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38_襲撃Ⅲ

 そうして一日は進み、学校を出た帰り道。


 空はまた灰色に沈み、細かい雨粒が視界を濁らせていた。


 濡れたアスファルトに二人の足音が重く響いている。

 雨ともなれば必然的に人通りが少なくなり、通りには自分たちの息遣いだけが残る。


 前回の襲撃時が雨だったこともあり、特に警戒を強めるべきだと、翼は周囲に気を配っていた。


 そんな中、霞む景色の奥に気配を感じ、自然と歩調を緩める。


 雨音の向こうで、エンジンの低い唸り。


 横を通り過ぎようとする車の気配に気づき、一歩、心桜のそばへ歩み寄る。


 しかし、予想に反して車はそのまま通り過ぎていった。


(気のせいか……?)


 視線でその後を追いながらも、警戒は緩めない。


 車のタイヤが雨粒を弾き上げるのを目で追う。


 そうして数秒後、通り過ぎたはずの車が、前方の路肩にゆっくりと止まったのを視界にとらえる。


「……心桜さん」


 呼びかけた声は、雨粒を含んだ空気に溶けていく。


 迫る危機を察して、翼が彼女を庇うように前へと踏み出そうとした、その時。


 ――車の扉から降りてきたのは、一人だけと視認する。


 それを受けて、胸の奥で鋭い警鐘が鳴り響く。


(一人なわけがない……ということは)


 脈打つ勘に導かれ、翼は首を巡らせる。


 そうして背後にて視界の端に映ったのは――雨粒を弾き返しながら、音もなく迫ってくる影。


 重く光る装甲に覆われた巨躯。


 全身を完全武装で防具に固めた男が、無言のまま距離を詰めて来ていた。


(挟撃……しかも、かなりの手練れ)


 胸の奥で警戒が鋭く膨らみ、指先まで熱を帯びる。


 傘を閉じ、柄を握る手に力を込め、同時に手首の信号器を押し込んだ。


 そうしてすぐさま正面へ視線を戻す。


 前方にも同じく黒づくめの影が、ブレることなくこちらへ近づいてきている。


 両者手には長物を構え、重装備の防具を着込みながらも、動きに淀みがない。


(……まずい)


 翼の背を、雨の雫ではない別の水流が伝った。


 もう数瞬でお互い間合いに入る距離に接触する。


 それなのに、前後の影は焦りを見せない。

 まるで糸で繋がれたように、歩幅を揃え、同じ動きで間合いを詰めてくる。


 この位置では、心桜を背後に庇えない。

 一方を相手にしている間に、もう一方が主を奪い、それですべてが終わってしまう。

 

 さらには彼らから感じる力量は、おそらく自分と同等かそれ以上。

 場を鎮めることなど、この相手では微塵も可能性がないと悟り、迷わず選択肢を捨てる。


 雨に煙る路地。

 前後を塞ぐ影。

 冷たい空気が、肺の奥で軋む。


 今までになかった、絶体絶命の危機に、翼は思考を切り替えた。


 そして――迷いなく、心桜の手を掴んだ。


「傘を捨てて走って!」


 翼は心桜を有無を言わせぬ力で引き寄せ、そのまま前方の男へ突進した。


 接触間際のところで決断したため、わずかながらも意表はつけたと言えるだろう。


 勢いのまま閉じた傘を振り下ろせば、鈍い音と共に受け止められる。


 すぐに反撃されることはなかったが、完全に勢いを殺され、翼は動くことができない。


 力も、速度も、そこで凍りつき、たまらず声に力を込めた。


「行って!」


 まだ勢いの残る心桜へ鋭く告げ、すれ違いざま彼女を前に向かわせる。


 何よりもまずは主の無事が優先だ。


 鍔迫り合いで敵を押さえつけていると、心桜が視界の端を駆け抜けていく。


 しかし――彼女は数歩先でこちらを振り返った。


 その瞳を雨で濡らし、置き去りになんてできないと、そう訴えかけるかのように。


 当然ながら心桜ならそうすると想定していたからこそ、翼は驚きはしなかった。


 止まった彼女を思考の外へ押し出しながら、背後から迫る危機を感じて鼓動が早くなる。


 このままでは前後の敵と同時に相対することになり、おそらく勝ち目はないだろう。


 一合交わしただけで、相手の技量は伝わり、その力量を認める。


 勝つためではなく、主を守るために――賭けに出る。


 そうして敵との押し合いに少し間を取り、浅く呼吸を吐いた。


「!?」


 次の瞬間、傘が雨をはじきながら大きく開く。


 そのまま翼は、再び前方の影へと突っ込み体重をかける。


 広げた布を押し付け、相手の視界を覆い――獲物を、手放した。


 かかっていた重みが消え、相手の反応が数瞬遅れる。


 彼が傘を振り払おうとしたときには、すでに翼は死角へ潜り込んでいた。


 雨水を跳ね上げながら地面を強く蹴り、横へと跳ぶ。


 硬直している黒い影の横をすり抜ける。


 がむしゃらに濡れた地面を蹴り、心桜のもとへ駆け寄った。


「ごめん!!」

「えっ……きゃっ!?」


 その勢いのまま、彼女のもとへ飛び込む。


 膝裏と背をすくい上げるように腕を回し、その身体を横抱きにする。


 胸元から聞こえる息をのんだ声に反応する間もなく、ただひたすらに前へと走った。


 地面を蹴り続ける中で、思考は雨に打たれたかのように冷え込む。


 敵は重装備で、しかも今日は雨脚がやむことはない。


 ぬかるむ地面が足を奪い、動きは鈍り、もとより重い装備がさらに水を含むはず。


 その反面、こちらは荷もなく、身軽だ。


 腕に抱く心桜は驚くほど華奢で、思っていた以上に走りやすく、翼を阻む障害はない。


 そうして一歩一歩を踏みしめていれば、切れ始めた息を感じて、焦りで背後を振り返る。


 視界の端で――追跡の影が遠ざかっていくのをとらえた。


(逃げ切れる!)


