46_外出1
土曜日は恒例である模擬戦。
心桜と言い争った結果、背後に心桜は控えてもらうが、さらにその後ろで313が心桜を守るという形になった。
そのおかげか翼はいつもより多少善戦したものの、最後には同じように気を失ってしまった。
目が覚めれば、火傷した箇所を心桜に手当てしてもらっており、彼女が翼の体調を気遣ったため、土曜は勉強のみで終わった。
明けて、日曜日。
初夏の空は薄く晴れていて、体に昨日のような重さもない。
湿気もそこまで酷くなく、風もゆるやかで、外に出るには申し分のない天気だ。
そんな中、翼はいつものように、外の廊下で心桜を待つ。
ふたりきりの外出という事で、前のように幾ばくか鼓動が早い気がする。
しかしそれは、彼女を前にしたら凪いでいった。
心桜の部屋の玄関ドアが開く音が耳に届き、翼は顔を上げる。
軽やかな足音とともに現れた彼女の髪には、いつもの三つ編みがない。
代わりに左の髪を、白桜のリボンがまとめていた。
それは以前、翼が贈ったものであり――リボンを目にした途端、翼は息をのんだ。
その淡く光る白色が、朝の光をやわらかく照り返し、花弁が舞うように揺れている。
「おはよう……きょ、今日はつけてるんだね」
朝の挨拶もそこそこに声をかけた翼へ、心桜はふわりと微笑んでみせる。
「大事な日ですから」
その一言で、翼の胸の奥が不意にあたたかくなった気がした。
贈り物を大切に扱ってもらえることへの満足感と、少しばかりの気恥ずかしさ。
翼は彼女の顔から目をそらすように、けれど自然にリボンへ視線を移す。
「……やっぱり思った通り、すごく似合ってる。心桜さんに釣り合うだけのものになって良かったよ」
「うっ……あ、ありがとうございます」
思わず口にした誉め言葉に、心桜は目を瞬かせた。
耳の先までほんのり赤く染まり、その表情を前髪で隠すように俯く。
しかしすぐに、自分の思考を振り払うように、ぶんぶんと首を振った。
「これぐらいで動じていては持ちません……頑張らねば」
「? 何を頑張るの?」
「いろいろですっ」
語気を強めたかと思えば、勢いよく顔を寄せてくる。
距離の詰まり方に面食らい、翼は思わず一歩後ずさった。
近すぎる距離感に、照れを隠しきれないまま、そっと目を合わせる。
次の言葉が出るよりも早く、ふたりの唇から小さな笑みがこぼれた。
心地よい緊張と、どこかくすぐったい空気が、あたたかい風のようにその場に流れていた。
初めてふたりきりのプライベートな外出。
ただ、行き先は過去に行ったことのあるショッピングモールに決まった。
期末テストの結果を受けて、お互いに何かを贈り合いたいという目的のため。
さらには蒸し暑さが顔を覗かせはじめた季節でもあり、屋内でゆっくり過ごせる場所を選びたかったという事情もある。
それに前回訪れた際、翼はほとんどの時間を護衛に割いていたので、心桜としては思うところがあったのだろう。
今度こそ時間をかけて、翼とふたりで肩を並べて歩いてみたいと言ってくれた。
一度訪れて勝手のわかる場所なら、護衛としての判断もしやすい。
そうした点も含めて、このモールが自然な選択になった。
館内に足を踏み入れると、真っ先に向かったのは、前と同じ調理器具の店。
棚に並ぶ器を見ながら、心桜がふと立ち止まり、こちらへ向き直る。
「2人用の食器を買ってもいいですか?」
「うん」
そうして調理器具や食器を少しずつ、2人用にそろえていった。
器の形や色に対するセンスは、翼にとっては未知の領域で、心桜に委ねる部分が多くなる。
彼女に「どっちがいいですか?」と尋ねられれば、その都度まじめに考えて答えた。
会話の数は少ないのに、不思議と呼吸が合っている。
静かに並びながら、自然と“共同作業”という言葉が似合う空気が生まれていた。
自然体で過ごしているそんなときに、ふいに心桜がぽつりと声をこぼす。
「……あの時は、こうなるとは思ってませんでしたね」
それが意味するのは、翼宅での勉強や食事のことだろう。
その一言を受けて、翼も思い返しながら答える。
「確かに。前と比べるとすごく変わったな」
思い浮かべるのは、前にこのモールへ来たときのこと。
4人で訪れた道中、翼と心桜はほとんど会話せず、最後にはふたりでアロマを選んだ。
