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 第四章 ボク泣いちゃうぞ 

 二戦目の相手は茶臼高校と決まった。

 茶臼高校は低レベル校だ。

 勝ったな。

 そう野球部全員が喜ぶ。

 しかし茶臼高校に勝てても次の相手は理想学園だろう。

 まだ理想学園は三回戦を戦っていない。

 だから勝ち進むとはかぎらない。

 けど理想学園が負ける相手はAブロックにいない。

 理想学園の初戦はコールド勝ちだった。

 理想学園が苦戦をするのは旭日高校と愛美学院くらい。

 あとはザコばかり。

 きっと理想学園はそう思っているはず。

 草津が茶臼高校戦を前に檄を飛ばす。

「おれがエースで四番でキャプテンの草津だ。勝ってカブトの緒をしめよと言う。茶臼高校もおれたちと同じくらい強くなってるかもしれん。気をゆるめずに勝つんだ。おーっ!」

 茶臼高校戦の当日。

 アキラのあの日はほぼ終了した。

 おなかも痛くない。

 体調はまあまあ。

 受ける星見の顔も明るい。

 プレイボールがかかった。

 今度は男樹高校が先攻だ。

 あっさり弓削山と一之倉で一点を取る。

 崎守は三振。

 五番の星見も塁に出た。

 六番の左池が凡退。

 チェンジ。

 アキラはきょう先発だ。

 投球練習を終える。

 星見がサインを出す。

 アキラはサインどおりに投げこむ。

 一番バッターは三球三振。

 しかし二番バッターにはじき返された。

 センター前にクリーンヒット。

 三番バッターのサインでアキラは気づく。

 きょうの星見のサインはおかしいと。

 指で星見を招いた。

 星見がマウンドに来る。

 アキラは口を突き出した。

「どうしてドまん中ばかりを投げさすんだよ? 打たれるじゃないか? ボクは立ちあがりが悪い投手なんだぞ?」

 星見がアキラをなだめる。

「審判を味方につけるためだ。がまんしろ」

「審判を味方につける? どういうことそれ?」

「審判にお前のコントロールがいいと思わせるんだ。第一印象だな。そうすればピンチのときに生きて来る」

「なるほど。ここってところできわどいコースをストライクと判定してくれるように?」

「そうだ。理想学園が得意な作戦だよ。理想学園戦は気をつけるんだぞ。きわどい判定はすべて理想学園有利だと思えばまちがいない」

「それってひいき?」

「いいや。野球の判定をするのは審判だ。機械じゃない。人間なんだ。五年連続甲子園出場を決めてる理想学園だぜ? 理想学園の野球にまちがいはない。そう審判は心のどこかで感じてる。するときわどい判定はたいてい理想学園寄りになる。うちの右天内先輩は送りバントの名手だ。おれがバントをしてアウトになる判定があったとしよう。同じタイミングでも右天内先輩だとセーフと判定される。それが理想学園戦ではよく起こる」

「ふむ。ボクがコントロールが悪い投手だと審判が第一印象を持つ。するとストライクでもボールと判定される?」

「ああ。だから最初はストライク先行で行く。多少打たれても仕方がない。きょうの相手は得点力が低い」

「打たせて取るピッチングで行く?」

「前半はな。乗って来れば好きに投げればいい。コントロールがバラバラになってもリリーフ投手がふたりいる」

「わかった。じゃしばらくはドまん中だね?」

「そういうこと。速い球を投げなくていい。気楽に投げろ。実戦の守備練習も必要だ。みんなのところに打たせる気持ちで投げろ」

「了解」

 アキラは気楽に投げた。

 まだすこし下腹に違和感がある。

 適当にヒットを打たれた。

 守備もばたついている。

 男樹高校は一番と三番で確実に点をあげた。

 茶臼高校はエラーやミスに乗じて点を重ねる。

 練習試合のようなペースで試合が進んだ。

 最終回に来て四対四の同点。

 アキラは三回までに点を取られた。

 男樹ナインの守備も最初は乱れがちだった。

 六回以降アキラは尻あがりに調子をあげた。

 男樹ナインも落ち着いて球をさばきはじめた。

 六回以降の茶臼高校にヒットはない。

 男樹高校の打撃は普段どおりだ。

 弓削山が出る。

 右天内が送る。

 一之倉が返す。

 崎守は気のない三振。

 五番以降は散発。

 九回表。

 男樹高校の攻撃。

 九番のアキラから。

 アキラはあっさり三振。

 つづく一番の弓削山。

 フォアボールを選んで出塁。

 きょう三個目のフォアボールだ。

 本日の弓削山は一打数一安打。

 三フォアボール。

 一エラー。

 全打席出塁。

 二番の右天内が送りバント。

 ツーアウト二塁。

 一之倉が打席に立つ。

 茶臼高校はタイム。

 一之倉で勝負するか次の崎守で勝負するか。

 実績は圧倒的に一之倉だ。

 しかし不気味さは崎守。

 とにかく崎守の存在感は圧倒的。

 一之倉は右ひじがまっすぐに伸びない。

 身体の動きに違和感がつきまとう。

 打ち取りやすい打者にしか見えない。

 キャッチャーがすわった。

 一之倉と勝負だ。

 男樹高校ベンチが一斉にホッとする。

 崎守が見かけ倒しでよかったと。

 一之倉が外角球をファールでのがれる。

 内角に来たストレートを三遊間にはじき返す。

 弓削山が三塁を蹴った。

 レフトからの返球がホームに来る。

 キャッチャーがボールをつかむ。

 弓削山がすべりこむ。

 キャッチャーのミットが弓削山に迫る。

 弓削山がミットをかいくぐる。

 ベースに左手を伸ばした。

 指先がベースにふれる。

 ホームベースをすべり抜けた。

 審判の判定は?