 その確信が、さらに血を熱くする。


 焼け付くような衝動が足を叩きつけ、前へ、前へと押し出す。


 腕の中の重みすら忘れ、ただ一心不乱に走る。


 雨の匂いが肺を満たし、鼓動が耳を塞ぐ。


 やがて、濡れた路地の先に人影がちらほらと見えはじめた。


 救いの色を帯びた景色に、足が最後の一歩を強く踏み出す。


 そうして角を曲がり、息を荒げながら振り返る。


 背後の黒影たちは、もはや追ってきていない。


 代わりに、濡れた装備を揺らしながら、黙々と車へと乗り込んでいくのが見えた。


「……よし。もう、大丈夫だ」


 吐き出した息が白く揺れ、安堵と共に肩が落ちる。


 近くの軒下へ身を滑り込ませると、雨の帳がわずかに遠のいた。


 とんでもなく心臓が騒がしく、息も途切れ途切れな自分をひとまず落ち着かせる。


(……逃げるのも、もっと練習しなきゃだな)


 短期で爆発的に力を出すための脚力も、瞬発力も、鍛えてきたはずだった。


 しかし追われる現実のプレッシャーが、想定以上に出力を引き上げていたと、そう反省する。


 そうやって妙に冷えた思考を巡らしながら、肩で息をしていると、ふと腕の中に微かな動きを感じた。


「? あっ、ごめん!!」


 視線を腕の中に落としてようやく気付く。


 逃げ切ったにも関わらず、いまだに心桜を横抱きしていたため、慌てて彼女をおろす。


 彼女は所在なさげに視線を泳がせながら、「い、いえ」と小さく呟いた。


「ごめん……ずぶ濡れにしちゃって」

「だ、大丈夫……です」


 さっきまでの全力疾走で、心桜を気にする余裕すらなかった。


 今になって改めて彼女を見れば、頬は薄紅に染まり、どこか落ち着きがない。


 濡れた髪が、小動物のように肩口で震えている。


 その姿に少し動揺を覚えながら、翼はポケットから湿ったハンカチを取り出し、そっと差し出した。


「ありがとうございます……その、ごめんなさい」

「え、何が?」

「いえ……お、重かったかなと思って」


 俯きがちにそう告げる声は、小さく震えていた。


 どこか恥ずかしそうにこぼす心桜から、先ほどの横抱きのことを言ってるのだと気付く。


 まったくそんな心配は無用どころか、そんなことを謝られるなんて一切想定していなかった。


 むしろ驚くほど軽かった、と胸の内で思いながら、翼は慌てて言葉を返す。


「いや、とても身軽だったよ。抱えてるのを忘れてたぐらい」

「うっ……」


 もにょもにょと口を動かす彼女は、ついに耐えきれず、両手で顔を覆った。

 見れば耳まで紅潮し、声にならない息だけが小さく漏れている。


 そんな彼女の様子に、しばらく話しかけられなそうだと思い、男たちのいた所へ視線を向ける。


 今までは力量を見極めて応戦してきたが、正直なところ、逃げられるならそれに越したことはない。


 模擬戦のように自分が追い詰められて反撃、ということも択としては考えられる。


 しかしそれをすれば、少なからず心桜に危機が及んでしまう。


「……これからは、逃げることもちゃんと考えないとなぁ」

「……これからは、ご飯を減らそうかなぁ……」

「……え、なんで?」


 重なった言葉の一部が耳に引っかかり、つい彼女へ問い返す。


 すると、聞かれるとは思っていなかったのか、心桜の表情が一瞬だけ固まる。


 だがすぐに何かを切り替えるように、キッと強い視線を向けてきた。


「……なんでもですっ」

「そ、そう?」


 理由はわからないまま首肯すると、彼女はぷいっと顔を背けた。


 その横顔が、ほんのりと朱を差しているように見えて、翼はますます疑問が募る。


 しかし心桜が無事調子を取り戻したようなので、ひとまず話を続けることにした。


「そ、そうだ。心桜さん、ああいう時はおれを置いて先に逃げてほしい」

「……翼くんを見捨てるなんて、できません」

「まぁそういうだろうけどさ……おれにとってはきみの身が一番大事なんだ」

「うっ……また、平然とそういうことをゆう……」

「だから、どうしてもお願いし」

「くしゅんっ」


 唐突に小桜の口から小さなくしゃみが、雨音に混じって弾けた。


 その一瞬で、翼の言葉は胸の奥に押し込まれる。


「ご、ごめん。続きは帰ってからにしようか」


 まずは彼女の体調優先と、そう心桜へ告げ、遠くで地面に転がっている傘へ駆け寄る。


 濡れたアスファルトを踏みしめるたび、雨粒が小さく弾け、しぶきが足元に咲いた。


 傘を拾い上げ戻るとき、背後から彼女のくしゃみがもう一度聞こえ、翼は自然と歩幅を速めた。


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