23_騎士
どれだけ眠っていたのか判断できなかった。
身体が重く、思考もまだ深い霧の中にある。
「づっ!?」
しかしゆっくりと目が覚める前に、焼けるような痛みに襲われ、翼は苦悶の声を上げる。
「寝室……今は何時だ……?」
ベッドの上でよろよろと動き始める翼だが、記憶の輪郭はぼやけたままだった。
それでもわずかに働き始めた思考で、まずはスマホを確認しようと枕元に手を伸ばした。
画面を点けると『模擬戦は終わった』とチャットが表示されているので、それでようやく自分がどれほど眠っていたのかを把握した。
全身の倦怠感であまり自由には動けない辺り、まだ体調不良は続いていると思われる。
しかし意識が朦朧とするほどではないので、これからどうしようかと悩んでいると――寝室の扉から、かすかに軋む音がした。
「……お邪魔します」
「……お嬢様?」
ドアを遠慮がちに閉め、心桜がそっとベッドへと歩み寄ってくる。
その瞳は明らかにこちらを気遣っていた。
「その、体調はどうですか?」
目が合うなり、心配そうな声が飛んでくる。
おそらく、先ほど痛みで声を上げたことで、翼が目を覚ましたことに気づいたのだろう。
彼女に心配をかけてしまったことが申し訳なくて、翼は無理にでも笑みを浮かべてみせた。
「もう大丈夫ですよ」
「嘘をつかないでください」
翼の返答に対して、ぴしゃりと言い切る心桜。
すべてお見通しだと言わんばかりの眼差しが、まっすぐ翼を射抜いていた。
「……すみません」
そんな視線が良心に刺さって耐えきれず、バツが悪そうに謝る翼。
すると心桜は仏頂面のまま、ぴんと人差し指を立てて言い放つ。
「あなたは他人のために傷を隠そうとする人だと理解しましたので」
「格好悪いからですよ」
「ほら、そういうところです」
ビシッと心桜がたたみかけるように言う。
そして拗ねたような表情で、翼のベッドのすぐ傍に腰を下ろした。
「あなたがそういう人なので、看病は続けます。異論は受け付けません」
明後日の方向にそっぽ向きながら、看病を譲らないという姿勢の心桜に、翼は遠慮がちに口を開いた。
「ご迷惑をおかけして」
「気にしないでください。何度も言ってますが、やりたくてやっているので」
翼の謝罪を遮った心桜は、どこか澄ましたような口調でそう返した。
言葉に詰まった翼は、オロオロと視線を泳がせることしかできない。
そうやって言葉を探すような沈黙がしばし流れ、やがて心桜の方から静かに口を開いた。
「少し……お話しても大丈夫ですか?」
このまま喋らないのも気まずいので、翼としてはむしろ救われた気持ちで「はい」と即答する。
体調は悪いが話せないほどじゃない。
ただ気遣われるよりかは幾分か気持ちが楽になった翼だったが、それに相反するように心桜の表情は浮かなかった。
「どうされましたか?」
「いえ、ほとんど毎日一緒にいましたが……わたしはあなたのことを何も知らないな、と」
そう心桜が目を伏せると、翼は少し罪悪感に苛まれる。
彼女が翼について知らないのは、翼が意図的に情報を出さないようにしているからである。
護衛のことを知って下手に情が移らないほうがいいと翼が判断し、ここまで距離を保ってきた。
チラッとこちらを窺う心桜の視線も、それを承知の上で言葉を選んでいるようだった。
今改めて自分のことを聞かれても、はぐらかそうと翼は思っている。
しかし心桜の次の言葉は、その予想を裏切った。
「お父様のこと、聞かせてもらえませんか?」
「……私の父親、ですか?」
「はい」
そう頷く心桜を見て、翼はわずかに困惑する。
翼自身のことではないとはいえ、言うのは憚れる内容だ。
しかし翼の父親といえば、心桜にとっても縁がある人物なので、蔑ろにすることはできない。
ただ、今の自分の価値観の根幹には、父の存在が大きく影を落としている。
微妙なラインのため、話の成り行きがどうなるか予想がつかない。
ひとまず素直に答える前に、疑問に思ったことを心桜に聞いてみる。
「誰から聞いたのですか?」
そういって一呼吸だけ牽制すると、心桜は困ったように答えた。
「あなたの上司の313という方に、なぜこんな無茶をするのか問いただしたら……小宮さんに直接聞くべきだと。その時にお父様のことも少し……」
「なるほど……では模擬戦を見られたのですね」
「……はい」
申し訳なさそうに視線を逸らす心桜。
非道な手段を用いてる模擬戦を心桜に見られたことに、翼も気まずさを覚える。
