21_発露
降りしきる雨を背に、そのまま自宅へ帰り、いつも通り鍛錬を終えた翼。
襲撃の内容を思い返しながら体をケアし、1日を締めくくる。
そうして迎えた翌日。
「38度2分か……」
体中に広がる倦怠感を無視できず体温を測ってみれば、迂闊にも風邪をひいていた。
体温計に表示される、決して低くはないその数字を見て、思わず顔をしかめる。
(こればかりは仕方ないか)
昨日の襲撃では長時間にわたり雨に打たれ、体が冷えていくのをはっきりと感じていた。
その自覚があったからこそ、湯舟につかってしっかりと体を温めたり、支給された風邪薬も飲んで、自分なりに万全の対策をとったつもりだった。
それでも風邪をひいてしまった。
普段の鍛錬の疲れや、襲撃による無自覚な気疲れも重なっていたのかもしれない。
ひいてしまったものは仕方がないと翼は割り切って、朝の準備を始める。
護衛の任務がある以上、そう簡単に休むことはできず、外敵に体調不良を悟られてもいけない。
改めて気合を入れなおして、制服に袖を通す。
38度ともなれば低いとは言えないので、ひとつひとつの動作にやはり不調の影響を感じながらも、準備を終えて玄関を出た。
ぼーっと意識がうまく定まらないまま、いつも通り心桜を迎える。
「…………」
「…………」
今はもう互いに挨拶すらしなくなった。
歩くにしても翼はいつも彼女の背後にいるので、声音や仕草で体調不良がバレることはなさそうだ。
そのままつつがなく登校し、流れるように授業が始まっていく。
やはり勉強するにしても全く身に入らず集中できない。
昼も喉を通らなかったが、あからさまに体調不良の様子を見せるわけにもいかず、勉強しているふりをしてやり過ごす。
そうやって碌に休まず風邪を誤魔化しながら過ごしていると、薬を飲んでも無視できないほどにどんどん悪化しているような気がしてならない。
とはいえ翼は独りなので、特に誰かに気遣われることもなく、時間の流れるまま放課後を迎える。
昇降口を出て帰路につき、あともう少しで終わると根性だけで体を動かしていると、突然心桜が振り返ってきた。
「あの……大丈夫ですか?」
「えっ」
校門を出たところで、心桜に体調を気遣われたが、もうほとんど余裕のない翼は咄嗟に言葉が出なかった。
返答に詰まる翼の様子を見て、心桜がさらに言葉を重ねる。
「熱、ありますよね? 昨日ずぶ濡れになってましたし、今日1日中元気なさそうだと思って……」
誰にも気づかれていないと思っていたら、心桜はどうやら学校で翼の様子を見ており、体調の異変を見抜いていたらしい。
それもそうかと翼は特に驚きもせず納得する。
昨日翼が心桜の体調不良に気づいたように、毎日顔を合わせていれば、相手の小さな変化にも気づくものなのだろう。
ただ1日ももう終盤に差し掛かっているので、家に帰ってしまえば問題ないと思い、翼は気にしないで欲しいと返事する。
「大丈夫ですよ……大したことはありません」
「そう、ですか」
「はい」
会話はそこで端的に終わり、2人の間に沈黙が流れる。
「…………」
「……行きましょう」
心桜はまだ何か言いたげだったが、外に留まり続けるのも危険なので、翼が先に歩み始める。
無言のまま帰路を辿るうちに、体の重さが朝よりもはっきりと増していくのを感じる。
ここまで急激に悪化するのかと思いながら、今日に襲撃がなくて本当に助かったと、内心ほっと胸を撫で下ろす。
マンションに着いてから自室のドアまでは、ほとんど気力だけで足を動かし、ようやく自宅を目の前にして一気に気が抜ける。
「小宮さん」
「は、はい!」
完全に油断していた翼は、不意に声をかけられて心臓が跳ねる。
声のした方を向けば、そこには少し前によく見た真っ直ぐな眼差しで、心桜が翼をじっと見ていた。
「看病させていただけないでしょうか?」
「……え?」
もうほとんどろくに回っていない頭が、彼女の言葉を聞き逃してしまった。
そんな翼の様子を見てか、心桜はさらに決意を込めて言葉を投げかけてくる。
「ですから、昨日の襲撃が原因で風邪をひかれたのであれば、わたしのせいでもあると思います。なので、あなたの看病をさせてください」
