44_プレゼント
7月に入り、湿り気の残る空気が肌にまとわりつく。
晴れ間の合間に、夏の気配がそっと顔をのぞかせていた。
そんな月の頭の放課後。
教室のざわめきが徐々に遠のいていく中で、翼は静かに息を整えていた。
何度も確認はした。
荷物になるようなものじゃない。
大丈夫、のはずだと確信は得ている。
しかし、言葉にして渡すというそのただ一点が――どうしようもなく緊張をかき立てていた。
そうやって緊張の面持ちのまま、彼女たちに歩み寄る間にも、心臓が胸の奥で小さく跳ねる。
「ちょっといい?」
何気ないふうを装ってはいるが、芯を残した声で、教室に残っている3人へと翼が声をかける。
その声にまず振り返ったのはアリアだった。
帰り支度の手を止めて、不思議そうに首を傾げる。
「改まってどうしたの?」
アリアは手にしていた鞄の紐を手放しながら、訝し気な瞳で翼を見つめる。
教室の喧騒はもう遠く、廊下の靴音もまばらになってきた頃合い。
それを見計らいながら、翼は背中に回していた手を前へ戻した。
手には、白い包み紙にそっとくるまれた小箱が3つ。
それらをゆっくりと、3人へ差し出す。
「これを……渡したくて」
「……何これ?」
アリアがその小箱を見つめたまま、疑念を深くするように問うてくる。
翼はごくりと喉を鳴らしながら、ぎこちなく言葉をこぼす。
「日頃の感謝の気持ちというか……ぷ、プレゼント、です」
言い終えたあと、照れ隠しのように視線を逸らす。
隠し切れていない翼の頬には、ほのかな紅がにじんでいた。
「……わたしたちに、ですか?」
心桜が思わずといった感じで翼に尋ねてくる。
その問いに、翼は躊躇いながらも頷いた。
しかしそれを受けても、3人の顔には驚きと、そして一抹の困惑が浮かんでいる。
突然のことで気持ちの整理が追いつかないのも当然だ。
ただ翼にとっては――ずっと前から決意していたことだった。
考えて、頼んで、用意して。
ようやく今日、この瞬間に手渡すことができると、意思を固めて退きはしない。
心桜とアリアは、手のひらに乗った白い包みと目の前の翼とを、交互に見つめている。
ただ戸惑いだけが、彼女たちの表情に満ちていた。
そんな中で、ひとり落ち着きを取り戻した凛乃が口を開く。
「開けてもいいか?」
「ど、どうぞ」
言葉に詰まりながらも、翼はこくりと頷いた。
どう思われるかと、不安を胸に抱えて視線を泳がせる。
凛乃は彼の様子を見つめながら、慎重な手つきで包装に手をかけた。
ゆっくりと丁寧に、中身を傷つけぬよう、指先に神経を行き渡らせながら開封していく。
「これは……ヘアピン?」
凛乃がそっと蓋を開けた瞬間、空気がわずかに張りつめた。
隣にいる心桜とアリアも、吸い寄せられるように凛乃の手元を覗き込む。
柔らかな布に包まれていたのは、小ぶりながらも細工の凝らされた一点ものだった。
「や、安物しか持ってないって話だったから、どうかなって」
翼は気まずさを紛らわせるように、選んだ理由を口にする。
しかしそれを受け、凛乃の表情はむしろ厳しさを増していた。
眉間にうっすらとしわを寄せ、指先でヘアピンを持ち上げる。
「これは、どこで買ったんだ?」
「知り合いの装飾屋にお願いして、作ってもらった」
「だろうな。既製品には見えない。……あまりにも凝っている」
そう言って、凛乃はヘアピンをそっと掲げた。
指先で摘まれた小さな飾りが、天井の灯を受けてきらりと光る。
深いワインレッドを下地に、黒の薔薇が細やかに彫り込まれているヘアピン。
花びらの一枚一枚が、まるで呼吸をしているかのように緻密で、確かな気品を宿している。
その意匠は、凛乃の紅い瞳を思わせる色合いだった。
黒薔薇は言わずもがな、彼女につけられた渾名を、かたどっていると察せられる。
凛乃は言葉少なに、まじまじとそれを見つめている。
無言のまま、目の奥に静かな感嘆をにじませていた。
「……開けてもいいですか?」
「も、もちろん」
凛乃のヘアピンを見てか、改めて問いかけてきた心桜に、翼は頷いて応える。
その返事を聞いて、アリアも手元の箱に指を添える。
彼女たちも丁寧に、慎重に、包装紙をほどいていく。
少しの静寂を経て、やがて手元からそっと蓋が持ち上げられた。
そして次の瞬間――2人の唇から、ほとんど重なるように、驚きの息がこぼれ落ちる。
「ワタシには……シュシュ、かな?」
アリアがゆっくりと手の中の品を掲げる。
