24_日常の再開
「お、おはよう、心桜さん」
「……おはようございます、翼くん」
玄関で心桜を迎え、挨拶を告げる翼に、心桜は柔和な笑みを浮かべる。
ぎこちない口調と少し重い体に違和感を感じつつも、いつも通りの学校生活が始まる月曜日の朝を迎えた。
模擬戦絡みであまりにも無茶をしたため、ベッドから一歩も出られずただひたすら眠っていた週末だったが、なんとか最低限体調を戻せたと言える。
それもこれも、甲斐甲斐しく世話をした心桜のお陰であり感謝の念が尽きない。
そんな感謝の負い目と調子の悪かった思考により、心桜の名前呼びと敬語はずしは今も続いている。
なんなら看病中にも心桜に何度も何度も矯正されたので諦めるほかなかった。
『これぐらいは』と強く望んだ主人の意向を汲んだとはいえ、翼としてはまだ割り切れていない。
お互いの過去を認め合ったうえで、お互い自然に接する。
心桜が望んだのはある種なんてことないゼロスタートではあるが、翼としては慣れない呼び方にどうしても居心地が悪かった。
とはいえ登校中に特別な会話があるわけでもなく、いつも通りの学校生活の中で、流れるように昼休憩を迎える。
「よろしくお願いします」
しかしちょっとした変化として、心桜の希望によって以前のように4人で一緒に昼食をとることになった。
心桜との関係が改善された以上、いつまでも凛乃に風除けをしてもらうわけにもいかないので、翼もそれを快く受け入れる。
ただ思い返せばアリアとは喧嘩別れしたっきりのままだった。
まだわだかまりがありそうな彼女へ翼が声をかけると、晴れない表情でアリアがそっけなく言い返してくる。
「心桜ちゃんと凛乃ちゃんに言われたから受け入れたけど、ワタシはまだ許してないからね」
「はい。肝に銘じておきます」
「……わかっているならよろしい」
それで一旦はおしまいという事で、アリアはあっさりと表情をやわらげた。
結局のところ翼のためを思っての苦言でもあるのはわかっているので、引きずらずにいつもの調子に戻ってくれるのはとてもありがたかった。
では早速と4人で学食へ向かう道中に、翼は凛乃にも声をかける。
「あの、いろいろとありがとうございました」
「……何がだ」
「その、結井さんのこととか」
「大したことじゃない」
翼が言い終える前に、凛乃はそれで話は終わりとでも言いたげに、視線を正面に戻す。
またしてもさらっと話を流されてしまい、『気にするな』と2人が暗に伝えてくれていることに、翼は胸の奥でじんわりと感謝が広がるのを感じた。
そうやって言葉に詰まっていると、横からアリアがうりうりと肘でつっついてくる。
「どうよ。うちの凛乃ちゃんはイケメンでしょ~」
「はい。本当に素晴らしいお方です」
「……やめろお前ら」
「照れてやんの~! ぷークスクスこ、拳はノー!!」
今回は凛乃のラインを超えたのか、彼女が無言で拳を握った瞬間、アリアは本気で逃げ出す。
そんなやりとりに、日常が戻ってきたんだと、翼は思わず目を細めた。
学食で4人揃って食事を始めれば、チラチラと視線が向けられているような気がしてならない。
これもまた馴染んでいくんだろうなと翼が思っていると、ふいに心桜が声をかけてきた。
「そういえば翼くん、放課後の勉強も再開でいいですよね?」
「……翼くん?」
「うん。心桜さんがよかったら」
「心桜……さん?」
「はい、では放課後お願いしますね」
「ありがとう」
「こちらこそ」
2人で何気なく会話を交わしていると、アリアがじぃ〜っと視線を向けてくる。
「……なんか知らないうちにめっちゃ進展してない?」
翼と心桜とを交互に見ながら、アリアは思った違和感をそのまま口にした。
翼としては改めて他人からいわれると気恥ずかしい思いだが、主人きっての願いなので否定もできず、ただ顔を赤くするしかない。
