「秘められた絆と宮廷の影」
章1:皇太子の偏愛
その日、後宮の大広間には再び高貴な香が焚かれていた。春を迎える祝の宴。
皇后をはじめとする皇族、重臣らが列席し、煌びやかな音色と衣が場を彩っている。
皇后が扇を揺らしながら、ゆるやかに声をかけた。
「さて、香を立てましょう。祝いの宴を引き立てるにふさわしき香師を――」
その言葉に、場の空気がぴんと張りつめる。多くの香師や女官たちが、ひそかに視線を交わした。
そのとき、朱華がすっと前に進み出た。
「香は――雪藍に焚かせよう」
静寂が落ちる。あまりに唐突で、あまりに確信に満ちた声。
皇后の瞳がわずかに揺れたが、微笑を崩さなかった
。
「まあ……皇太子殿下は、あの者を信じておいでなのね」
囁きが四方に広がった。
「やはり…」「殿下のお気に入りか」
「あの雪藍ばかりを」
雪藍は胸の奥が熱くなるのを感じていた。
殿下が、これほど堂々と自分の名を呼ぶなど。
けれど同時に、背筋を冷たい汗が伝う。
目に見えぬ嫉妬の炎が、すでに自分へと向けられていることを、敏感に感じ取っていたからだ。
朱華は周囲のざわめきなど意にも介さず、雪藍へとまっすぐに目を向ける。
「おまえの香こそ、この宴にふさわしい。恐れることはない、俺がいる」
低く響くその声に、雪藍の胸はきゅっと締めつけられた。
偏愛と囁かれようとも、この方の誇りに応えたい。
ゆるやかに一礼し、雪藍は調えられた香炉の前へと進んでいった。
章2:偏愛の波紋
祝宴の余韻が冷めぬ翌朝、宮廷の回廊には白い石畳に光が映えていた。女官や宦官の間で囁かれる声が後を絶たない。
「――あの雪藍とかいう者、また朱華様に取り立てられたそうだ」
「見目も麗しい上に、才まであるとは。……忌々しい」
ひそやかな声は、まるで薄氷の下を這う水音のように広がり、やがて朱華の耳にも届く。
朱華は立ち止まり、廊下の柱に手をかけた。
胸の奥に、じわりと黒い炎が灯る。
(……雪藍は俺のものだ)
人目に晒され、誰かの嫉妬や羨望に汚されることさえ、耐え難かった。
執務の合間、朱華はふと雪藍を呼び寄せる。
「雪藍」
声を掛けられた雪藍は、緊張を抑えつつ、一礼し微笑を浮かべた。
「朱華様」
「……なぜ、お前はそんなに平然としていられる」
「何がでございましょう?」
「人が陰で何を囁こうと……お前は気にしていないのか」
雪藍はわずかに首を傾げ、柔らかな声で答えた。
「私にとって大事なのは、朱華様がどう見てくださるか。それだけです」
その言葉に、朱華の胸は強く揺さぶられる。
思わず、雪藍の手首を取った。
「……そんなふうに言うな。余計に手放せなくなる」
「手放さぬと、仰ってくださるので?」
「当たり前だ。お前を誰にも渡さぬ」
朱華の指は熱を帯び、雪藍の手をしっかり握る。
雪藍は一瞬驚いたように目を瞬かせるが、すぐに頬を赤らめて微笑んだ。
「……朱華様は、時にお子様のようで」
「何?」
「けれど、その子供じみたところが……私は、愛おしいのです」
朱華は不意を突かれ、思わず息を呑む。
冷たい宮廷の空気の中で、ただ二人の間にだけ、沈丁花の甘やかな香が漂っていた。
(誰が何を言おうと、この想いは揺るがぬ。俺は必ず守る)
朱華はそう固く誓い、雪藍の手を離さず歩みを進めた。
章3:蓮花の陰謀
後宮の片隅。左丞相の姫君であり、朱華の妃候補の最有力と目されていた蓮花は、扇で口元を隠し、苛立たしげに侍女に告げた。
「……忌々しい。身分も知れぬ香女風情が、殿下のご寵愛を独り占めにするとは」
「お嬢様、お気を鎮めて…」
「鎮まるものですか!」
蓮花は扇を強く握りしめる。
「次の祝宴でも、あの娘が香を焚くそうですね。…良い機会です。あの娘の才能とやらが、まやかしであったと、皆に知らしめてあげましょう」
侍女が、懐から小さな紙包みを取り出す。
「こちらを、かの者の香材に混ぜれば…」
「ええ。祝いの席は、一転して呪いの席となるでしょう。そうすれば、殿下の寵愛も地に落ちるはず」
蓮花の唇に、冷たい笑みが浮かんだ。密やかな手は、闇に紛れて確実に動き始めていた。
章4:危機と絶対的な庇護
後宮の大広間には、絢爛たる灯火が揺れ、再び祝宴の場が設けられていた。
雪藍は香炉の前に静かに座す。
幾重にも重なる視線の中に、蓮花の射るような憎悪の視線を感じ、背筋に冷たい汗が伝う。
調えられた香材に指を触れた瞬間、雪藍は先日覚えた違和感を確信した。
(…香の芯に、微細な異物――。これは、罠…!)
