わたしはあなたを愛してたけど、あなたは違うでしょ?
窓の外から聞こえてきた男女の陽気なはしゃぎ声に、ふと足を止めて下を覗き見てみると、四人の男性が義妹を中心に楽しそうに庭を散策している姿が見えた。
義妹の柔らかくカールした髪が頬にかかり、ピンク色の唇は優し気に弧を描き、薄水色の瞳はきらきらと陽の光をはじいて煌めく湖面のようで、その可憐な姿を一段と引き立たせている。
彼女の周りを囲むようにして歩いているのは黒髪で背の高いの男性一人と金髪の男性が二人、アッシュグレーの体格の良い男性が一人。
私は二階の執務室の窓から棚から取り出した資料を持ったままその光景を見ながら同じ部屋にいたトーマスに尋ねた。
「ユージェニーはまだ授業の時間ではないの?」
「フーメル夫人が授業をされていましたが、レオナルド様がお客様がお見えになったので挨拶をするようにとお呼びになったようです」
トーマスは私の執事で屋敷の中のことはすべて彼の耳に入ってくる。とても頼りになる執事だ。
「お客って、彼らのことかしら?」
トーマスは無言で返した。返事をするに及ばないということだ。
フーメル夫人はユージェニーの家庭教師で、数か月前から彼女に教えに来ていただいているが、その進捗状況は芳しくない。その一因は今日のようにユージェニーがすぐにキャンセルすることだ。
ユージェニーは私の父の後妻の娘だ。今は父と義母と共に離れで暮らしている。
そして私はこの侯爵家のたったひとりの嫡女、アリューテルナ・バクスター。おっと、違った。先日、おじい様から正式に爵位を譲渡されたので、今はバクスター女侯爵とでも名のった方がいいかしら。
下の一団の背の高い黒髪の男性がレオナルドで、彼はわたしの夫だ。細身に見えるが筋肉の引き締まった体つきをしており、瞳は濃紺、冷たく整った顔立ちをしている。
以前のわたしは彼の機嫌を取るためならなんでもした。献身的に彼を愛していたのだ。
レオナルドは騎士団で実力を発揮し、順調に出世していたところをわたしが見初め、家が同じ家格の侯爵家で次男というところからおじい様を説き伏せ、無事に我が家に婿にきてもらったのだ。
そしてこの半年、最初は順調?だった新婚生活もわたしの結婚式に合わせて領地からこの王都にやってきた父一家のおかげでどんどんとばかげたものに変わりつつあった。
最初父がわたしに王都に留まりたいと言ったとき、わたしは反対した。
父とは母の生前から交流が少なく、というか父も入り婿のくせして外に愛人を作り政略結婚だった母から生活費だけをもらうと屋敷に寄り付かなかったのだ。
わたしは祖父と母がいたので寂しくはなかったし跡取り娘としてやることも沢山あったので、そんな父のことを顧みることはなかった。
母亡き後愛人を後妻に迎えることも祖父と父との間で領地で静かに暮らし、社交には一切関わらないと約束することでこのままバクスター家で面倒を見ていくことになったと聞いている。祖父のことだ、探せばそこら辺から契約書が出てくるだろう。
なので適当に王都見物を終えたらとっとと領地にお帰りくださいと伝えたのだが、そこでレオナルドが一言添えた。
「きみの父上は私にも義父上になる。バクスター侯爵家の婿として教示いただくこともあるだろうし、義母上やユージェニーにももう少し王都の生活を楽しんでいただくのもいいだろう」と。
新婚で舞い上がってたわたしはレオナルドの言うことを深く考えもせず、(キャー、わたしのお父さまはレオナルド様のお義父さま! やだぁーん)なんてテンション高く、あっさり一家で離れに住むことを許してしまった。
はあぁー、もう少し考えろよ、当時のわたし。