「お、お嬢様が気にされることでは」
「気にします。気に、させてください。お願いします」
今度は理由も含めてなんとか理解した翼が、心桜の申し出を断ろうとする。
しかし彼女は一歩も退こうとはしなかった。
ぺこりと頭を下げたまま顔を上げようとしない心桜の姿に、さすがの翼も強く言い返すことができなかった。
さらには高熱のせいで頭の回転も非常に悪く、普段のようにうまく言い含めることができない。
とはいえ、せっかく保っていた距離感をまた戻すのはどうなのかと、翼は迷いながらも頷こうとはしなかった。
返事がないことで顔を上げた心桜が、黙り込む翼の様子を見て、一歩翼に踏み込んでくる。
「あなたが気に病む必要はありません。わたしがやりたいからやるんです」
「……でも」
「ならもしあなたが原因でわたしが風邪をひいたら、あなたは看病しないのですか?」
そう聞かれてしまえば、翼にはもう『同じことをする』としか答えようがなかった。
いつまでも譲らない翼を前に、ただ頼むだけではなく、理屈で相手を納得させようとする心桜。
まともに思考が働いていない翼には非常に効果的だった。
「答えてください」
翼が答えあぐねていると、心桜に返事を急かされ、諦めたように返事を零す。
「看病する、と思います……」
「では病人をいつまでも外で立たせるわけにはいかないので、早く中に入りましょう」
そうやって意を決したように翼へ寄り添ってくる心桜。
しかし、このままでいいのだろうかと翼はなおも迷い続ける。
過剰かもしれないと自分でも分かっている。
(それでも、あんな思いは……させたくない)
翼は過去の悔恨からどうしても譲れなかった。
その揺れる思いが無意識に表へにじみ出たのか、気づけば心桜を手で制していた。
「お嬢様……やっぱりやめましょう」
「……どう、して」
翼の言葉を受けて――心桜が悲しみに満ちた表情を浮かべていた。
その顔を見た瞬間、彼女を傷つけてしまったという思いが胸を突く。
焦りながらも、納得のいく理由を必死に探そうとした瞬間、頭に鋭い痛みが走る。
(ぐっ!?)
体調はさらに悪化し、思わず口元を手で覆いながら、よろめいて扉にぶつかる。
転倒間際、というところで、そばにいた心桜に支えられた。
申し訳なさから心桜に謝罪をしようと彼女を見ると――
「いい加減にしないと……おこ、るよ」
――怒りと涙を湛えた表情で、至近距離から睨まれていた。
突然砕けた口調に変わり、抑えきれない感情がそのまま言葉尻ににじみ出ている。
これ以上彼女を蔑ろにし続ければ、主従関係どころじゃなくなる。
関係が、壊れてしまう。
そんな危うさを、翼は本能的に察する。
翼が心桜の雰囲気に吞まれているのを見て、彼女は少し冷静になったのか、表情を歪ませながらも言葉を続けた。
「……ごめんなさい。取り乱しました」
「いえ……」
「ですがもう限界です。入りますね」
そう言って、心桜は翼の手から鍵を受け取り、扉を開けた。
彼女の中の一線を越えてしまった、それを見てしまったその衝撃に、翼の頭はますます混乱し何も言い返せなかった。
さらには普段でも口論で敵わないのだから、今回はもう素直に従うしかないと体の力を抜く。
彼女に支えられながら、そのまま寝室まで運ばれベッドに横たわる。
ベッドの近くに転がっていた体温計を拾った心桜は、それを有無を言わせぬ様子で手渡してきた。
翼はおとなしく体温を測り、手を差し出している心桜に返すと、彼女がさらに表情を強張らせる。
「39度5分、ひどい熱じゃないですか……!」
「すみません……」
「……わたしに謝る必要はありません」
翼の寝室で、体温計を片手に心桜がやるせなさをにじませる。
朝からずっと無理をしてきたとはいえ、そこまで上がったのかと翼は苦しげにうめく。
そんな翼を心桜は厳しい口調でたしなめた。
「絶対安静です。ベッドから動かないでください」
「はい……」
「どうしてこんな風になるまで……ああもう!」
感情をこらえきれない様子で、心桜はパタパタと翼の身の回りの世話を始める。
その姿を見届ける事もできず、翼は意識を手放した。




