31_寝坊
模擬戦のある休日を経て、月曜日の朝を迎える。
翼はいつもの時間に、いつものように心桜の家の前で、主人が出てくるのを静かに待っていた。
そろそろ登校の時間になる。
普段通りであれば、彼女がそっと扉を開けて現れるはず。
しかしその朝は翼の思うようにはならなかった。
パタパタと慌ただしい足音が微かに聞こえたかと思うと、勢いよく玄関のドアが開かれる。
「おはよう、こはっ!?」
挨拶の途中で、言葉が喉につかえる。
目の前に現れた彼女は――まさかの、パジャマ姿だった。
少し汗ばむような気温のせいか、半袖に半ズボンというラフな格好。
普段はまず見かけない、あらわになった白くまぶしい素肌に、思わず視線が泳ぐ。
「ごめんなさい翼くん! ね、寝坊してしまって、ちょっと待ってもらえますか?」
「そそそそれは全然良いけど!」
きっと今ごろ、心桜は申し訳なさそうな顔をしているに違いない。
しかし翼としては、そんな彼女を見る余裕すらなかった。
顔が熱を帯びて、うるさく鳴る心臓が落ち着かず、気持ちがざわついて仕方がない。
一刻も早くこの場を切り上げようと、翼は心桜に告げる。
「じゃ、じゃあ20分後とかにまた来てもらえる?」
「え、それだと間に合わないんじゃ」
「だ、大丈夫。こっちで車用意しとくから」
緊急事態ということで、翼は迷いなく足に車を使うことを選ぶ。
今から20分もあれば、小宮家の人間を呼ぶなり、タクシーを手配するなりして、十分に間に合うはずだ。
そう考えて心桜に提案するも、彼女は慌てたような声を上げる。
「そ、それは申し訳ないと言いますか!」
「でも今から準備するなら時間ないよ? ほら、たまには大丈夫だって」
心桜が登校に車を使うのを避けているのには理由がある。
本来、彼女の身分であればそれぐらいは普通にやって良いはずなのだが、頑なに首を縦に振らなかった。
そもそもこの一人暮らしは独り立ちしたいという心桜の意志が根底にある。
加えて車での登校だと目立ちすぎるのも、彼女としては見過ごせなかったらしい。
また護衛の観点だと、車で登下校すれば、下手すれば襲撃犯が車をぶつけてくる可能性がある。
そうなれば心桜が怪我するか、運転手が巻き込まれるか、最悪翼が戦う前に潰されてしまう。
といった感じで、いろいろな事情から車を使うことを避けていた。
「……わかりました。ありがとうございます」
ただ今はもう、時間がないので甘えれる分には甘えた方がいい。
そう翼が暗に伝えれば、心桜は素直に頷き、再び家の中へと戻っていった。
休日明けなら、寝坊するのも無理はない。
しっかり者の心桜だって、たまにはこういう朝もあるだろう。
そんなことを思いながら、翼も一度自宅に引き返し、車を手配するためにスマホへ目を落とした。
そうして待つことしばらくが経ち、再び心桜の家の前で立つ翼。
今度は時間ぴったりに支度を終えた彼女が玄関から現れ、翼はほっとしながら迎える。
しかし彼女の表情には、何か納得がいかないような色が浮かんでいた。
「どうかした?」
「いえ、ちょっと髪がうまくまとまらなくて」
「そうなんだ」
心桜の言葉を受けて、翼はそっと彼女の髪に目をやる。
確かにところどころ寝癖の名残があり、ほんの少し跳ねている箇所も見える。
けれどそれすら、細く繊細な白茶色の髪がふわふわと揺れて、どこか柔らかく愛らしい印象を与えていた。
「これはこれで可愛いよ。もちろんいつも可愛いけどさ」
女子なので身だしなみを気にするのも仕方ないが、翼としては気にすることないと軽い気持ちでフォローする。
心桜が可愛いなど周知の事実であり、さして気負う事もなくさらっと告げた。
ただ、当の心桜からはいつまでたっても反応がない。
さすがに様子が気になり顔を向けると、彼女は唇をわなわなと震わせ、目を見開いたまま硬直していた。
まったくもって落ち着きがなく、いつにも増して動揺しているように見える。
「……心桜さん?」
不思議に思って声をかけると、彼女はその場から逃げるように、翼へ返事もせずぱたぱたとエレベーターへと駆け出していった。
「ちょ、ちょっと……走ることないのに」
心桜の様子に思わずそう呟きながら、彼女の髪を結ぶリボンが、ふわりと揺れるのを目で追った。
そんなこんなで車に乗り、学校に到着する。
車内でも、昇降口でも、教室に至るまでも、心桜は終始そわそわと落ち着かず、大慌ての様子だった。
そんな挙動不審のまま教室に入ってきたものだから、朝から様子のおかしい心桜が気になったのか、何事かと女子たちが彼女のまわりに集まり始める。
「おはよう真崎さん」
「お、おはようございます」
「あれ、何かあったの?」
「い、いえ……特には」