婚約期間中、お誘いなし、交流皆無、必要最低限の社交のエスコートもない。
プレゼントもない、手紙もない、笑顔もない夫がこんな長文、口にした時点でなんか怪しいと思わんかったんかい。
まあ、それでも彼との夫婦生活が初夜の一度きり、その後は騎士団の仕事や、わたしの都合や、向こうの体調?や何やかやで夫婦の寝室はわたしの独占寝室と化した辺りから(あれ? なんかおかしいなー)と感じたのよ。彼の寝室への扉、鍵かかってたし。
え、はしたない? いやね? 変な下心があった訳じゃなくて、夜中目が覚めたら隣の部屋の明かりが扉の下から漏れてたからまだ起きてるのかなーって思って、そっとドアノブを回してみたんだけどかっちり動かなかったわ。
それにびっくりして声をかけるのもためらうくらい衝撃を受けて、その晩はさすがに布団の中で涙がじんわり滲んじゃった。
だって、わたし、跡取り娘よ。女侯爵よ。わたしが子供産まないとバクスター家が途絶えるのよ。
本当の意味で途絶えるわけではないけど、それでも彼と結婚したんだから彼との間に跡継ぎが欲しいじゃない。
出来ない場合もそりゃあるかもしれないけど、そのための努力もしないだなんてありえないわ。まだ一晩一回しか試してないのよ!(あら、これははしたなかったわね)
それからのわたしは表面的にはそれまでのわたしと変わりなくレオナルド様命です!とばかりにこびへつらい、裏ではそっと彼を観察した。
すぐにわかったわ。彼、屋敷の庭でユージェニーと逢引きしだしたのよ。
それもわたしが執務室で領地のあれこれをがんばって采配したり、祖父とともに商人や有力貴族と懇談している間にね。
そのうえ、彼の経費で彼女のドレスまで仕立ててユージェニーをエスコートして夜会に行ってたのよ、わたしのエスコートは結婚披露パーティーだけなのに。
わたしもこればかりは放っておけなくて庭で彼を見つけて声をかけたの、昨晩はどうしてたのって。最初は曖昧だった彼の返事がわたしが一緒に夜会に行ってくれたらよかったのにって言うと、きみはおじい様と行ってただろ?ですって。あまりな返しにわたしが一歩詰め寄ったとき、横からユージェニーが飛び出してきて、
「お義姉さま、レオを責めないで。わたしが悪いの。夜会に行ってみたいって言ったら連れて行ってくれたの。わたし、一度も行った事なくて・・・それにとても小さな夜会よ。レオのお友達の騎士様がたくさんいて。あ、でも安心してね。ダンスはレオがほかの人はだめだからって言ってレオとしか踊ってないから、変な醜聞はないわよ?」
わたし、えらいでしょ、とばかりににっこりおりこうさんの笑顔になってレオナルドに微笑むユージェニーを前に、わたしはどこから突っ込んでいいのやら分からなくなって、頭痛がしてきて、息が苦しくなって、目の前も暗くなってきて、最後に「お嬢様!」という侍女の声が聞こえたような気がするだけで、後は覚えていない。
夕方、自室で目を覚ましたアリューテルナはベッドに寝かされていた。侍女の話では、後方に離れて控えていた所、アリューテルナは急にふらついてしゃがみこんだようだ。
医師の診察では若い女性に多い立ち眩みだろうということで、過労気味でもあるし、栄養と睡眠を十分にとるようにとのことだった。
レオナルドはと問えば、あの場で急にしゃがみこんだアリューテルナをみたユージェニーが驚いて取り乱したため、レオナルドは使用人にアリューテルナを屋内に運ぶように指示を出すと自分はユージェニーに付き添って離れに行ってしまい、まだ戻っていないそうだ。
その日から私はレオナルドとほぼ会っていない。会話もしていない。食事も一緒ではないし、部屋も元から別で私は日中執務室にこもり、彼は騎士団に行くか、屋敷にいればああして庭で堂々とユージェニーや友人たちと会っている。