このまま焚けば、芳香は乱れ、宴を台無しにするだろう。
しかし、ここで退くことは、敵の思う壺。
雪藍は息を潜め、迷いなく手を動かした。
長年培った感覚を頼りに、香の流れを導く。
やがて漂い出した香は、柔らかく清らかだった。
だが、その香りが最高潮に達した瞬間――。
香炉の奥で、仕込まれた薬草が熱に触れ、ふっと、弔いの場で使われる白菊にも似た、不吉で陰鬱な残り香が、清らかな香りに混じってしまった。
「待て!」
待ち構えていた蓮花が、声を張り上げる。
「皇后様!これは…!祝いの席で、弔いの香りとは…!この国を呪う気ですか!」
広間は一瞬にして水を打ったように静まり返り、やがて恐怖と非難のざわめきに包まれた。雪藍は、弁解の言葉もなく、顔を蒼白にして立ち尽くす。
その時。
「黙れ。我が雪藍を愚弄することは、この朱華を愚弄するのと同じだ」
低く鋭い声が広間を震わせた。立ち上がったのは朱華だった。
「この香を不吉と申すか。俺には、戦で散った者たちの魂を鎮め、新たな始まりを祝福する、清らかで慈悲深い香にしか感じられぬがな。それを不吉と感じる者は、まず己の心を疑うがいい。嫉妬に曇った心では、真の香りは分からぬであろう」
その言葉に場は凍り付き、蓮花は唇を噛んで俯いた。
さらに朱華は、自分の膳に乗っていた最高級の甘い果実を一つ手に取ると、広間中の視線が集まる中、ゆっくりと雪藍の前まで歩み寄る。
彼はひざまずく雪藍の目の前にしゃがみ込むと、その果実を、彼女の唇へと差し出した。
「…怖い思いをしたな。これを食べろ。お前の心が、甘いもので満たされるように」
皇太子が、公衆の面前で、見習い上がりの香女に給仕をする。そのありえない光景に、広間は言葉を失った。
雪藍は涙を堪えながら、その果実を口に含んだ。その甘さは、一生忘れられない味がした。
章5:誓いと絆
祝宴のざわめきが遠のき、夜は深い紺にとけていた。
香室のさらに奥――師匠である翠芳のみが存在を知る小座敷で、朱華は雪藍を待っていた。
「……ご迷惑を、おかけしました」
頭を垂れる声はかすかに震えていた。
「迷惑だと?」
近づいた朱華は、そっと雪藍の頬に触れた。
「おまえの香に助けられぬ時など、俺には一度もなかった。今宵も同じだ。守るのは俺の役目だ」
言葉より先に、温もりが胸の氷を溶かしていく。
雪藍は面紗を外し、両手でそれをたたみ、膝の脇に置いた。
「……では、弱い私でも、傍にいてよろしいのでしょうか」
「弱い?」
朱華は低く笑った。
「強さとは、折れぬことではない。折れそうな瞬間に、俺の名を呼ぶことだ。呼べ、雪藍」
雪藍の喉が小さく鳴る。「……朱華様」
名を呼ぶだけで、香が変わる。沈丁花の冷ややかさに、蜜のような甘さが差しこむ。
幾度となく繰り返される甘い口づけの後、朱華は彼女の耳元で、熱い吐息と共に囁いた。
「あの者たちの汚らわしい視線も、不敬な言葉も…すべて俺が消してやる。お前の中に残っていいのは、俺の熱と、俺の香りだけだ」
その言葉を証明するように、二人の影は月光の下でゆっくりと重なり合った。
衣がはらりと床に落ちる音も聞こえぬほど、互いを深く求め合う。
今日の恐怖も、明日の不安も、すべてを溶かすかのような激しい口づけと、肌を重ねる熱だけが、そこにあった。
夜が白み始めるまで、二人は幾度となく互いの存在を確かめ合い、一つになった。
やがて、雪藍は朱華の胸に耳を当て、鼓動の拍で時を数える。
「この音が、私の居るべき場所……」
「ならば、この胸を、おまえの家にするといい」
しばしの沈黙――やがて、遠くで水の音がした。
中庭の甕に落ちる夜露の音。
朱華は視線を上げ、閉じた襖の向こうを一瞥する。
「明日、『香評の儀』がある。おまえの香を貶めようとする手は、まだ引かぬだろう」
「承知しております」
「だが、怯むな。今日と同じく、おまえは香で答えろ。俺は前に立つ。誰の目からも、おまえを遮る盾になる」
雪藍は静かに微笑んだ。
「盾の背で香を焚きましょう。朱華様のために」
「背ではない。隣だ」
朱華は彼女の額に口づけ、指で涙の名残を拭う。
「いつか、堂々と隣に立て。おまえを“偏り”ではなく“正しき選び”だと、宮廷そのものに認めさせる」
「はい。必ず」
油灯が小さくはぜ、沈丁花の香がもう一層、夜に濃くなった。
次なる試練――「香評の儀」を前に、二人の誓いは夜の闇に深く刻まれた。




