26_わがまま
「どうぞ」
「お邪魔します」
放課後になり、心桜との勉強会が始まった。
ただ今の心桜は、教科書だけでなくエプロンまで持参しており、昼に話していた通り料理をする気満々といった表情を浮かべている。
下校途中、食材を買いに寄ったときも、彼女は迷いなくずんずんと進んでいた。
翼はそんな心桜の背中を追いながら、苦笑をこぼすばかりだった。
「ではテストの振り返りからやりましょうか」
「うん。よろしく」
いつものダイニングテーブルに2人で座り、早速といった感じで心桜はすっかり手慣れた様子でノートやプリントを並べていく。
翼も彼女の真剣さに倣って淡々と進め、一通り確認が済んだところで、心桜が表情をやわらげた。
「やはりただ時間が足りなかっただけですね。暗記以外は問題なさそうです」
「心桜さんの徒労にならないならよかったよ」
「徒労なんて……むしろ地頭はわたしよりも賢いと思いますよ」
「そ、そこまで言ってもらえるなら、頑張らなきゃな」
ふたりの間に、穏やかな笑みが交わされる。
騒動の前は心桜が有無を言わせぬ態度だったので、空気が張りつめていたりしたものだが、今はすっかり打ち解けて自然な雰囲気で会話が続いている。
そんな空気の中で、心桜がふと顔を上げて問いかけてきた。
「そういえば、翼くんはどうして勉強も頑張るのですか?」
「どうしてって……学生の本分じゃないか?」
「それはそうですけど、護衛のことを考えれば優先度は低いと思うのですが」
「まぁ……確かにね」
心桜の疑問はもっともで、翼はどう返答しようか迷って言い淀む。
釈然としない態度で視線を巡らせる彼を見て、心桜は小さな声でそっと呟いた。
「……言いたくないなら大丈夫ですよ」
「いや、そんな大層なことじゃないから」
翼は照れくさそうにはにかみながら、素直に胸中を明かした。
「前に心桜さんに負けたから悔しかったのもある。主人に恥じない自分でいたいし、頑張らなきゃなって思ったんだ」
「翼くんは十分頑張ってますよ」
真剣そのものといった表情で、心桜にまっすぐ褒められる。
そんな彼女の賛辞に、翼は照れたように視線を逸らしながらも、「ありがとう」と返した上で少し間を置いて言葉を継いだ。
「あと、力をむやみに使って暴力にしないためにも、教養って大事だと思うから」
「……なるほど」
心桜にも知られている通り、翼は昔から何かと問題を起こすことが多かった。
この前の先輩の騒動のようなことも珍しくなく、慣れているからこそ頭を使って、いくつかの仕掛けを用意し罠にはめた。
力は最終手段でしかなく、安易に力に頼ればより不利な状況へ追い込まれることだってある。
だからこそ知力も重要であり、力だけでは誰も救えないと、過去の経験から翼は学習していた。
矜持と教養、これらが勉強に取り組む理由だ。
しかし、ここまで勉学に熱心に打ち込めるのは、もう一つの理由によるところだと翼は思っている。
さらにはそれこそが心桜への申し訳なさを感じる最大の要因でもある。
これは本人に言いにくいことだが、それ故に自分へそこまで構う必要もないと伝えたい所でもあるので、隠さずに正面から言おうと決めた。
「それに鍛錬が行き詰ってて、成長を感じたいって焦ってるのもあるかもしれない」
「そうなんですか?」
「うん。どれだけ体を鍛えても、覚悟が足りないって上司にずっと言われてる……勉強も本分と言い訳して逃げてるだけなのかも」
ただ、その“覚悟”が何なのかを、翼は心桜には言わなかった。
それでも、心桜は何か思い当たる節があるのか、問い返すことなく静かに黙っていた。
翼が抱えている“メンタルの問題”――それは、あの模擬戦のことだ。
肉体的な研鑽のほかに、翼は精神的に強くならないといけない理由がある。
それは人を殺める覚悟がないまま、無意識に“加減”をしてしまうという危うさであり、その迷いはいざという場面で命取りになりかねない。
そのため限界まで追い込みリミッターを外すことを模擬戦の主題として翼はお願いしたが、今なお不安定なままであり、なかなか成果に繋がらないでいた。
