43_お泊り4
「おはよ~休日でも朝早いねぇ」
欠伸まじりの声とともに、アリアが眠たげな目を擦りながら顔を出す。
日曜の朝だというのに、心桜はすでに身支度を整え、いつもの調子でリビングに佇んでいた。
寝癖もそのままのアリアを見て、心桜はキッチンへ向かい、湯気の立つカップを差し出す。
「おはようございます。凛乃さんも、もう起きてますよ」
「だろうねぇ……凛乃ちゃんもちゃんとしてるからなぁ」
そう返しながら、アリアはカップを受け取り「ありがと」と小さく呟き、ふっと息を吹きかけてから口元に運ぶ。
揺蕩う湯気が、ぼんやりとした彼女の瞳を少しだけ覚ましていく。
窓の外へ目を向ければ、あいにくの空模様だった。
灰色の雲が空一面にひろがり、陽の光はひとすじも見えない。
今日はもう、どこにも出かけられそうにないなと瞳が湿気を帯びる。
その空気を読んだように、心桜がふわりと口を開く。
「では今日は、勉強を頑張りましょうか」
「そうなるよなぁ……だからゆっくり寝てたんだけどなぁ」
「翼くんの家でしたら、きっと集中できますよ」
「まぁ、テスト近いし……しょうがないか」
深いため息と共に、アリアは肩を落とす。
その仕草は大袈裟なようでいて、どこか本気で憂鬱そうだった。
そんな彼女の様子に、心桜はふっと困ったように微笑んだ。
「飽きた!! もう無理!!」
その叫びが、広々としたリビングにて高らかに響き渡る。
声に驚いたのか、部屋の隅に置かれたトレーニングギアが小さく軋んだような気がする。
その軋みと同じように体をくねらせ、アリアは大げさに頭を抱え机へと突っ伏す。
「頑張るにしても、息抜きって大事だと思わない? というわけで、休憩ターイム!」
「お前が休みたいだけだろ」
アリアは悪びれもせず立ち上がり、勢いよく椅子を引いた。
そのままノートを閉じ、有無を言わさず休憩モードへと早々に突入する。
隣からは慣れたように、即座に突き刺さるような凛乃のツッコミが飛んできた。
一方で、まだ目をぱちくりさせている翼と心桜は、顔を見合わせたまま声を揃える。
「息抜きですか。といっても」
「何をしたらいいか、わからないな」
「休めばいいの! 細かいこと考えないの! 凛乃ちゃん味方になって!」
「だが、この家だと何もできん。……筋トレでもするか?」
「しませんっ!! そこ、若干残念そうにしない!」
アリアの即座の否定に、凛乃はほんの少しだけ肩を落とした。
明らかにしょげた彼女を見て、アリアは負けじと声を張り上げる。
立ち上がった彼女は、部屋の中を行ったり来たりしながら、顎に手を添えて考え込む。
「ほんとにジムと机しかないもんなぁ……あ、寝室は?」
「そっちは普通だよ。ベッドと収納ぐらいしかない」
「娯楽ゼロすぎんか……ベッドの下をのぞいても、なんもなさそう」
「? 埃とかはあるかもしれないけど」
「うん、絶対なんもないわ。潔白にもほどがある」
肩を落としながら、アリアはつまらなさそうにため息をつく。
翼は頭上に疑問符を浮かべたままであり、これ以上収穫はないかと彼女はすぐさま視線を外した。
しばらく忙しなく部屋の中を歩き回るアリア。
その合間に、心桜がそっと飲み物とお菓子を運んでくる。
それを見て、アリアは小さく目を輝かせ、何事もなかったように席へ戻った。
「そういえばさ、小宮くんは心桜ちゃんの寝室を見たことあるの?」
お菓子を口に運びながら、アリアは翼に問いを投げる。
「いやないよ。さすがに寝室まで入るのはどうかと思うし」
翼は淡々と答えたが、その言葉にはわずかな気遣いと照れがにじんでいた。
それを受けて、アリアがいたずらっぽく唇を尖らせる。
「ふーん。あっちの部屋はちゃんと女子だったから、リアクションが見てみたいけどな~」
「そ、そうなんだ」
「……アリアさんっ」
暴露される自室の情報に恥ずかしさを隠しきれず、心桜が思わず口を挟む。
頬にうっすらと朱が差していて、その姿を見たアリアは「ごめんごめん」と小さく笑った。
「ま、その時のお楽しみってことで」
おどけたように肩をすくめると、アリアは話題を切り替えるように、今度は心桜へ視線を向けた。
「じゃあ逆に……心桜ちゃんは、小宮くんの寝室に入ったことあるの?」
「あ、あるにはありますが」
「へぇ、あるんだ。どうだった?」
言い淀むように、心桜は少し視線を逸らす。
まるで何かを隠すかのようなその反応に、アリアの目が鋭くなる。
「……あんまり覚えてないですね。ベッドと収納だけだったので」
「ふーん?」
先ほどの翼の言葉をなぞるように、そっけなく話を打ち切ろうとする心桜。
だがその口調とは裏腹に、わずかに頬が熱を帯びていた。
当然ながら、その違和感を見逃すアリアではない。
じろじろと心桜の顔をのぞき込み、何かを嗅ぎ取るように唇を尖らせる。
「でもそこまでなんやかんやあって今これか~。うーん、まどろっこしい!」
手をひらひらさせながら、アリアが声を上げる。
その賑やかさの中に、どこか呆れにも似たもどかしさが滲んでいた。
そんな彼女の様子に、凛乃が小さく眉をひそめる。
「お前、なぜそこまでするんだ?」
「なぜって……やっぱり、凛乃ちゃんは知らない感じ?」
「何をだ?」
「ん~、まぁね。こっち側にも、それなりにいろいろあるんですよ。……小宮家の方も大変だとは思うけどさ」
