27_鍛錬と食卓
「では、今日はここまでで……わたしはご飯を作りますね」
およそ1時間が経過し、心桜が教科書を閉じて立ち上がる。
今日からは勉強に加えて、心桜がご飯を作ってくれることになっており、その間翼は鍛錬を進めておこうと思っていた。
そのため、早速料理に取りかかろうとする彼女に、翼は時間を確認する。
「えっと、作るのにどれくらいかかりそう?」
「うーん……大体1時間ぐらいですかね」
「わかった。じゃあ鍛錬してくる。できたら声をかけてもらってもいい?」
「はい」
「ありがとう」
感謝の言葉を忘れずに伝えると、心桜はにこっと笑ってくれた。
そのまま心桜はキッチンへと向かったので、翼は翼で寝室にてトレーニングウェアに着替え、リビングへ戻る。
日々の鍛錬の内容は筋力と体力の向上、そして技の型の確認が主になる。
ただ今日からは、この順番をどうするかというのが問題だ。
心桜が作ってくれる食事を戻してしまうなんてことはあり得ないので、負荷の高い順に鍛錬をこなしていくことにした。
まずは有酸素、次に蹴り技、食事と休憩を挟んでから剣術、最後に筋力トレーニング、という流れが良さそうだ。
一人で暮らすにはあまりにも広すぎるリビングには、トレーニング用のマットが敷き詰められており、トレーニングギアが一通り揃っている。
そのマットの中央に立ち、翼はいつもの調子で淡々とトレーニングに取り組んだ。
まずはトレッドミル、バーピーをメインにしたHIITトレーニング。
これを大体40分ほどやって、心肺機能を高めるために自分を徹底的に追い込む。
高負荷の有酸素運動のため、すぐに息が上がり、全身は一瞬で汗にまみれた。
ただやりすぎても筋肉が分解されるため時間を区切り、よろけそうになる足に気合を込めて次のトレーニングに移る。
続いて人型サンドバッグを使っての蹴り技の打ち込みにとりかかる。
急所を的確に捉えることを意識した反復練習で、ふらつく足でもしっかりと捉えられるよう、集中して一撃一撃を鋭く放つ。
こんな感じでいつも通り鍛錬に打ち込んでいたら、ふと視線を感じたのでそちらを振り返る。
すると、マットの隅で心桜が正座して、じっとこちらを見ていることに気が付いた。
「はぁ、はぁ……ご、ごめん。待たせちゃったな」
「い、いえ! わたしも声をかけなかったですし!」
ぶんぶんと手を振る心桜は顔を赤く染め、なぜか焦っている様子だった。
そんな彼女を不審に思いながらも、負荷の高いトレーニングばかりで汗だくになっている自分の服を見て、心桜へ提案する。
「汗かいたのを流して着替えてくる。待たせちゃうから、先に食べてくれてたら」
「少しくらい待ちますよ?」
「……わかった。すぐ戻る」
心桜にそう返事をもらったので、すぐさまシャワーを浴びる。
そのまま髪も乾かさずに慌てながら別のトレーニングウェアに着替えて、ラフな格好でリビングに戻ると、すでに配膳が終えていた心桜が座って出迎えてくれた。
「では食べましょうか」
「すごい。めちゃくちゃ美味しそう」
席に着くなり、心桜が用意した料理を見て、翼が思わず声をこぼす。
いただきます、と二人で声をそろえたのち、翼はさっそくといった感じで料理を口に運んだ。
「美味しい……!」
「それはよかった」
素直に称賛の言葉を口にすれば、心桜は嬉しそうに微笑んだ。
帰り道、一緒に食材を買いながら献立や栄養バランスについて考えていたことを心桜に伝え、彼女はそれをきちんと踏まえた上で、しっかりと味付けも工夫してくれていた。
普段はパサパサで食べづらかった鶏の胸肉も、心桜の手にかかれば、下処理と味付けによって驚くほどジューシー且つ食欲をそそる一品になっている。
面倒で避けていた野菜も、彩り豊かなサラダとして添えられ、卵料理はただのゆで卵ではなく、ふんわりと仕上げられたオムレツに変わっていた。
どの皿にも、細やかな気配りと手間が込められているのがよくわかる。
翼は普段、手間を惜しんで無味の料理ばかりを口にしていたせいか、心桜の料理を夢中になって箸を進めていた。
そんな風に食べ進めていると、正面から強い視線を感じてふと顔を上げる。