サファイアブルーを基調にした布地に、白百合の刺繍が繊細に浮かぶシュシュ。
その淡い彩りは、彼女の澄んだ碧眼を映すようで、凛乃と同じく渾名の一端を思わせる。
「……心桜ちゃんは」
「リボンですね。それも……かなり良い物です」
心桜は驚きと戸惑いの混じった表情のまま、手のひらの中にある白桜のリボンをじっと見つめていた。
白く清らかな花びらが、上質な生地の上で息づくように咲いている。
派手すぎない、けれど舞い落ちる花弁のように、ふと目を奪われてしまうようなリボン。
上品さと清純が共存した意匠は、まさに心桜そのもののようだった。
真崎の家に生まれ、目の肥えた彼女が息を呑むほどの一品。
それは容易く手に入る類のものではないと、誰しもが確信するほどだ。
戸惑いの色が、アリアと心桜の顔に重なる。
物を見た今もなお、彼女たちはどうすればいいのか決めかねているようだった。
そんな中、先に口を開いたのは凛乃だった。
ひとつ息を吐き、落ち着いた声音で翼へと問いかける。
「どうして、これを?」
「日頃の感謝を形にしたかったというか……おれの自己満足。受け取ってくれたら嬉しい」
少しだけ視線を逸らして、翼は照れ隠しのように笑った。
どこまでも不器用な本音と、一縷の隠し事を混ぜ込んだ表情。
あくまで自分のためだと伝えるように、重く捉えられないためにと翼は言葉を重ねる。
「まぁ小物だからさ。気にしないで使ってほしい」
「そ、そんなこと言われても翼くん……」
「いや、気にするでしょ……どれも明らかにいいものじゃん」
心桜が困ったように眉を寄せ、アリアが手元のシュシュを見ながら、呆れるようにぼやいた。
なんでもない日の放課後に、これほど丁寧な贈り物を手渡される理由。
全く心当たりがないからこそ、どう反応すればいいのか分からない様子だ。
とはいえ、翼としては理由を明かしたくないので、どうやって言い訳しようかと言葉の続きを迷う。
「あ」
そんな時ふいに、凛乃が声を漏らした。
それは彼女にしては珍しい、気の抜けた響きだった。
継いで視線はまっすぐ翼をとらえ、鋭く問いかけてくる。
「お前、誕生日はいつだ?」
その問いに、翼の肩がびくりと揺れた。
問われてもすぐには答えようとしない翼の様子に、心桜とアリアも首を傾げる。
「え? 小宮くんの誕生日?」
「……そういえば知りませんでした」
いつの間にか、3人の視線が一斉に翼へと注がれている。
包みを手にしたまま、驚きと好奇心と、ほんの少しの不安を含んだまなざしが集中する。
待てないとばかりに凛乃が一歩詰め寄り、せかすような声音で告げた。
「早く教えろ」
「な、なんで?」
「私の記憶が正しいかの確認だ。答えろ」
その口ぶりからすれば、どうやらどこかで――おそらくは小宮家の資料か何かで――目にしたのだろう。
すでに当たりはついているといった感じだ。
だが、翼はそれでもなお最後の抵抗を見せた。
「おれ、人には教えない主義だから答えられなイ゛ッ!?」
言い切る前に、凛乃の手が伸びてきた。
有無を言わせぬ速さで、見事なアイアンクローが翼の頭をわしづかみにする。
まさか自分がされる側になるとは思っていなかった。
アリア以外にやっているところを見たことがないので、反応なんて到底できるわけがない。
痛みは鋭く、予想以上に正確に急所を突かれる。
どう抗っても逃れられない、人体の弱点というのは、まさにここだと痛感する。
さらには凛乃の手を払おうにも、異性の手をおいそれとは触れられない。
為す術もなく、ただ苦悶の声が漏れた。
「わ、わかりました! こ、答えますぅ!」
必死の叫びに、ようやく凛乃の手が離れる。
この人に逆らっちゃダメだと心の中でこぼしながら、翼は観念したように小さく息を吐いた。
「その……7月1日、です」
「え、1日って……!!」
それを聞いて、思わず声を上げたのは心桜だった。
目を見開いたまま驚きに声が裏返り、続いてアリアが翼に詰め寄る。
「きょ、今日じゃん!! なんで言わなかったの!?」
「やっぱりか……」
凛乃は独りごとのように呟き、渋い顔をしながらこめかみを押さえた。
確信していたことを裏付けられたような、そんな表情だ。
「てか……は? なんで君がプレゼントしてんの……? ちょ、ちょっと待って全然意味わかんない」
手にしたシュシュを見つめながら、ぐるぐると頭を抱えるアリア。
翼の理解できない行動に、思考が追いついていないと見てわかる。
