51_人質
終業式の校舎は、息を潜めたように静かだった。
校内には人の気配もなく、手錠の擦れる音と足音だけが響く。
翼と心桜は、手錠を隠すように歩かされていた。
辿る道は監視カメラの死角、人の通らない裏道ばかり。
あまりに的確で、即興とは思えずかなり計画的だと察する。
『声を出せば動画を流す』と、そう言わんばかりに、男たちはスマホの画面を突きつけてくる。
しかも2人が常に構えており、どちらか1人でも押せば終わりなため、抵抗のしようがない。
翼の目は、前を歩く見知らぬ男生徒へ向く。
この中で1人だけ、空気が違う。
誰しもが緊迫感に表情が硬くなる中、軽く笑いながら歩くその姿に、底知れぬものを感じる。
そう考えを巡らせているうちに、校門横の倉庫の前で足は止まった。
押されるまま中に入れば、鉄と埃の匂いが鼻を刺す。
翼は倉庫の奥側へと押し込まれ、心桜も女生徒に拘束されたまま動けない。
「それじゃあ始めますか」
男生徒の軽く弾む声が、倉庫の中に響き渡る。
何気ないその言葉が、始まりの合図として空気を一変させる。
それを受けて翼をにらみつけていた先輩が、苛立ったように声を荒げた。
「おい、こいつの足は縛らねえのか?」
「ああ。足を縛ると移動が大変なんすよ。小宮も人質っすからね」
“人質”と、その言葉がやけに軽く吐き出される。
冗談のような口ぶりだが、笑っているのは口だけだ。
その瞳の奥底では、淡く研がれた光が静かに瞬いていた。
しかし、先輩は納得していないのか、さらに食い下がる。
「こいつ、足技使ってくるぞ。危なくて近寄れねえよ」
「まぁ、俺も小宮に痛い目にあわされてるんで分かるっすけど、偵察の件含めてビビりすぎじゃないっすかぁ?」
「……あ?」
「おー、こわこわ」
一気にひりついた空気の中、男生徒は肩をすくめ、わざと大げさに両手を上げてみせた。
その仕草には、恐れなど一欠片も感じられない。
ただ、場を愉しむような不気味な余裕だけがあった。
先輩と軽口を叩けるほどの妙な距離感。
どこまでも軽薄な態度であるこの男には、口で何を言っても届かないだろうとまで思わされる。
そして男生徒は、じろりと鋭い視線を翼に送りながら、口の端を不気味に釣り上げる。
それを見たとき、翼の背筋に、つうっと氷のような感触が走った。
「わかりましたよ」
まるでここまでは予定通りだとでも言うような、淡々とした声音。
それはただ、じわじわと耳の奥を這うような、不穏な響きを残す。
男生徒は喉の奥から、くぐもった低音を漏らすように呟いた。
「片足、折っといてください」
その一言が落ちた瞬間、倉庫内の空気は息すら許さないように凍りついた。
「……あいよ」
先輩の口元がゆっくりと吊り上がる。
それは笑みというより、積もった憎悪を噴き出すかのようだった。
足元に転がっていた鉄パイプを拾い上げ、手のひらで確かめるように握り込む。
金属の軋む音が、倉庫の壁に反響する。
そしてそのまま、ゆっくりと翼の前に立つ。
「いや! やめて!」
翼が危機に直面したのを悟った心桜が、堪えきれず叫ぶ。
だが、その叫びがかえって男生徒の笑みを深くしてしまう。
「大人しくしてくれよ真崎さん~こっちとしては両腕も折ってもいいんすよ?」
「っ」
平然と“壊す”ことを口にするその声に、心桜の喉がびくりと震えた。
胸の奥を、氷の針で突かれたような恐怖が染めていく。
けれど、声を出せばその矛先は翼に向かう。
下手に動けば、今よりもっと酷い目にあわせてしまうかもしれない。
だから何もできず、首を垂れることしか許されなかった。
そして鉄パイプを握ったまま、先輩がゆっくりと一歩を踏み出す。
その顔には、復讐をなぞるような歪んだ笑みが浮かんでいた。
「あんときの借りだ。ずっと待ってた甲斐があったわ……せいぜいみっともなく泣けよ?」
「…………」
翼は何も言い返さなかった。
せめてもの抵抗として、ただ鋭く睨み返す。
そして一瞬だけ、心桜の方へ視線を投げる。
けれどそのすぐ横で、男生徒がニヤつきながら、スマホをちらつかせていた。
『何もするなよ』と、その仕草は無言の脅迫。
反撃すれば、その瞬間に“動画”を流すつもりなのだろう。
つけいる隙はどこにもないと、受け入れざるを得ない。
そして、視線を先輩に戻した瞬間――鈍い金属音が、倉庫の隅々まで響く。