そんな事を思い返していると、アッシュグレーの男性がはしゃいでよろけたユージェニーの肩をそっと支えた。
彼は辺境伯家のアーネスト・ハンスフィールド。レオナルドの友人兼今ではユージェニーの信奉者だ。
あどけなく可憐、明るく、時に周囲を翻弄する振る舞いをしてみせるユージェニーにすっかり魅了され、彼女を支えるために手が肩に触れた今も頬が紅潮しているのが遠目にもわかる。辺境の若獅子もユージェニーにかかれば子猫みたいなものか。肝心のユージェニーはすぐにレオナルドに奪われていたが。
彼も辺境に帰れば婚約者の女騎士との婚儀が控えていたはずだ。
金髪二人のうちの一人は王家の第5王子、ハインリ殿下だ。先ほどからユージェニーの手をとって庭のメイズに誘おうとしているようだがレオナルドに阻まれ機嫌を悪くしているようだ。眉間に皺が寄りつつある。
彼は確か通っている学院の成績が芳しくなく、母側妃の頭痛の種、父王陛下に見放されていると聞く。最終学年のはずだがこんなところで油を売っていて大丈夫なのだろうか。婚約者も未定な上、いくら側妃さまの美貌を受け継いでいるとはいえ、第5王子なんて今の状況でよい婿入り先なんて残っているのか。
すると輪の外に立っていた残りの金髪男性がアリューテルナの視線を感じたのかパっとこちらを振り仰ぎ見た。アリューテルナと目が合うと嬉しそうにこちらに向かって大きく手を振り、その場の友人たちに話しかけるとやがて視界から姿が消えた。
その際、レオナルドがちらりとこちらを見たが、まるでアリューテルナに気が付かなかったかのように視線を戻した。
いつものことながら、はあッとため息を一つついていると扉が勢いよくノックされるのと同時に開いた扉から先ほど下にいたはずの金髪男性が部屋に飛び込んできた。
「ルナ姉さん、執務は終わったの? なら、二人でお茶でもどうかな?」
彼はバクスター侯爵家の分家の者で、三つ下のジェラルド。小さいころから私のことを”ルナ姉さん”と呼んで慕ってくれていた。この1年半ほど音沙汰がなかったが、最近王都に戻ってきたようで毎日のように屋敷にやってきている。
彼は金髪碧眼の王子様のような美男子でレオナルド様と並んでいると男性の美の究極がここに集約されています!て感じで凄いことになる。
まあ、屋敷では二人ともそんなには着飾ってないし、直視しなければなんとかなる、うん。
「いいわよ。丁度、休憩しようと思っていたの」
二人で? なにか相談事かしら。もしかしてこの子もユージェニーにすっかり魅了されちゃって、将を射んとすれば・・・的なやつかしら。
あのメンバーの中にいたってレオナルドのブロック&ホールドがきつくて、日の目を見ないものね。
昔はあんなに私に懐いていたのに。
少しばかり寂しく思いながら、続きの間に侍女が設えてくれた席に着く。
侍女が小ぶりな白磁の花瓶に可愛いらしく生けた花をテーブルに載せた。
「あら、キレイな花ね。いい匂い」
私が花を褒めると侍女は「ジェラルドさまが今お持ちになられた花です」と教えてくれた。
ここへ上がってくるいつの間にそんな暇があったのだろう。驚いて彼を見ると、「ルナ姉さんに渡そうと思って」と少し照れながら教えてくれた。
ジェラルド、あなた、ユージェニーとゆかいな仲間たちに加わっていたわけではないの? 私に花をくれようとして庭にいただけなの?
最近の傷ついた私の心を、テーブルの小さな可愛い花が癒してくれた。
ジェラルドはためらいがちに私に聞いてきた。
「ねえ、ルナ姉さん。さっきも上から見てたんでしょ?
