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「香評の儀」

章1:朝の緊張と準備

朝の光が後宮の庭に柔らかく差し込み、薄紅の霞が瓦屋根の間を揺れていた。

雪藍は香室の畳に膝をつき、今日の「香評の儀」に向けて、香材と衣装を何度も確かめていた。ひとつひとつの香木、麝香、沈丁花の微細な調合まで、彼女の指先は細心の注意で触れ、香炉の配置も完璧に整える。


「焦るな、雪藍……今日の私の仕事は、この香に全てを託すこと」


心の中で自らに言い聞かせ、深く息を吸う。だが胸の奥には、試練に挑む緊張と不安が同時に押し寄せる。失敗は、朱華様への恥、そして自身の誇りを傷つけることに直結するのだ。


香室の襖の向こう、廊下の先には朱華の姿があった。距離を置きつつ、彼は静かに雪藍を見守っている。

口数は少ない。しかし、黒曜石の瞳の奥には愛情と、誰にも渡さぬという独占欲が潜んでいた。その視線を感じるたび、雪藍の胸は熱くなる。


「朱華様……」

思わず呟く声に、緊張が微かに震えた。

手は香炉を扱う間も冷や汗に湿る。

だが、瞳を伏せた先にある朱華の確かな視線が、雪藍に小さな勇気を与えてくれた。


――今日、この香で、全てを示す。誰にも、そして何より自分にも恥じぬように。


静かな時間がゆるやかに流れ、雪藍は香炉に火を灯す前の最後の深呼吸をした。

風ひとつない室内に、覚悟と期待が渦巻いていた。


章2:試練と誓いの香

宮廷の大広間は朝日を受けて煌めき、絢爛たる金銀の装飾が眩く反射していた。

大理石の床を踏みしめる音と、儀式を待つ人々の息遣いが、場の厳粛さを一層際立たせる。宮廷全体の視線が、ただ一人、雪藍に注がれていた。


彼女は香炉の前に慎ましく立ち、最後の調整を行う。重臣の鋭い目つき、女官たちのささやき、同じ香師たちの評価の眼差し。それらは羨望、嫉妬、好奇、軽蔑――。

さまざまな色を帯び、雪藍の周囲を渦巻いていた。


雪藍は動じなかった。

彼女の指先は静かに、しかし確信をもって動き、角度をわずかに変え、火の加減を調整する。

やがて立ち上った香は、沈丁花を基調としながらも、微かに、かつて彼が戦地で送ってくれた、あの砂漠の小さな花の香りが含まれていた。

広間の誰もがその美しく気高い香りに酔いしれる中、その香りに込められた真の意味に気づいたのは、朱華ただ一人だった。


(…馬鹿なやつだ。こんな公の場で、俺への愛を叫ぶとは。…いや、違う。これは、どんな場所にいても、心は共にあるという、お前の誓いか)


陰口を囁こうとした者たちも、そのあまりに完璧な香りの前に言葉を失い、広間は息を呑む静寂に包まれた。


その静寂の中、朱華が立ち上がる。

堂々とした姿で雪藍の傍に歩み寄り、その肩にそっと手を置いた。


「私が信じる雪藍を侮ることは、他ならぬこの私を侮辱することに等しい」


低く鋭い声が広間に響き渡り、誰一人逆らうことはできなかった。朱華の存在が、まるで盾となって雪藍を守る。香が完全に広間を満たすと、雪藍は息を整え、香炉から手を離した。

朱華はその傍で、周囲には聞こえぬよう、彼女の耳にだけ届く柔らかさで短く囁いた。


「よくやった、雪藍」


その一言が、雪藍の心の震えを鎮めていった。


章3:天下一品の栄誉

儀式が終わり、広間には雪藍の焚いた香の清々しい余韻だけが漂っていた。

やがて、評定官の長が厳かに立ち上がり、雪藍の前に進み出る。

その厳しい顔には、隠しきれない感嘆の色が浮かんでいた。


「見事という他ない。これほどの香、永く宮廷の歴史にもなかったであろう。本日の香評、天下一品である。……亡き妻が好きだった、白梅の香りがした。まるで、再び会えたような心地がしたわい…」


