41_お泊り2
時刻はちょうど夕暮れどき。
あたりに茜が滲み、平日であれば下校ラッシュが落ち着く頃合いだ。
ある程度物色が済んだといったところで、アリアが小さく息を吸い手足をぐっと伸ばす。
「それじゃ、いつものとやらを見せてもらいましょうか」
にこりと笑いながら、視線はまっすぐ翼へと注がれる。
その言葉を受けて、翼が少し緊張したように頷く。
意図としては、翼と心桜のふたりが、普段どんな風に過ごしているのかという日常への好奇心からだ。
特に見られて困るようなことをしていないので、素直に了承したが、いざ見せるとなると若干気遅れする。
すると、傍らにいた心桜がそっと口を開いた。
「じゃあ、まずは翼くんの家で勉強をしましょう」
「うげぇ……さすがにもう避けられないか……」
勉強と聞いてアリアが肩をすくめ、まるで世界の終わりでも告げられたかのように顔をしかめる。
それを見た心桜は、どこか困ったように言葉を重ねた。
「勉強も日課ですから。わたしたちだけでやりましょうか?」
「おれもルーティンは崩したくないし」
「真面目おふたりちゃん……」
小さくぼやくその声音は、揶揄というより畏怖のようなものを帯びていた。
しかしその横で、凛乃が鋭く目を細めながら声を投げかける。
「私もやるが? 一番成績が低い、お前はやらないのか?」
「ぐぅ!? 凛乃ちゃんのいじわる~!!」
凛乃の的を射た指摘に、アリアは大袈裟に肩を抱えて呻く。
諦めるしかないと悟ったのか、微妙な面持ちのまま、鞄から勉強道具を取り出し始めた。
「では、これぐらいにしましょうか」
教科書を閉じながら、心桜が柔らかな声で区切りを告げる。
翼宅のテーブルに四人で座り、勉強に取り組むことしばし。
時計の短針は、一時間程度進んでいた。
「へ、へけ……やっと終わった……」
机に突っ伏しながら、アリアが半ば溶けかけた声を上げた。
勉強という名の試練を終えた彼女の姿は、まるで魂を抜かれたかのようだ。
限界を迎えた様子の彼女を見ながら、心桜が静かに立ち上がる。
「では、わたしはご飯を作りますね」
「あ、ご飯なら手伝えるよ~。四人分は大変だろうし、ワタシもやるね!」
「ありがとうございます」
申し出に微笑み返す心桜の後を、アリアが軽やかに追いかける。
疲れた頭を切り替えるには、ちょうどいい気分転換だったのかもしれない。
ふたりが仲睦まじく台所へと向かうのを見て、翼も立ち上がる。
「おれは鍛錬をやってるから、もしうるさかったら言ってほしい」
「はーい、頑張ってね~」
翼を軽く応援するように、アリアがひらひらと手を振る。
改めて応援されると気恥ずかしく、ほんの少し頬が熱くなる。
翼は気を取り直して、慣れた動作で着替えを済ませると、無言のままマットの上へと歩を進めた。
負荷の高い有酸素メニューに身体を預けるようにして、彼は呼吸を整えながら動きを繰り返していく。
この時間だけは、誰の目も意識せずただ自分自身と向き合える。
昨日の自分よりも、より強くなっていくために。
一挙手一投足に神経を熱しながら、淡々と鍛錬をこなしていく。
一方そのころ、キッチンでは。
心桜が手際よく野菜を刻みながら、ときおりちらりと視線を翼に向けていた。
彼が黙々と汗を流す姿を、どこか鼓舞されるようにも、はたまた心配げにも映している。
その隣でアリアはというと、包丁を持つ手がぴたりと止まっていた。
明らかに、視線は料理よりも別の方向――つまり、翼へとまっすぐに向いていた。
「すっごいねあれ……凛乃ちゃんから見てどう?」
ぽつりと、アリアの口から感嘆を含んだ声が漏れる。
ダイニングテーブルの椅子に腰かけた凛乃が、同じくじっと翼を見つめたまま呟いた。
「常軌を逸してるな」
凛乃も目を奪われるように、感想をこぼす。
その重みのある言葉に、「はぇ〜……」とアリアが素直な声を漏らした。
マットの上で黙々と身体を動かす翼の姿は、もう何十分も変わらない。
ただひたすらに、自分を磨き上げ、気迫をほとばしらせていた。
それはもはや常人に真似ができるような、そういう次元ではないと思い知らされるほどだ。
「しかもあれでまだ足りないって言ってるんでしょ?」
感嘆を通り越して、もはや呆れの混じった口調でアリアが言うと、心桜が苦笑混じりに頷いた。
「はい。見られて恥ずかしいとも言ってましたよ」
心桜が思い出すように、翼の言葉をアリアへ返す。
苦笑もあるが、その言葉にはどこか不思議な温かさがあった。
自慢げではなく、ただ自らに向き合う少年の横顔を、誰が馬鹿にできるだろう。
黙々と汗を流し、誰に見られずとも積み上げ続けるその研鑽に、言い訳も見栄も存在しない。
だからこそ、その謙遜がなおさら胸を打つ。
それを受けて心桜が小さく息を吐くと、傍らのアリアもまた、肩をすくめて笑った。
「いや、こんなん他の女子に見せたらイチコロだよ……ギャップがえげつないもん」
「ギャップ……確かに」
「普段の様子とは似ても似つかないからな」
教室での翼を知る者なら、おそらく“ガリ勉くん”といった印象が定番だろう。
無口で、目立たず、ひたすら教科書に噛りつくその姿は、あまりに平凡かつ地味まである。
ただ、女子の間では翼の整った顔立ちに、惹かれる者も少なからずいた。
しかしながら、裏で流れている彼の噂が無視できない。
その姿から連想できないほど物騒なものがいくつも出回っており、ぼっちで声を掛け難いこともあり、現状は様子見にとどまっている。
発生源は退学・停学した三年であったり、決闘を見たものであったりと様々だ。
もちろん事実に基づくものもあり、尾ひれがついているものもある。
それらを変に曲解されないように、アリアはコントロールしつつ、女子への牽制にも使っていた。
いろいろと事情を把握してる彼女は、やっぱり自分がやったことは正解だったと思いながら、心桜へ尋ねる。
「しかもあれ、心桜ちゃんを守るためにやってるんだよね?」
「……はい」
改めて問われれば、心桜は照れたように、けれどしっかりと頷いた。
その声音には、自分だけが知る何かを抱えるような、奥ゆかしい熱があった。
目の前で黙々と続く鍛錬。
それとは別に、彼の過去と、限界を突き詰める模擬戦。
彼の多くを知る心桜の表情は、万感の思いで溢れている。
心桜ほどは知らないアリアですら、誰にも誇らず、見返りも求めず、ただ主を守るために続けられている研鑽を目の当たりにすれば、お世辞のない感嘆を口にせずにはいられない。
「さすがは騎士様だなぁ……」
その言葉には、からかいも飾り気もない。
視線の先、今もなお動きを止めず、真剣な表情で汗を滲ませる翼。
大仰ともいえる渾名ですら、彼の前では霞んでいるかもしれない。
同意するように、凛乃もまた静かに一度だけ頷く。
口には出さないが、その眼差しには確かな敬意が宿っていた。