あれでいいの? 姉さんはどう思っているの? 何か考えがあるの?」
私はジェラルドの目をじっと見た。彼がどんな意図をもって問いかけているのか...興味本位なのか、誰かに指示されたのだろうか、それともほかに考えがあっての事だろうか。
「ルナ姉さん、安心して。僕はいつも姉さんだけの味方だよ。例え今の状況をおじい様が良しとされていても、ルナ姉さんが不幸なら僕は逆らうよ。辺境伯家も第5王子だって怖くない。けれどもし姉さんがまだか・・・」
「もういいの。未練はないわ」
私は彼の言葉を皆まで言わせずに話した。最後まで聞くのが堪えがたかったのだ。
レオナルドが三年前の剣術大会で入賞したときからわたしは密かに彼のファンになった。背も高く整った顔立ちにクールな表情、その上大会に入賞する程の剣の腕前ときては彼に夢中になった女性は多かっただろう。
そんなある日街中でどこかの工場で暴動が起きその流れが街中まであふれ出したとき、騎士団が対処に当たっている所に出合した。その中にはレオナルドもおり、最初逃げ遅れた若い貴族の男性の救助をしていた彼は暴徒の中に取り残された市民を見つけて急遽そちらの救助に向かった。
途中で放り出されて平民より自分を優先しなかった事に腹を立てた貴族男性が彼に文句を言うとレオナルドは平然とした顔で、
「若くて丈夫そうな男より、年寄りや子供の救助を優先するのは当たり前だろう」と言ってのけたのだ。
あの日あの瞬間、わたしは彼を愛しだした。この人のそばにいたい。彼を支えて幸せにしたい。心の底からそう思えた私は全身全霊を込めて彼に尽くした。
手紙の返事がなくともわたしから再び出したし、エスコートを断られても笑顔で了承した。贈り物がなくてもわたしから彼にはプレゼントを贈ったし、彼の家族に気に入られようと愛想を振りまき、彼の知らないあちこちで彼を持ち上げ褒めまくった。
けれど。
私はあの日、目を覚ましても私の元にいなかったレオナルドに見切りをつけたのだ。私がどんなに乞い慕っても、彼の心がユージェニーに向かっているのならばもう何をしても無駄だろう。
これがまだ、彼が私との政略結婚を尊重したうえで、愛人とする娘が身分の低い他人であれば、結果は違っただろう。悲しんだだろうけど、どこかで妥協をしていたはずだ。
けれどこれは違う。これはない。彼は私を尊重せず政略結婚のルールを蔑ろにし、愛人にしようとするのは紙の上とはいえ私の義妹。
私には許していない愛称呼びを許し、私には紹介もしない部下や友人を義妹に紹介し、彼らの前で独占欲を見せつけ、私を、バクスター家を貶めて見せた。
あの日以来、父たち一家は助長し本邸でやりたい放題。社交界でもユージェニーが産んだ子が次代のバクスター侯爵になるだろうと面白おかしく噂されている。
おじい様はこの騒動をバクスター家の名誉を背負った私がどうやって収めるのか、私の技量をお試しになるつもりのようでじっと静観しておいでだ。
私もこのまま彼らに好き勝手させるつもりはない。ただ時機を待っていただけ。
そして今、目の前にはどうやら新たな頼もしい味方が現れたようだ。
「本当? じゃあ、いい? 僕の好きなようにしても?」
突然、眼をらんらんと輝かせ、食い入るように私を見つめ、身を乗り出してくるジェラルドに、私はあっけにとられた。
「いいけど、あなた、彼らとなにかあったの?」
そう問うと、彼は軽く眉を上げ、まあねとだけ答えた。
それから二人で軽く条件をすり合わせると、私は領主としての仕事があるだろうからとあとはジェラルドが一手に引き受けると言って部屋を出ていってしまった。この後おじい様にも言質を取るらしい。
私からの条件は
・血を見ないこと
・父一家とバクスター家は縁を切ること
・レオナルドと離縁すること。その際、私に醜聞が係ることはないようにすること
ジェラルドからの条件は
