36_覚悟
あの練習のあと、心桜は怒った様子を見せることはなかった。
ただただ何かを抱え込むように、黙ったまま考えを巡らせている。
その合間に、ちらりと翼を見やり、目が合うとすぐに視線を逸らしてしまう。
トレーニングと食事のためにいったん翼の家に戻ったものの、夜の食卓を囲んだあと、彼女は珍しく「考えたいことがあるので」とだけ告げて帰っていった。
翌日になっても、その様子は変わらない。
ずっと何かを胸の中で整理し続けているようだった。
露骨に機嫌を損ねるようなことはなかったが、どこか遠くに意識が向いていて、思考の海をひとり泳いでいるようにも見える。
翼としても、特段彼女に対して何も聞かなかった。
今はそっとしておくべきだと、なんとなくそう感じたからだ。
「さあ、心桜ちゃんに何をしたか白状しなさい」
しかし教室にて、不機嫌そうな顔を浮かべながら、アリアがじりじりと詰め寄ってくる。
登校直後はただ不思議そうに心桜の様子を窺っていたが、様子があまりにも普段と違うことに気づき、ついに動き出したらしい。
そして原因が翼にあると察したあたり、さすがに鋭いと言える。
「告白を断る練習をしたけど……」
「は? 告白?」
「うん」
「誰が? 誰に?」
「おれが、心桜さんに告白して、それを断るっていう練習」
そこまで説明した瞬間、アリアの表情が一変した。
目元が鋭くなり、口角がぐっと下がる。
「はあぁ? よりもよってなんで君がやるんだよ」
いつも明るいムードメーカーとは思えない、低くて冷たい声音。
そのギャップに、翼は思わず背筋を正した。
「いや、おれが一番適任だろう」
「ねぇ馬鹿なの君? おくたばりになってあそばせない?」
自分としては尤もな主張を返しただけなのに、容赦ない罵倒が飛んでくる。
そこまで言われるとは思わず、翼が戸惑いと困惑に包まれていると、アリアが完全に暴走する前に、凛乃がすっと間に割って入った。
「落ち着けお前。声を抑えろ」
「これが落ち着いていられると思う? こいつ、本当に、殴りたい……っ!!」
アリアは顔を真っ赤にして、今にも爆発しそうな勢いだ。
拳をぎゅっと握りしめ、震える声で怒りをにじませている。
凛乃はただ慌てる翼をちらりと一瞥しつつ、表情を変えずに口を開いた。
「理屈としてはわからんでもない。それに主を思ってというのもな」
そう凛乃が冷静に切り出すと、アリアがすかさず食ってかかる。
「でもそれには前提条件があるでしょうが」
「それをこいつが考慮しているとでも?」
「…………」
凛乃の静かな指摘に、アリアの顔がさらに歪む。
怒りとも呆れともつかない感情が入り混じり、喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
そして次の瞬間、鋭い視線が翼に向けられる。
問い詰めるような口調で、アリアが切り込んできた。
「じゃあ、心桜ちゃんの回答はどうだったの?」
「『ごめんなさい、考えさせてください』って答えをもらったよ」
「……それを聞いて、君はどう思ったの」
「優しいひとだなって。でも好きでもない相手なら、きっぱり断った方がいいと思う」
「ぐぎっ!! ぐがっ!!」
アリアの口から、もはや言葉にならない謎の音が漏れた。
怒りに震える体はギシギシと軋み、肩もピクピクと痙攣している。
そんなところを凛乃に頭をはたかれ、その衝撃に「あたっ!?」という声を漏らして、くらくらよろけながら頭を抱えた。
「こいつ本当にだめだ。先に落とすべきはこっちだった……アリアちゃん、痛恨のミスぅ……」
「……?」
「ああ、凛乃ちゃんの気持ちがよくわかるよ……その何もわかってない顔、マジでブン殴りたい……」
凛乃へ満面の微笑みを向けながら、しみじみとそんなことを言うアリア。
翼としては「どうして!?」と疑問が深まるばかりだが、そんな本人の困惑など意にも介さず、アリアはするりと視線を心桜へ向けた。
「心桜ちゃんも怒ったら進展ありそうなのに……」
「一応告白は断ってもらったから、進展はあったと思うけど」
「そっちじゃねぇよ」