頬に残る朱がまだ引かないまま、心桜は小さく首を振る。
しかしその様子は、明らかに何かを隠そうとしているようにしか見えなかった。
案の定ごまかしきれるはずもなく、1人の女子が、ちらりと翼に目を向けながら口を開く。
「そうなんだ。小宮くんとなんかありそうな感じがしたけど」
「そんなにわかりやすかったですか……」
当たり前だが寸分違わず図星を突かれ、心桜は視線を落とす。
彼女にしては珍しく弱弱しい姿を見てか、聞きたくて仕方がなかったという様子の女子が、一歩踏み込んできた。
「というか真崎さんと小宮くん、いつの間にか名前呼びになってるよね」
「そ、そうですね」
「あーそれ、気になってたんだよね~」
その一言に、周囲の女子たちもすかさず便乗する。
翼と心桜とが名前呼びに変わったのは、少し前の模擬戦のあとだ。
あれからしばらく経ったが、野暮ではあるので触れるに触れられず、女子たちは聞きたくてうずうずしていたのだと思われる。
目を輝かせる女子たちの中から、一人が意味深に問いかけてくる。
「もしかして真崎さん……小宮くんと付き合ったりしてる?」
「つ、付き合ってなど! そういう関係ではありません!」
心桜は慌てて首を振り、なんなら手も振って必死に否定する。
あわあわと忙しなく、視線も右往左往して定まらない。
その様子を見ていた女子のひとりが、ふと不思議そうに口を開いた。
「なんか、あれだね。入学すぐの噂の時とは全然違うね」
「え、そんなに違いますか?」
「うん。あの時はすごく嫌そうだったけど、今はそうじゃない感じがする」
彼女が言っているのは、入学初日からささやかれていた、翼との噂のことだろう。
当時は翼が護衛ということが広まっておらず、いきなり男女で登校してきたため何事かと大騒ぎになった。
その直後、噂を打ち消すかのように『ただの護衛』と大々的に通達された。
さらにはそれ以降の心桜が、この話題を持ち出されるたびに露骨に迷惑そうな反応を見せていた。
翼に対して無表情且つ距離を置いていたあの頃と比べれば、今の心桜の態度は大きく変わっている。
だからこそ彼女は静かながら、翼を蔑ろにしたいわけじゃなかったと弁明を口にした。
「嫌というか……あの時は広まる前に態度で示したかったので、必死だったといいますか」
「じゃあ小宮くんが相手っていうは、別に嫌じゃないの?」
「うっ」
いまだにいつものような姫君らしさを取り戻せないままの心桜に、女子たちは遠慮なく攻め立てる。
他人の恋バナは女子の大好物であり、とことんグイグイと質問の波が止まらない。
その勢いに押され、心桜はうつむきながら、小さな声でぽつりと呟いた。
「……恋とか、そういうのは、よくわからないですし……」
いっぱいいっぱいの状態で、辛うじて絞りだした答えは、そんな曖昧なひと言だった。
しかしそれは彼女たちにとって、満足のいかない答えだったのだろう。
今がチャンスとばかりに、さらに一人が鋭く踏み込んでくる。
「じゃあ、小宮くん個人はどう思うの?」
何気なしにそう問われれば、一変して心桜は顔を上げ、彼女を真っ直ぐ見る。
そしてふっと柔らかな笑みを浮かべ、慈しむように言葉を紡ぐ。
「翼くんは素晴らしい方ですよ。ちょっと不器用で誤解されがちですけど、とても頼りになるひとです」
「……へぇ〜、真崎さんにそこまで言わせるんだ、小宮くんって」
感心したような声とともに、女子たちの視線が一斉に翼へと向けられる。
まるで値踏みするように、じろじろと容赦のない視線を浴びせており、心桜は困惑するしかない。
――と、そんな空気を切り裂くように、明るい声が響いた。
「おっは〜! なになに、何の話?」
「あ、アリアちゃんおはよう〜」
どこかへ席を外していたアリアが、ひと目でこちらの雰囲気を察し、当然のように会話の輪に加わってくる。
最上位カーストである姫君についで、双花もトップカーストなため、女子たちはアリアを受け入れ会話を続ける。
「真崎さんと小宮くんの関係が気になってさ。いつの間にか名前呼びに変わってたし」
「ああ、確かに気になるよね〜ワタシも最初びっくりしたよ!」
「ねー」と女子たちは口々にうなずき合い、軽いノリで盛り上がる。
その中心であるはずの、当事者である心桜はすっかり縮こまっていた。
続いて誰かが口を開こうとしたその瞬間、先手を打つようにアリアがさらりと断言する。
「まぁでも小宮くんは仕事バカだからさ。そういう浮ついた話は一切興味ないと思うよ」
「そうなんだ?」
「そうそう。心桜ちゃんの告白騒動を丸く収めるためにとかいって、恋愛本を生真面目に読んでたぐらいだし」
「えっ、そんなことがあったんですか?」
ショッピングモールであった翼とアリアの一幕を聞いて、初耳だったのか心桜が目を丸くする。
