50_終 式
朝の教室にて、女子三人が机を囲んで話し合っている。
校内は終業式前のざわめきが広がっている中。
夏の気配に浮かれる声があちこちで弾んでいたが、この一角だけは別世界のように重々しい。
「……この人、三年の女子だよ」
アリアが手紙を手にしながら、思わずといった感じで呟く。
その事実を受け、心桜が大きく目を見開いた。
「ついに、心桜ちゃんの魅力がここまで至ってしまったか……罪な子っ」
「そんなことを言われましても……」
心桜は困ったように頬を押さえながら、机の上の手紙を見つめた。
その便箋は男子のような無骨なものではない。
イレギュラーが形になって伝わり、軽く眉を上げたアリアは、隣の凛乃へと問いを投げる。
「こっちの経験も豊富な凛乃ちゃん、どう思う?」
「断ればいい」
「と、あまりにも男前な対応をした結果、さらに人気が出た人が言っております」
「んなことを言われても……」
凛乃は困ったようにため息をつく。
けれどその言葉に嘘はなく、実際それが1番正しい選択だろう。
とはいえ今の時代、様々なことに気を遣わざるをえない。
相手を傷つけずに断るにしても、準備してきた男子相手ではないのが最大の難点だ。
重く受け止める心桜が必要以上に気負わないようにと、アリアが笑って肩をすくめた。
「小宮くんの決闘はさすがにできないから、ちゃんと正面から断ってあげれば、それで十分だよ」
「……そうですね」
同意は示しても、どこか迷いが拭えない様子の心桜。
彼女はアリアと凛乃の関係を誰よりも近くで見てきた。
偽りの形であっても、互いを思いやる姿に、この気持ちを軽んじることはできないと思わされる。
ゆえに困難な一歩を踏み出した人の想いを無下にすることが、怖い。
そんな心桜が言葉を選びあぐねていると、アリアが軽く机にもたれ、柔らかく言葉をつなぐ。
「心桜ちゃんの優しさは美徳だけど、向こうも結構勇気出してるからさ。もう遠慮なくさっぱりしてくれた方が、いっそ楽になれる」
その言葉は、穏やかながらも確かな重みを持って、心桜の胸に落ちた。
アリアの微笑みには、経験からくる包容と覚悟が滲んでいる。
彼女がどういう想いでその言葉を口にしているのか。
それを感じ取った心桜は、迷いを捨てるかのように、小さく息を整えゆっくりとうなずいた。
終業式も終わり、学園のざわめきが落ち着いたころ。
告白の定番とされる校舎裏へと、翼は足を運んでいた。
言葉にできない緊張感に、ただ歩くことにすら動揺が現れ出ている気がする。
少し前を歩く心桜の背中が、いつもより小さく見えるのは気のせいだろうか。
この張りつめた空気は、彼女のものか、それとも自分の錯覚なのか。
その境界さえいまは曖昧だった。
今回は翼が前に出ることはなく、心桜の方から正面から答えると聞いている。
護衛として距離を取るべきか、それとも傍にいるべきか、その匙加減が難しい。
迷った末に、翼はいつもより距離を空けて、心桜のあとをつける。
角を曲がり、人気のない暗がりにて。
そこに、1人の女子が立っているのが見えた。
その雰囲気から、彼女が相手なのだろうと瞬時に察する。
目の前の心桜は呼吸をひとつして、彼女へと歩み寄った。
「お待たせしました」
心桜がまっすぐ声をかける。
すると向かいの女子は翼の方を向き、ためらいながらも口を開いた。
「……恥ずかしいから、声の聞こえないところに行ってくれない?」
そう直接言われれば、さすがに空気を読まざるを得なかった。
「わ、わかりました」
戸惑いながらも、翼はすぐに頷く。
断られる瞬間を他人に見せるのは、誰だって耐えがたいだろう。
ちらりと見えた心桜の表情は、緊張からこわばっていた。
普段からアリアと凛乃を見ているだけに、どれほど気苦労を背負っているか、翼にも痛いほど伝わってくる。
一定の距離をとり、角際で立ち止まる。
風がそよぎ、草の香りが一瞬だけ漂った。
女子の先輩と心桜が向かい合い、わずかな沈黙ののち、先輩が口を開く。
いくつかの言葉を交わしたあと、二人の間にまた沈黙が流れる。
そして心桜は、ゆるやかに、深く頭を下げた。
――断ったのだ、と翼は悟る。
途端、先輩の表情がぐしゃりと歪んだ。
感情の抑えが利かなくなったように、唇が震え、目に強い光が宿る。
翼は反射的に目を逸らした。
(これ以上は……見てはいけない)