襲撃犯は心桜を拉致するために手段を問わない犯罪者であるため、実戦形式で行うのであれば非合法的な手段を用いざるを得ない。
ただ本物のナイフを使うわけにもいかないため、代わりに刺し傷に感覚が近い火傷で、ナイフに対する耐性をつけてきた。
さらに模擬戦の目的は他にもある。
翼自身の覚悟を身に付ける儀式でもあり、過去のトラウマを乗り越えるためでもあった。
翼が犯した過去の過ちから、無意識にリミッターのかかってしまっている翼の潜在的な能力を引き出すことを目的とし、さらには『人を殺める覚悟』を経るために模擬戦をしている。
これらはもちろん翼が望んだことだ。
模擬戦の最後には、自分がどうなるのかというのは全て把握しており、他人に見せるものではないと理解している。
だからこそ、最後まで見られてしまったことを知れば、翼としても心桜を見る目が変わる。
あんなものを見せられて、心配するなと言われる方がおかしい。
前のようにただ突き返すことをすれば、また心桜を怒らせてしまうので、ある程度は情報を開示すべきかと翼は考える。
しかしその前にひとつ忠告するように告げた。
「ですが前も話したように、距離を考えた方がいいと思いますが」
これはもう何度も心桜に話したことだ。
翼の考えはいつまでも変わっていない。
そう意思を示す翼を見ながら、心桜は苦しそうに微笑んだ。
「わたしは、悲しいことをちゃんと悲しみたいです。その悲しみも忘れたくない……それだけ大切だったということですから」
「……父さんを、ですか」
「はい。お父様にはとてもお世話になり、励ましてもらいました。それにこの生活をすると決意した決定打とも言えますからね」
「決定打?」
「そうですよ。お父様の話を思い出して、あなたに会ってみたいと思いましたから」
そうやってにこっと表情を崩す心桜を見て、翼は照れたように頬をかく。
ただ、心桜と会った当初の印象は正直微妙だったはずなので、疑問を覚えて投げかけてみる。
「初めてお会いした時はあんまり反応が良くなかったと思うのですが」
「そ、それはすみません。あなたのお父様とは印象がかなり違ったので」
「ああ、確かに」
なるほどと翼が頷く。
精悍な父親と違って翼は幼く見えるため、イメージが合わなかったのだろう。
それだけ頼りにしていたことがうかがい知れる。
存外心桜にとって、翼の父親が忘れられない存在だったんだなと翼は理解する。
すると話の流れをふっと戻すように、心桜が静かに尋ねてきた。
「知りたい、と思ってはダメでしょうか?」
「……いえ、父さんの言葉がまだお嬢様に残っていたなら、知る権利があると思います」
自分のことだとしたらいつものように跳ね除けるところだった。
しかし心桜の心情を理解した翼は、さすがに突き放す気にはなれなかった。
「では」と翼がひと呼吸をついて、自身の父親について心桜に話す。
「父さんも小宮家の後継ぎとして護衛の任務についていたのはご存じかと思います」
「はい。わたしの護衛もしてもらいましたから」
「護衛としても本当に優秀で、跡取りのため将来も期待され、さらに母とも非常に仲が良くとてもいい両親でした」
そう思い出す翼は、仲睦まじかった両親の姿を思い浮かべる。
人を愛するとはああいうことを言うのだろうと、笑い合う父と母の姿は、当時幼い翼の記憶にも残っていた。
しかし、その愛情深さ故に、一瞬で世界は瓦解した。
「ですが、母さんが病気にかかって病死してから……父さんは変わってしまった」
大切なひとの死。
何よりも大事にしていて、絶対に守ると誓った存在に、先立たれてしまった者の痛みは形容しがたい。
心桜が大きく表情を歪めるのを見てしまい、視線を逸らして翼は続ける。
「小宮の仕事に没頭し、私に全てを詰め込み、ある日から海外の任務に明け暮れるようになりました」
翼の成長を実感したある日から、父親はそれまで一切受けなかった仕事をやり始めた。
それだけで、翼は父親の望む未来を察してしまった。
「海外だと銃が当たり前なので、日本とは危険度が比べものになりません……死にに行った、と言えます」
そうやって死地を求めるように、父は亡くなった。
最後すら見届けられず、悲愴を宿した横顔が翼の記憶に焼き付いたまま。
――おれでは父さんを……繋ぎ止められなかった。
翼は心の中でそう零す。
さすがに口には出さなかったが、心桜がそっと翼の手に自らの手を添えて来たあたり、表情に出てしまったのかもしれない。
その柔らかな温もりと過去のトラウマから、やはり心桜を近づけたくないと思いが強くなっていく。