こうなってしまった理由はもちろんあるにはあるが、すでに心桜の護衛として実戦が始まっている以上、生温いと評価されるのも致し方ない。
そんな自分の精神的な弱さが、勉学に励む一因なのかもしれないと、自らを情けなく思う。
翼はその情けなさを隠さず、そのままの言葉で心桜に打ち明ける。
「逃げとかちっぽけな矜持で教えてもらうのも悪いよやっぱり」
「わたしは気にしませんが」
「おれが気にするよ」
そう言われて、心桜はむっとした表情で言い返してきた。
「そもそも護衛がなければあなたは1位を取れていたと思います。ならやはりわたしが手伝いたい理由になりえますよ」
「そう、かな」
「はい。なので気にしないでください」
教科書に目を落としながら、心桜は大したことではないような口ぶりで言い切った。
それに対して翼は素直にお礼を言えなかったが、ただ黙って彼女の様子を眺めた。
前の翼なら、こんな手助けさえも断固としてはねのけていたかもしれない。
父親のことを打ち明けて以来、翼の中にも何かが少しずつ変わっている。
ただ、まだわずかな迷いを拭いきれずにいる彼に、心桜がそっと言葉を重ねる。
「あなたはあなたのために人助けをしているのでしょう?」
「……うん」
「わたしもわたしのために頑張りたいなと、あなたを見ていて思ったのです」
心桜はどこか尊敬にも似たまなざしを翼に向けてきた。
その瞳に込められた想いを、翼ははっきりと理解できる。
さっき自分が「主人に恥じないよう」と話したように、誰かを見て自分も頑張ろうと思う気持ちはよくわかっていた。
ただ心桜のまっすぐな瞳が気恥ずかしく、翼は身をよじる。
そんな彼の様子を見て、心桜が問いかけてきた。
「ダメでしょうか?」
「いや、それを止める権利はおれにはないよ。どの口が言うんだって話になるし」
はは……と困ったように笑えば、「確かに」と心桜が上品に口元を抑えながら、クスクスと微笑んだ。
「ならよかった。ということで、できる限りのことはします。これはあなたに限ったことではないので、本当に気にしないでください」
「うん……わかった」
「……その顔はわかってない風ですね」
彼女の鋭い指摘にギクッと肩をゆらす翼。
心桜は、唇をほんの少し尖らせながら、じとっとした目を向けた。
「もう。仕方がない人ですね翼くんは」
「え? ど、どういう?」
「はっきり言いますが、翼くんにはよくないところがあります。それは人の善意を素直に受け取ろうとしないところです。過去に悪意にばかり触れてきたせいかもしれませんが、直すべき所です」
「まぁ、そうかもしれないけど。でも」
「自分は人に尽くすくせに、他人には一切許さないのはずるいです。卑怯です」
「ず、ずるい……?」
前々から話している距離感云々で反論しようと思ったら、なんとも稚い口調で責められて翼は混乱する。
そんな翼に追い打ちをかけるように、心桜はぷんすかと怒っているようなポーズを見せる。
「わたしはあなたにもらってばかりなのは嫌です。どうしても嫌です。とはいえ、やめてほしいと言ってもやめられないでしょう?」
「そりゃあ仕事だし……」
「ならわたしもやめません。これ以降はそのつもりでいてください」
ぴしゃりと言い切る心桜に、翼はバツが悪そうに頬をかいた。
もちろん、自分のことで誰かに悲しい思いをさせたくないという気持ちは、今も変わっていない。
そうやって悲しませないようにと距離をとり、言葉で突き放してきたが、これだと話にならない。
聡明な心桜は理屈で翼を黙らせたかと思えば、子どものようなわがままで感情までも揺さぶってくる。
そうやって心桜に振り回されている翼だが、それもこれも彼女が誰よりも優しく、ずっと自分を気にかけてくれていることを、翼はよく知っている。
だから今回は、迷わず言葉にできた。
「……ありがとう」
「なんのことだかわかりません」
拗ねたように眉を寄せながら、心桜は優しく笑みをこぼした。