黙ってやり過ごそうとしている翼をよそに、今度は凛乃が心桜に問いかける。
「男はもう大丈夫なのか?」
「その、男性がとか言ってられる状況じゃなかったので」
「まあね。小宮くん大暴れでてんやわんやだったし」
「す、すみません」
「自覚はあるんだねぇ」
すぐに謝る翼を見て、アリアはからかうようにケタケタと笑った。
思い返せば襲撃から始まり、決闘続き、いじめ問題、襲撃、模擬戦の目撃と短期間にいろんなことが起こり過ぎている。
さらにはどれも心桜を心配させたり暴力沙汰だったりと、ろくに落ち着く間もなかったのが申し訳ない限りだ。
そんなやりとりの最中、思うところがあったのか、心桜がむっとした表情を浮かべてアリアに反論する。
「翼くんが動いたのは全部誰かのためです。そんな人を怖がるなんてありえないですよ」
「いや、だからおれはおれのためにやっただけであって」
「翼くんには聞いてないです」
「はいぃ……」
「敬語」
萎縮する翼に対して、すかさず指摘を入れる心桜。
看病中もずっとこんな感じで、数えきれないほど同じことを言わせているので、後ろめたさからビビってしまう。
ある意味男性恐怖症の”だ”の字もないような、そんな新しい2人のやりとりを眺めながら、アリアが納得したように頷いた。
「男性がというより小宮くんが特別ってだけかなぁ」
それに対して心桜も凛乃も特に反対はしなかったが、当の翼はあまりピンとこない。
特別ってどういうことだと翼が首をかしげるも、そんな彼を気にせずアリアが言葉を続けた。
「あと心桜ちゃんはすんごく優しいから、たまに恐怖心とか忘れて突撃するもんね」
「そ、そんなことは」
「いや、実際そうだな」
「え、翼くん?」
「……あなたほど心優しいひとに仕えられて、おれは嬉しいよ」
――こんなにも素晴らしい主人に仕えることができて、本当によかった。
翼はそう心から思いながら、感謝の気持ちを込めて微笑みかけた。
すると一瞬目が合ったあと、心桜はぱっと視線をそらし、両手で顔を覆ってしまう。
翼が彼女の反応に困惑していると、アリアが苦笑まじりに注意を飛ばしてきた。
「おおーい、おふたりさん周りの目を気にして~。ただでさえ目立つんだから」
「……お前の言葉選びはどうにかならんのか」
アリアだけではなく、物静かな凛乃にまで釘を刺されて翼はうろたえる。
しかし、なぜ怒られたのかがよくわからず、どうすればいいのか判断がつかずにオロオロするばかりだった。
翼の表情からまるで伝わっていないのが丸わかりで、2人は容赦なくさらに追い打ちをかけてきた。
「小宮くん、下手すればワタシたちよりも目立ってるのも自覚もってよ」
「例の一件から日が経ってないのに悪目立ちがすぎるぞお前」
「うっ」
そういってアリアと凛乃は周りに視線を巡らせる。
それにつられるように翼も学食内を見渡すと、控えめだった先ほどとは違い、思いのほか多くの視線が自分たちに向けられていることに気づいた。
今更ながら周りから刺さる視線を自覚して、翼は思わず口ごもる。
4人の距離が開いてからの一連の騒動に対して、翼の認識を改めさせるかのように、アリアが滔々と語り始めた。
「そりゃ小宮くんを狙ってた3年が急にいなくなったら怖いでしょ。何したんだってなるし、実際やったことはめちゃヤバだしね。しかも全学年に見られる体育祭とかも無駄に目立ってたし」
「体育祭の翼くん、すごかったですね」
「……そんなに?」
「走れば運動部相手でもごぼう抜きで、騎馬戦だとちぎっては投げの大活躍だったじゃん」
「向かってきたのを相手しただけなんですが……」
「真面目過ぎるわ阿呆。目立ってもろくなことないぞ」
「はい……すみません……」
確かにあの時期は気を張っていて色々と余裕がなかったので、自分を客観視できていなかったと翼は反省する。