 審判が両手を横に大きく広げる。

「セーフ! セーフセーフ! セーフ!」

 男樹高校が一点を勝ち越した。

 次の崎守が三振。

 五対四で九回の裏へ。

 アキラは三者三振に取る。

 ゲームセット。

 得点だけ見れば苦戦だ。

 けど内容は余裕だった。

 こうして男樹高校の二戦目が終わった。

 出場校が四十校なせいでもうベスト八だ。

 次の試合は四回戦と言わず準々決勝と呼ばれる。

 準々決勝に勝てばベスト四。

 甲子園の一歩手前だ。

 三戦目。

 準々決勝にはやはり理想学園が勝ちあがって来た。

 予想はしていたが強敵だ。

 巨大な壁が眼前に立ちはだかった気になる。

 理想学園戦が近づくにつれてどんどん気持ちが下降した。

 このまま試合を放棄して逃げ出したい。

 五年連続夏の甲子園出場校。

 そのプレッシャーはとても重い。

 理想学園の対戦相手は二校ともプレッシャーにつぶれた。

 自滅と言っていい負け方をした。

 両校ともコールド負け。

 県営球場に向かう前に教頭が校長にあいさつをする。

 教頭の気がかりを聞いた校長が笑った。

「心配しなくていいって教頭。きょうの相手は理想学園だよ。勝てるはずないって」

 教頭も安堵する。

 理想学園はすでに甲子園の優勝候補と新聞で騒がれている。

 新聞は毛利常喜監督の甲子園最多勝がどこまで伸びるかを予想中だ。

 県大会に不安があるとはどの社も書いてない。

 虎丸の旭日高校にすら辛勝すると見ている。

 男樹高校なんてローカル新聞のかたすみにちょろっと試合結果が書かれただけだ。

 それほど理想学園は強い。

 選手の全員と桜子監督が重い気持ちでベンチに入る中。

 教頭だけがニコニコ顔。

 きょうでハゲる心配が消滅するわいと。

 先攻は理想学園だ。

 ベンチ前で円陣を組む。

 毛利監督の指が一本立つ。

 選手の全員がおーと声をあげた。

 つづいて一斉にこぶしを天に突きあげる。

 一糸乱れぬ動きだ。

 この試合前の動きだけでこれまでの対戦校との格のちがいを見せつけた。

 理想学園の一番打者が打席に立つ。

 プレイボールがかかった。

 先発のアキラは投げる。

 一番打者がバントのかまえを見せた。

 アキラたち内野手がダッシュをする。

 打者がバットを引く。

 カウントはストライク。

 二球目もバントのかまえ。

 アキラたちはダッシュ。

 打者がバットを引く。

 ツーストライク。

 三球目はバントからバスター。

 アキラたちはダッシュ。

 あわてて足を止める。

 しかし打球はファール。

 ボールカウントがスリー・ツーになるまでバスターでファールをくり返した。

 バスターに来るとわかっている。

 でもバントのかまえを見せられるとダッシュせざるを得ない。

 一番打者がしつようにファールでねばる。

 プロ野球でもこんなしつこい攻撃はしない。

 一番打者との攻防だけで十球を越えた。

 勝ち投手がひと試合に投げる球数は百二十球前後と言われている。

 一イニングで三人ずつと計算してもひとりに十球なら四イニングで百二十球だ。

 九回をそのペースで投げると二百七十球に達する。

 どんなに体力のある投手でもへばる球数だ。

 そこにバントのかまえでダッシュを強制させる。

 たまったものではない。

 けっきょく一番打者がフォアボールで塁に出た。

 二番打者も同じ戦法を取る。

 そのうえ一塁に出た走者が内野陣を威嚇した。

 離塁が大きい。

 アキラは一塁にけんせい球を投げる。

 ここでも球数だ。

 男樹高校は完全に理想学園の罠にはまった。

 点を取るのが目的ではなくアキラを疲れさせる作戦だ。

 野球は九回まで攻撃がつづく。

 その間に勝ち越せばいい。

 ピッチャーさえつぶしてしまえば勝ちは目前。

 そういう先を見越した野球を理想学園の毛利監督は進める。

 副作用として選手たちにも余裕が出る。

 一回に得点できなくてもかならずチャンスは来る。

 あせらなければ勝てると。

 野球は不思議なゲームだ。

 余裕のないチームに勝ちはない。

 一回表のアキラは頭に血がのぼった。

 あせりだけが心のすべてを占める。

 余裕などどこにもない。

 バントにそなえる。

 盗塁を警戒する。

 ストライクを入れなきゃならない。

 考えることが山ほどあった。

 汗がひたいから目に入る。

 真夏の太陽がつらい。

 一塁側から響く理想学園の応援がうるさい。

 アキラは一塁ランナーを無視しようと決めた。

 打者に目をすえて投げる。

 一塁ランナーが走った。

 盗塁だ。

 星見が一刻も早く捕球しようと手を伸ばす。

 ミットに入る直前。

 二番打者がバントを決めた。

 ピッチャー前に転がる。

 アキラは走った。

 ボールを取る。

 星見が指示を出す。

「ファースト!」

 アキラはふり向く。

 ボールを一塁に投げた。

 カバーに入った二塁手の二村のグラブにパシッと球が収まる。

 二番打者は一塁を駆け抜けた。

 二村の捕球音が打者より一瞬速い。

 しかし審判の判定はセーフ。

 アキラはカチンと来た。

 口を開く。

「いまのはアウトだろ!」

 星見が走って来た。

 アキラをなだめる。

「がまんしろ凪野。理想学園戦ではこれがよくある。そう説明したろ」

 アキラは思い出す。

 たしかに星見はそう言った。

 けど納得はできない。

 不満がアキラの中でくすぶる。

 ワンアウト三塁のところがいまの判定でノーアウト一塁三塁だ。

 初回いきなりのピンチ。

 不満を引きずったままアキラは次の三番打者に投げた。

 三番までバントの構えだ。

 アキラはダッシュをする。

 ツーストライクまではバントのかまえ。

 ツーストライクからはバスターでファールを連発する。

 打つ気がないとしか思えない。

 けっきょく三番もフォアボール。

 ノーアウト満塁。

 四番打者までがバントのかまえ。

 四番はアキラと内野陣を引っかき回した。

 あげくスリーバントをした。

 しかしファール。

 スリーバント失敗。

 やっとワンアウト。

 五番もバントのかまえだ。

 フォアボールを選ばれた。

 押し出しで一点。

 なおワンアウト満塁。

 六番もやはりバント。

 スリーバントに来た。

 サードの三笠が取って本塁に投げる。

 まずワンアウト。

 次に星見が一塁に投げた。

 一塁もアウト。

 ダブルプレイ。

 やっと一回の表が終わった。

 結果はノーアウト満塁から一点を取られただけ。

 男樹高校にすれば不幸中の幸い。

 しかしナイン全員が打ちひしがれた。

 アキラは満塁ホームランをくらったよりへこんだ。

 いっそ満塁ホームランのほうが気が楽だ。

 こんないやらしい攻撃を九回までされるのかと思うと疲れがドッと肩に乗る。

 真綿で首を絞めるとはこういう状態かもしれない。

 一回の裏。

 男樹高校の攻撃。

 打席に一番の弓削山が入る。

 理想学園の右投手が初球をドまん中にほうった。

 明らかな失投だ。

 ホームランコース。

 弓削山が打つ。

 カキーン!

 快音を残して打球はセンターへ。

 センターがバックする。

 まだバックする。

 フェンスの手前でセンターがクルッと身体をこちらに向けた。

 捕球体勢に入る。

 グラブを持ちあげた。

 キャッチする。

 センターフライだ。

 ワンアウト。

 アキラは意外顔を星見に向けた。

「どういうこと? 弓削ちゃんが絶好球で凡退するなんて?」

 星見が首をかしげる。

「さあ?」

 崎守が口をはさむ。

「銀乃丞はドまん中の球を打つ経験がすくないからだ」

 アキラは崎守に顔を向けた。

「はい? なにそれ? 普通はドまん中の球を打つんじゃないの?」

「並のバッターはそうする。けど銀乃丞はちがう。銀乃丞は自他ともに認める好打者だ。ピッチャーはドまん中に投げて来ない。内角や外角ギリギリに投げて来る。フォアボールになってもかまわない。そんな球を初球からな。銀乃丞はピッチャーのその決め球を待つ。内角高めや外角低めの決め球を絶妙のバットコントロールで野手のあいだを抜く。または野手の頭を越えさせる。銀乃丞のバッティングは打つんじゃない。斬るんだ」

「斬る?」

「そう。刀のきっ先で相手の鼻の頭に落書きをするように斬る。そういうこまかいテクニックが銀乃丞の真骨頂だ。おれなんかはどっしり腰をすえて来た球をドカーンと打つ。おれにテクニックはねえ。銀乃丞はおれとちがってテクニシャンだ」

「そうか。そのせいでドまん中の球を打つ経験がすくない?」

「ああ。ホームランバッターは投手のドまん中の失投を狙う。銀乃丞は外角低めに落ちる球を最初から狙う。しかもホームランを狙わない。中学時代に銀乃丞が打ったホームランは一本だけ。その一本はランニングホームランだ。銀乃丞はスタンドにほうりこんだ経験がねえ。いまのはつい力を入れすぎたんだろう。それでセンターまで飛んだ。ドまん中の球を狙う経験がないから力加減がわからないんだ。いつもの銀乃丞は力を抜く。センター前に落とすのが銀乃丞本来のバッティングだ」

 アキラは思案顔を作る。

「てことはさ。弓削ちゃんってドまん中の球が苦手?」

「苦手ってわけじゃない。慣れればヒットにできる。だがこの試合中に慣れるとは思えないな。ドまん中に球を集められると野手の正面やフライアウトばかりになるんじゃないか? ただでさえ理想学園が相手だ。プレッシャーが銀乃丞にのしかかってるはず。銀乃丞のバッティングは精密機械だ。力加減がつかめなければすべて凡打に終わるだろう」

