22_模擬戦
※残酷描写あり
「283、起きろ」
鋭い声にまぶたを持ち上げると、幼少期から見慣れた顔が瞳に映る。
翼が横になっているベッドの傍らに、1人の女性が立っており、こちらを見下ろしていた。
「ねえ、さん……?」
「……二度とそう呼ぶなと言ったはずだが」
寝ぼけたまま声をかけた翼を、その女性は冷ややかに睨みつけている。
「模擬戦だ。準備しろ」
「……あ」
女性はそれだけを告げて、翼に背を向けて寝室から出ていった。
そこでようやく翼は少しずつ意識を取り戻していく。
彼女の言葉から察するに、今日は土曜の昼前なのだろう。
週末にはほぼ決まって小宮の者が自宅を訪れ、実戦形式の模擬戦が行われる。
しかし自ら望んだその日程すら、今の翼の中では完全に抜け落ちていた。
(昨日寝た記憶がない……)
重度の発熱のせいで、前日の夕方からの記憶が全くない。
気がつけばいつの間にか寝ていて、思考は全くと言っていいほど働こうとしない。
なんとか意識を動かそうとしても、激しい頭痛がそれを拒んでくる。
確実に、昨日より状態は悪化していた。
(行か、なきゃ)
それでもすでに準備が終わっているであろうリビングへ向かうため、体を引きずって寝室を出る。
広いリビングには訓練用にマットが敷かれており、その真ん中で3人が翼を待っていた。
武装した男性2人と先ほどの女性が1人。
見慣れたその光景をぼんやりと眺めながら、翼は特に何も思わず歩み寄る。
「始めるぞ。木刀をとれ」
「……はい」
そう指示されてようやく、自分が手ぶらのままなことに気づいた。
ふらふらと歩いて部屋の隅に置いてある木刀をつかんだところで、焦れたように背中から女性の声が飛んできた。
「早くしろ。お前を待った分、時間が押している」
「はい……」
「ろくに会話もできんか。まあいい」
言われるがまま、マットの中央に立つ翼。
翼が位置についたことにより、女性が翼の背後に立つ。
武装した2人が翼に向き直ったところで、女性が口を開いた。
「でははじ――」
ピンポーン
その開始の合図を遮るようにインターホンが鳴った。
「誰だ?」
「…………」
「おい、聞いているのか?」
「……は、い」
話している内容を理解できず、返事すらできない翼の様子に、女性は深々とため息をつく。
マットの中央から動けない翼の代わりに、女性が玄関カメラを見たが、訝し気に眉をひそめた。
「エントランスじゃない? ……玄関か? なら一体誰が」
「なん、ですか……これは」
声のしたリビングの入口を見た女性の視線の先には――鍵を握りしめた心桜が立ち尽くしていた。
「……なぜお嬢様がここに?」
「あなたは小宮家の護衛の人……?」
「283、どういうことだ」
リビングに入ってきた心桜は、状況を呑み込めないでいる。
同じく心桜がいることに混乱している女性が翼を問いただすが、彼は意識が朦朧としているのかこちらすら向かない。
しかしそんな翼の代わりに、心桜が女性へためらいがちに答える。
「わたしは小宮さんの看病に来ました。昨日彼に鍵を預かっていいか聞いて、返事をもらって……」
「お前……お嬢様に何をさせている」
憎々しげに翼を睨む女性だが、翼からは反応がない。
すでに満身創痍、辛うじてただ立っているだけだ。
その叱責に、思わず反応したのは心桜の方だった。
「わたしが看病したいと言いました……! 彼を責めないでください!」
心桜は翼を庇うように女性へ強く言い返した。
そんな心桜を見て状況を飲み込んだのか、女性は平坦に告げる。
「そうですか。お嬢様、あとはわたくしどもで対応します。お帰りいただけますか?」
「……わたしが帰ったら、何をするんですか」
女性から視線を外して、翼の正面にいる武装した2人を瞳に映し、さらに警戒を強める心桜。
心桜が決して引かないと悟ったのか、女性はわずかに表情を曇らせた。
面倒なことになったとでも言いたげに、彼女は冷たく言い放つ。
「部外者には答えられません」
「……わたしは彼の主人です」
「主人であろうと、小宮家の事情までお話できません」