「だから私と同じ気持ちにはなってほしくない。残された人の悲しみはいつまでも癒えることはありません」
母の死を追うように殉死した父は、翼に生きる術を全て教えてくれたが、それでも悲しみはいつまでも癒えることはなかった。
その痛みが何よりも根深く、自らが生きている価値を否定してしまうほどに重い事を、翼自身が誰よりもわかっている。
「それに父さんのように、後悔したまま生きたくない。大切な人を守れず生きることは何よりも辛いと見てきましたから」
死んだように生きていた父親の顔を見てきたからこそ、翼の信念はブレることがない。
同じ過ちを繰り返すなんて、亡き父も望まないだろう。
だからこそ心桜を守る事、誰かに手を差し伸べることを、自らの命を賭してでも貫きたかった。
「なので今後も私はこの生き方を変えたいとは思いません」
逸らしていた視線を戻し、まっすぐに心桜へ告げる。
理由を知った上で、決意は揺るがないと理解してもらいたかった。
「もしお嬢様を守れず生き残ってしまったら……私は父さんと同じになる」
翼の言葉を受けて、心桜が痛みに耐えかねるかのように、くしゃっと表情を崩す。
それでも翼は想いを止められない。
「そうなってしまったら、本当の意味でいままでの私の努力は全て無駄だったとしか思えません」
「…………」
「自分の努力に、人生に、意味はあったのか……死ぬ時に人生の答え合わせをしなければならない時が来ます」
自分の何もかもが無駄だったなんて、誰が聞いても否定したくなるだろう。
心桜が一瞬口を開きかけたが、それでも黙って翼の言葉を待ってくれた。
そうやって口を挟まない心桜をありがたく思いながら、翼は自分に刻むように決意を込める。
「だからいつその時が来てもいいように、やるべきことをやるだけです。全部、自分のためです。……その自己満足に、誰も巻き込みたくない……です」
最後は心桜を突き放す痛みをこらえるかのように、思わず声がこぼれた。
――同じように苦しんでほしくない。
ただ、それだけを願って自然と言葉が紡がれた。
思いのすべてを、心桜にぶつけてしまった気がする。
ここまで話すつもりはなかったが、やはりどうしても感情が抑えきれなかった。
彼女にどう思われたのか……それが今さら怖くなる翼。
そっと心桜の顔を窺うと、彼女はどこか苦しげに、それでも優しく笑っていた。
「……ありがとうございます。話してくれて」
何かを堪えるような声音が翼の胸に響く。
もちろん彼女としては見過ごせないことが山ほどあるだろう。
それでも翼を否定もせず、ただずっと黙って聞いていた。
そのことが何よりもありがたく、礼をこめて頭を下げる。
「長話をすみません」
「いえ、こちらこそ辛い話をさせてしまってごめんなさい」
翼が謝ると、心桜はそっと添えていた手に力を込め、優しく包み込むように握った。
心桜は静かに目を伏せると、確信をにじませた声で問いかけてきた。
「やはりあなたは、わたしの護衛でなくても、生き方は変わらない……ということですね」
「……はい」
それは以前にも翼が口にした覚悟だ。
たとえ心桜の任務から外れたとしても、自分の中の護衛としての在り方は、何ひとつ変わらない。
後悔しないよう全力で身を削り、悲しませないように独りで生きていく。
――父さんと同じにはならない。
身を案じてくれるのはありがたいが、それでも誰かを心の内に受け入れることだけはできなかった。
「であれば、心は決まりました」
そんな覚悟を浮かべた表情の翼を見て、心桜はまっすぐ彼の瞳を見つめて告げる。
「このまま、わたしを守ってくれますか?」
「……願ってもないです」
言いたいことは、きっとたくさんあったはずだ。
心桜はそれらすべてを胸の奥にしまい込んでいるのだろう。
けれど今はただ、この関係が続くことを望んでくれた。
そんな主人の想いを前に、翼は静かに、恭しく頭を垂れる。
すると心桜は、慈愛を込めた声音で翼に感謝を告げる。
「ありがとうございます。わたしの騎士様」
「……え?」
「あら、まだ知らなかったのですか? 『姫君の騎士』があなたの渾名ですよ」
「は、恥ずかしいですね……」
「わたしも恥ずかしいのでお相子ですね」
「お嬢様はぴったりですよ」
「ならあなたもぴったりですっ」
お互いに顔を赤らめながら、それでも楽しそうに笑い合った。
そんな翼の照れた様子を見つめながら、心桜は穏やかな眼差しで語りかける。
「わたしはあなたに守られてばかりで、あなたを守ることも、危険から遠ざけることもできなかった不甲斐ない主人です。いっぱいいっぱい助けてもらったのに、わたしはあなたに何もできていません」