 アキラは星見と顔を見合わせた。

 まさかそんな穴が弓削山にあるとは思わなかった。

 一番の弓削山が出塁できないと男樹高校に得点チャンスはなくなる。

 アキラたちの話のあいだに右天内が空ぶりの三振に倒れた。

 右天内の送りバントは県内一だ。

 しかし打率はゼロ。

 ふるとバットにボールが当たらない。

 セフティバントも足が遅いせいで苦手だ。

 先にランナーが出ていないと右天内はアウト製造器にしかならない。

 崎守がベンチを出る。

 ネクストバッターズサークルに向かった。

 三番の一之倉が打席に入る。

 初球が外角に来た。

 ボール球だ。

 ワンボール。

 二球目は内角。

 これもボール。

 ツーボール。

 三球目。

 ドまん中にドロップ。

 頭のあたりから曲がり落ちる。

 一之倉はボールと見た。

 しかし判定はストライク。

 ツーボール・ワンストライク。

 四球目。

 内角に食いこむシュート。

 身体に近い。

 一之倉はこれもボールと見た。

 だが判定はやはりストライク。

 ツーボール・ツーストライク。

 五球目。

 一之倉は外角に来ると読む。

 けど来たのはドまん中。

 ストライクコースからボールに落ちるフォークボール。

 一之倉は引っかけてセカンドゴロ。

 フォークだと気づいた瞬間にはもうバットにボールが当たっていた。

 一之倉が懸命に走る。

 でも一塁フォースアウト。

 スリーアウト。

 チェンジ。

 アキラは目を見張る。

 男樹高校自慢の三番までがあっさりと倒れた。

 まるで大人と子どもだ。

 プロ野球の選手が小学生と野球をやっている。

 そんな印象をアキラは持った。

 強い強いとは聞いていた。

 けどどう強いのかわからなかった。

 ビデオを見ても平凡なチームとしか思えない。

 しかし実際に対戦するとその強さがきわだつ。

 野球では当たり前のことを当たり前にこなすのが最もむずかしい。

 理想学園は当たり前のプレイを公式戦で確実に実現できる練習を積んだチームだ。

 ひとすじなわでは行かない。

 そうアキラはくちびるをかむ。

 二回の表の攻撃も理想学園はバント戦法だ。

 星見がアキラにダッシュをやめさせた。

 アキラがつぶれては確実に負ける。

 理想学園は草津におさえられるチームではない。

 能代のナックルも通用するか疑問だ。

 ナックルはちょこんと当てるバッティングに弱い。

 日本にナックル投手がいないのは手の大きさもある。

 しかし日本のバッターが小わざを得意にしていることも理由のひとつだ。

 ナックルは思い切りふると凡打に終わる。

 けどバント攻めをされると守り切るのは容易でない。

 バントの天敵は速球だ。

 ナックルも当てるだけならバットに当たる。

 星見は考えを切り替えた。

 敵が待球戦法で来るのならこちらは省エネ戦法しかない。

 アキラにドまん中低めの球ばかりを投げさせる。

 きょうのアキラの球は低めから浮いて来る。

 絶好球に見えるが実は高めのきびしい球だ。

 ひとりの打者につきほぼ三球で勝負がついた。

 バスターヒッティングがファールにならずフェアフライになったからだ。

 この調子で進めばアキラは九回までもつ。

 しかしと星見は考える。

 理想学園は次の手を打って来るに決まっている。

 どこまで理想学園をおさえられるか星見にはわからなかった。

 二回の裏。

 男樹高校の攻撃。

 先頭打者は崎守。

 左打席に立つ崎守の素ぶりに意欲が感じられない。

 ネクストバッターズサークルの星見は歯をかみしめた。

 こんな試合でこそ四番の崎守に打って欲しい。

 なのに崎守は理想学園の投手が気に入らないらしい。

 決勝戦を前に四番をはずす決定をした監督の気持ちが痛いほど星見にはわかる。

 崎守弥之助はイライラする四番打者だ。

 このまま負けると夏の大会で四番の崎守はノーヒットで終わる。

 草津キャプテンといい勝負だ。

 ところが不思議な作戦を理想学園は取った。

 キャッチャーが立ちあがる。

 敬遠だ。

 回は二回。

 得点は一対ゼロ。

 その場面でノーアウトの先頭打者を敬遠?

 星見は信じられない。

 こんな野球がありか?

 いくら崎守が四番でもノーアウトだぞ?

 一球も投げないで敬遠?

 しかもここまでの二試合でノーヒットの崎守を?

 星見の疑念をよそに崎守が一塁に歩く。

 星見の打順が来た。

 バッターボックスで星見は考える。

 強打かバントか。

 後続に期待してここはバントだろう。

 星見が送りバントを決めた。

 ワンアウトランナー二塁。

 一打で同点の場面だ。

 つづく六番の左池が打席に入る。

 左池が気負った。

 おれが一本決めてやる。

 そんな顔だ。

 左池が初球から手を出す。

 外角球をファール。

 ワンストライク。

 二球目は内角球をファール。

 ツーストライク。

 三球目はドまん中にフォークボールを落とされた。

 あえなく空ぶり。

 三振でツーアウト。

 七番の二村が左打席に立つ。

 かまえた。

 ツーアウト二塁。

 おれが打たなきゃ誰が打つ。

 そんな顔だ。

 一球目は内角に食いこむシュートが来た。

 詰まってファール。

 ワンストライク。

 二球目は外角に逃げるスライダー。

 かろうじてバントの先に当たるがファール。

 ツーストライク。

 三球目はまん中にフォークが来た。

 空ぶりの三振。

 スリーアウト。

 チェンジ。

 理想学園のピッチャーは決め球がフォークらしい。

 厄介な落差だ。

 ストライクコースぎりぎりからボールゾーンに落ちる。

 見送ってもストライクと判定されそうな球だ。

 かといって手を出しても当てるのはむずかしい。

 ツーストライクになる前に打つのがいいはず。

 だがカウントを取る球もキレがいい。

 捕手のリードもよく男樹ナインを研究している。

 野球というより心理戦だ。

 男樹ナイン対毛利監督。

 そんな対戦だろう。

 三回の表。

 理想学園は強打とバントを交互にして来た。

 初回にこの攻撃をされなくてよかったと星見はうなずく。

 アキラは肩が温まったらしく球が一回より伸びている。

 強打に出た打者は空ぶりの三振。

 バスターはポップフライ。

 三人で攻撃が終わった。

 三回の裏。

 男樹高校の攻撃。

 八番九番一番が三者凡退。

 弓削山はやはりドまん中の球に力加減が合わない。

 今度はショートライナーに倒れた。

 実況のアナウンサーはいまこう言っているはずだ。

 会心の当たりでしたが不運でしたねと。

 実際は不運ではない。

 理想学園の計算どおりだ。

 星見は舌を巻く。

 まさか好打者を打ち取るためにドまん中の絶好球を三球つづける野球があるとは。

 理想学園の野球は斬新だ。

 野球を知らない者が見ればまさかの連続。

 熟知している者にとってはあまりの緻密さに驚くばかり。

 四回の表。

 理想学園。

 三者凡退。

 四回の裏。

 男樹高校の攻撃。

 二番の右天内があっけなく三振。

 これは男樹ナインも納得。

 右天内にヒットが出るほうが驚き。

 三番の一之倉が打席に入る。

 弓削山に期待できない以上この一之倉だけがたより。

 一之倉には初球からフォークボールが来た。

 一之倉がフォークにタイミングが合わない。

 初球からフォークが来ると思ってなかったらしい。

 初球空ぶりでワンストライク。

 二球目。

 ドまん中にチェンジアップ。

 チェンジアップはストレートと同じフォームで投げるゆるい球だ。

 打者はストレートが来たと思ってふる。

 すると球が遅くてバットを空ぶりしたあと球がミットに吸いこまれる。

 一之倉はこのチェンジアップをフォークボールだと見た。

 落ちるボールを叩こうとボールの下を空ぶりする。

 ツーストライク。

 三球目。

 まん中にスライダー。

 これもフォークボールと同じ球速で来た。

 一之倉は落ちる前に叩こうとバッターボックスの一番前に踏み出した。

 打つ。

 しかしボールが横に逃げる。

 バットの芯をはずれた。

 ファーストゴロ。

 期待の一之倉が倒れた。

 ツーアウト。

 四番の崎守が打席に入る。

 また捕手が立ちあがった。

 これも星見には信じられない。

 ツーアウトでランナーなし。

 回は四回だ。

 どうして敬遠をする?

 打つ気配は感じられない崎守を?

