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40_お泊り1

「よし。これで準備万端」


 掃除機のコードを巻き取りながら、心桜は一人でそう呟いた。


 土曜の昼下がり。


 ゆるやかな陽光がレースのカーテン越しに部屋へ差し込み、磨き上げた床に柔らかな輪郭を落としている。


 静寂の中で、玄関のチャイムが鳴るまでの短い猶予を、彼女は胸の奥で数える。


 今日は前言っていたように、アリアと凛乃が泊りに来る日だ。


 約束の時刻が迫りつつある中で、しかし心桜は別のことに意識を引かれていた。


「……翼くん、大丈夫かな」


 思わずこぼれた独り言。

 その声は、誰に届くわけでもなく、整えられたリビングに吸い込まれていく。


 土曜日といえば、模擬戦の日でもある。


 午前を過ぎた今、おそらくは終わっていることだろう。


 本来であれば心桜も立ち合い、翼の手当をしたかった。

 しかし今日は泊りの準備があることと、心桜が少し前に体調を崩したことで、翼が頑なに受け入れてくれなかった。


 体調を崩したのは週中であり、今は完全に復調していたが、今後模擬戦に参加してもらうにしても、「今日は体調を大事にしてほしい」と告げられ渋々ながら了承した。


 そうやって少し溜まった鬱憤やらを掃除にぶつけていたが、悶々と考え込んでいるうちに玄関カメラのインターホンが鳴った。


「お邪魔しま~!」

「入るぞ」


 弾けるような声と、落ち着いた調子の声。


 玄関ドアを開けてすぐ、アリアと凛乃が揃って姿を現した。


 そして、靴を脱いで家に入った瞬間、アリアが鼻をすんすんとならす。


「わぁ……めっちゃいい香り」


 そう言いながら、アリアは瞳をきらきらと輝かせる。


 漂うアロマの香りに誘われるように、迷いなくリビングへと足を運んだ。


「ひっろ~! テレビでっか!!」

「広すぎて1人だとちょっと寂しいぐらいですね」

「それなら言ってよ~! また来るからさ!」


 壁際に据えられた大型テレビを見上げて、アリアが素直に驚きを口にする。


 心桜が困ったように笑えば、アリアが遠慮のない笑顔で応じた。


 荷物をぽんと近くに置いて、アリアはソファへごろりと身を投げ出す。

 凛乃もその隣に腰を落とし、安らぐように小さく息をついた。


 その様子を確認してから、心桜は湯気の立つコップと小さな菓子皿を手にして、自らもソファに腰かける。


 それを「ありがと」と受け取りながら、アリアが首をかしげた。


「あれ、そういえば小宮くんは?」

「今でしたら、多分休憩されてると思います」

「休憩?」

「その、休日の鍛錬が厳しいので……もう少ししたら来るかと」


 模擬戦の具体的な内容は言えないので、心桜は言葉の輪郭をぼかすようにして、それ以上を語らなかった。


 言いにくい雰囲気を察したのかアリアは「ふ~ん」とだけ呟いて、それ以上は何も聞いてこなかった。

 興味を引いた様子もなく、気軽に流すその仕草に、心桜は内心少しだけほっとする。


 アリアはころんとソファに身を預けたまま、再びきょろきょろとあたりを見回した。


 視線の先をたどれば、天井、壁、棚、窓――どこか落ち着きのない瞳に好奇心がにじんでいる。


「うちも凛乃ちゃん家も、それなりに広いとは思ってたけどなぁ。真崎ってやっぱすごいね」

「見た感じ、自分でレイアウトしたわけでもなさそうだしな」

「そうそう! 家具もでっかいし良い物ばっかだよね~。ご両親に、めちゃくちゃ愛されてるんだねぇ」

「そ、そうですね」


 その言葉に、心桜は少しだけ表情をゆるめつつ、どこか照れくさそうに答える。


 そんな彼女を見ながら、アリアはニヤリと笑った。


「ここに入ったときの小宮くんはどんな感じだったの?」

「翼くんですか? うーん……おふたりとあまり変わらなかったような?」

「ちぇ~まぁそりゃそうか。もっとキャピキャピしてたら、小宮くんもタジタジだったかも」

「キャピキャピ?」


 アリアがからかうように言って、ひょいと心桜を覗き込む。


 浮かんだ疑問に彼女が小首をかしげると、アリアは笑いながら手を振った。


「いや、綺麗だけど女子感が減ってるっていうかさ」

「確かに。整い過ぎてる感じはするな」


 アリアのぼかした感想に、凛乃も同意するように頷く。


 デザイナーが整え、それを維持し続けている心桜の家があまりにも綺麗すぎて、逆に生活感の無さを覚えたのだろう。


「掃除もしっかりやってるみたいだし。ほんと、隙がないよね~」

「そ、そんなことは……寝室なんかは、結構趣味のものを並べてますし」


 恥ずかしげに頬を染めながら、心桜が口ごもる。

 その反応に、アリアの目がきらりと光った。


「おっ、そうなんだ。じゃあ後で見せてもらお~っと」


 そうやって女子トークに花を咲かせていく。


 何でもない雑談でふわりと包まれた空間に、穏やかな時間が流れ出す。


 笑ったり、頷いたり、肩を揺らしたり。


 話題が移り変わるたび、教室にいるように興奮もどこかへ溶けていった。


 すると、それから間もなくして――玄関のインターホンが再び鳴る。


「あ、翼くんですかね」


 心桜がそっと立ち上がる。


 スリッパの音も軽やかに、小走りで玄関へと向かい、カチリと鍵を外す。


 扉を引くと、そこには少し緊張した面持ちの翼が立っていた。


「どうぞ翼くん」

「お、お邪魔します」


 翼の声にはわずかな緊張が滲んでいた。

 姿勢はきちんとしているのに、どこかぎこちない。


 女子の家へ、美人揃いの中入るということで、まるで教室の時のように居心地の悪さを覚えていた。


 心桜が案内するままに、リビングへと歩を進める翼。


 そこには、ドヤ顔のアリアがソファにふんぞり返っていた。

 