心桜は女性に詰め寄り、鋭い視線を送っている。
しかし女性はどこ吹く風でその視線を受け流していた。
「お嬢様……?」
微かな声が緊迫とした場を通りすぎ、心桜がそちらを振り返る。
すると虚ろな目をした翼が、心桜の方をぼんやりと見ていた。
しかし反応らしい反応はそれだけ。
意識はうわの空で、目の焦点も定まっておらず、どうにか立っているのが不思議なくらいだった。
そんな翼の様子に心桜は息を呑み、駆け寄って彼の額に手を当てた。
「昨日よりも熱い……なんで……!」
「どうしてもお引き取りいただけませんか?」
翼の体調の悪化を察して動揺した心桜へ、女性が遮るように声を重ねる。
キッと視線を尖らせた心桜は、女性の言葉を跳ね除けた。
「当然でしょう。病人を放っておけません」
「それは病人ではない、と言ってもですか?」
さらっとごく自然な口調で話す女性に、心桜は耳を疑った。
「どういう、意味ですか」
言葉に詰まりながらも、震える声で心桜が問いかける。
その問いに、女性はあくまで事務的な口調で応じた。
「薬を投与しわざと283の体調を悪くしています。なので病気ではありません」
「わざ、と……?」
ふいに告げられた一言で、心桜は凍りついたように動きを止めた。
薬とは、襲撃の日にこの女性が翼へと手渡した『風邪薬』と言われていたものだろう。
予防のためと翼は疑わず飲み続け、だからこそここまで急激に体調が悪化し、何をしても改善することはなかった。
表情を変えずに淡々と告げる女性は、心桜の言葉を肯定した。
「はい。なので護衛ごとき、心配する必要はありません」
「なん、ですか……その言い方はっ!」
怒りに震えながら、心桜は女性に声を張り上げた。
激昂して掴みかからんばかりの迫力に、周囲の空気が張り詰める。
それでも女性は微動だにせず、ただ心桜の姿を静かに見つめていた。
そして、ぽつりと呟く。
「それもまぁ、いいか」
「え?」
「283、はじめるぞ」
心桜を無視するかのように、翼へと再開を促す女性。
そんな有無を言わせぬ指示に、翼の体がわずかに反応する。
意識があるのかも定かでないまま、彼はフラフラと動き出し木刀を構えた。
その姿に、心桜の顔が強張る。
何が始まるのか、何をさせられるのか、彼女は直感で理解していた。
だからこそ次の瞬間、心桜は迷わず動いた。
翼と彼の正面に立つ武装した男たちの間に割って入り、その身を盾に妨害する。
「ダメです。高熱の人相手に、こんなことは許されません!」
そうやって立ち塞がる心桜を、女性はまじまじと見て、疑問を投げかける。
「だからこそ、ではないですか?」
「……え?」
「もし昨日襲われていたら病気でしたで済みますか? 最も弱っている時こそ実力が問われます。今が1番の好機なんですよ」
「……ふざけないで」
手が白くなるほどに拳を握りしめる心桜に、女性が続けて説明する。
「それに一昨日の襲撃は温すぎました。ちょうど雨もあって投与ができ、負荷実戦としてはこれ以上ない条件が揃っています。……下がっていただけますか?」
「絶対に、嫌です!」
怒気の混じる声で言い返し、より意志を固くした心桜。
そんな彼女を前に、これ以上会話は不要だと、女性は目を逸らして口を開いた。
「はじめろ」
その一言を合図に、武装した2人が静かに動き出す。
心桜が彼らを見れば、手にはナイフのような器具を持っているが、材質からして刃物ではなさそうだった。
しかし、そこからかすかに焦げたような臭いが立ち込めており、頭の中で警鐘が鳴る。
凶器を目にして短く悲鳴を挙げた心桜を押しのけて、翼が前に出た。
彼女を背にして守るように2人へ立ちはだかり――すかさず1人へ木刀を振り下ろす。
しかし全くと言っていいほど手ごたえがない。
相手は完全武装しているため、動きをとどめる程度で収まってしまう。
さらには小宮家で実戦経験を持つ男は、翼の木刀を巧みに封じ、手にした凶器をまっすぐ腹部へと突き出してくる。
「っ――」
本能的な危機察知から、木刀を手放し一歩下がる翼。