・離縁した後、アリューテルナはレオナルドと個人的に会ったり連絡を取ったりしないこと
・父一家の処分はジェラルドに任せること
・アリューテルナは今後の身の振り方についてはジェラルドの許可を必要とすること
父たちに関しては出方によってはお家乗っ取りだのと言われたら、血を見る処罰になるかもしれないので、手ぬるいと言われようと私的には血は見ないを第一条件に入れさせてもらった。
まあ、でも、ジェラルドにもおじい様にも、私はまだまだ甘いと渋い顔をされたわ。ジェラルドなんてレオナルドを男娼館に売り飛ばそうとか言い出すんだもの。誰得よ。娼館がウハウハになる未来しか思い浮かばないわ。
ジェラルドの条件は意味不明だわ。離縁したら私もレオナルドもお互いに用はないだろうから会うことなんてないのに。
それに私の今後についてはじつは密かに私の後継はジェラルドにお願いしちゃおうかなーなんて思ってたのよねー。おじい様の養子にしてもらうとか? 私は女侯爵の身分から解き放たれて、自由に冒険旅行!とか、行けたらいいなーなんてね。
それを察知したのか、はたまた私が悲観して修道院に行くとでも思ったのか、とにかくそう上手くはいかなかったわ。領主としての任はまだまだ続くみたい。
二人で密談?をして一か月後、我が家からレオナルド・バクスターは消え去った。実家の侯爵家は今回の件にお怒りで帰れず、街に家を借りるそうだ。
離縁の話が出た直後、彼は私に直談判してきた。開かずの扉が急にギシギシ鳴り出したときの私の恐怖ったら、もう、ほんと、びっくり。ジェラルドのアドバイス通りに箪笥を扉前に移動してた侍女さん、従僕さんたちはナイスなお仕事でした。
仕方なしに正規の扉に回り込んでやってきたレオナルドは開口一番、なんで夫婦の寝室の扉が塞がれているんだとお怒りで。ええー、あなたがそれ言う?
それからレオナルドは、自分をいくら愛してても思う通りにはならないとか、こんな事をして周りを巻き込むなだとか、君はなんて意地が悪いんだとか、ユージェニーが可哀そうだとか、最後には跡取りを口実にそんなに自分が欲しいのなら応えてやる、だのと言い出して駆け付けたジェラルドと我が家の護衛に外につまみ出されてた
あら、普段寡黙な人が、よくあれだけ話せたもんだわね?
ただ最後の最後、彼の放った言い草にはきっちりお返しさせて戴きました。
後日、レオナルドの実家からお兄さんが彼に会いにやって来て、レオナルドは実家では受け取り拒否のため、今後は騎士として一人でやっていくしかないこと、成婚時の誓約書を広げて見せて、一つ一つ、彼の不履行事項を確認し、またユージェニーの身分ーーー彼女は父の籍には入っているけれど出生は男爵家で、父の離籍と共にバクスター家とは関係のなくなること、などを話した。レオナルドは最後まで私が彼に見切りをつけたことを信じられなかったようだけれど、お兄さんが確かに婚約当初、アリューテルナ嬢に見初められての縁談だったが、アリューテルナ嬢にはほかにもっと良い縁談がいくつかあったし、レオナルドにしても嫌ならば断ってもよかった縁談だったのに、受け入れたのは自分の判断だったはずと諭したそうだ。結婚前からの彼の態度に両親が結婚後の生活を危惧し、口酸っぱく彼に注意したのがこの結婚はバクスター家のごり押しで彼の実家は断れない立場だと彼は勘違いを起こし機嫌を損ねていたらしい。
そこへきて、婿入り先に現れた自分と同じ立場にみえる不遇の儚げ美少女の登場。
ふーん、へーえ、そー。
おかしいな、確かレオナルドの好みは儚げ少女より強気美人だったはず・・・などと口元でゴニョゴニョ言いながら私をちらりと伺い見るお兄さんの言葉は私にはとどかずジェラルドに蹴飛ばされる勢いで追い出されていった。
ちょっとジェラルド、彼は次期侯爵なんだから丁寧に扱ってよね。