 星見の疑問に関係なく崎守が一塁に進む。

 星見の打順が来た。

 バッターボックスで星見は読みを入れる。

 おれにも初球はフォークで来るのではないか?

 このピッチャーはフォークボールが得意なようだ。

 しかし内角や外角に決めるコントロールはないらしい。

 ここまで見たフォークはすべてまん中。

 ひざ小僧のあたりからストンと落ちる。

 星見はヤマをかけた。

 初球はフォークだと。

 初球が来た。

 落ちるのを計算して思い切りふる。

 カーン!

 きれいにすくいあげた。

 打球はショートの頭を越える。

 男樹高校の初ヒットだ。

 ランナー一塁二塁。

 ツーアウトで六番の左池に回る。

 左池が打席に立つ。

 左池も初球をフォークと読んだ。

 そこへまん中に打ちごろの球が来た。

 左池は思い切りすくいあげる。

 コーン!

 フォークではなくチェンジアップだった。

 高い高いセカンドフライ。

 セカンドがかまえた。

 取る。

 スリーアウト。

 理想学園はフォークボールを見せ球に男樹高校を翻弄する作戦らしい。

 理想学園の控え投手は五人。

 エースがフォークボールを投げ疲れても次から次へ活きのいい投手が出て来る。

 エースを疲れさせる作戦は理想学園には効かない。

 五回の表。

 理想学園はまたも三者凡退。

 アキラはどんどん調子をあげている。

 それだけに星見は点が欲しい。

 きょうのアキラなら一点を守り切って勝てる。

 しかし理想学園から二点をもぎ取るのは至難のわざに思える。

 五回の裏。

 男樹高校の先頭は七番の二村。

 ジャグリングの名手だ。

 守備は最近かなり上達した。

 しかし打撃はいまひとつ。

 打席で二村はふとひらめいた。

 フォークボールは打ちに行くから空ぶりする。

 ではバントをしてみればどうだろう?

 フォークボールはストレートより遅い。

 落ち方もだいたいつかめた。

 ここはひとつセーフティバントで行こう。

 二村はそう決めた。

 素知らぬ顔でバットをかまえる。

 いかにも打つぞと身体を乗り出す。

 初球にフォークボールが来ると決めた。

 来なければおれの負けだと。

 初球が来た。

 二村は落ちる球を頭で描く。

 ジャグリングの要領でバットを出す。

 コン!

 バットに球が当たった。

 フォークボールだったらしい。

 三塁線に転がる。

 二村が走った。

 一塁目ざして必死で駆ける。

 三塁手がボールをつかんだ。

 一塁に投げる。

 二村の足が一塁ベースを踏む。

 一塁手がボールを捕球した。

 審判の判定は?

「セーフ!」

 やった!

 そう二村がこぶしを固める。

 ノーアウト一塁だ。

 星見が監督に代わりつづく八番の三笠にバントのサインを送る。

 三笠がバットをかまえた。

 初球のストレート。

 内角の高めだ。

 三笠がバントをする。

 しかし打球はフライになった。

 サードがなんなくキャッチする。

 ワンアウト。

 ランナーは一塁のまま。

 次はアキラだ。

 星見がやはりバントのサインを出す。

 アキラはフォークボールを見たことがない。

 ソフトボールにフォークボールはなかった。

 前の打席はスライダーとストレートとシュートしか来なかった。

 フォークボールを投げるほどの打者ではないと思われているらしい。

 アキラには初球ストレートが来た。

「きゃっ!」

 可愛い悲鳴をあげてアキラはバットを合わせる。

 けど打ちあげた。

 ファーストフライだ。

 一塁手がボールを取る。

 ツーアウト。

 やはりランナーは一塁のまま。

 一番バッターの弓削山が打席に立つ。

 理想学園の投手がまたドまん中に投げた。

 弓削山が身体を引く。

 ドまん中の球を外角ギリギリの球に変えた。

 一二塁間をやぶるクリーンヒット。

 見ていた崎守が声を出す。

「なるほど。その手があったか。ドまん中だからヒットにできない。身体をずらせて内角か外角にすればヒットになると」

 一塁にいた二村が三塁まで走る。

 打った弓削山は一塁ベース上でガッツポーズをしている。

 さすがはたよりになる男。

 いやオカマ。

 しかし打順が悪い。

 ツーアウトで二番の右天内だ。

 ワンアウトなら送りバントがありだがツーアウト。

 右天内がふるしかない。

 右天内がふった。

 三回。

 どれも球に当たらなかった。

 三球三振でチェンジ。

 走者が一塁三塁に残塁。

 アナウンサーは言うはずだ。

 惜しいチャンスをつぶしましたねえと。

 六回の表。

 理想学園はまたも三者凡退。

 アキラはますます絶好調。

 アキラの好調が男樹ナインを追いこむ。

 ピッチャーがこんなに好投しているのだからなんとしても点を取らなきゃと。

 六回の裏。

 打順は三番の一之倉から。

 きょうの一之倉はフォークボールに翻弄されている。

 相手が理想学園だというプレッシャー。

 そこにアキラの好投。

 この試合に勝たないと野球部は休眠。

 男樹高校の得点はまだゼロ。

 とにかく一点が欲しい。

 重圧ばかりだ。

 光が見えない。

 一之倉はあせる。

 おれが打たなきゃ誰が打つ。

 そんな思いも強い。

 一之倉はプレッシャーに弱い。

 格下の相手と対戦するときはプレッシャーを感じない。

 けど理想学園のように明らかに格上の相手にはプレッシャーを誰よりも感じる。

 打たなきゃならない。

 そう思えば思うほど泥に足を取られた。

 開き直ったり楽天的に考えたりは苦手だ。

 すっかりバッティングを狂わせた一之倉にフォークボールが来る。

 一之倉が空ぶり。

 ワンストライク。

 つづくチェンジアップもまた空ぶり。

 ツーストライク。

 最後のストレート。

 タイミングがぜんぜん合わない。

 空ぶりでワンアウト。

 きのうまでの一之倉ならホームランにしたボールだ。

 ひとつ歯車がずれると打者はとたんに打てなくなる。

 そして打てなかったことが次の打席に尾を引く。

 悪循環となって打率がどんどん落ちる。

 俗に言うスランプだ。

 いまの一之倉は浮上するきっかけがない。

 きょうの一之倉はたよりになりそうもない。

 四番の崎守が打席に入る。

 またまたまた捕手が立つ。

 星見はこの敬遠の意味がわからない。

 なんらかの心理作戦だろうか?

 三番の一之倉にさらなるプレッシャーをあたえるためわざと崎守を敬遠している?

 理想学園は三番の一之倉なんか敬遠したい打者と見てないぞと?

 星見の思惑と関係なく崎守が一塁に行く。

 崎守はきょう三度目の敬遠だ。

 打席に立てばすべて三振だろうに。

 星見がバッターボックスに入る。

 舐められてるのはおれか?

