29_衣替え
「おはようございます」
「おはよう……っ!?」
何気ない、いつも通りのはずの朝の挨拶。
しかしたったひとつ、決定的に変わったことがあり、翼の心が波打った。
「な、夏服に変えたんだ」
「はい。もう衣替えの時期ですからね」
心桜はそう答えながら、自分の服にそっと目を落とす。
6月に差しかかるころといえば、確かに汗ばむような陽気が近づいてくる時期だ。
それに合わせて、これまでボレロ姿だった女子の制服も、夏服へと切り替わる。
男子はシャツのみだが、女子は夏服を半袖のセーラーかシャツにリボンといった感じで選ぶことができる。
そして心桜が選んだ白地の半袖セーラーは、淡いグレーのスカートと調和しており、その清楚な装いは彼女の持つ純真さをより一層引き立てている。
その姿をひと目見た翼が、思わず息を呑むほどだった。
言葉を発することができず、黙って見つめている翼の視線が気になったのか、心桜が不安そうに口を開いた。
「何か変でしょうか?」
「……いや、とても似合ってる。綺麗だよ」
「あ、ありがとうございます……」
考え込む余裕もなく、思うままに感想を口にした翼。
そんな翼の言葉を受けて、心桜はびくりと小さく肩を震わせた。
さらにはこちらと視線を合わせる事もなく、スタスタと歩き始めてしまったので、翼はあわててその背を追いかけた。
そうして二人で教室へ入ると、ちょっとした騒ぎになった。
心桜が夏服に衣替えした――それだけでクラスメイトがざわつき始め、さらには隣のクラスや別の学年の生徒まで、わざわざ様子を見に来ている始末だ。
注目を一身に浴びる心桜のまわりには人だかりができ、教室はまるでイベント会場のような熱気に包まれていた。
その喧騒の中心から距離を取るように、翼はそそくさと自分の席へと退避する。
注目を浴び続ける心桜は、少し困ったような表情を浮かべている。
そんな彼女の様子を察して、アリアと凛乃がさりげなく人払いを始める。
その甲斐あって、やがて教室のざわめきは徐々に落ち着きを取り戻していった。
ようやく一息つける空気が戻ったころ、アリアが心桜を労うように声をかけた。
「ふぅ~、大変だったね心桜ちゃん」
「いえ。みなさん悪気はないでしょうから。気遣っていただきありがとうございます」
「いいのいいの~。それにしても夏セーラーにしただけでここまで盛り上がるとはねぇ。さすがは学園の姫君」
「からかわないでくださいよ、もう……おふたりも、とてもお似合いですし。シャツで涼しげなのが羨ましいです」
アリアと凛乃の制服は、白いリボンに薄手のシャツという爽やかな組み合わせ。
軽やかで動きやすそうなその装いは、暑さが増すこの季節にぴったりだ。
「へぇ~羨ましいんだ。心桜ちゃんのセーラーは暑そうだけど、なんで?」
そう聞かれて、心桜はどこか困ったように笑みを浮かべた。
「露出の少ない方にと、親がどうしても譲らなかったんです」
「ああ、そりゃ仕方ないね〜。半袖になっただけであれだけ騒がれたら、薄着になったらどうなることやら……」
アリアは苦笑を浮かべながら、続けて視線を心桜の脚へと落とした。
「これから暑いのにタイツもはいちゃってまぁ。モテる女は辛いねぇ」
「アリアさんこそ、人気者でしょうに」
「モテ方が違うんですよこれが。ワタシや凛乃ちゃんは人を選ぶけど、心桜ちゃんはみんな大好きな超正統派だしね」
「そ、そうですか……?」
平然と言ってのけるアリアに対し、照れたように縮こまる心桜。
装いを変えたのはアリアと凛乃もであり、この二人も十分視線を集めている。
しかしアリアは軽妙に受け流し、凛乃はそもそも寄せ付けないので、心桜のように形こそ騒ぎにはならない。
みんなに愛される姫君と、一目置かれる双花。