しかしもう1人がその横から急接近し、翼の腹部に蹴りを叩き込んだ。
鈍い音とともに、翼の体が床に転がる。
そのまま馬乗りになってきた男に対し、翼は辛うじて片脚で蹴りを入れて距離を取ろうとする。
しかし入れ替わるように別の男が、蹴りで伸びた脚を掴んで翼の動きを止める。
そしてトドメを刺すように――ナイフのようなものが腹部に近づく。
「づっ!?」
肉が焼かれるような痛みが腹を裂き、翼は顔をしかめた。
しかしまだこの程度は耐えられるため、痛みを無視して男性のナイフをはじこうとする。
追い詰められた獣のようにがむしゃらに抗い、暴れる翼に対して男が一瞬離れた。
そうやって危機を逃れたと思ったら、今度は2人がかりで押さえつけれ、何も抵抗できないまま――2本の凶器が翼に迫る。
ジュッ……と音を立てながら、刃が皮膚を深くえぐった。
肉が焼け焦げる臭いが、鼻をつく。
皮膚が裂ける感覚と同時に、骨まで届くような痛みが突き抜けた。
「あ゛、あ゛っ!!」
限界を超えた鋭い激痛が腹を貫いた瞬間、これまで呆然と反応の薄かった翼が、本能のままに悲鳴をあげた。
「やめ!」
女性の短い合図を受け、男たちの手が止まった。
それでもなお立ち上がれない翼は、刺された腹を押さえ、肩で荒く息を吐く。
目は見開かれたまま、焦点が合っていない。
脂汗が額を伝い、命の危機に瀕したように唇が震えていた。
「小宮、さん……」
翼の悲鳴を初めて耳にした心桜は、名前を呼ぶことしかできなかった。
これまでどんなに無理をしても、どれだけ傷ついていても、彼がこんな風に痛みに声を上げるのを見たことがなかった。
だからこそ、目の前で行われる全てが恐ろしかった。
心桜が翼の様子に視線を注いでいると、女性が無言のまま、彼を立たせようと一歩近づいたのを視界に捉える。
その瞬間、心桜は彼女の腕を思わず掴んだ。
焦りと怒りが混ざった声で、翼に起こっていることを説明するよう強く迫る。
「あれは……なん、ですか」
「お嬢様が知る必要はありません」
「……答えなさい」
一拍の沈黙のあと、女性がようやく口を開く。
「……ダミーナイフです。多少熱されていますが、刺されても火傷しかしません」
そう言いのける女性だが、翼の反応からして、多少程度では済まない激痛が流れていると見て取れる。
おそらくは、本物のナイフによる刺し傷の痛みに慣れるため、代わりに火傷の痛みで疑似的な“耐性”をつけているのだろう。
それについて思うところがあるのか「生温いことを」とこぼす女性。
そんな彼女の肩を、心桜は怒りを滲ませながら強く掴んだ。
「……今すぐやめなさい」
「お嬢様にその権限はありません」
「こんなことを続けては……壊れてしまいます」
「今更ですね」
そう言って、心桜の手を払いのける女性は、冷めた目つきで続けた。
「もう何十回もやっていることですよ」
その事実に愕然とする心桜。
心桜が固まっている隙に、女性は翼の様子を見て続行を告げる。
「次、はじめ」
女性の合図を聞いてか、立ちあがった翼に対して、同じように詰め寄る男性2人。
しかし、今なお激痛と高熱に耐えている翼は動くことすらままならなかった。
辛うじて1人目の男に木刀を向けようとした時には、その腕を押さえつけられ、焼けたナイフが再び腹部に押し当てられる。
「ぐ、あ……っ!!」
「やめ」
翼の悲鳴が、鋭い針のように心桜の耳に突き刺さった。
すぐそばで倒れている彼の身体からは、痛々しい火傷の跡が見え隠れしている。
その裂傷を見た心桜は思わず手で口を覆った。
「……283、昨日襲撃があったらどうするつもりだったんだ?」
女性が倒れ伏した翼を無感情に見下ろしながら問いかける。
だが翼は何も言わなかった、言えなかった。
動かず、目すら合わさず、ただ呼吸だけを繰り返している。
「……次だ」
冷酷な声と共に、再び命令が飛ぶ。
それに反応し、翼の身体が動き始め、上体を起こそうとする。
「もう、やめて……」
そんな翼に心桜は迷いなく抱きついた。
華奢な体で、彼を包むようにして覆いかぶさる。
それを見た女性が、淡々と声をかけた。