すると心桜がじっと翼の顔を見つめていたので視線がぶつかる。
「何か変だった?」
「い、いえ。髪型が変わると印象も変わるなぁと」
「ああ、乾かしてないから適当にかきあげてて……主人の前だと良くないか。ごめん、直してくる」
「そ、そんなことは! ほんとに気にしないでください!」
またも慌てたように制止する心桜を見て、翼は小さく首をかしげる。
野暮ったい前髪をかきあげ、全体的にしっとり濡れている髪ではあるが、そんなに印象が変わるもんかなと内心疑問に思う。
そうして考え込んでいると心桜の視線が翼の顔から外れ、今度は露出している二の腕あたりへと移っていた。
「あと薄着なので改めてちゃんと見ましたが……やっぱりすごいですね……噂通りです」
「え、なんの噂?」
「翼くんは脱いだらとんでもないって女子の間でも聞きますから」
「ええっ!?」
さらっと告げられた聞き捨てならない一言に、翼は驚愕の声を上げた。
驚きのあまり固まっていると、心桜がその噂を耳にした経緯を説明してくれる。
「多分ですけど、体育祭でかなり注目されるようになってから、男子に見られたのが女子に伝わったんだと思います。言いふらすだけはありますもん」
「は、恥ずかしい……」
思いがけない噂に赤面していると、そんな翼を見てか、心桜は柔らかな笑みを浮かべた。
「キッチンから鍛錬を見てましたが、恥ずかしがることは何一つないですよ。思わず目を奪われるくらい……本当にご立派です」
「ますます恥ずかしいんですがっ!」
「ふふ、そこで恥ずかしがるのが、翼くんらしいですね」
クスクスと笑ってる心桜を前に、翼はなんとも居たたまれない表情になる。
こんな時にすかしながら『俺頑張ってるぜ』アピールでもできればよかったのだろうが、そんな余裕はこれっぽっちもなかった。
完全に無警戒だった自分を思い返し、ますます気恥ずかしさが募る。
鍛錬をずっと見られていたことに身を縮こまらせながらも、ふと頭に浮かんだ疑問を心桜に尋ねてみる。
「と、というか心桜さんは大丈夫?」
「何がですか?」
「その、男の体とか。それに鍛錬も激しくやってたし怖いかなって」
「翼くんなら大丈夫ですよ?」
彼女が箸を動かしながら、さらっと口にしたその言葉に、翼はビシッと硬直した。
あまりにも自然に言われたせいで、不意打ちで頭を殴られたような感覚に陥る。
そんなおかしな翼の様子を見て、心桜は眉根を寄せながら「あのですねぇ」と、どこか心外そうな口ぶりで続けた。
「あなたがわたしのために戦っているのを、何十回も近くで見てきたんですよ? これであなたを怖がっていたら失礼にもほどがあります」
ぷいっと少し不機嫌そうに唇で山を作る心桜に、翼は動揺を隠せない。
気になったのはそこじゃないが、突っ込めば突っ込むほど墓穴を掘りそうなので、少し話題を逸らしてみる。
「じゃ、じゃあ……男の人は平気になってきた?」
「うーん……わからないですね。翼くん以外で2人きりになることないですし」
またしても心臓に悪い言葉を平然と口にする心桜に、翼は思わずうつむいてしまう。
赤くなったであろう顔を見られたくなくて、視線をそっと落とした。
事実男性と2人きりにならないよう、翼もアリアも凛乃も立ち回ってはいる。
だが、こうして改めて当たり前のように言われてしまえば、翼だって思うところがある。
出会った当初とは違って一定の信頼は獲得できたからこそ、こうやって2人きりになることに、なんの抵抗もないのは理解できるし嬉しく思う。
ただ、それはそれとして、攻められっぱなしなのも面白くない。
そんな出来心が芽生え、あまりにも無警戒な心桜に、ほんの少しだけ反抗してみる。
「おれも、いちおう、男なんだけど……」
そうやって俯きながら拗ねてみせると、心桜の口から「か、かわっ!?」と思わずといった跳ねるような声が漏れた。
何事かと顔を上げると、ちょうど彼女と目が合う。
すると心桜は、はっとしたように目をそらし、慌てて口元を手で覆ってしまった。
「心桜さん?」
「いえなんでもっ」