今でこそ自然に隣を歩いているが、あの頃の心桜には、まだ翼に対する遠慮が残っていたように思える。
言葉の間にも仕草の端にも、見えない境界線のようなものがあり、最後には特攻することで振り払えた感じだ。
それが今ではすっかり薄れている。
そのことに改めて気づき、翼は困ったように笑みを浮かべた。
「おれがいろいろとやらかして、心桜さんが心配してくれた感じだよね。優しさにつけ込んだみたいで申し訳ないけど」
「踏み込んだのはわたしの方ですから。気にしないでください」
さらりと、けれどどこか柔らかく微笑んで、心桜は言葉を返す。
きっと彼女は、誰に対しても変わらない。
目の前の人の痛みに寄り添える、そういう人なのだと思う。
だから、勘違いなんかしようがない。
主従の芯はブレないからこそ、翼はただ、黙ってその言葉を受け取った。
生活に必要なものをひと通り揃えたあと、ふたりは少し雰囲気の異なる店へ足を向けた。
ここからが“本題”という気配が、言葉にしなくても共有されていた気がする。
はじめから考えていた通り、何かを贈りたいという思いはどちらも変わらない。
ただサプライズではなく相談しながら決めることにしたのは、互いのことをまだ深くは知っていないからだった。
まじめな生活に追われる中で、好きなものや欲しいもの――そういった話をゆっくりする機会は少なかった。
当初、翼が自己開示を避けていたこともあり、その名残が残っていたのも影響したのだろう。
しかしまったく知らないわけでもない。
翼は以前の会話でふと心に引っかかった言葉を頼りに、ファンシー雑貨の店へ入った。
「可愛いものが好きって話じゃなかったか?」
「よ、よく覚えてますね」
ぬいぐるみが並ぶ棚の前で、心桜が照れたように笑った。
目をそらしながらも、そのままふわりと歩き出す。
ふたりで店内をゆっくり見て回る。
何を探すとも言わず、けれど心桜の足取りが止まれば、翼も自然とそれに合わせた。
彼女がどんなものを手に取るか、それだけが今の関心ごとであり、可愛いものに惹かれる彼女を微笑ましく見守る。
やがて心桜が、黒い子犬のぬいぐるみをそっと持ち上げる。
「この子……翼くんみたいです」
「そ、そうか?」
彼女の手にあるぬいぐるみを見つめながら、どう返せばいいのか分からず、首をかしげるしかなかった。
黒いつぶらな瞳が愛嬌を湛えていて、どこからどう見ても可愛い系だと思う。
今更ではあるが彼女にそう見られているのかと思うと、ほんの少しだけ複雑な気分になる。
ならば心桜だったら何に例えられるだろうと、店内のぬいぐるみを見回してみた。
(よく寝るから猫……なんて、本人には言えないな)
そんな風に黙っていたところで、心桜がふいにその子犬を抱きしめる。
「これにします」
「……わかった。じゃあもらっていい?」
そう言って、いったん心桜の手からぬいぐるみを受け取る。
自分に似ているという理由で選ばれたことに、どこかくすぐったさを覚えながら、心桜と共にレジへ向かった。
袋に入ったぬいぐるみを手に店を出ると、心桜が隣から声をかけてくる。
「翼くんには……スポーツ用品店とかどうですか?」
「いいね。買い換えたいギアとかもあるし」
「なるほど。そういうことであれば、わたしもいろいろ見たいです」
「え、心桜さんも運動したいの?」
「……また抱えられることもあると思うので」
そう自分の体に目を落とす心桜に、翼は返答を迷う。
おそらくは、前回の襲撃時の横抱きのことを言っているのだろう。
心桜から、自身の体重を気にするかのような言動があったような気がする。
ただ翼は気まずさを紛らわせるように、少しだけ声を落として返した。
「もう十分華奢だと思」
「ストップです。……今日はそう簡単にやられませんよ」
ピシッと人差し指を翼の口元付近に添える心桜。
言葉尻をさえぎるような調子に、翼は少しだけ押し黙る。
彼女の静止には、いつもの穏やかさと、その裏に少しだけ気合いのようなものが滲んでいた。
「……どういうこと?」
「分からなくていいです。それが翼くんの美点でもあるので」
軽く言い放ったその声には、ほんのわずかに熱があった気がする。
けれど、それを確かめる前に、心桜は視線を外して歩き出す。
どこか浮かれたようなその背中を、翼は黙って追いかけた。