 通常はそうだ。

 五番と六番はヒットを打たない。

 そう見ているから四番を敬遠できる。

 しかし崎守のしつような敬遠策はもっと深い意味がありそうだ。

 ノーアウトランナーなしでも敬遠している。

 崎守を敬遠しなければならない理由があるのだろう。

 ワンアウトで走者が一塁だ。

 得点差は一点。

 送りバントのケース。

 しかしツーアウト二塁で左池が打てるとは思えない。

 星見はさっきフォークボールをヒットにしている。

 もう一度フォークを打てばチャンスが広がる。

 星見が打席に立つ。

 星見はバントを考えていない。

 けど理想学園バッテリーはバントを警戒している。

 初球を外角の高めにはずした。

 ワンボール。

 二球目は外角低め。

 ツーボール。

 三球目。

 外角にはずれる球が来た。

 星見が見送る。

 しかしシュートだ。

 外角からストライクコースに入る。

 ふればヒットコースだった。

 ツーボール・ワンストライク。

 四球目。

 また外角ぎりぎり。

 今度は星見がふる。

 でもスライダーだ。

 バットの先端をかすめるファール。

 ツーボール・ツーストライク。

 追いこまれた。

 五球目。

 ドまん中に打ちごろの球が来た。

 星見がふった。

 すくいあげる。

 フォークボールだと。

 けど来たのはチェンジアップ。

 サードフライになった。

 三塁手がかまえる。

 ボールが落ちて来た。

 取る。

 ツーアウト。

 ランナーは一塁。

 左池はフォークボールに目がついて行かない。

 三球三振でチェンジ。

 ランナーは一塁に残塁。

 七回は両チームとも三者凡退。

 八回の表。

 理想学園はまた三者凡退。

 いよいよアキラは打てる投手ではなくなって来た。

 放送席では今大会屈指の右腕投手現わるとアナウンサーが唾を飛ばしているだろう。

 最高速も百五十キロに近いはず。

 八回の裏。

 男樹高校の攻撃。

 先頭バッターは弓削山。

 前打席でドまん中の球を身体を引いてヒットにした。

 この八回に点が入らなければ次の九回は下位打線だ。

 男樹高校が負けるだろう。

 トップバッター弓削山の肩に男樹ナイン全員の期待がのしかかる。

 弓削山が左打席に立った。

 試合中はまじめな顔だ。

 オカマには見えない。

 やや内股なだけ。

 初球がドまん中に来る。

 弓削山が身体を引いた。

 バットをふる。

 そのときボールが弓削山を追いかけた。

 えっと思った瞬間。

 弓削山がバットをふり切った。

 カキーン!

 バットの真芯に当たった音が県営球場に響く。

 ショートまっ正面のライナーだ。

 火の出る当たりだった。

 けどボールはショートのグラブの中。

 ワンアウト。

 アキラは星見に顔を向けた。

「いまの。どうなったわけ?」

「ドまん中に直球じゃなくシュートが来たんだ。弓削山が身体を引いたぶんボールが弓削山を追いかけた。弓削山は外角の球にしたつもりが結果的にドまん中の球になった。それで弓削山はボールを打ちそこねた。完全にバットの真芯に当てちまった」

「だからショートの正面に?」

「ああ。いい当たりをしすぎるとそうなる。こちらが攻略法を見つけると次は理想学園がもう一歩先を行く。強いはずだな」

「じゃボクら勝てない?」

「そんな顔をするな凪野。攻撃はこの回を入れて二回残ってる。勝てるさきっと」

 言いながら星見がくちびるをかむ。

 勝つ見こみはどこにもない。

 たのみの一之倉はフォークボールで完全に打撃を狂わされた。

 フォークボールにバットが当たったのは五番の星見と七番の二村だけ。

 万が一のある崎守は全打席敬遠。

 一点差が重い。

 ホームベースがとにかく遠い。

 ここに来る前の二戦でこんな重さは感じなかった。

 星見は思い知る。

 これが五年連続甲子園出場校かと。

 二番の右天内があっけなく三振に倒れた。

 もてあそぶように三球連続フォークボールだ。

 右天内はかすりもしない。

 もっとも右天内はフォークボールでなくても当たらないが。

 三番の一之倉が打席に入る。

 ツーアウト。

 ランナーはなし。

 一点負けている。

 ここで一発ホームラン。

 そんな気負いが一之倉の顔に浮かぶ。

 スタンドの応援も船岡高校戦で見せたサヨナラホームランを再望する声ばかり。

 初球が来た。

 ドロンと落ちるカーブ。

 ドロップだ。

 意表を突かれた一之倉が見送る。

 ワンストライク。

 二球目。

 一転してストレートがひざ元に入る。

 一之倉は手が出ない。

 ツーストライク。

 三球目。

 ドまん中にスピードを殺した球が来た。

 一之倉のバットに迷いが見える。

 ボールの下をふった。

 しかし来たのはフォークボールではない。

 スライダーだ。

 三振。

 スリーアウト。

 チェンジ。

 星見は天を見あげた。

 負けたなと。

 きょうも快晴の夏空だ。

 本日をもって男樹高校野球部はまた休眠生活に入る。

 おれもレフトにもどろうと。

 九回の表。

 理想学園の攻撃。

 アキラの快調さはつづく。

 波乱もなく三者凡退に打ち取った。

 こうなるとつくづく一点が取れないのが痛い。

 二点取れば勝ちだ。

 しかしその二点が果てしなく遠い。

 甲子園より遠そうだ。

 九回の裏。

 男樹高校最後の攻撃。

 バッターは四番の崎守から。

 またまたまたまた捕手が立ちあがる。

 星見は信じられない。

 一点勝っているチームがノーアウトランナーなしで四番を敬遠?

 星見は理想学園の毛利監督の頭を切り開いて中身を見たい。

 ランナー一塁でもし出会い頭のホームランが出ればサヨナラだ。

 ランナーなしで崎守にホームランを打たれても同点。

 どちらが危険か判断ができないのだろうか?

 崎守が一塁ベースに立つ。

 星見が打席に入った。

 一発狙って毛利監督にひと泡ふかせてやる。

 星見が気負う。

 しかし。

 捕手が立ちあがった。

 ええっ?

 星見はさらに混乱した。

 ノーアウトだぞ?

 走者は一塁にひとり。

 それでおれまで敬遠かよ?

 ノーアウトで走者が一塁と二塁。

 その場合ホームランでなくても単打で同点。

 二塁打なら逆転サヨナラ。

 毛利監督の考えが星見にはますますわからない。

 ノーアウトランナー一塁二塁で六番の左池。

 九回の裏だ。

 一点ビハインド。

 左池はガチガチ。

 初球いきなりのフォークボール。

 左池が一回転するほどの大ぶり。

 ワンストライク。

 二球目もフォーク。

 空ぶり。

 ツーストライク。

 三球目。

 やはりフォーク。

 空ぶりの三振。

 ワンアウト。

 ランナーは進めず。

 一塁二塁のまま。

 七番の二村が打席に立つ。

 五回にフォークボールをバントヒットしたせいで七回にはフォークを投げて来なかった。

 この回もフォークはないはず。

 カーブ・ストレート・シュート。

 その三つのどれかが来る。

 二村が気負ってかまえる。

 けど捕手が立つ。

 二村も敬遠だ。

 二村がけげんな顔で一塁に歩く。

 ワンアウト満塁。

 星見はこの敬遠なら理解できる。

 ワンアウト一塁二塁とワンアウト満塁。

 同点や逆転の危険はさほど変わらない。

 すると満塁のほうが守りやすい。

 投手が内野ゴロを打たせる。

 ボールをつかめばどの累でもいいから踏む。

 そこでひとつアウトにできる。

 次にどこでもいいから走者が到達していない塁に投げる。

 ならダブルプレイで試合終了だ。

 七番の二村は五回にフォークボールをバントして内野安打にしている。

 八番の三笠はフォークにタイミングが合っていない。

 九番のアキラにはフォークボールすら投げて来ない。

 星見は自分と七番の二村の敬遠の意味を納得した。

 八番九番で確実にアウトを取る作戦だ。

 一番の弓削山にさえ回さなければ理想学園の負けはない。

 八番の三笠にもフォークボールの連投が来た。

 三笠がぶんぶんふり回す。

 しかし三球三振。

 ツーアウト。

 最後の打者としてアキラは打席に立つ。

 星見は眉をしかめた。

 アキラは投手としてなら一級品だ。

 けど打者としては三流。

 ここまでの三試合まだヒットがない。

 男樹高校でヒットのない打者はアキラと崎守と右天内だけ。

 最もたよりになりそうにないのがアキラだ。

 星見は二塁上でタイムを要求する。

 打席のアキラに走り寄った。

「凪野。おれが魔法の言葉を教えてやる。ハンバーグ定食だ」

 アキラは目を丸くする。

「ハンバーグ定食?」

「そうだ。ハンバーグ定食と叫びながらバットを思い切りふれ。球はセンター前に飛ぶはずだ」

「どうして?」

「いや。理由なんかない。魔法だからだ。だまされたと思ってやってみろ。かならずヒットになる。そういう呪文だ」

「ハンバーグ定食が?」

「そう。ハンバーグ定食がだ」

「うん。わかった。やってみるよ。あのさ星見。試合とは関係ないんだけどさ。ボクのことアキラって呼んでくれない? ボクもきみのことカナメって呼びたい。だめ?」

 星見が眉を寄せた。

 一瞬考える。

「だめ」

「どうして?」

「アキラ。いや凪野。お前をアキラと呼ぶとキスしそうになる。だからお前もおれのことはカナメと呼ばないでくれ。アキラカナメじゃ恋人同士みたいだ。おれはその趣味じゃない。なのにおかしな気持ちになりそうだ。たのむからそれはかんべんしてくれ。そっちの世界に行くと社会復帰できなくなる」

「ふふふ。それもそうだね。そうかあ。ボクにその気になっちゃうんだ。なんかうれしいなあ。くふふ。わかった。取りあえずハンバーグ定食だね?」

「ああ。思い切りふるんだぞ」

「了解」

 タイムが解けた。

 星見が二塁ベースにもどる。

 アキラはホクホク顔。

 星見がボクにキスしそうだってさ。

 いやーん。

 ボクら恋人同士になれるかも?