「おっは~小宮くん」

「おはよう。もう昼だけどね」

「硬いこと言わんといてさぁ、遠慮せずそこへ座んなさい」

「う、うん」

「なぜお前が偉そうなんだ……」


 凛乃が呆れたように低く突っ込む。

 ただその軽口すらどこか和やかで、緊張を抱えた翼にはむしろありがたい空気だった。


 アリアに指定されたソファの端に、そっと腰を下ろす。


 いまだに少し落ち着かない様子のままソファに座る翼を見て、アリアがくすっと笑いかけた。


「何をそんな緊張しちゃって。ここ、小宮くんの第二のおうちでしょ?」

「い、いや。そこまで出入りしてないよ」

「そうなん? まぁ普通男子を女子の家に入れることないからね~。ちゃんとそこんとこ、考えときなさいよ?」


 言葉は冗談めいていたが、そこには少しだけ、年上の姉のような響きがあった。


 翼は気恥ずかしそうに目を伏せる。

 その向かいで、心桜もほんのりと頬を染めていた。

 視線は合わせないまま、指先でカップの縁をなぞる仕草だけが、彼女の内心をそっと物語っている。


 と、そのときふいに凛乃が、何かに気づいたように翼へ目を向けた。


「……お前、大丈夫か?」

「え?」

「怪我してるだろう」

「……鷹野さんは分かっちゃうか。うん、大丈夫。大したことないよ」

「そうか」


 困ったように翼が笑えば、凛乃もそれ以上聞かなかった。


 いつものように模擬戦で負傷したのを言い当てられ、自分の格好悪さを情けなく思うところだ。


 そのやりとりを見守っていた心桜は、そっと眉をひそめていた。

 何かを言いかけるように口を開きかけるが、翼が先に「気にしないで」とやんわり声をかける。


 その柔らかな声音に、心桜は言葉を飲み込む。

 けれど彼女の瞳には、薄く滲んだ心配の色が、まだ消えずに残っていた。


 そんな空気の重さを振り払うように、アリアがぽつりと口を開く。


「凛乃ちゃんはいろいろかじってるから分かるんかなぁ」

「そうなのか?」

「武道系は一通りやってたよね確か。今は部活に入ってないけど」

「す、すごいな」

「お前に褒められるほどじゃない」


 凛乃はあくまで素っ気なく、けれど本心のままといった口調でそう返した。


 その横で「そうだそうだ」と思い出したように、アリアが翼のほうへと向き直る。


「ねね、小宮くんちも見に行っていい?」

「うち? うん、いいよ」

「よっしゃ、心桜ちゃんから話を聞いてて気になってたんだよね~」

「あ、あんまり期待しないでくれ」


 照れくさそうに言いながら、翼は立ち上がり、三人を隣の部屋である自宅へと案内する。


 カチリと鍵を外し、扉をそっと押し開け、真っ直ぐリビングへ向かう。


 その瞬間空気が変わったように、心桜の家とは打って変わって、息を呑むような静けさが張り詰める。


 生活の温もりよりも、鍛錬の気配が色濃く漂う空間。


 無駄がなく、無音の整然さがどこか非日常のようですらある。


「うわ……なんだこれ」


 アリアが思わずといったように目を見開く。

 声のトーンには驚きと、ほんの少しの引き気味な響きが混じっていた。


「聞いてはいたが……やはりすごいな」


 凛乃は感嘆とも評価ともつかぬ声音で、部屋をゆっくりと見渡す。


「家っていうより、もはやジムじゃん! こんなとこで生活してるって……マジ?」

「一応……」


 返す翼の声は、どこか気恥ずかしそうだった。