在り方が異なり一概に比較はできないが、この三人がそろえば話しかけるのも躊躇われるほどの華やかさを放つのは間違いない。
それを意図的にやって周りを牽制しているアリアは、そんな自分と比べてか、心桜へは素直で打算のない笑みをこぼした。
「しかもフリじゃなくて、ちゃんと中身も完璧だからなぁ~。ワタシもつい頑張っちゃうわけですよ」
「え、何をですか?」
「ん~まぁいろいろだねぇ」
そう言って、アリアは茶化すように笑ってはぐらかす。
なおも疑問が残る表情の心桜に対して、ふと思いついたように、今度はいたずらっぽい目を向けた。
「そういえば、小宮くんはちゃんと感想言ったの?」
「は、はい」
「なんだって?」
「き、綺麗、だと……」
「……なーんか作為的な言い回しを感じるんだよね」
アリアは怪しむように、疑いの眼差しを遠くにいる翼に向ける。
当の翼は我関せずで相変わらず教科書と睨めっこしており、こちらの様子に気づいていない。
実直、素直、誠実という言葉がぴったりな少年が、なぜか女子の心を絶妙にくすぐってくる。
その妙な不釣り合いさが、アリアにはどこか引っかかるようだった。
一方で心桜はといえば、アリアの言葉が意外だったのか、小さく首を傾げていた。
「え、翼くんがですか?」
「そうだけど、そうじゃないかも? なんというか、誰かに教育されてるような……小宮くんに姉妹っていないよね?」
「昔の話を聞いた限り、いないと思いますけど……」
「うーん、怪しい。ワタシのセンサーが反応してるよこれ」
「センサー?」
心桜は目を瞬かせながら、きょとんとした表情を浮かべる。
すると確信めいたように、アリアがくわっ!と目を見開いた。
「……女の影がある気がする」
「え、えぇ!?」
「また下らんことを……」
思わず声を上げた心桜に、見かねた凛乃が横から口をはさむ。
それでもなお、疑念を拭わない様子のアリアに対して、心桜はためらいがちに問いかけた。
「その、昔から評判が良くなかったという話があったと思いますが……」
「そこは疑ってないよ。小宮くんは生粋のぼっちオブぼっちって言い切れる」
「そ、そこまで言わなくても」
あまりにも不名誉な言いように、心桜が思わずフォローを入れる。
しかしアリアの声には、どこか貶すというより恐れを含んだ響きがあり、表情にも陰りが差していた。
「いや、ぼっちじゃなきゃ……今頃爆モテで、女をとっかえひっかえだったはず」
「とっかえひっかえ!?」
「そしてワタシら3人丸ごと美味しくいただかれてたかも」
「3人ごとっ!?」
心桜はあわあわと慌てふためき、大きく声を上げるほど動揺している。
その様子を見てアリアはにやりと口角を釣り上げ、真剣さ滲ませた表情をあっさり崩した。
「とまぁ冗談はさておき」
「じょ、冗談ですか……」
「からかいすぎだお前」
いっぱいいっぱいになっている心桜を見かねて、凛乃がぴしっと一言刺す。
からかわれたと気づき、ぷくっと頬を膨らませる心桜に対し、「ごめんごめん」と軽く笑いながら、アリアは再び翼へと視線を向けた。
「ある意味じゃ、心桜ちゃんより希少なんだよね彼。まあ家柄のことがあるからだろうけどさ」
「……かなり複雑みたいですからね」
「あんな馬鹿真面目がそういてたまるか」
アリアの考えに思う所があるのか、心桜がふと顔を曇らせる。
そのまま空気が沈みかけたところで、凛乃が澄ました様子で口を開いた。
凛乃の言葉を受けて心桜は困ったように笑い、アリアは顎に手を当てて考え込む。
「人に恵まれたのか恵まれなかったのか……どっちともいえるけど、今後は結構ヤバい気がするんだよね」
「何がヤバいんだ?」
「多分昔は本当に誰もいなかったけど、今は心桜ちゃんがいるし。心桜ちゃん、小宮くんが悪く言われたら嫌でしょ?」