頑なに目を合わせようとしない心桜を前に、翼の疑問は深まるばかりだった。
そんな視線に落ち着かなさを感じたのか、「そ、そういえば」と心桜が思いついたように口を開いた。
「つ、翼くんであれば……触るのも平気、かもしれません」
その一言に、翼は思わず箸を落としそうになる。
動揺に動揺を重ねたような震える声で、心桜に聞き返した。
「な、なんで……?」
「模擬戦の時にちょっと……」
何かを思い出したように、心桜の頬がふわりと赤く染まる。
模擬戦といえば、翼を庇うために心桜が思わず抱きついたことがあったので、それを心桜は思い返していた。
だが当の翼は、その時すでに意識が朦朧としていて、はっきりとした記憶がない。
何があったのか、その先を聞くのが怖くて、変な汗をかきながら黙り込むしかなかった。
「それに、前に手を触ってしまったこともあるので」
「あ、あれは……心配かけたおれが悪いし」
手を刺された時も看病してもらった時も、それとなく心桜は翼の手を握っていた。
もちろん、それは心配してくれたからこその接触であって、嫌なはずがない。
だからこそ気にしないでほしいと、翼は困ったように笑ってみせた。
そんな翼の様子を見ながら、心桜はちらりと彼の二の腕あたりに視線を向け、それから意を決したように口を開く。
「その、翼くんがよければ、なんですけど……わ、わたしの男性慣れのこともあってですね」
「は、はい……?」
手をモジモジと交差させながら、上目づかいで翼を見つめる心桜は、ためらいがちに問いかけた。
「さ、触ってみてもいいですか?」
「な、な、な」
「い、嫌ならいいんです、けど……」
困り果てている翼を前に、心桜がぱっと顔を伏せる。
その瞬間、翼の思考が少しだけ冷静になる。
男性恐怖症に悩んでいる彼女の力になりたいのは、紛れもない本心だ。
自分にできることがあるのなら、どんなことだってしてあげたい。
一歩を踏み出した彼女の勇気を無下にすることはできず、翼は震えるような声音で、そっとうなずく。
「お、お嬢様のお気のめすままに」
「……それ、やめてくださいね」
動揺のあまり、つい敬語が戻ってしまったが、なんとか同意の意思は示せた。
すると心桜はそんな翼へ口調を指摘しながら、緊張が和らげるようにひとつ息を吐く。
「で、では」
そう言って立ち上がると、心桜は翼の背後に回る。
そして、恐る恐る指先で――そっと翼の二の腕に触れた。
「……かたい」
想像していたよりも近くで囁かれたその声に、びくう!と翼の肩がはねた。
「ご、ごめんなさい」
「いえ! おれは! 大丈夫です!」
「……なんで翼くんの方が緊張してるんですか。あと敬語」
いじけたようにつんつんと二の腕をつついてくる心桜。
そんな控えめの接触に、翼はびしっと背筋を伸ばし、口を引き結びながら緊張で変な汗をかく。
そうやってしばらく心桜の好きにさせていると、彼女が何かに納得したような声でぽつりと呟いた。
「……わかりました」
「な、何が?」
「翼くんの体は肉体美なので、単に芸術品のような気持ちになる気がします」
「……つまり、どういうこと?」
「美しいものに対して、余計な感情が起こらない、といいますか」
「……火傷と傷だらけでお世辞にも綺麗とは言えないよ」
「またそういうことを言う……わたしにとってはこの傷も美しいと思うんですっ」
自虐する翼に対して、心桜は少し強い口調で言い返した。
翼が卑下すると何かと口を挟んでくる心桜だが、今回は一言では収まらなかったのか、彼女は一拍置いてから「それに」と言葉を継ぐ。
「あなたの人となりを知っているからこそ、それが形になっているのが美しいと思うんです」
ぽつりと温かみをこめたような心桜の一言に、翼はかぁっと顔が一気に熱くなっていくのを感じた。
「ご、ご飯美味しかったです! 洗い物はおれがします!」
翼はそう叫ぶように言いながら素早く立ち上がり、空いた食器を手早く集めてキッチンへと逃げる。
忙しなく移動しながらも、残された彼女の方からふわりと笑うような気配がした。
火水木は休みます! また金曜日によろしくお願いいたします!