 アキラは舞いあがった。

 ハンバーグ定食とだけ考えてバットをかまえる。

 初球のストレートが来た。

「はぁんばぁぐてぃしょぉくぅ!」

 思い切りふった。

 球なんか見ていない。

 目はセカンドの星見に釘づけ。

 カキーン!

 打球が二遊間に飛ぶ。

 ショートとセカンドが球に飛びつく。

 ショートのグラブの先を球がかすめた。

 センターに抜けて行く。

 スタートを切っていた三塁の崎守が本塁を踏む。

 まず同点。

 つづいて二塁走者の星見も三塁ベースを蹴る。

 センターがバックホームをする。

 星見が足からすべりこむ。

 キャッチャーのミットがボールをつかんだ。

 星見の足にミットが迫る。

 ホームベースは星見の足の先十センチと遠い。

 タッチされた。

 本塁上のクロスプレイだ。

 タイミングはアウト。

 審判の手がたてにあがる。

 判定はアウト。

 チェンジ。

 延長に突入。

 しかしボールがキャッチャーのミットから転げ落ちている。

 コロコロとホームベースの横を転がった。

 星見がボールと審判の顔を見くらべる。

 理想学園の捕手が顔をしかめた。

 いったんアウトの判定を出した審判の両手が左右に大きく広がる。

「セーフ! セーフセーフ! 試合終了!」

 一対二。

 逆転サヨナラ勝ち。

 勝利打点は凪野アキラ。

 負けた理想学園が淡々とホームベースに整列する。

 誰も泣いていない。

 負けてなお強さを感じさせる。

 この平常心が怖ろしい。

 アキラは一塁からもどった。

 口をとがらせる。

 星見にからむ。

「星見。あんな魔法の呪文があるならさ。なんでもっと早く教えてくれないんだよぉ? ヒットをバカスカ打ててこんな苦戦にならなかったのにさ」

 星見が頭をさげた。

「すまん。さっきのは嘘だ」

「嘘?」

「そう。インチキ。マンガで読んだだけなんだ。先輩が寮に残してったゴルフマンガにワンタンメンでふれと書いてあった。ゴルフがワンタンメンなら野球はハンバーグ定食かなって」

「そ。それだけ? それだけの根拠でふらせたわけ?」

「そう。医者の使うテクニックに偽薬ってのがある。ただの小麦粉をよく効くクスリだと言って患者に飲ませる。すると五割の患者が小麦粉のニセグスリで治るそうだ。お前はその五割だと思った。すまん」

「なんだよそれぇ? それじゃボクって単細胞のお調子者みたいじゃないか。そんなのに引っかかって打っちゃったわけぇ? そりゃあないよぉ」

 理想学園の捕手と投手がアキラたちの会話を耳にしてクスクスと笑う。

 両校ナインが礼をする。

 試合終了のサイレンが鳴り響く。

 理想学園の投手がアキラに手をさし出した。

「きみはいい投手だ凪野アキラくん。バッティングでも完敗だったな。おれたちをやぶったんだ。絶対に甲子園に行けよ」

「は。はあ」

 アキラは頭をかく。

 甲子園の前に虎丸という大ヤマがそびえている。

 虎丸の旭日高校はこのあとの第二試合だ。

 勝敗に関係なく虎丸を見て帰ろうと話が決まっている。

 男樹高校はこうしてハンバーグ定食で理想学園戦を乗り切った。

 ベンチにもどると教頭がまた泣いている。

 優勝候補の理想学園に勝ったんだ。

 泣いてもしょうがない。

 そうアキラたちは思う。

 しかし教頭はこう胸の内で叫んでいた。

「うおおっ! 毛がまた抜けるぅ! なんでお前ら勝つんだぁ! わしをハゲにしたいのかぁ!」

 優勝候補に勝ったことでドッと取材陣が増えた。

 アキラは星見とツーショットで写真を撮られる。

 あとは全員が思い思いの質問をされた。

 わけがわからない。

 インタビューや取材が終わった。

 男樹ナインは着替える。

 三塁側のスタンドに全員で移動した。

 旭日高校のチアガールに混じって桃子たち女子陸上部員たちの顔も見える。

 桃子がアキラを見つけた。

 アキラに寄って来る。

「理想学園戦。勝利おめでとう」

「ありがとう桃子ちゃん。いつも応援ありがとうね」

 桃子の眉が曇った。

「うん。でもねえ。最後まで応援してあげたいんだけどさ。そのう。虎丸くんと戦うことになったらあたしたち」

「わかってるよ。桃子ちゃんは旭日高校生だもの。虎丸を応援するんだよね?」

「そうなのよ。あたしさあ。とっても複雑。男樹高校も優勝して欲しいしうちも負けて欲しくないの。でもここまで来たら戦うのは時間の問題よね?」

「戦えるといいんだけどね。虎丸は勝つだろうけどうちがねえ?」

 次はベスト四。

 準決勝だ。

 きょうの虎丸の相手は弱い。

 虎丸がベスト四に進むのはまちがいない。

 しかし準決勝では抽選をやり直す。

 虎丸以外の二校と当たって勝てるだろうか?

 優勝候補の一角である愛美学院も勝ち進んでいる。

 虎丸戦の前に愛美学院と当たれば負ける率が高い。

 愛美学院はカネにものを言わせる成金校だ。

 選手は素質のある者ばかり。

 高卒後すぐプロに進める才能ばかり。

「愛美学院になんか負けちゃいやよ。おカネで野球に勝つなんて邪道だわ」

 桃子は言うが粒よりの才能を集めたチームは強い。

 理想学園は平凡な高校生をきたえあげて強豪にしている。

 才能のある選手たちの集まりのほうが地力は上だろう。

 アキラはそのとき思い出した。

 気にかかっていたことを。

「あのさ桃子ちゃん。若竹真由美って人。知ってる?」

 桃子が声をひそめる。

 アキラの耳に口をつけた。

「若竹真由美? あの女がなにかしたの?」

 アキラも声を落とす。

 ふたりでひそひそ話がはじまった。

「知ってるんだね? その若竹さんがどこに住んでるかわかる?」

「わかるわよ。同じクラスだもの。生徒名簿に書いてあったはず。でもそんなの聞いてどうしようっての? あれ暗い女よ。一年のときに自殺未遂だかの事件を起こしちゃってさ。以来学校に来たり来なかったり。進級もぎりぎりなほどよ? クラスでもなにも話さないわ。アキラくん。きみ。あんな暗い女が好み?」

「そうじゃないよ。その自殺未遂の原因がボクらの野球部にあるんだって。それでひと言断っときたくて。ボクらが野球をやって気を悪くしてないかと思ってさ」

「なるほど。あの女ならワラ人形に釘を打ちこみかねないもんね。わかった。調べて連絡するわ」

 ふと気づいてアキラはスタンドを見回す。

「若竹真由美さんって虎丸の知り合いでしょ? このスタンドに来てないの?」

「まさかあ。虎丸くんがあんな暗い女と? 嘘でしょ? 若竹は一度も虎丸くんの試合を見に来てないわよ」

 アキラは首をかしげる。

 若竹真由美のために虎丸が花咲キャプテンの口にダイナマイトを押しこんだはず。

 どうしてその真由美が虎丸の試合を見に来ないのだろう?

