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35_練習


 翼と心桜は、今日も日課として勉強を進めていた。


 模擬戦は流れて、それ以降も何か言いたげな心桜を見てきたが、まずはやるべきことをやろうということで、彼女も素直に頷いてくれた。


 今朝はお互い譲らず激しい口論になったものの、彼女は怒りを引きずることなく割り切ってくれたため、翼としてはありがたかった。


 模擬戦関連のいざこざは保留にしたまま、翌日である日曜の朝を迎える。


 カーテンを開けて外の様子を眺めながら、翼はぽつりと呟いた。


「……雨になっちゃったな」

「もうすぐ梅雨の時期ですから、仕方ないですね」


 前に、『休日は2人でどこかへ出かけよう』という話があったので、天気を気にしていたのだが、残念ながら外に出られる状況ではなくなってしまった。


 6月もそれなりに日が過ぎて、本格的な梅雨入りが近づいている。


 そうなるとしばらく外出できないということで、心桜が困ったように口を開く。


「でも、折角なので何かしたいですね」

「うん……」


 彼女の提案に頷いては見せたものの、翼は自室を見渡して、じわじわと後悔が込み上げてきた。


 翼の家にあるのはダイニングテーブルと椅子、あとは鍛錬関連の器具と道具ばかり。

 勉強か筋トレくらいしか選択肢がないこの空間に、今さらながら頭を抱えたくなる。


 そんな自己嫌悪に沈んでいると、心桜がふっと微笑みながら声をかけてきた。


「このおうちも素敵ですけど、ここにいるとつい勉強したくなっちゃいますね」

「頭がもう休まる場所だと思ってないからね……自宅なのにさ」


 はは……と、少し自嘲気味に笑った翼に、心桜がちらりと視線を向ける。


 何か言いたげに口を開きかけて、また閉じて。

 しばらくの間を置いて、ようやくためらいがちに切り出した。


「そ、その。もし翼くんが良ければなんですけど……」


 そう言って、指先をもじもじといじりながら、上目遣いでそっと見上げてくる。


「わ、わたしのおうちに来るのはどうでしょうか?」

「えっ!?」

「何か新しい事をするなら……そ、そういうのもいいかなって」


 心桜は頬をほんのり染めて、どこか落ち着かない様子で視線を泳がせる。


 その姿があまりに可愛らしくて、思わず見惚れそうになったが、まずは冷静になれと自分に言い聞かせる。


 そもそも、心桜の家に入るというのは、翼がこれまで意識的に避けてきた選択肢だった。


 そういった引け目もあり、まず真っ先に頭をよぎった心配の意を彼女に告げた。


「こ、心桜さんが嫌じゃなければ、おれはいいけど……」

「嫌なわけがないですよ。翼くんなら」


 そう言って、にこっと笑う心桜。


 そのまっさらで、澄んだ笑顔を正面から浴びてしまい――翼は思わず目を逸らした。


 胸の奥がくすぐったくなって思わず回避行動をとってしまったが、そんな翼を見てか心桜が問いを重ねる。


「ダメでしょうか?」

「い、いや……そういうことなら、ぜひ」


 しどろもどろながら頷いてみせると、安堵したようにほっと息をつく心桜。


 「なら早速行きましょう」と心桜が荷物をまとめ始めたので、翼も一応勉強道具やらなにやら持ち物を手にする。


 そうして家を出れば、心桜の家は真横なので、すぐさまドアを開けて招き入れてくれる。


「では、どうぞ」

「お、お邪魔します」


 初めての女子の家という事で緊張が高まる翼。


 玄関の扉をくぐった瞬間、ふわりと甘くて優しい香りが鼻腔をくすぐった。


 傍らの鍵置き場を見れば、アロマのようなものが置かれていたので、香りの発生源はこれかと納得する。


 ショッピングモールで話していた“好きな香り”が、こうして生活の一部になっているのだと、どこかほっと胸が温まる。


 そうやって足を止めていれば、心桜がリビングへの扉を開けて、先を案内してくれた。


「では、お茶をいれますので、そこのソファに座ってもらえますか?」

「う、うん」


 心桜がキッチンへ向かったのを見送りながら、翼はリビングの中央へと足を運ぶ。


 彼女に促されたそのソファは、L字型の大ぶりなもので、下手をすれば十人は優に座れるサイズだった。


 正面には、これまた大家族用かと思うほどの広々としたローテーブル。

 さらにその向こうには、今まで見たこともないような巨大なテレビが壁を飾っている。


 翼の家の“用途に特化した空間”とは正反対で、ここはまるでモデルルームのように美しく整えられていた。

 広々とした空間にぴたりと馴染む、上質な家具たち。

 これが本来あるべき姿なのだと、思わず納得させられる。


 そっとソファに腰を下ろし、改めてあたりを見渡していると、心桜がトレイにお茶とお菓子を載せて戻ってきた。

 彼女は翼の斜め向かいに座ったので、翼は気負わず感想を口にする。

 