そう思った――その時だった。
ジャリッ、と砂を強く踏む音。
心桜が小さく上げた声が耳に届く。
何事かと視線を戻せば――気づけば、先輩が心桜を抱き寄せていた。
一見、感情的な抱擁のようにも見えるし、そうなるだけの理由はあるだろう。
しかし、どこかがおかしい。
心桜の身体が不自然に硬直している。
そして彼女のまとう気配は、“驚き”ではなく“恐怖”へと変わっていた。
翼の背筋に冷たいものが走る。
気を遣っている場合ではないと、止めに入ろうと一歩踏み出し――
「動かないで!」
先輩の甲高い声とともに、光が走った。
――心桜の頬に、鈍く光る刃が押し当てられている。
その光景を認識した瞬間、翼の全身から血の気が引いた。
(……はめられた)
瞬時に状況を理解し、同時に自分の甘さを呪う。
心桜が――人質に取られている。
咄嗟のことに呼吸が浅くなるのを自覚しながらも、翼は意識的に息を整えた。
ここで感情に飲まれるわけにはいかない。
後ろ手で袖口に指を滑らせ、隠された救援の信号装置を押す。
(相手は所詮、素人だ)
焦りも呼吸も、すぐに動きに出る。
悔やむのは後。
まだ、付け入る隙はあるはず。
冷静さを装いながら、場を動かそうと口を開こうとする。
「小宮、そこから動くな」
しかし、翼ではない別人の声がその場を支配する。
冷たい声とともに――校舎の影から3人の男が姿を現した。
制服は翼と同じものなため、この学園の生徒であることは間違いない。
そのうち1人が前へ出てきて、ゆっくりと彼女たちへ近寄る。
「動けばお姫様の顔に傷がつくぞ」
「……翼くん!」
明確な脅しを聞いたからか、今度は心桜が声をあげる。
その声には怯えではなく、必死の意志が宿っていた。
――わたしのことはいいから、抵抗して。
そう言外に伝えていると翼は察して、覚悟をきめて眼光を強める。
しかし、男はその動きを読んでいたかのように、薄く笑った。
3人のうち2人がポケットからスマホを取り出し、画面をこちらに突きつける。
「それにこの女とそこの男の、流されたくない動画や話をばら撒く」
その意味を理解した瞬間、翼の動きは完全に止まった。
冷えた思考に促されるように、面々の記憶が呼び覚まされる。
「あなたは……」
「……この日を待ってたぞ、ガキぃ」
そこに立っていたのは――翼がいじめを退け、退学になったはずの3年の先輩だった。
「お前、そいつに手錠をかけろ」
低く響いた声に、スマホを持っていない生徒が一歩前へ出た。
彼は――翼がかつて助けた先輩だ。
いじめを乗り越え、前を向いたはずの存在。
だが今、その手に金属の拘束具を握りしめ、ためらいながらも歩み寄ってくる。
「ここにいるのは、俺が弱みを握ってる奴らだ」
動けない翼を見てか、退学になった先輩が嗜虐的に笑う。
「そんな“弱者”相手に、お前は手ぇ出せるのか?」
助けたがゆえに、さらに窮地へ追い込まれた被害者を前に、翼の喉が鳴る。
それは怒りではなく、苦悶の音。
「三年のこの時期に退学沙汰になるなんて……どれほど重いか、わかるよな?」
挑発の言葉に合わせるように、先輩の女子と、かつていじめられていた先輩の顔が、大きく歪んだ。
その表情を見て、翼はすべてを理解する。
彼らは加担したいわけじゃない。
ただ、逆らえないだけだ。
握られた弱みが、彼らの自由を、未来を、奪っている。
スマホの画面。
そのワンタップひとつで、この人たちの人生が簡単に崩れてしまう。
そんな現実が、喉の奥を締めつけた。
そして目の前では、主人である心桜が刃を押し当てられている。
下手に動けば、彼女が傷つく。
守るべき存在を盾にされた瞬間、護衛は無力になる。
「……ごめん」
近くに寄ったいじめられていた先輩が、思わず謝罪をこぼした。
そして金属の輪が手首にかかり、冷たさが皮膚を刺す。
激しい怒りと後悔が胸を焼く。
アリアと凛乃の件で、相手を思いやる姿勢を見せたその甘さが、今度は隙に変わったのだ。
結局、自分の弱さが、心桜を危険に晒していることには変わりない。
今さら悔いても遅いと理解しながらも、翼はただ唇を噛みしめるしかなかった。
「行くぞ」
低い声とともに、心桜と翼の両腕が後ろ手で拘束されながら、背を押されてどこかへ誘導される。
金属の擦れる音だけが、終業式で人がいない校舎裏に響いた。