鉄パイプが翼の片足を正確に捉える。
鋭い衝撃が足元から駆け上がり、焼くような痛みが突き抜けた。
「っ」
「はは、いてえだろ?」
先輩の乾いた笑い声が、嘲るように投げられる。
殴打の衝撃は骨の芯まで響き、いくら鍛えた身体でも、脛を狙われれば堪えきれない。
耐性があるとはいえ鈍い痛みが脳を焼き、呼吸のリズムを狂わせる。
「まだだ。俺の気が済むまでじっくりと甚振ってやるから、なぁっ!!」
怒声とともに、再び鉄パイプが振り下ろされた。
金属が空気を切り裂き、鈍い音が響く。
休む間もなく再び足に直撃した衝撃で、視界が白く焼ける。
「翼くん……」
震える声で名を呼ぶ心桜。
その瞳には、今にも零れ落ちそうな涙が滲んでいた。
翼はただただ痛みをかみ殺す。
表情を崩さないように、心桜を不安にさせまいと、ただそれだけを考えていた。
そして鈍い風切り音とともに、鉄パイプが振り下ろされる。
――パキッ。
耳を疑うような乾いた音。
遅れて、脚の奥から灼けるような痛みが突き抜けた。
世界が一瞬だけ真っ白に弾け、足元がぐらりと揺らぐ。
「ははっ! 本当に折れる音が鳴りやがった! いいざまだな!」
先輩の笑い声だけが、血の気を失った空気の中で、ひどく鮮明に聞こえる。
「うわ……ドン引きっすよ。任せたのは俺っすけど、どんだけ憎んでんすか」
男生徒が先輩の狂った様子を抑えるように、引き気味で声をかける。
「あたりめえだろ……こいつに人生壊されたんだよ、こっちは」
先輩は歯ぎしりをしながら男生徒に振り返った。
怒りと憎悪と、どうしようもない劣等感が混ざった声を受け、男生徒はひとつ溜息をつく。
「逆恨みもいいところっすねぇ。まあ、俺には都合がよかったんでいいっすけど」
そういって一定の成果を得たとばかりに男生徒はふっと力を抜く。
翼の無力化を達成したと、ふたりの間で軽口が交わされる。
さっきまでの緊張が嘘のように、倉庫の中には薄ら寒い笑い声だけが響いていた。
そうやって二人で言葉を交わしていると、ふいに、男生徒の目が見開かれる。
「……先輩のいう事を聞いていて良かったっす」
「あ?」
「うしろ」
その一言に、先輩がゆっくりと振り返る。
そして、思わず息を呑む音がこぼれた。
そこには――無表情のまま立ち続ける翼。
薄暗い倉庫の中で、ただ一点、彼の瞳だけが凍てつくように光を放っている。
「……こりゃあ、まだまだ楽しめそうだな」
「殺さないでくださいよ。余計に罪重くなるんで」
「わかってるよ」
先輩は短く吐き捨てると、手にしていた鉄パイプを無造作に床へ放った。
金属がコンクリートにぶつかり、鈍く乾いた音を立てる。
続いて先輩は、ぎりっと拳を握り直す。
骨が軋む音が、鮮明に耳を打った。
そして先輩は、ためらうことなく、そのまま拳を振り抜く。
翼の頬を衝撃が走る。
鈍い打撃音とともに、視界がぐらりと揺れる。
頬を通して伝わるその重さは、頭の奥まで貫き、鋭い熱を持つ。
「翼くん!」
止まぬ暴力の惨劇に、心桜の声が震えた。
その瞳には涙が滲み、ひとすじ、頬を伝って落ちていく。
「こりないお姫様っすねぇ。静かにしていろって聞こえなかったすか?」
冷えた声に視線を向ければ、男生徒の口元には薄ら笑いが浮かんでいた。
それを見ても、心桜は怯まなかった。
涙に濡れた目のまま、真っ直ぐに男を見据える。
「用はわたしにあるはずです……わたしを狙えばいいでしょう」
凛とした声音で、翼を庇うように口火を切る。
しかし男生徒は嘲るように笑い、冷えきった倉庫の空気を揺らした。
「あんたは“大事な商品”なんでね。傷つけるわけにはいかないっすよ。それに小宮を半殺しにしたら、あんた、従うしかないでしょ?」
その明確な脅しに、心桜は唇を強く噛む。
かろうじて平静を保つように、胸の奥でひとつ息を整えた。
「そんな、ことは」
「無駄っすよ。あんたらのこと、調べはついてるんで」
そう言いながら、男はゆるやかに手首をさすり、先輩へと檄を飛ばす。
「俺の分も、やっちゃってください~」
軽く投げたその言葉とは裏腹に、空気は濁った水底のように沈んでいく。
翼の顔は、すでに幾度となく殴打されていた。
それでも膝を折らず、目を逸らさず、ただ真っ直ぐに前を見据えている。
「翼くん……」