 褒め言葉なのか困惑なのか、判断に迷う反応ばかりで、余計に照れくさい。


 興味津々といった様子で、アリアと凛乃が室内に足を踏み入れる。

 備え付けられたマットの上を歩きながら、あちこちに視線を泳がせていた。


 そして凛乃が、端に置かれた器具のひとつを手に取った。


「これはどう使うんだ?」

「ああ、そこのプレートをここにかけて……」

「なるほど。やってもいいか?」

「へ? う、うん」


 まさか本当に筋トレをするとは思わず、翼は一瞬言葉に詰まりながらも、慌てて頷く。


 凛乃はそれきり特に何も言わず、黙々と器具に向かい始めた。

 呼吸を整え、無駄のない動きで身体を動かすその姿は、静かな迫力すらある。


 その様子を見ながら翼も、補助のためにすぐ傍に立ち、器具の安全を確認する。


 一方その頃、アリアは最初こそ珍しげに部屋を見回していたものの、どうやら器具自体にはそこまで興味がないらしい。


 ふいに「ふーん」と肩をすくめると、心桜のほうへふらりと戻っていった。


「凛乃さん、楽しそうですね」


 心桜が小声で言うと、アリアは「まぁね」と、ちょっとだけ笑って肩をすくめる。


「凛乃ちゃんってジムに行くと超目立つのよ。だから最近は行かなくなっちゃって」

「なるほど」

「あんな美形JKが、男衆だらけのジムにひとりでいるって、ほっとかないのもわかるけどさぁ」


 そう言いながらも、アリアは少しだけ辟易とした表情を見せた。

 凛乃の苦労を知っているからこそ、軽く言いながらも、その奥に心遣いが滲んでいる。


 ここぞとばかりに次のトレーニングについて相談している凛乃と翼を、心桜とアリアは少し離れた場所から眺めていた。


 手の角度や姿勢を確認し合い、二人のあいだには、ごく自然な会話が流れている。


「……案外、趣味が合うのかもね、あの二人」


 アリアがぼそりと呟くように言った。


「そうですね。翼くんも筋トレが趣味って、以前言ってましたし」

「ちょっと色気がなさすぎる感じはするけど。……まぁ、結果的にはそれが功を奏したのか」

「?」


 心桜が小さく首を傾げると、アリアは視線を向けずに言葉を続けた。


「この部屋ならさ、心桜ちゃんが早く慣れるのも分かるなって」

「……そうですね。入ったとき、すぐに緊張は解けましたから」


 笑いながら淡々と答える心桜に、アリアはふぅとため息をついた。


「……ある意味、無自覚にそれをやってるのはタチが悪いまであるけどっ!」


 肩を落としながらアリアは不服そうに唇を尖らせる。

 その表情に、心桜はまた小さく首を傾げた。


 二人の視線の先では、まだ筋トレ談義の止まない凛乃と翼が、真剣な顔でフォームを確認し合っている。


「くぅ~、見せつけちゃってさ。いいし~ワタシは心桜ちゃんに構ってもらうもん!」

「え、えっと……?」


 急に視線を向けられて戸惑う心桜に、アリアがにんまりと笑みを浮かべる。


「お泊りで遊ぶためにね、いろいろ持ってきたの。ちょっと取りに行ってこようかな~」

「あれ……勉強はしないのですか?」


 そう純粋に問いかける心桜に、アリアの動きがピタリと止まった。


「うっ……そ、それは、後で!」


 視線を泳がせたあと、アリアはくるりと踵を返して、玄関のほうへと小走りに逃げていった。


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