父一家は人知れずひっそりと、とある日におんぼろ馬車一台を餞別に出て行った。式後にきちんと領地に帰っていれば、これまで通りに穏やかに暮らせていたのに人間何かのきっかけで欲張ると碌なことにならないものね。
私はといえば、もめごともやっと収まりこれまでと変わらずに地道に領主仕事に邁進しようとしていたら、ある日ジェラルドが紙切れ一枚ヒラヒラさせてやってきた。
「ルナ姉さん、今回の件で少しでも僕のことを男らしいなって見直してくれたなら、ご褒美ちょうだい」
「ジェラルドったら、当たり前じゃない。あんなに可愛かった私のジェラルドがいつの間にこんなに頼りがいのある男性になったんだろうって、驚いたのよ。本当に感謝してるわ。ご褒美くらい、なんでもあげるわよ」
ジェラルドのことだ、ここで無理難題はふっかけないだろうと、私はすっかり油断していた。
「いいね、その私のジェラルドって響き。じゃあここにサイン頂戴」
私はジェラルドの出した紙の指で示された箇所にサラサラとペンを走らせながら文面を目で追った。
サインし終わった。
サッと紙を引き抜くジェラルド。
頭の中で、先ほど目で追った文章の意味を理解する。
「え? え? ちょっと! ジェラルド?」
「大丈夫。とりあえずだから。これですぐ式を挙げるとか、ベッドを共にするとかじゃないから。ね? ルナの気持ちがちゃんと僕に向くまで待つから。そのかわりルナもきちんと僕と向き合ってね? じゃ、そういうことで、よろしくー、僕の愛しい婚約者さん!」
いつの間にか”ルナ姉さん”から”ルナ”呼びに変わっているのにも気づかない私の額にチュッと軽くキスを落とすと、ジェラルドは来た時と同じように紙をヒラヒラとさせながら部屋を出て行った。
紙には婚姻約定書と書かれていてーーーつまり婚約届である。
ま、婚姻誓約書(婚姻届)じゃないだけ、ましかな。
なんて思ってしまった私はやはり大甘だった。
この後、ジェラルドの一人称が僕から私へと変わるころ、私は彼のために花嫁のベールを被ることになるーーーその日はわりに近い。
(SIDE:レオナルド)
バクスターの屋敷を出た俺は、騎士団の戸建の官舎を借りて住むことになった。
実家から付いてきている従僕が通いで一人つくだけの簡素な一人暮らしのスタートだ。
事が起こってわずか1週間で婚家を追い出されるとは結婚当初の俺には思いもよらなかっただろう。
アリューテルナ・バクスター女侯爵。元妻の名前をつぶやけば、胸の内に小さな痛みがうずくのが感じられた。
バクスター侯爵令嬢の噂は婚約前から聞いていた。美人でそつのない高位貴族の令嬢。婿に入れば自身が爵位は継げなくとも貴族の身分は安泰。領地の経営も順調で性格にも問題ない令嬢とくれば、継ぐ爵位のない貴族の子弟からしてみれば垂涎の的である。
かく言う自分も遠目に見かけては綺麗な令嬢だなと密かに気持ちを高ぶらせていた。そんな令嬢に見初められて婚約話が出た時の俺の気持ちをどう言い表せばいいだろうか。
元からあまり感情の起伏が少なく顔にも出にくい俺は他人との交流が面倒だった。
今回もどこかくすぐったいような気持ちとは裏腹に、彼女もまた日ごろ俺の見目だけを見て騒ぐミーハーな女たちと同じ目で俺を見ているのかという冷めた気持ちが俺の心に重くのしかかり、婚約話を断りはせずともけして彼女を受け入れようともしなかった。
どうせ結婚すれば一緒に生活するんだ、それまで何も機嫌を取ることもない。
そして迎えた結婚式、ウェディングドレス姿の彼女は女神のような美しさで俺は殆ど直視できなかった。
祝い酒の力を借りてなんとか初夜は乗り切ったがその後の俺は照れもあったが、それまでの自分の無礼や自分の無知が彼女に知られるのが怖く彼女との時間を避けるようにしていた。
庭園の片隅で鍛錬をしていると離れに住むアリューテルナの義妹がやってくるようになった。俺も暇だし彼女もアリューテルナの領地の話を色々と聞かせてくれるのでよく話をするようになった。それに俺にも義妹になるのだし。