そして心桜もまた、あまりの驚きに言葉を失っていた。
目をぱちぱちと瞬かせながら、口を開きかけては閉じている。
そんな2人の様子を前に、翼は少しばつが悪そうに頬をかいた。
「おれにとって誕生日は、自分を祝うものじゃない、と言うか」
最後まで言いかけて、少し言葉を探すように視線を落とす。
そして躊躇いながらも、照れくさそうに笑って続けた。
「こんなおれと関わってくれる人に……感謝したい日、だから」
淡々と語った言葉は、飾り気がない。
けれどその一言に載せられた想いに、胸を打つものがあった。
命の不確かさを、常に意識している人間。
そんな自分と関わらないようにと、他人を突き放し続けた日々。
自分と関われば悲しませる、後悔させると、そんな身勝手を押し付けるのは変えられない。
それでも目の前に、言葉を交わしてくれる誰かがいる。
それだけで、感謝の念が絶えないのだと――彼の瞳がそう語っていた。
今この人生の節目に、関わってくれる人へ感謝を告げたい。
今日だけはそんなわがままを、他でもない自分自身に許してほしい。
チグハグなその想いが形となったのが、このプレゼントだった。
「……そういうことなら、ありがたくもらっておく」
凛乃は手のひらに収めたヘアピンをそっと握りしめ、翼に向かって微笑んだ。
その表情は、普段の彼女からは想像できないほど、穏やかで柔らかかった。
「くっ、この子……ほんとにヤバいよ……」
アリアはそう呟きながら、額を手で押さえる。
大きく揺れる感情に、どう処理していいのかわからず、どこか怒っているような素振りさえ見せる。
一方で心桜は――ただ、動けずにいた。
胸の前に手を添え、ぎゅっと押さえるようにして立ち尽くしている。
言葉が喉の奥に詰まったように、ただ黙ったまま。
あふれそうになる何かを、必死で堪えているのが伝わってくる。
そんな空気の中で、再び凛乃が口を開いた。
「お前、この後は時間あるか?」
「? う、うん」
「なら少し付き合え。このまま終わらせはしない」
「え?」
凛乃のあまりに意外な提案に、翼はぽかんと口を開けたまま固まる。
その反応を見ていたアリアが、ようやく気を持ち直したように声を弾ませた。
「いいねぇ! ちょっとしたお祝いでもしようよ。4人でさ」
「でも、見返りを求めてるわけじゃないし……急に悪いよ」
「いいからいいから。このまま勝ち逃げなんてさせないよ~?」
アリアは笑いながらも、その瞳を鋭く光らせていた。
逃がすつもりはない、そんな気配がありありと滲んでいる。
完全に包囲されたような感覚に、翼はただ動揺するばかりだった。
ここまでの展開は、まったく予想しておらず、ただおろおろと震えるばかり。
そんな中、ふとアリアがあることに気づく。
「……心桜ちゃん?」
その声音には、ほんの僅かな戸惑いが混じっていた。
それを受けて、翼も視線を向ける。
心桜がまっすぐ翼を見つめたまま、目を逸らさない。
何かを言いかけるように、唇がかすかに震えている。
少しの間ののちに、堰の奥で満ちる感情を飲み込むように俯いた。
「……なんでもないです」
まるで感情の熱で指先が焼けたように、心桜は胸から手を離し、掠れる声で告げた。
アリアはそれ以上追及せず、あえて明るい声で場の空気を切り替える。
「じゃあ、行こっか」
そう言って鞄を持ち上げる彼女に、凛乃も無言でそれに倣い、ふたりは並んで教室の外へと歩き出した。
教室に残る空気が、ふわりと緩む。
翼もその背中を追うように、ゆっくりと歩を進め――
「翼くん」
名前を呼ばれた瞬間、足が止まった。
翼はゆっくりと振り返る。
さっきまで揺れていた琥珀の瞳が、いまは驚くほど澄んでいて――ただ真っ直ぐに、自分だけを見据えていた。
「来年……ちゃんとあなたを祝わせてほしい、です」
その声には、揺るぎないものが宿っていた。
言葉を選びながらも、ひとつひとつ丁寧に、翼へ向けて紡いでいく。
「もっと時間をかけて、いっぱい……」
それは願いではなく、誓いのようだった。
翼に向けてというよりも、自らへ誓うかのように、胸の奥から引き出している。
心桜はほんの少し唇を結んでから、張りつめていた表情を、そっと解きほぐす。
「なので……傍にいてください」
彼女は翼の返事を待つことはなかった。
一歩を踏み出し、未来へ向かうかのように教室の外へ駆けていく。
ただ一人、その背を見送る翼の前に、微かな風が通り過ぎた。
火水木休みます!また金曜日お会いしましょう!




