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 第三章 どうしよう? あの日が来ちゃった 

 七月になった。

 梅雨が明けるといよいよ県大会だ。

 二週間の予定で試合が組まれる。

 とは言うものの台風などが来ればもっとずれこむこともある。

 夏の甲子園大会は八月の初めだ。

 B県は参加校がすくないため毎年七月中に代表校が決まる。

 男樹高校野球部はくじ運で二回戦からだ。

 はじまってしばらくは余裕がある。

 しかし試合の日が近づくにつれて余裕どころではなくなった。

 みんなピリピリして来る。

 キャッチボールの球すら取れない。

 試合の前日。

 最悪の事態がアキラの身に起きた。

 うわあ。

 どうしよう。

 アキラはそう思った。

 けどこればかりはどうしようもない。

 自然の摂理だ。

 試合当日。

 県営球場にバスで移動をする。

 桜子と教頭もいっしょだ。

 快晴のグラウンドに出た。

 夏の太陽がギラギラだ。

 各自が練習をする。

 アキラの球を受ける星見が首をかしげた。

 いつもより球が来ない。

 アキラの全身がだるそうに見える。

 星見がアキラに寄った。

「おい凪野。お前。病気じゃないか?」

 星見がアキラのひたいに手を当てる。

 微熱だ。

 アキラは頭をさげた。

「ごめん星見。実はおなかが痛い」

「えっ? どうして早くそれを言わないんだ? 腹痛の薬を飲めよ」

「もう飲んだ。けどだめ。精神的なものなんだ」

「あ。そういやお前。そんな話をしてたな」

 星見がアキラの顔色を見る。

 血色が薄い気がした。

 きょうは記念すべき第一戦だ。

 調子の悪いアキラを使ってボロ負けするより元気な草津か能代で行くべきだろう。

 星見が全員を呼び寄せる。

「みんな。凪野が腹痛だそうだ。どうすればいい?」

 草津が一歩出た。

「やっぱり一年坊主じゃだめだ。おれが行く。おれはエースで四番のキャプテンだ。やはりおれが投げなきゃな」

 その他の全員が能代を見る。

 アキラの次の投手としては能代だろう。

 高校野球にナックルが登場したなんて話は聞いたことがない。

 しかし能代は五回まで。

 もし能代を先発させたとする。

 するとアキラがこの試合で投げられないなら六回以降は草津にまかせる羽目になる。

 終盤で草津が点を取られるより終盤を能代におさえてもらうほうがいい。

 全員の思惑が一致した。

 先発は草津にまかせようと。

 背番号は一だから常識的だ。

 能代が弓削山に寄った。

 弓削山に耳打ちをする。

「凪野のやつ。あの日じゃないのか?」

 ハッと弓削山が口に手を当てた。

 弓削山はついアキラが女だと忘れる。

 能代とふたりでアキラに近づく。

 アキラは恥ずかしそうにうつむいた。

「そう。きのうから来ちゃった。ごめんね」

 能代が口を出す。

「あやまることじゃない。ぜんぜん投げられないのか? おれたち。女のそればかりはよくわからないんだ」

「そりゃそうだよね。おなかがシクシクと痛むんだ。薬を飲んだけど効かないの。星見には言えないからね。投げられないってほどじゃないよ。けど星見は球が来てないって。いつものスピードにはならないみたい」

「そいつはまずいな。おれ試合で投げるのは初めてなんだ。ナックルは大リーグ中継を見て憶えただけでさ。まさか実際に使うとは思ってもみなかった。おれ小学校のころは軟球でやってたんだ。けど中学以降はチームに参加してねえ。草津キャプテンも公式戦は二年ぶりだろ? なにが起きても不思議じゃねえぞ」