厳しい顔で知られる老評定官が、そっと袖で目元を拭う。


挿絵(By みてみん)


その人間味あふれる言葉を皮切りに、宮廷の空気は賞賛と敬意で満されていく。嫉妬の視線を向けていた女官たちも、今や驚きと称賛の声をひそやかに交わしていた。


朱華は堂々と雪藍の肩に手を置き、彼女を自分の隣に立たせた。その立ち姿は、単なる保護ではない。宮廷全体に「この者は私が認める人間だ」と示す、揺るぎない証明だった。


雪藍は目を潤ませながらも、その背筋を正す。朱華が隣にいる限り、どんな困難も乗り越えられる。香師としてだけでなく、一人の人間としても自分を認められた瞬間だった。

広間のざわめきの中で、朱華が再び小さく囁く。


「おまえの香は、宮廷に新しい風を吹き込む。私の誇りだ、雪藍」


雪藍はその言葉に胸を震わせ、指先を握り返した。


「私も……朱華様のそばで、香で応え続けます」


その日、香評の儀は単なる技術の審査に留まらず、二人の絆と信頼の証として、人々の記憶に深く刻まれたのである。


章4:静かな余韻と未来の誓い

香評の儀を終えた夜、広間の喧騒は遠のき、静けさがじわりと二人を包み込んでいた。

雪藍は朱華の隣で、まだ残る緊張と心地よい余韻に指先が震えるのを感じながら、深く息を整えた。


「……よくやったな、雪藍」


低く、しかし熱を帯びた声が雪藍の耳に届く。


「あの香はもちろんだが、何よりあの場でお前が見せた覚悟が、誰よりも美しかった」


雪藍は、その言葉を喜びながらも、胸の奥でちくりと痛むものを感じて、そっと視線を落とす。

今日の勝利は、新たな嫉妬を生むだろう。

そして何より、自分と彼との間にある、埋めがたい身分の差を、改めて思い知らされていた。


朱華は、彼女のその僅かな翳りを見逃さない。彼は雪藍の顎に指を添え、顔を上げさせると、真剣な瞳で彼女を見つめた。


「今はまだ、俺の盾の背に隠れていろ。だが、必ず、俺がお前を光の中へと導き出す。誰にも文句は言わせぬ。…お前を、俺の唯一の妃として、隣に立たせる日を、必ず…」


その熱い誓いに、雪藍は涙を堪えながらこくりと頷いた。

その答えを受け、朱華は静かに雪藍の額に唇を寄せ、やがてそれは長く熱い口づけへと変わった。

雪藍の目が閉じる。昼間漂った沈丁花の冷たさと蜜の甘みが、体の奥まで沁み込むように香り立つ。雪藍は朱華の胸に体を寄せ、呼吸を合わせながらその温もりを全身で感じた。


「俺は、おまえのすべてを覚えている。その香も、息づかいも、震えさえも――」


朱華の囁きに、雪藍は思わず肩を震わせた。彼女はそっと朱華の耳元に顔を寄せ、微かに応える。


「朱華様……この身も心も、すべてを、あなたに委ねます」


抱きしめられる感覚、掌で包まれる柔らかさ、香りが混ざり合う瞬間――すべてが、試練を乗り越え、そして未来を誓い合った者だけに許された静かな悦びだった。


やがて二人は、互いの体温に身を委ね、寝息を重ねながら深い眠りへと落ちていく。

夜が明け、柔らかな光が障子を通して差し込むと、雪藍は朱華の腕の中で目を覚ました。微かに残る昨夜の官能の熱が胸に溶け、穏やかな笑みを浮かべる。


「おはようございます、朱華様…」

「おはよう、雪藍」


朱華は優しく微笑み返すと、彼女をさらに強く抱きしめて、その誓いを確かめるように言った。

「試練を越えた二人の絆は、ゆっくりと、しかし確かに未来への希望と共に胸の奥で息づいている。静かな朝の光の中で、二人の時間は穏やかに流れていった。

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