あまりにも色気のない翼の話に、「か、変わってるね」と他の女子は引き気味だった。
だが、アリアが心桜の知らない話を知っていることに引っかかったのか、今度は女子たちの視線がアリアへと向かう。
「じゃあ、アリアちゃんは小宮くんをどう思ってるの?」
「ワタシ?」
「うん。鷹野さんと一緒に4人でいるのを結構見かけるから」
そう言われて、アリアはほんの少しだけ黙り込んだ。
そのまま、腕を組んでふむ……と考え込むポーズをとった上で、困ったように返事する。
「まぁ、手のかかる弟みたいなもんかなぁ」
「へぇ~弟なんだ」
「うん。真っ直ぐすぎてぶっ飛んだこととか平然とするからね。もう怖くて怖くて……」
アリアはそう言って、肩をすくめながら怯えたような表情を浮かべた。
その仕草ははた目から見ればわざとらしく思えるが、翼に関していえば冗談になってなかったらしい。
アリアの話を受けて思い当たる節があるのか、女子たちの顔色がわずかに曇った。
「あー、怖いって話はよく聞くよね」
「一時期変な噂があったし……三年生とか、特に怖がってるって聞いたことあるよ」
「え、なんで? 三年に怖がられるって、なんかヤバくない?」
そのやりとりに、心桜は眉をひそめる。
不満の表情を浮かべながら、翼の名誉のために言い返そうとした。
しかし隣にいたアリアが、そっと心桜の肩に触れる。
その何気ない接触に、心桜は驚いてとっさに言葉を飲み込んだ。
そうしてアリアの顔を見れば、平然とした表情を浮かべており、心桜はどうすべきか迷う。
おそらく、アリアと女子たちとでは「怖い」の意味するところが食い違っている。
けれどそれもアリアの狙いなのだろう。
わざと誤解をそのままにして、心桜がフォローに回るのすら制したアリアは、警告するように彼女たちへ告げた。
「そうだよ〜。だからワタシでも怖くて深くは聞いてないからね。……こういうの、あんまり詮索しない方が身のためかも」
「そ、そうなんだ」
釘を刺すアリアの表情は、どこか普段の快活さとは違って見えた。
その雰囲気に呑まれたのか、女子たちは口をつぐみ、「そ、そろそろ戻ろっか」と気まずそうに席へと散っていった。
「ふぅ。女子って、本当油断ならないわぁ……」
ひと息ついて、アリアは肩をすくめながら小さくため息をこぼす。
そして心桜の肩から手を下ろし、いつもの快活な調子を取り戻した。
「心桜ちゃんとしては困ったものだよね~。小宮くんの筋肉に興味津々な女子もそこそこいるみたいだしさ」
「? まぁ、実際すごいですからね。見れば見るほど惚れ惚れすると言いますか」
「な、何があったの心桜ちゃん!?」
アリアが目を見開いて驚愕の声を上げると、心桜は大慌てで手を振る。
「い、いえ! 模擬戦の手当てをするようになったので、変な事は何もないですよ!?」
必死に事情を説明する心桜に、アリアはじっと意味ありげな視線を向ける。
その視線が気まずかったのか、心桜はばつが悪そうに目を逸らした。
「だとしても……まぁ、いいか。もしかして心桜ちゃんって筋肉フェチなの?」
「そういうわけでは……あまりにも大きい人とかはむしろ怖いですし」
「でも小宮くんのは触ったり舐めたりするんだ」
「舐めてませんがっ!?」
「……触ってるのは否定しないんだねぇ~」
ニヤニヤと笑みを浮かべるアリアに、心桜はたまらず顔を赤らめる。
まるで罠にかかったかのような気分になり、思わず話題を強引に切り替えた。
「そ、そんなことよりも! どうして彼女たちの誤解を解かなかったのですか?」
「ああ、それ? 解くほうが面倒くさくなると思ったからだよ」
「面倒?」
「うん。まぁ、せいぜい時間稼ぎにしかならないけどね」
そう言ってアリアが困ったものだと嘆く。
そして少しだけ真面目な顔になって、心桜に忠告した。
「心桜ちゃんも変に小宮くんを褒めないようにしてよ。ただでさえ綻びて来てるんだから」
「それはできない相談です。素敵なひとを素敵と言って何が悪いのですか」
「かぁ~この子もこの子でアレなんだよなぁ~!」
そういってアリアは頭を抱える。
そのどこか非難されるような声色に、内容はわからずとも心桜はむっと口をとがらせた。
ただ、そんな心桜の様子を気にすることもなく、アリアは一人で大きくため息をつく。
「……ほんと、こういうのは焦っちゃダメなんだよね。分かっててもじれったいなぁ」
「じれったい?」
「こっちの話〜」
あっさりとはぐらかすアリアに、心桜はますます首を傾げるしかなかった。
火水木は休みます!また金曜日よろしくお願いいたします!
モチベになるので、もしよかったら評価いただけますと幸いです!m(__)m