 いたらいま話せるのに?

 虎丸は順調に勝った。

 ノーヒットピッチングだ。

 旭日高校にエラーが五つ。

 しかし虎丸は無四球の完封試合。

 虎丸自身は打者として二打数二ホームラン。

 二フォアボール。

 旭日高校が二対ゼロでベスト四進出。

 虎丸は左の本格派。

 オーバースローだ。

 優雅な立ち姿で剛速球を投げこんで来る。

 アキラは見とれた。

 プロ野球でもこんな華麗なフォームの投手はいない。

 全身の筋肉にむだがない。

 流れるような投球動作だ。

 ワインドアップで伸びあがる姿が特に美しい。

 百九十センチの長身から投げおろす球は落差もすごい。

 身体のどこにも力が入ってない。

 なのに時速百五十キロの球をコンスタントに投げこんで来る。

 一回から九回までずっと同じペースで投げ終えた。

 勝って当然。

 そんな顔でマウンドをおりる虎丸をかっこいいとアキラは思う。

 あんな顔で一度マウンドをおりてみたいものだ。

 アキラは勝っても自信なげ。

 負けると涙でぐしゃぐしゃ。

 虎丸の試合が終わるサイレンが鳴った。

 きょうの試合はもうおしまい。

 あした準々決勝の残り試合ふたつがこの県営球場で行なわれる。

 第一試合終了後に準決勝の抽選だ。

 準決勝は一日あけて戦われる。

 選手の体調を考慮して一日のやすみをくれるわけだ。

 つまり男樹高校の次の試合は三日後。

 抽選で午前の第一試合か午後の第二試合かが決定する。

 男樹高校野球部はバスに乗りこんだ。

 全員が肩を落としたまま。

 理想学園に勝った野球部とは思えない。

 それほど虎丸のピッチングは衝撃的だった。

 生で見ると迫力がちがう。

 バスに揺られて左池がつぶやく。

「あんなの打てるのかよ?」

 誰も答えない。

 打てませんとしか言えないからだ。

 ひとりだけ楽しそうにしている男がいる。

 崎守だ。

 今大会で一本のヒットも打ってない男。

 右天内と並んで男樹高校の無安打記録を更新中。

 右天内とちがうのは得点に貢献してないこと。

 いまのところ口だけ四番の草津より役に立ってない。

 草津は船岡高校戦で三回まで投げた。

 アキラは星見たちと寮にもどる。

 すぐに電話が入った。

 桃子からだ。

 桃子が若竹真由美の住所を教えてくれる。

 アキラはお風呂のあと弓削山と若竹真由美をたずねることにした。

 寮を出るとき食堂のテレビが九州に台風が接近中と告げていた。

 三日後にこの地方に雨をもたらすかもしれないと。

 真由美のアパートは川沿いに建っていた。

 アキラと星見が朝いつも走る川のすぐ横だ。

 インターホンを押すと髪の長い女が戸をあけた。

 大人びた顔をしている。

 夏なのに長袖のセーターを着ていた。

 きっと左手首に傷があるはずだ。

 制服姿のアキラはたずねる。

「あのう。ボクら男樹高校の野球部です。若竹真由美さんですか?」

 女が眉を寄せた。

「ええ。わたしがそうよ。花咲さんの後輩ね? とにかく入って」

 外で話すとまずい。

 そんな配慮らしい。

 真由美がアキラと弓削山を部屋に引き入れる。

 部屋はひと部屋だ。

 台所・風呂・トイレ。

 明らかに年齢層のちがう女の衣類がふたりぶんハンガーにかかっている。

 男物はない。

 女のふたり暮らしだろう。

 母子家庭らしい。

 小さなちゃぶ台に真由美がお茶を出す。

 真由美もすわった。

「でもいまになって花咲さんがなんの用? いまさらよりをもどそうっての?」

 アキラは湯飲みを手に取る。

「ううん。ボクら花咲キャプテンの使いじゃないんだ。真由美さんがおこってないかと思って」

 真由美がきょとんとした。

「おこる? わたしが? なにを?」

「ボクら野球部が大会に参加してるのを」

「はい? なんでわたしが? なんの関係もないあなたたちの大会参加をおこるわけ?」

「だって虎丸はあなたのために男樹高校の野球部を活動停止にしたんだよ? あなたが許してくれりゃ虎丸だってボクらの活動を認めてくれるんじゃない?」

 もし男樹野球部が虎丸に負ける。

 それでも真由美が許してくれれば活動を再開できるかも。

 そんな虫のいい考えをアキラは抱いていた。

「わたしが誰を許すの?」

「ボクら野球部」

 真由美が首をかしげる。

「なんで?」

「だって花咲キャプテンのせいで真由美さんはそのう」

「自殺未遂をした? それでわたしが男樹高校の野球部に腹を立ててる? そんなバカな。でもね。虎はそこにどうかかわって来るの? そこを聞かせてちょうだい」

 真由美は虎丸の行動を知らないらしい。

 アキラはこれまでのいきさつを説明した。

 真由美がうなずく。 

「なるほど。虎がわたしのためにそんな真似をしたわけ。むちゃくちゃやるわねあいつ。そこまでしなくていいのに。もうすんだ話よ」

「じゃいまはおこってないわけ?」

「花咲さんを? そうね。すっかり忘れてたわ」

「なら真由美さんから虎丸に言ってくれる? ボクら野球部が正式に活動を再開してもいいよねって」

 真由美の顔が曇る。

「それはねえ。わたしの口からは言えないわ」

「なぜ?」

「だってわたし。高校に入ってから虎と話をしてないの。虎が中学三年の春に甲子園にふたりで行ったのが最後。虎は方向音痴でね。わたしがいないと道に迷うのよ。駅をおりて反対側に行っちゃうの。ちゃんと看板に書いてあるのにね」

 アキラは不思議に思う。

「真由美さんは虎丸と知り合いでしょ? どういう知り合いなの?」

 弓削山が眉を寄せる。

 そこまで踏みこんだことを訊く?

 そんな顔だ。

 しかしアキラは気にしない。

 疑問はとことん追求するタチだ。

 真由美も眉を寄せた。

「遠慮のない子ねえ。ま。いいわ。隠すことでもないし。虎とわたしは幼なじみよ。幼稚園からいっしょだったわ。小学校中学校もいっしょ。わたしそのころは虎の家の近くに住んでたの。両親が離婚してこのアパートに移ったわ。虎はひとりっ子でね。虎の両親はいつもいそがしい。お手伝いさんしか遊び相手がいなかった。それでわたしがいつも遊んでやってたの。わたしもひとりっ子だったから弟ができたみたいで楽しかったわ。虎が小学校で野球をはじめてね。わたしが甲子園によく連れてってあげた。夏の甲子園で朝から夕方までずっと高校野球を見てたわ。暑い中ふたりとも口もきかずに」

「虎丸って気むずかしそうだよね? ケンカとかはしなかったの?」

「しなかったわ。虎はわたしをお姉ちゃんと呼んでた。知らない人が見れば仲のいい姉弟に見えたでしょうね。虎はたしかに気むずかしい。けどわたしにはいつも素直だった。可愛い弟だったわよ」

「虎丸は真由美さんが好きだったんだね? でも真由美さんは虎丸を弟としてしか見なかった。虎丸じゃなく花咲キャプテンを選んだ。それで虎丸は真由美さんの気持ちをもてあそんだ花咲キャプテンに激怒した。いまでもまだ許せないって言ってたよ。ボク虎丸の気持ちがわかる気がする」