「……さすがは真崎家だね」

「わたしとしては持て余してますけどね。デザイナーさんが選んでくれたので、いいとは思うのですが」

「す、すごいな。いやほんとに」


 翼は思わず感嘆の息を漏らした。


 インテリアコーディネーターが設計したなど、高校生の一人暮らしとしてはかなり異常ではある。


 圧倒されて言葉を失う翼の様子に気づいたのか、心桜は少し恥ずかしそうに微笑んだ。


「そこまでしなくていいと言ったのですが……お父様があれもこれも押し付けてきたので」

「……お父様か」

「……何か?」

「いや、この前”パパ”って言ってたような」

「な・に・か?」

「な、なんでもない……」


 にこにこと微笑みながらも、目だけで圧をかけてくる心桜に、翼はすぐさま疑問を飲み込んだ。


 彼女はそのままリモコンを手に取ってテレビの電源を入れ、あからさまに話題をそらしてくる。


 彼女が居眠りをしたあれ以降、この手の話題はずっとはぐらかされており、今のように鉄壁のガードを前にただねじ伏せられる。


 翼としてはあまりにも無警戒過ぎる彼女に対して、少しは男として警戒して欲しい気持ちが芽生えていたので、なんとも悔しい限りだ。


 ちなみに、心桜が翼のベッドを使ってしばらくの間、ベッドから彼女の甘い香りがして頭がおかしくなりそうだったのは、また別の話。





 心桜が用意してくれた飲み物とお菓子を口に運びながら、ぼんやりとテレビを眺めていた。


 L字型の大きなソファは余裕があり、自然と心桜との間に距離ができている。

 そのおかげか、互いに変に意識せず、リラックスした空気が流れていた。


 こんなふうに、ただ意味もなく時間を過ごすのは、これまでになかったことだ。


 それが新鮮でもあり、穏やかに流れる時間が心地よくもあった。


『6月といえば~ジューンブライド! 告白したいそんなあなたに、プロポーズ特集をお届けします!』


 そんな時に、微妙にあれな話題がテレビから流れる。

 少し気まずさを覚えながらも、なるべく心桜の方を見ないように、視線を固定した。


 ここで過剰に反応してしまえば、それこそお互いに変な空気になりかねない。

 できるだけ無関心を装い、テレビから流れる色恋沙汰に集中することで、心桜のことを意識しすぎないよう努める。


 結婚、プロポーズ、告白――どれも翼にとってはまだ遠い、背伸びした世界の話だ。


 そんな内容にぼんやりと耳を傾けているうちに、突如として「あっ」と、脳裏にひとつの考えが閃いた。


「心桜さん」

「は、はい!」


 善は急げとばかりに心桜に声をかければ、やけに弾んだ声で応える彼女。


 動揺を露にしたその声色に、逆にこちらがたじろぎそうになる。


 この話題に対して居心地の悪さを覚えていたのは翼だけではなかった。


 ただ、翼とは違って、心桜はそうも悠長に言ってられない事情がある。


 彼女の様子を受けて、やはりやった方が良いかと思い、翼は覚悟を決める。


「練習、してみたいことがあって。いいかな?」

「……練習ですか?」


 翼の提案に、心桜がきょとんとした表情を浮かべる。


 それに小さく頷きながら、申し訳なさを声ににじませて、視線を逸らしつつ続けた。


「うん。不意打ちの方が効果はあるんだろうけど……さすがに不誠実だと思うから。ごめんひよっちゃって」

「なんのことかわからないですけど……翼くんがしたいことなら、どうぞ」


 曖昧な説明にもかかわらず、心桜は少し首をかしげながらも、穏やかに微笑む。


 その言葉に背中を押されるように、翼はひとつ深呼吸をした。


 主の了承を得て、やっと心を定める。


「じゃあ……おれに遠慮せずさっぱり断ってくれ」

「? 断る、ですか。わかりました」


 心桜は首をかしげたまま、まだ状況が読めていない様子だ。


 その素直な返事に、翼は頷いて、ぐっと表情を引き締めた。


「心桜さん」

「は、はい」


 呼びかけられた瞬間、心桜の背筋がぴんと伸びる。


 翼はまっすぐに彼女を見つめ――そして、できうる限りの真心を込めて口を開いた。



「あなたのことが好きです」



 その言葉は、静かでいて、どこまでも芯が通っていた。