そう思って面倒を見ているとある日庭でアリューテルナに呼び止められた。なんだかよく分からないがどうやら昨夜義妹を夜会に連れて行ってやったことを怒っているらしい。昨夜の夜会は殆ど騎士団の奴らで固めた身内の会みたいなものだったから危険なことなど何もないのに、こんなことで騒ぐなんてと思っていると義妹までやってきてなんだか俺のことをかばい立てしだした。
その時だった、アリューテルナの身体がぐらりと傾き、俺が一歩踏み出したときには彼女はその場にしゃがみこんでいていつの間にか彼女の侍女が駆け寄り支えていた。
傍へ寄ろうにも今度は義妹が真っ青な顔で「お姉さまが、お、姉さま、が...」と俺にしがみついてるもんだから身動きが取れない。仕方なく使用人にアリューテルナを任せ俺は義妹を離れに送っていった。
義父と義母に状況を説明すると、今本邸に戻れば前侯爵に叱責され、具合の悪いアリューテルナを更に刺激することになるからしばらく離れで待機していた方が良いと言われ、俺はそうすることにした。アリューテルナの様子もすぐに大したことはないと医師の診断が下りたと教えてもらっていたし、俺は何も心配していなかった。
ところがその日を境にして、アリューテルナは俺を無視しだした。どうやら彼女は俺が思うよりも癇癪持ちらしい。先日のことを根に持っているのだろう。俺は困ったと思いながら近頃屋敷に増えた客人たちの相手をしていた。
古い友人の辺境伯家の三男が夜会で会った義妹に熱を上げているようだ。がたいがいい割に可愛いもの好きの友人の恋を個人的には応援したいが、奴はまず婚約者との婚約を解消してくるのが筋だろう。
会話はいいが、だめだぞ、ノー・タッチだ。
婿入り先募集中の第5王子は何を考えてうちに来るんだ? アリューテルナの愛人にでもなりたいのか? 義妹を狙っても旨味はないし。もしやアリューテルナを失脚させて義妹を侯爵に押し上げ自分が婿入りしようと? そんなことさせるか!
この親戚の金髪野郎が一番分からんな。いつも愛想よく黙ってて、気づけば人の輪に入って話を聞いている。アリューテルナの周りをチョロチョロして目障りだ。1度騎士団に連れてって訓練と称してボコってやれば怖気づいてもうここには来ないかもしれんな。
ある日前侯爵に呼ばれ応接室に出向くと金髪野郎こと、ジョエル・アドナーもいた。前侯爵に促され席に着くとアドナーが幾枚かの紙を広げだした。
それは婚姻時の実家とバクスター家の約定書だった。事業案だの利益の配分だのをすっとばして両人の結婚生活面での子細な取り決めに至ったとき、俺は自分の顔から血の気が引いていくのを感じた。
「この1か月近くに及ぶこれらの数々の証言をもって、この婚姻の契約がことごとく守られていないことが証明されたわけだ。君のご実家へも本日をもって報告しておいた。君には1週間やろう。1週間後には速やかにこの屋敷を出て行ってくれたまえ」
前侯爵の宣言と共に俺は応接室を追い出された。部屋に戻った俺は茫然とした。離縁だと? アリューテルナと? なんで? 彼女は俺を愛しているのに? 婚約していた時のアリューテルナは何でも俺の言うことを聞いた。俺が少し眉を顰めるだけで「ごめんなさい。わかりました、そうします」と言って俺の言うとおりにした。
結婚式でのアリューテルナは誓いのキスの時、いつもは力強い意志を宿らせた瞳をうっすらと潤ませ、キスの後はうっとりとした表情を見せた。
初夜の翌日は俺のせいで疲れさせてしまったのだろう気だるげな顔で小鹿のように震えていた。
庭で俺に詰め寄ってきたときは後で思えばそれとはっきり分かる嫉妬の炎を燃え盛らせて俺に突き進んできた。
これほど二人の間には他人には踏み込めない時間を共有してきたというのに、今更離縁だと!?