 アキラは真由美に非難めいた目を向ける。

 その目を受けた真由美のひたいに青すじが立った。

 頭に来たようだ。

「なによ! 知ったふうなことを言わないで! 男のあんたに女のわたしの気持ちなんかわからない! 出てって!」

 真由美がアキラの胸ぐらをつかむ。

 追い出そうとアキラを立たせた。

 アキラも逆上した。

 売り言葉に買い言葉だ。

 つい口をつく。

「わかるよ! ボクも女だ!」

 弓削山がつかみ返そうとしたアキラを止める。

 アキラの口もふたした。

「凪ちゃん!」

 アキラはハッとわれに返る。

 部屋がシンと静まった。

 真由美がアキラの言葉の意味を考える。

「女? あなた女なの?」

 真由美がつかんでいるアキラの胸元からアキラの胸をのぞきこむ。

 アキラは風呂あがりだ。

 制服の下はTシャツにノーブラ。

 胸の小さなふくらみが見えた。

「あら。ホント」

 アキラは真由美の手を制服からはずす。

 うわ目づかいに真由美を見た。

「いま勝ったと思ったでしょ?」

 真由美がとぼける。

「えっ? なんのことかしら? おほほ。気にすることはないわ。バストが七十センチだって女は女。子どもだって産めるわよ」

 ムッとアキラは頬をふくらませた。

「やっばり勝ったと思ってるじゃないかぁ!」

 真由美が舌を出す。

「ごめんね。つい。でもね。どうして女の子が男子校に? そちらの子は男の子なのに身のこなしが女の子みたい。なんか不思議なふたり組ね?」

「ないしょにしてよ」

 アキラは断ってから事情を話しはじめた。

 真由美がうなずく。

「ふんふん。なるほど。そんな事情なの」

 アキラが話すあいだ考えこんでいた弓削山が口を開く。

「真由美さん。あなた花咲キャプテンのことが好きじゃなかったのね?」

 真由美がウッと息を飲む。

 アキラは弓削山を見た。

「なんでよ弓削ちゃん? 真由美さんは花咲キャプテンとつき合ってたんだよ? 好きでもない人とつき合ったりしないよぉ」

「ううん。凪ちゃん。きっとそう。真由美さんは」

 真由美が手を出す。

 弓削山の口を止めた。

「その先は言わないで。わたしが話す。ねえ凪ちゃん。虎って野球バカでしょ? 虎とハンバーガー店でおでこをつき合わせてジュースを飲むなんてわたしには想像できない。デートはきっとバッティングセンターか野球場よね。虎といればわたしに女子高生の青春はないの。それでわたし」

 アキラはちょっと理解した。

「普通の女子高生をエンジョイしようとエースで四番の花咲キャプテンと?」

 真由美がうなずく。

 真由美の顔をうかがう弓削山がアキラの制服を引く。

「読みが浅いわよ凪ちゃん。この子は虎丸が好きなの。虎丸をあきらめようと花咲キャプテンとくっついたわけ。虎丸が年下だから。県会議長の息子だから」

 アキラはカチンと来た。

 真由美をにらむ。

「なんで? なんでそんな真似をするんだよぉ? 好きなら好きって言うべきじゃないか。虎丸が真由美さんを嫌いって言ったわけじゃないんだろ。どうしてあきらめるんだよ? なんで虎丸本人にぶつかって行かないのさ? 虎丸も真由美さんが好きみたいだよ? どうして好き合ってる者同士が幸せになれないんだよぉ?」

 幸せそうに見えた。

 それだけの理由でアキラの家族は死ななければならなかった。

 幸せになれる人間がどうして幸せになっちゃいけない?

 幸せそうでなにが悪い?

 アキラは悔しい。

 アキラの目から涙がこぼれる。

 真由美が困った顔を見せた。

「だって」

 弓削山がアキラの頭を抱きかかえる。

 アキラの髪をなでた。

「凪ちゃん。そんなストレートに行かないわよ。あんただって星見に本当のところはなにひとつ話してないじゃない。好きな男にはなかなか踏み出せないものよ。特に虎丸は野球バカだし」

 アキラは気づいた。

 涙顔をあげる。

「嘘だよ。虎丸は野球バカじゃない。虎丸が野球バカならどうして旭日高校に入ったんだよ? 旭日の野球部は県下最下位だ」

「自分ひとりの力で甲子園に連れて行ってやると思ったんじゃない? 虎丸って唯我独尊でしょ? 旭日ならワンマンチームが作れるもの」

「それって変。虎丸がわがままを通せないのは理想学園くらいだよ。野球バカなら愛美学院でいいんじゃないの? 愛美学院はナイター設備もある野球名門校だ。虎丸は愛美学院に誘われたって言ってたよ。高校卒業後に野球をつづけるつもりはないとも」

 アキラは真由美に目を向ける。

 意味ありげに。

 アッと弓削山も真由美を見た。

「凪ちゃんが男樹高校に来たのは星見が目当て。あたしが男樹に来たのも弥之助目当て。虎丸が旭日高校を選んだ動機もひょっとして?」

「そうだよ。きっとそうだ。でなきゃ虎丸が旭日に進む理由がない。虎丸は真由美さん目当てで旭日高校に進学したんだ。なのにどうして真由美さん。虎丸に告白しないわけ?」

 真由美がしぶしぶ口を開く。

「虎はわたしを姉として慕ってるだけ。女としては見てないわ」

「そんなことあるもんか! 虎丸は真由美さんをちゃんと女として見てると思う!」

「ううん。だめよ。わたしじゃだめなの」

 自己嫌悪だとアキラは悟った。

 花咲キャプテンが五股をかけたから自殺をはかったのではない。

 虎丸をあきらめようとしてあきらめ切れなかった。

 だから自殺をはかった。

 その後も生きる意欲をなくしたように見えたのは自己嫌悪だ。

 虎丸を忘れられない自分が苦しい。

 虎丸に好きだと言えない自分がやり切れない。

 真由美の目には花咲なんか見えてない。

 虎丸ひとりしか目に映らない。

 アキラは考える。

 ひとつの案を思いついた。

「ボクら男樹野球部は絶対虎丸に勝つ。ボクらが虎丸に勝てば真由美さんは虎丸に告白をする。ねえ真由美さん。その賭けに乗らない?」

 真由美の目が遠くを見つめる。

 まだ懸念が残っているらしい。

「虎の家はね。お父さんが気が弱いの。虎の気が強いのはお母さんの遺伝よ。わたしはそのお母さんから釘を刺されたの。母虎からね。うちの子にもう近づかないでって。それ以上は言われなかった。でも母子家庭の娘と結婚させるわけには行かない。そう言いたいのよ。虎は将来政治家になって父親の跡を継ぐ。そのときお嫁さんがどこの馬の骨ともわからない女ではまずい。そういう配慮なのよ。由緒正しい家のお嫁さんは由緒正しい家の娘をもらう。そんな考えの人ばかりなの。この県は時代遅れな県なのよ。都会から来たあなたにはわからないでしょうけどね。手に入らないものはあきらめたほうがいい。そうじゃなくて?」

 アキラは頭に来た。

「バカな! ボクらみんなあきらめが悪いんだ! 最初からあきらめてたら理想学園になんか勝てなかった! あきらめるなよ! もっと抵抗しろよ! ボクらは絶対に虎丸と戦う! 最後まで決してあきらめない! 約束だよ真由美さん! ボクらが虎丸に勝ったらあなたは虎丸に告白するんだ! いいね!」

「ううん。あなたがわたしの虎に勝てるはずないわ。ちがって? それにあなたたちが負けたらどんな罰にするの? わたしだけ告白するのは公平じゃないわよ?」

「いいよ! ボクが女だってバラしてボクは男樹高校をやめる! それでいいかい!」

 真由美がうなずく。

「わかった。その賭け。乗りましょう。さあそろそろうちの母がパートから帰って来るの。あなたたちも帰って」

 アキラは弓削山と外に出た。

 夏の夜はほの明るい。

 弓削山が前を向いたまま声を出す。

「いいの凪ちゃん? あんな約束をして?」

「うん。どうせ虎丸に負けたら野球部は休眠。ボクは星見に受けてもらいたくて男樹高校に来たの。もうずいぶん受けてもらったから満足してる。みんなを長くだましてるのも気がひけるしね。弓削ちゃんには感謝してるよ。星見と同室にしてもらったものね。いい思い出になると思う」

「凪ちゃん。そんな悲しいことは言わないで。もう別れが決まったみたいじゃない」

 アキラは口をつぐむ。

 きょう虎丸のピッチングを見た。

 あの球が打てると正直思えない。

 別れの日は三日後か四日後に来るはず。

 いまのあいだにやりたいことをやっておくべきだ。


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