どうすることもできない現実に、心桜はただ、声を震わせるしかなかった。
その瞳からこぼれた涙が、次々と頬を伝って地面へと落ちていく。
「まぁ、俺の雇い主のいう事を素直に聞いてくれたら小宮も死にはしないっすよ。あいつの家は裏社会で名が通ってるらしいし」
あくまで会話の一部のように、脅しの言葉が心桜へと投げつけられる。
それはつまり――心桜によっては、翼を殺すことも有りうるという意味だった。
心桜は小さく肩を震わせ、うつむく。
自分のせいで傷つけられる翼を前に、もう何も言い返せなかった。
涙の雫が、倉庫の床に染み渡っていく。
「はぁ、はぁ……」
先輩の荒い息が、静かな倉庫の中で小さく響く。
心桜の頬には、いく筋もの涙の跡が残されている。
それだけの時間、翼は殴られ続けていた。
肩で息をする先輩の胸は、疲れを隠せないように上下に波打っている。
「……化け物っすね」
男生徒から呆れたような声が漏れる。
だがその奥には、微かな畏怖すら混じっていた。
顔を幾度となく殴られた翼は、それでも、膝をつかない。
揺らぐことなく、ただその場に立ち続けていた。
この場にいる誰しもが、翼の尋常ではない様子に息をのむ。
そのとき、不意に男生徒のスマホが鳴った。
男生徒はすぐさま通知を確認し、眉をひそめる。
「先輩、そろそろ来るっぽいすけど、まだ倒せませんか?」
「もう手が痛くて殴れねぇよ……」
先輩は拳をさすりながら悪態をつく。
時間がないと言われても、殴るだけでは翼は倒れそうにない。
そう思わされるほどに、翼への恐れが増していた。
次いで先輩は小さく舌打ちし、足元に転がった鉄パイプを拾い上げる。
「おい……いいよな?」
「……しょうがないっすねぇ。一発だけっすよ?」
男生徒が、どこか呆れたように返す。
その声音には、隠しきれない硬さが混じっている。
許可を経て、先輩が怯えを隠すように、口元を歪ませる。
その笑みが何を意味するのか、心桜には、すぐにわかった。
「いやっ!! やめて!!」
心桜は喉を痛めるほど叫び、全力で暴れて拘束を逃れようとする。
だが、それすらも誰も止めようとしなかった。
それほどまでに場の空気は、張りつめていた。
「つばさく――」
心桜の声を遮るように、鉄の鈍い音が、倉庫に響く。
その直後――ドサッと重い音が落ちた。
「……死んでないっすよね?」
恐怖の間を埋めるように、男生徒の声が漏れる。
鉄パイプの軌跡が――確かに翼の頭を捉えていた。
その衝撃は致命的としかいえず、倒れ込んだ体が床にぶつかり、ピクリとも動かない。
「……知るか。休ませろ」
先輩は息を荒げたまま、近くの壁にもたれかかった。
自分のやったことを覆い隠すように、ただただ端に座り込む。
「あんた、そいつが生きてるか確認しろ」
男生徒が待機していた別の先輩に声をかける。
命じられたその先輩が、慌てて翼のもとへ駆け寄った。
「おいっ! 大丈夫か!?」
過去に自分を助けた翼に対して、ただ心配の一心で声をかける。
翼を仰向けにして、脈と息を確かめた。
「生きてはいる、けど……」
続きの言葉はかすれて、宙に溶けていく。
翼の瞳は焦点を結ばず、意識があるのかも定かでない。
片足は執拗に殴られたせいか引きずるようにして動かず、致命傷のせいか呼吸が浅い。
もはや、抵抗する力など残っていないように見えた。
「虫の息っすね。ナイスっす先輩」
そう言いながら、男生徒は手にしていたスマホの画面を触る。
ほっとした様子の彼は「これやると足がつくんで嫌だったんすよね」と軽く笑いながら、脅しの材料に使っていたチャットを画面から消した。
続いて、彼は先輩の方へ顔を向ける。
「これで気は済みましたか?」
「……ああ」
「よし、では約束は果たしたということで。いやぁ~先輩のおかげで使える駒が増えて感謝っす。声をかけた甲斐があったっすね」
男生徒は口角を上げ、どこか芝居がかった笑みを浮かべた。
「あとは金の受け取りを待ちましょう」
彼はそう言って、まるで仕事の後処理でもするかのように肩を回した。
処理はつつがなく終わり。
翼はもう自力で立ち上がることはできないだろう。
心桜は、ただ立ち尽くしていた。
差し伸べるべき手も、叫ぶべき声も、胸の奥に沈んだまま。
頬を伝う涙は、静かに、彼女の無力をなぞっていく。