「……そんなことは」
すぐさま否定しようとする翼の唇に、そっと指を添える心桜。
これは、翼に聞かせるものではない。
心桜自身が、自分の中で何かを決意しているようだった。
黙ったままの翼を見つめながら、彼女はふわりと、温もりをたたえた微笑みを浮かべる。
「だから、いつかあなたに――」
その先の言葉を、心桜は言わなかった。
言葉にしなくても伝わるようにと、翼へ柔らかな眼差しを注いでいる。
あまりにも美しい微笑みを前に、翼がかぁっと赤面する。
そんな彼の反応を目にした心桜は、気を取り直すように小さく息を吸い、胸の前でそっと拳を握った。
「よし、ではまずは看病からですね。何かやってほしいことはありますか?」
「お、お嬢様にそこまでやっていただくわけには」
「……まぁ、そうなりますよね。うーん、どうしようかなぁ」
心桜はむっとした顔で、顎に手を当てたまま黙り込む。
そのまま何かを考え続ける彼女の様子に、翼はただおろおろと見守るしかなかった。
しばらくすると心桜は何かをひらめいたように、ふいに口元を和らげ、翼に向かって提案を口にする。
「その、お嬢様、というのを止めてもらうことってできますか?」
「え?」
「あとできれば敬語も」
「え? え?」
幼子のような様子で次々と要求してくる心桜に、翼は狼狽えてしまう。
慌てふためくだけの翼に対して、心桜は上目づかいで翼の瞳を覗き込んできた。
「ダメ、でしょうか?」
「……いや、ダメじゃないですか?」
「ならわたしが強要するのでいいです。今の口調は嫌です。変えてください。それぐらいはいいでしょう?」
遠慮がちに聞いてきたかと思えば、すぐに強気に押し返してくる。
『嫌だからやめて』というなんとも子供っぽい理由を前に、翼は戸惑いを隠せない。
「で、ですが」
「敬語禁止」
では早速と翼を指摘する心桜は、つんっと唇を尖らせる。
直さないともう話さないと言うかのようなその態度に、翼はしどろもどろに何か言おうとするが、うまく言葉が続かない。
「は、いや、あの、……うん?」
「なんで疑問形なんですか」
「それは、その、というかお嬢様だって敬語」
「お嬢様禁止」
「えっ、ま、真崎……さん? 様?」
「さんも様も嫌です。あと真崎だと、わたしの両親に会った時どうするんですか?」
「え、えぇ……」
彼女の両親まで持ち出され、グイグイと前のめりでくる心桜を前に、一度冷静になろうと思う翼。
改めて気合を入れなおして”お嬢様”と心桜に声をかけようとしたら、そんな翼を待ち構える心桜の表情を思いっきり見てしまった。
「………………」
「うっ」
目の前でじとっと湿度を含んで半目になる心桜の顔が近づいてくるので、気合を入れるどころではなくなる。
動揺で思考がままならない翼は、場の雰囲気の流されるまま口を開く。
「……こ」
「こ?」
「こ、心桜……さん」
「……今はそれで良しとしましょう」
どこか不服そうではあるものの、心桜は茶目っ気の混じった笑みを浮かべる。
その笑顔にペースを乱されつつも、やっぱりこのままではまずいと今さらになって、翼は反論の言葉を返した。
「というかおじょ……心桜、さんが敬語なのに私が」
「あ、『私』もやめてください。素のときは違いますよね?」
翼が言い切る前に、さらに要求を重ねてくる心桜。
もう何を言ってダメそうだ……と翼は肩をがっくり落としながら、心桜を恨めし気に見た。
「……おれだけが敬語なしはダメじゃないか?」
「わたしは真崎としての立場がありますので」
「ならおれにも」
「あなたの立場はわたしの護衛でしょう? ならわたしの希望を叶えてくれたっていいではありませんか」
拗ねるような顔つきで頬を膨らませる心桜を前に、翼は動揺を隠せずまごついている。
ころころと変わる心桜の表情につい見とれてしまい、碌に言い返せないでいた。
「ぐっ……でも」
それでもなおも食い下がろうとする翼だが、心桜は手を前にして翼を制した。
「高校生らしくでいいでしょう。いつかみんな慣れますし。言われたらわたしを口実に使ってください」
そう言って決定事項だと譲らない心桜に、もごもご口を動かす翼。
そんな翼の様子を見ながら、心桜はふわりと慈しむように微笑んだ。
「改めてお願いしますね、翼くん」
初めて下の名前を呼ばれた瞬間、翼の胸が早鐘を打つ。
「は、はい」
「……敬語」
新しく生まれたふたりの約束に、心桜は最後までいたずらっぽく笑っていた――