 一切の冗談もなければ、演技のような芝居じみたところもない。


 ただただ翼が、心桜という人に向けた、本気の好意だけがそこにあった。


「え……」


 それを受けて心桜は、まるで夢でも見ているかのように呆けていた。


 自分に向けられたその言葉の意味が、まだ完全には理解できていないようだった。


 けれど翼は、動じることなく――いや、動じながらもなお、まっすぐに彼女を見つめ続ける。

 視線を逸らさず、表情も崩さず、ただ真っ直ぐに。


 これは練習だが、嘘じゃない。

 主人を想う気持ちは本物だ。

 だからこそできる限り本気で、告白を再現してみた。


 そんな翼の様子に、やがて心桜の頬がじわじわと紅潮しはじめた。


 唇が小さく震えて、目がきょろきょろと揺れる。


「……あの、これは……その……」


 いつもの彼女らしからぬ、声にならないか細く掠れた音が口から漏れる。


 主を困らせているのは分かっているが、ここまで来たら翼も退けない。

 答えを引き出すために真っ直ぐ彼女を見つめる。


 それでようやく、翼の“意図”に気づいたのか、心桜は小さく息を呑みながら、ぎこちなく口を開いた。


「わ、わたしは……恋とか……そういうのがまだわからなくて……それに、主と護衛ですし……」


 言葉を絞り出すように、心桜が苦しげに口を動かす。


 それは戸惑いであり、誠意であり、精一杯の応答だった。


 翼はただ静かに、彼女の言葉を最後まで待った。


 途中、何度も視線が揺れて、唇が何かを言いかけて止まる。


 それでも心桜は、自分なりの答えを返そうと必死だった。


 そして小さく息を詰まらせるようにして、そっと頭を下げた。


「ごめんなさい……考えさせてください」


 そういって彼女は、ついに最後までたどり着いた。


 迷いが残る様子ではあるものの、ひとつの答えには辿りつけたといえるだろう。


 その誠実な態度を受けて、翼はふっと笑みを浮かべる。


「……心桜さんはやっぱり優しいな」

「……え?」

「でも、好きでもない相手なら、もっとはっきり断ってくれた方がいいよ。これからどれだけの数、告白されるかわからないんだから。保留にしてたら大変だし」

「…………」

「もう1回やろう。こっちに遠慮することないからさ。バッサリ切り捨てるまで慣れた方がいい」


 そう言って、よし次だと気合を入れなおす翼。


 もう一度心を込めて告白しようと、口を開こうとした。


 ――その瞬間、心桜の声が静かに、しかし凛と響き渡る。


「翼くん」

「どうかし……はい」


 名前を呼ばれ、心桜の顔を見た瞬間、翼は思わず姿勢を正す。


 そこにはいつもの柔らかな微笑みはなく――真っ直ぐに射抜くような鋭さを宿した眼差しだけがあった。


 その気配に、「これは完全に怒っているな」と察して、翼は次に何を言われるのかと身構える。


「1個1個丁寧に聞いていくから。嘘つかないで答えて」

「はい、承知しました」

「……敬語、やめてってゆった」


 ここ最近はなかった敬語の指摘に、「ごめんなさい」と深々頭を下げて謝罪する翼。


 その様子を見てか、少しだけ肩の力を抜いた心桜は、大きく息を吐いてから問いを続けた。


「……なんでこんなことをしたんですか」

「こ、告白を断る練習になると思って。1人断っておけば、次やりやすいだろうから」

「……だとしても軽い気持ちで、人に好きなんていう事ではないでしょう」

「軽い気持ちのつもりはないよ」

「え」

「心桜さんを好きじゃない人ってほとんどいないと思う。おれだって心から尊敬してる。だからおれとしてはできる限り真剣に言ったつもりだ。じゃないと練習にならないし」


 それは決して嘘じゃなかった。

 彼女に抱いているのは、深い尊敬と敬愛。

 だからこそ、本気で想いを告げるような迫力が出せたのだと思う。


 もちろん、そこに恋愛感情はない。

 そもそも護衛の身分でそんな感情をもつことなど烏滸がましいので、はじめからお互いに有り得ないと思っているからこそ、告白を口にできたのだ。


 ただひたすらに彼女の役に立てればと思ったからこそ、翼に迷いはなかった。