言われるがままの翼を見て、「あはは!」と快活に笑うアリアは、ふざけた調子で口を開いた。
「でもみんな一歩引いてくれるようになったから楽でいいね。心桜ちゃんだけじゃなくてワタシたちも小宮くんの女らしいし」
「ゲホッ!?」
聞き捨てならないアリアのひと言に、翼は喉を詰まらせ盛大にむせる。
ひとしきり咳き込んだあと、じとっとした恨めしげな視線をアリアに向けた。
「……それ、もちろん否定してくれましたよね?」
「ん~わかんなーい」
「……鷹野さん」
「外野の言うことなんざ知らん」
我関せずと興味すらなさそうな2人を前に、翼は早々に説得を諦める。
ただ頭を抱えることしかできない翼の横で、心桜が落ち着かない様子でそわそわとしていた。
彼女を見て自分で解決するしかないと考えを巡らせるが、ぼっちの翼にはお手上げ状態だとしか考えられない。
「どうやって誤解を解けばいいんだ……」
「小宮くんじゃ無理だよ。みんな怖がって話聞いてくれないって」
アリアの指摘は、実のところまったくもって正論で、翼自身もクラス内で浮いているという自覚はあった。
万策尽きたとばかりに肩を落とす翼を見たのか、心桜は胸の前で両手をぎゅっと握りしめ、何かを決意したような表情を浮かべる。
「わ、わたしが言ってみます!」
「おっ、なんて言うの?」
「凛乃さん、アリアさんは翼くんの友人です、と」
「それ言っちゃうと可愛いなぁって思われるだけだと思うよ?」
「ど、どうして……」
「なんでだろうね?」
にまぁと楽しそうに笑みを浮かべるアリアに、心桜は気圧されたように俯く。
結局翼と心桜でふたりそろって縮こまっていると、「仕方ないなー」とアリアがわざとらしく手をひらひら振ってみせた。
「別にワタシから言ってもいいよ~小宮くんは友達、だもんね」
「ほ、本当ですか!?」
食い気味に身を乗り出し、翼が目を輝かせながらアリアにぐっと体を向ける。
その反応に、アリアはまるで獲物が釣れたとでも言いたげな笑みを浮かべて、にんまりと口を開いた。
「でもさ~心桜ちゃんにはため口で、友達には敬語のままなんだって思っちゃうよね~」
「あ……」
「ね、凛乃ちゃん?」とさりげなく巻き込むように話をふるアリア。
すると凛乃はそっけない口調で淡々と、黙ったままの翼に言い放った。
「距離を作るためだろう。独りでいるために」
「んね~心桜ちゃんはOKなのにね~」
凛乃に同意するよう頷くアリアを前に、翼は所在なさげに固まることしかできない。
自分でも負い目を感じたままの敬語について指摘されると、翼としてはめっぽう弱く何も言い返すことができない。
2人の刺さる視線から逃げ場を求めるように、翼は心桜に改めて訴えかけた。
「なら、やっぱり敬語に戻して」
「ダメです」
「でも」
「嫌です」
ぴしゃりと言い切る心桜は心桜で、まったく取り付く島もない。
絶望に打ちひしがれている翼を傍目に、アリアが心桜へ言葉をかける。
「へ~。今の心桜ちゃん、小宮くん相手だとこうなるんだ」
アリアは面白いものでも見ているかのように目を細める。
心桜は翼とのやりとりを見られたのが気恥ずかしかったのか、ぷいっと顔をそらしてアリアの意味深な言葉から逃れようとしていた。
そして今なお絶望のオーラをまとって項垂れている翼に向かって、アリアが有無を言わせぬ口調で言い聞かせる。
「はい、じゃあワタシたちにも敬語なしで。友達ってことにしとくね」
「わか、った……」
「うんうん。素直なのは美徳だよ~」
はじめから選択肢などなかった翼は、ただ言われるがままに受け入れるしかない。
まぁ主人に比べればマシかと翼が心桜に視線を向けると、彼女はどこか微妙に表情を曇らせていた。
「心桜さん?」
「な、なんでもないです」
翼が不安になって声をかけると、心桜は慌てたように顔を伏せる。
その反応に翼はただ困惑するほかなかった。