アリアのその問いに、心桜は一瞬だけ目を見開いた。
そしてすぐに、表情を引き締める。
静かに、それでいて揺るぎない決意を宿した声で、まっすぐに言い放った。
「何があっても誤解を解きます。絶対に」
覚悟のこもった瞳に、アリアを威圧する迫力すら感じられる。
その気迫を見届けて、アリアは満足げに頷く。
「ほらね。遠くない未来でバレる気がする」
「なるほどな。バレたら……」
「そりゃもう小宮くんの貞操の危機ですよ。男も女も選り取り見取りで大騒ぎだよ」
「だ、男性も……?」
「……お前、話を盛りすぎだ」
いちいち大仰なことを言うアリアに、凛乃はうんざりしたように吐き捨てる。
しかし今回は本気だったのか、むっと反抗するような表情を浮かべて、アリアは心桜を指さした。
「では聞きますが! あのベビーフェイスであま~い言葉とあんま~い笑顔を向けられたことのある――心桜選手!」
「は、はい!」
「そのときの感想を、どうぞ!」
「う、え……あの、その」
そう問われた心桜は、もごもごと口を動かすばかりで、結局なにも言葉にならない。
しまいには、ぷしゅーっと頭から湯気でも出そうな勢いで顔が真っ赤になり、無言のまま俯いてしまった。
すっかり行動不能となった心桜を見て、アリアは続けて凛乃を指さす。
「心桜選手脱落! 続いて凛乃選手の感想はいかに!?」
「……私に振るな」
「う、浮気だああああ!! い、いたたたっごめんごめんってごめんなさい!?」
アリアが叫んだ瞬間、凛乃の無慈悲なアイアンクローが炸裂する。
即座に謝罪した彼女を少しこらしめたのちに解放すれば、アリアは頬をさすりながら、困ったようにぼやいた。
「ちなみにワタシは『うわこいつヤバッ』って思わず天を仰ぎましたよ。ええ」
「お前も絆されてるだろうが……」
「ワタシには凛乃ちゃんがいて良かったよほんとに。ねー凛乃ちゃん?」
「…………」
満面の笑みを向けるアリアに、凛乃はそっぽを向いたまま無言を貫く。
そんな凛乃の反応にもめげず「つれないな〜」と笑いながら、アリアは感慨深そうに続けた。
「ワタシたち、めちゃくちゃガード堅い方なんだよ? 心桜ちゃんは事情があってそもそも近づけないし、凛乃ちゃんは鉄壁。ワタシはちゃんと受け流すタイプなのに……それでこれってもうヤバいでしょ。終わりだよ」
この世の終わりを告げるかのような顔で、アリアは大きくため息をつく。
そのひしひしとした危機感が伝播したのか、凛乃はわずかに眉根を寄せている。
なん悶着かありそうな未来を思い浮かべた2人のどんよりとした空気が漂う中、小さく「でも」と心桜がつぶやいた。
「皆さんが翼くんの魅力に気付くのはいい事だと思います。素敵なひとには報われてほしいですから」
そう言って、心桜はふわりと微笑んだ。
その柔らかな笑みには、ただ純粋に翼の幸せを心から願う、澄んだ想いが込められていた。
「……ほーん。そうだね。うん、本当にそうだ」
心桜の言葉を受けて一変、アリアはどこか含みのある表情を浮かべながら、妙に平坦な声で返事をする。
そのがらりと変わった彼女の様子に、凛乃が引き気味の視線を向けた。
どこか不穏な空気を感じ取ったのか、心桜が心配そうに問いかけた。
「何か問題でもありましたか?」
「んーん。心桜ちゃんの言う通りだよ。小宮くんはいい子だし、いつか報われるといいよね」
そう口にしながらも、アリアは無表情のまま、じっと心桜を見つめていた。
「ただ、いつまでその余裕が続くかな? ってワタシは見守るだけだねぇ」
「?」
言葉の意味が読み取れず、不思議そうに目を丸くする心桜。
そんな彼女の様子に、アリアはどこか演技じみた笑みを浮かべた。




