を作り始めた。
湖畔に咲く色とりどりの花々を、香りの調和を考えるように、一輪一輪、丁寧に選んでいく。
「この花の甘さには、こちらの草の持つ、少し青い香りがよく合います」
夢中で花を編むその横顔を、朱華は愛おしそうに見つめていた。
雪藍が、ひときわ美しい一輪を編み込もうとした瞬間、その花の茎がぽきりと音を立てて折れてしまった。
「あっ…」
悲しそうな顔をする雪藍の手元を、朱華は優しく覗き込む。
「どうした?」
「…一番、綺麗なお花だったのに…」
朱華は黙って近くの蔓を一本取ると、折れた茎に器用に巻きつけ、補強してやった。
「これでいいだろう。少しくらい傷があっても、お前が編めば、世界一の花冠だ」
その優しい言葉に、雪藍は胸を熱くする。
(そうだわ…私は香女。完璧なものだけが美しいのではない。足りないものを補い合い、新しい調和を生み出すことこそが、わたくしの誇り…そして、その誇りを、この方は何よりも深く理解してくださる)
やがて完成した花冠を朱華の頭にそっとかぶせると、彼はその手をとり、額にそっと唇を落とした。
「ありがとう、雪藍……お前の手で作られたものは、どれも宝物だ」
章5:膝枕と、湖畔の宿
水遊びと花冠作りで湖畔の時間を満喫した二人は、
穏やかな日差しの下で芝生に腰を下ろす。
朱華は少し疲れたのか、雪藍の膝に頭を預け、ゆっくりと目を閉じた。雪藍の膝の柔らかさと温もりが、朱華の心と体を静かに包み込む。
「……ただこうしてお前といるだけで、俺は満たされる」
雪藍はそっと朱華の頭に手を添え、指先で髪を梳くように優しく撫でる。
やがて午後の光がやわらかく傾き、朱華の寝息は次第に深く安らかになる。
雪藍はその頭を抱き寄せ、膝の上で小さな温もりを感じながら、自分たちがこの静かな幸福を分ち合えることを、胸の奥で確かに感じていた。
朱華が目を覚ますと、空はすでに夕暮れの色に染まっていた。
「…もう、夕暮れか」
「はい、朱華様。よくお休みになられましたね」
雪藍の微笑みに、朱華は体を起こし、彼女に手を差し伸べる。
「日も暮れる。今夜のために用意させた宿へ行こう」
「宿、でございますか?」
「湖畔にひっそりと立つ、古い山小屋だ。誰にも邪魔されぬ、二人だけの場所だ」
朱華が密かに手配していたその宿は、素朴ながらも温かみのある佇まいだった。
その夜、二人は暖炉の柔らかな火を見つめ、寄り添い、互いの鼓動と温もりを感じながら、静かで満ち足りた時間を過ごした。
翌朝、二人は小屋の窓から差し込む柔らかな光で目を覚ます。
「おはよう、雪藍」
「おはようございます、朱華様」
朱華は手を伸ばし、雪藍の手を握る。
「昨日は、ありがとう。雪藍の香も、手作りのお弁当も……すべてが、最高だった」
雪藍は恥ずかしそうに頬を染めながらも、「朱華さまに喜んでいただけて、私も、とても嬉しいです」と答える。
そして二人は、手をつないだまま湖畔を歩き、これからも共に過ごす時間の尊さを心に刻むのだった。