「そこにいると危険です。離れてください」
「いや、です……」
心桜は震える声で、それでもはっきりと拒絶の意思を示す。
何を言われてももう離れない。
翼にしがみついた腕にさらに力がこもる。
「……仕方がないですね。これも実戦であることでしょう」
その決意を察したのか、女性はわずかに溜息をつき、そして告げた。
「お嬢様を刺せ。はじめ」
――その一言が響いた瞬間だった。
翼の身体が、びくりと反応する。
それまで虚ろのままだった彼の瞳に、わずかに意志が宿る。
次の瞬間、心桜を押しのけて立ち上がった。
「きゃっ!?」
突然の動きに、心桜は驚きの声を上げる。
よろけながらも翼の前に立とうとしたが、その姿に言葉を失う。
目は焦点が合っておらず、ただゆっくりと木刀を構える。
その手つきには、先ほどまでのふらつきも迷いもなかった。
顔には表情がない。
だがその無表情こそが、まるで別人のように不気味だった。
それを見た女性は、男たちに向けて静かに言う。
「本気でやれ。さっきまでとは違うぞ」
女性の言葉を受け、武装した男たちに緊張が走る。
一歩、二歩と慎重に距離を詰めながら、様子を伺うように構える。
だが――そこからは、もはや模擬戦ではなかった。
木刀の一撃は鋭く、蹴りは重く、いともたやすく男たちの身体を弾き飛ばす。
分厚い防具越しでも、その一撃が効いているのは一目でわかるほどだ。
「やめろ!やめてくれ!」
1人が倒れたまま叫ぶ。
必死に手を振って降参の意思を示すが、翼は止まらない。
追撃を迷うこともなく、倒れた相手へと容赦のない一撃を振り下ろす。
「小宮、さん……?」
初めて見る翼の様子に、心桜は恐怖すら覚える。
一撃一撃に、明確な”殺意”が見て取れる。
手加減など一切ない。
今までの全てが生温かったと言えるほどだ。
相手を殺すことに容赦のない攻撃に、背筋が凍った。
「やめろ」
見かねた女性が翼と男たちの間に割って入る。
彼女に木刀が当たる寸前で、ようやく翼の動きが止まる。
あっという間に2人を叩き伏せた翼は、それでも木刀を振るい続けていた。
2人のうち1人はピクリとも動かず、もう1人は脚をおさえて苦しんでいるため、骨折もありえるだろう。
当然模擬戦の続行は不可能であり、止めざるをえない状況だった。
そんな凄惨な現場の中、女性だけが冷静に翼を観察し、頷いていた。
「上出来だ。やはり護衛対象がいるとこうも違うか。はじめから意識が薄かったのもあるだろうな」
冷然とした口調でそう語る女性に、心桜は糾弾するため言葉を返そうとした。
しかし視界の隅で、翼が崩れ落ちる姿を捉える。
「小宮さん!」
咄嗟に声を上げて、心桜は翼のもとへ駆け寄った。
ぐったりと力の抜けた身体を、そっと抱き起こす。
服の下には、ダミーナイフによって焼け爛れた火傷の跡が幾筋も走っていた。
それだけに留まらず、高熱によって呼吸は浅く乱れ、顔は真っ赤に染まっている。
誰がどう見ても限界を超えていた。
胸が締めつけられるような痛みに、心桜は言葉を失う。
しかしそんな彼女たちの思いなど意に介さぬように、白く細い女性の手が横から静かに伸びてきた。
「模擬戦は終了しました。後はこちらで引き継ぎます」
「今更信用なんてできません……」
「お嬢様に信用される必要はないですね。私は彼の上司ですから」
「……上司?」
彼女の言葉に疑問を覚えた心桜が、女性に問いかける。
その問いを受けて、女性は心桜に頭を下げながら名乗った。
「コード283を管理しているコード313と申します」
「……そのコードとはなんですか」
「小宮家の護衛は番号で管理されていますので」
そんなことも知らないのか?と目でそう語る彼女の態度に、心桜の中で怒りが膨れ上がっていく。
「そんな……人を、なんだと思って」
「その様子ですと、お嬢様は知らないでしょう。コード283の意味を」
淡々と、しかし微かな翳りが差したように見えた瞳で、313は翼を見据えた。
「小宮 翼……彼は生まれながらにして283番の運命なんですよ」