俺は夫婦の寝室へと続く扉の鍵を開け(これは昔実家で使用人に襲われそうになってからの習慣だった)、続く妻の寝室への扉を開けようとした。
むっ? 開かない?
扉の向こうで家具の当たるガタガタとした音も聞こえるので諦めた俺は廊下へでてアリューテルナの部屋へと回り込んだ。
部屋でクッションを抱えて怯える彼女を見ているとだんだんと怒りがこみあげてきて抑えが効かなくなり、いくら愛してても思う通りにはならない、こんな事をして周りを巻き込むな、君はなんて意地が悪いんだ、ユージェニーが可哀そうだなどと思ってもいないことを次から次へと言って彼女を詰った。
しまいには、跡取りを口実にそんなに自分が欲しいのなら応えてやるーーーと言ったところで俺はジョエルと護衛に捕まり身柄を拘束された。
俺は拘束されて尚、思いあがっていた。俺は屋敷中に聞けと言わんばかりに怒鳴った。
「アリューテルナ! わかっているのか! 俺と離縁になるんだぞ! 俺のことを愛してるくせに離縁になってもいいのか!」
背後からアリューテルナの叫ぶような声が聞こえてきた。
「愛してたわ! わたしはあなたを愛していたわ! でもあなたは! あなたは違うでしょう!」
鋭く重い鈍器で胸を突かれたような感覚に、俺は一瞬足を止めた。
そうして一歩も踏み出せなくなった俺は引きずられるようにして屋敷の牢屋に連れていかれた。
明日、隣国との不可侵の森に最近出るという正体不明の化け物退治に俺は部隊から選出されて行くことになった。今までに何人もの狩人や兵士が挑んだが返り討ちに遭っているらしい。
見送りだと兄が官舎に会いに来てくれた。
「お前が元気になってくれてよかった。向こうでの活躍を期待している。選りすぐりの兵で囲めばきっと大丈夫だ。がんばれよ」
離縁した直後の俺は酷い有様で、両親や兄には本当に心配をかけたと思う。突き放しつつもそっと見守ることで俺の再生を信じてくれた彼らに今はとても感謝している。
あの最後に聞いたアリューテルナの言葉。あの言葉は今も俺の心をめぐり続け、答えを探している。彼女は俺を愛していた。俺はそれを知っていた。俺は彼女を愛していた? 俺に確かに愛はあった。けれど、彼女はそれを知らなかった。俺は彼女に愛を伝えていただろうか・・・?
最後までお読みいただきまして、ありがとうございます。
【ユージェニー】何も考えてないです。勉強苦手な、田舎で育った貴族の常識何も知らない、他人からどう見られるかに無頓着な女の子ととらえていただければ。
【レオナルド】好みの女性に自分からはリードできず、素直になれないうちにやらかしてしまった勘違い野郎ですね。騎士団で一からご精進ください。
【ジェラルド】三歳差をどうやって挽回するか作戦練ってたらトンビに油揚げ攫われて焦ったでしょうね。傷心で姿かくしていた間、ちゃんと密偵を本邸に送り込んでました。同じ轍は二度は踏まない。夫婦の亀裂を察し、速攻で戻ってきました。