 しかしそんな翼の考えに対して、心桜が納得いかないように言い返してくる。


「……でも、あなたは断られて当然だと思って告白したんですよね」

「もちろん」

「軽い気持でないなら、わたしに断られてなんとも思わないのですか」

「おれはただの護衛だから。そういうのはあってはならない」

「…………」


 淀みなく答える翼を前に、今度はむすっとした表情を浮かべた心桜。


 そうやって不満を露にしながらも、なおも問いを続けた。


「もしわたしが……あなたのことを、す、好きだったらって……考えなかったのですか?」

「? それはないでしょ。おれと心桜さんじゃ差がありすぎて釣り合ってないし。おれを好きになるなんてありえないよ」

「……………………」


 心桜の頬が、ふくれっ面でさらに限界を迎える。


 眉を寄せて、むっすぅ〜とこれでもかと不満をあらわしている。


 ただ何を言っても翼には響かないと知っているのか、諦め混じりの小さな溜息とともに、彼女は重たい口を開いた。


「……じゃあ次です。さっきのは嘘、ということですよね」

「いや、嘘は言ってない。付き合ってほしいとまではいわなかったから」

「うっ。で、でも本気でそういう関係を望んだわけではないでしょう」

「まぁ心桜さんが言うように、主と護衛だからね。だからこそおれが相手なら、1番断りやすいかなと思って」


 形式だけの告白、断られる前提の相手。


 お互いの立場を踏まえれば、絶対的な建前があるため練習するには最適な存在だと、翼はそう思っていた。


 しかし思うところがあるのか、心桜はぽつりと、呟くように言葉を落とした。


「……好きっていうのはどうなんですか」

「それは嘘じゃないよ。誰よりも好ましい人柄だと思う」

「えっ!?」

「こんなにも理想的な主人に仕えられて、おれは幸せだよ」


 そう言って、全幅の信頼を込めて柔らかく微笑む翼。


 その笑みは優しいが、どこまでも“護衛として”の言葉でしかなかった。


「………………………………」


 そんな彼の返答に、心桜の表情はくるくると変わっていく。


 驚き、照れ、呆れ、落胆、少し怒って、また照れて――百面相のように、感情が顔にあらわれては消えていった。


「じゃあ次!」

「う、うん」


 考えても仕方がないと思ったのか、思考を捨てて次の問いを投げかける心桜。


 ためらいがちに、しかし勢いのまま、きっと強い眼差しを翼に向けた。


「もしわたしが……告白を受け入れていたら、どうしたんですか」

「……え」


 その問いには、さすがの翼もすぐに返答できなかった。


 考えもしなかったといったように言葉に詰まり、ただ困惑して眉をひそめる。


(受け入れる? そんなこと、あり得ないだろう)


 思考は断定しても、それを彼女に言ったところで回答になっていない。


 そんな沈黙のなか、心桜は一つ深呼吸をして、背筋を伸ばす。


 そして、静かにその唇を開いた。


「これはあくまで練習なんですよね?」

「も、もちろん」


 そう答える翼を、心桜は真っ直ぐに見つめた。


 その瞳は冗談や戯れではなく、先ほどの翼と同じように、どこまでも真剣だった。


「なら……翼くん」


 心桜は一呼吸置いて、言葉を紡ぎはじめる。


 決意に満ちた表情を浮かべながら、ひとつずつ思いを形にする。


「わたしも、あなたを……」


 しかしその語尾が、言葉の重みとともに、少しずつ細くなっていく。


 芯の伴っていない声が掠れ、震え、そして――途切れた。


「……っ」


 俯いて押し黙ってしまった心桜に、翼はただ戸惑い、何もできずに様子を見守る事しかできない。


 そうして少しの沈黙が流れたのち、心桜は俯いたまま謝罪をこぼす。


「ごめんなさい、なんでもないです……」

「う、うん」


 表情を翼に見せないまま、そう呟く心桜。


 何かを隠すかのようなその仕草に、ありありと彼女の迷いがにじんでいた。


「……なんで、言えないんだろう」


 そんな小さな呟きが、翼の耳に残り続けた。


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