「はいごめんなさい」
アリアの厳しい口調を受けてすぐさま謝る翼。
素直に謝る翼を見て、アリアは肩をすくめてため息をひとつ。
そして呆れ半分、怒り半分といった声で忠告する。
「あのさ、練習でもこんなことはやめてよ。心桜ちゃんが優しいから怒らないだけで、他の女子なら一週間は口きいてもらえないよ」
「いや、主の役に立てればと思ってやっただけで、他の女子にしないし」
「そういうっ! 問題じゃっ! ないのっ!!」
アリアは思わず地団太を踏み、床をバンッ!と鳴らした。
その勢いに、翼を含めた周囲の人間がビクッ!と肩を震わせる。
だがアリア本人はまったく意に介さず、鋭い視線を翼に突き刺したままだ。
「こいつほんま……護衛として理想的すぎて、あっちが最悪だわ」
「だがそうでなければ、そもそもここまで進展しなかっただろう」
「それはそうだけど……ああ、まどろっこしい!」
淡々と補足する凛乃に対して、頭を抱えながら、アリアはため息まじりにぼやいた。
そして今度は、まるで試すような目で、再び翼へと問いを向ける。
「君の告白はあくまで練習なんだよね?」
「もちろん」
「じゃあ聞くけど、心桜ちゃんが他の人の告白をOKしたらどうなのよ」
「全力で応援するだけじゃないか?」
「……君は嫌だと思わないのかって」
「心桜さんを幸せにできる人がいるなら、喜ばしいと思うけど」
そんな翼の回答に、アリアの目がじわじわと鋭さを帯びていく。
その視線には、問い詰めるというより、感情を抑えきれないような切迫感があった。
「君が心桜ちゃんを幸せにしたいとは思わないの!?」
「おれじゃ無理だ。命の使い方が決まっているおれは……誰も幸せにはできない」
「ああもう! できるできないじゃなく、君がしたいかどうかなの!」
「幸せにはなってほしいけど、おれがしたいかは関係ないよ。心桜さんが幸せになれるなら、おれでなくても構わない」
あまりにも迷いなく、静かに言い切るその様子に、アリアは言葉を失った。
目をぱちぱちと瞬かせ、口を開けたまま、ただ呆然と立ち尽くす。
「……もはや恋とか通り越してるよこれ。愛だよ愛」
「まぁ、思った通りの答えではあるな」
しみじみと呟くアリアに、隣で凛乃がふぅっと小さく息を吐いた。
しかしそれが気に入らなかったのか、アリアはやけくそといった感じで別の問いを投げてくる。
「くそっ、なら別の護衛がついたらどうなんよ!!」
「どう、とは? いつかはそうなってもおかしくないから、どうもこうもないよ」
「……なにそれ?」
「護衛は所詮護衛だ。使い捨てでしかない。おれの次が誰かなんて、もうとっくに決まってるはずだし」
あまりにもあっさりと、そして淡々と語る翼に、アリアはぽかんと口を開けたまま固まる。
呆れとも衝撃ともつかないその表情のまま、ただただ言葉を失っていた。
そんな空気を断ち切るように、凛乃が静かに口を開く。
「お前が死なない場合はどうする?」
「死なない?」
「ああ」
「考えたことないというか……考えちゃいけないと思う」
「どういうことだ?」
「それは迷いになる。命の使い方がブレるから、答えられない」
まっすぐに、微塵の迷いもなく言い切る翼。
その真剣すぎる眼差しに、アリアは戸惑いを隠せず、ただ呆然と彼を見つめていた。
「……小宮ってみんなこんなんなの?」
「そんなことはなかったと思うが……」
自信なさげに答える凛乃の横で、アリアは完全にドン引きしていた。
そんなふたりの反応に、何を疑問に思うのかと翼は淡々と答える。
「おれは素晴らしい主人に恵まれたから。この程度の覚悟は持っておかないと主人に報えない」
護衛としての誇り。
日々寄せられる気遣いや信頼。
何もかもを惜しみなく与えてくれる彼女に、自分は何を返せるのか。
そう考えるたびに、もっと努力しなければと気持ちを引き締める。
「いや、覚悟決まりすぎでしょこの子……」
アリアは思わずそう呟きながら、感情が入り混じった瞳で翼を見つめていた。
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