そうはぐらかすアリアに、凛乃は「そうか」とだけ返事する。
目の前で交わされる会話の意味が読み取れず、翼は小さく首をかしげた。
するとアリアは、その仕草を見て、くるりと話題を転がすように笑顔を向ける。
「そだ、小宮くんの恋愛話しよーん!」
と、いきなり話題をぶっこまれ、翼はあからさまに戸惑いの色を浮かべた。
「ど、どうしたの急に」
「んー? ワタシが君のこと、気になるからだにょーん」
とんでもなく軽い口調と語尾を引っ提げて、アリアは悪びれもせずに笑っていた。
明らかに冗談だとわかるノリに、翼は眉を寄せる。
からかわれていると確信する一方で、まともに取り合うのも癪だし、無視するには勢いが強すぎる。
そんな思考の隙を縫うように、アリアが声を弾ませる。
「じゃんっ、定番の質問その一! 小宮くんって、どんな人がタイプ?」
弾む声とともに、アリアが体ごと翼へ身を乗り出す。
あまりに唐突な質問に、翼は思わず目を瞬かせた。
「タイプ……?」
「ほら、好きな女優とかいるでしょ?」
軽く尋ねてくるアリアに対し、翼は少し考えてから首を傾げる。
「うーん……テレビ見ないしな」
「えー? じゃあ、動画とか? キャラクターでもいいからさ」
「それも……あんまり」
真剣な顔でそう答える翼に、アリアはほんの少しだけ口を尖らせた。
実際、翼の家にはテレビもなければ、スマートフォンを開いて何かを見る習慣もほとんどない。
娯楽よりも訓練と勉学、そんな生活が当たり前だった。
だから、誰が人気かとかどんなトレンドがあるかなんて、気にすることもなかった。
はっきりした答えが得られないと見るや、アリアはすぐに次の矢を放つ。
「じゃあ髪型は? 長い方がいい? それとも短い方?」
アリアが指を立て、さらに問いを畳みかける。
翼は少しだけ思案するように視線を上へ向けたあと、淡々と答えた。
「……その人に似合ってれば、それが一番じゃないか?」
そんなまっすぐな物言いに、アリアはぐっと言葉に詰まる。
けれどすぐに、はぁ、と重々しくため息をついた。
「そういうことじゃないんだよなぁ~」
呆れたように天井を仰ぐアリア。
きっと想定していたのは、もっとこう「ロングが好き」とか「ボブが可愛い」とか、そういう返事だったのだろう。
翼もそれを感じ取ったのか、少しだけ困ったように目を伏せる。
「……わからないな。考えたことないし、ピンとこない」
「んじゃ! 身長はどうよ!」
気を取り直してとばかりに、アリアが次なるカードを切る。
「高いと綺麗だと思うし、低いと可愛いんじゃないか? おふたりも綺麗だし」
なとなしに告げる翼の言葉を受け、一拍、間が生じる。
その直後、アリアが勢いよく立ち上がった。
「はいストーップ! 今ワタシたちを口説く必要はありません!!」
「口説いてないけど……」
ピシッと指摘されたものの、当の本人はまるで釈然としていない。
ただ正直に思ったことを言っただけなのに、どうして咎められるのか?
その理由が、いまいち分からない。
アリアはというと、「ほんまにこの子は……」とこめかみを押さえていた。
どこか頭痛がするように、やや本気の悩みモードに突入している。
「……当たり障りがないなぁ。好みもふわっとしてるし……」
ぽつりとこぼしながら、アリアの視線が何かを探すように宙をさまよう。
「どうすれば引き出せるかな。いっそ逆のこと聞くか……? でもなぁ、心桜ちゃんは欠点ないし……」
ぽつぽつと呟きながら、アリアは腕を組んでうんうんと唸る。
まるで謎を解く探偵のようなポーズだが、真剣度だけはやけに高かった。
その言葉に、翼の脳裏にふと浮かんだものがあった。
それは、一度だけ見た一幕だが、もしかしたら“欠点”と呼べなくもない。
「そういえば朝は大丈夫だったの?」
「朝?」
「いや、心桜さんのアラームがっ!?」
言いかけたその瞬間だった。
隣から肌を刺すような、ピリピリとした感覚に襲われる。
視線を向ければ――心桜が、ものすごい綺麗な笑顔を浮かべていた。
そこから無言の圧をひしひしと感じる。
言葉など一切発していないのに、それ以上言うなと全力で伝わってくる気迫。
それを全身に受けて、翼はその場でフリーズした。
口が勝手に開いただけです、という言い訳もできず、ひとまず口をつぐむ。
あまりの気迫に、背筋にはじっとりと汗がにじんでいた。
「心桜ちゃん? ワタシが起きるころには起きてたよ?」
「そ、そうか」
そう小さく返して、翼は視線を落とした。
それ以上何も言わず、まるで自らを処すようにうつむく。
完全に“地雷”を踏んだことを悟った顔だった。
そんな空気を断ち切るように、心桜がぴしゃりと声を上げる。
「ほら、いつまでも喋ってないで勉強に戻りますよ」
「はいぃ……」
情けない声とともに、翼はノートへ視線を戻す。
明らかに打ちひしがれていたが、それを慰める者はいない。
勉強の再開を悟ったアリアが、しんみりとした顔でぽつりと呟いた。
「ママぁ……」
「わたしはママじゃありません」
きっぱりと言い切ったその直後、心桜は手元のノートを軽く叩き、話を元に戻すように口を開く。
その表情はどこか穏やかでありながら、逃がす気はないという意志が宿っていた。
アリアが口を尖らせる暇もないまま、心桜は容赦なく、彼女を課題漬けにして涙目にさせていた。