「それはそうだよね。ボクも硬球の公式戦は初めて。ボク中学時代はソフトボール部だよ」

「なるほど。ま。仕方がねえか。やれるところまでやってみよう。お前も準備だけはしといてくれ。初戦負けはいやだがそういうめぐり合わせもある。そのときはあきらめよう」

「そうだね。ふたをあけないと野球はどう転ぶかわからないからねえ」

「そのとおりだな」

 そしてふたがあいた。

 男樹高校は後攻めだ。

 スタンドには近松桃子ら旭日高校女子陸上部の姿も見える。

 桃子は旭日高校のチアガールたちを連れての応援だ。

 男子校である男樹高校応援団が盛りあがる盛りあがる。

 決勝戦のような勢いで旗をふっている。

 マウンドに草津があがった。

 プレイボールがかかる。

 先頭打者に得意のカーブがビシバシ決まった。

 船岡高校の一番は三振。

 二番も三振。

 緊張に固まっていた男樹ナインたちの肩から力が抜けた。

 行けるとみんなが思った。

 草津も肩の力が抜けた。

 ひとりだけまずいと思った男がいる。

 星見だ。

 野球の格言にこういうのがある。

 野球はツーアウトから。

 ふたつアウトを取ってホッとしたあとが危ない。

 そういましめる格言だ。

 事実ツーアウトからの落とし穴にはまって得点されるケースが多い。

 草津が三番打者に不用意な一球を投げこんだ。

 さっきまでの慎重な球とちがう。

 あまいカーブだ。

 ドまん中に落ちて来る。

 三番打者がきれいにすくいあげた。

 センター前にポトンと落ちる。

 ツーアウト・ランナー一塁。

 次は右打ちの四番打者だ。

 草津のように自称四番打者ではない。

 正真正銘。

 古豪校の四番打者。

 右打席に入る。

 右投手の草津が右打者に投げるカーブは打者から逃げるように曲がる。

 シュートは逆に打者に食いこむように曲がる。

 左右の曲がりで呼び名がカーブとシュートにわかれる。

 カーブはスピードが遅い。

 落ちながら大きく横に曲がる。

 縦にドロンと落ちるカーブをドロップと呼ぶ。

 シュートはカーブよりスピードが速い。

 直球とまちがえやすい変化球だ。

 曲がりはカーブより小さい。

 カーブは腕のふりが球の横回転と同じ向きに働く。

 シュートの場合は腕のふりが球の回転と逆だ。

 そのためカーブはシュートより曲がる。

 腕のふりのぶん回転がプラスされるせいだ。

 シュートはカーブより曲がりが悪い。

 腕のふりが球の横回転を打ち消すように作用するからだ。

 その代わりシュートはスピードが速い。

 星見が内角にシュートを要求した。

 詰まらせて内野ゴロを取ろうと。

 内角のシュートを直球だと思ってふるとバットの根本に当たってゴロになる。

 しかし来たのは外角からまん中に入るシュート。

 右打者にとって絶好球だ。

 きれいにはじき返された。

 ホームランにならなくて儲けもの。

 そう星見が胸をなでおろす。

 つづく五番は左打者。

 初球は内角にはずすカーブを要求した。

 打者をのけぞらせて外角の球で三振を取る布石だ。

 けどボール球のカーブを強引に引っ張られた。

 一塁手の一之倉の頭を越えるヒット。

 単打が三本で満塁。

 でもまだ得点はされていない。

 ツーアウトだ。

 あとひとりをアウトに取れば問題はない。

 星見がタイムを要求した。

 ナインがマウンドに集まる。

 議題は草津を交代させるかだ。

 ワンポイントとして能代を投げさせる。

 能代が投げるあいだ草津は外野を守らせる。

 高校野球ではよくやる手だ。

 能代がこの回を乗り切れば次の回はまた草津に投げさせる。

 そんな戦法だ。

 ところが問題がひとつ。

 男樹高校には野手の替えがいない。

 投手がよぶんにふたりいるだけ。

 能代と草津を同時に出せば野手がひとり欠ける。

 一度引っこめた選手はこの試合ではもう使えない。

 最後まで能代か草津を野手として使う以外にない。

 それはまずい。

 もし誰かがケガをすれば残りはアキラだけ。

 男樹高校の投手三人の守備はお世辞にもうまいと言えない。

 ここは草津に踏ん張ってもらうしかない。

 そんな結論が出た。

 星見が草津に声をかける。

「キャプテン。ランナーは気にしなくていい。次は六番です。打順は下位に向かう。落ち着けばゼロにおさえられます。とにかく落ち着いて。ツーアウトですから」

「おう。わかったぜ星見」

 ナインが解散をする。

 星見がサインを出す。

 右打者の外角に逃げるスライダー。

 引っかけさせて内野ゴロを狙う配球だ。

 草津が投げた。

 スライダーはカーブの一種だ。

 スライダーはほぼ真横にほんのすこし曲がる。

 ストレートの投げ方で指だけカーブのにぎりで投げればいい。

 打者には直球と見わけがつかない。

 直球だと思ってふるとすこし曲がってバットの先っぽに当たる。

 狙いどおり外角にスライダーが来た。

 バッターが直球だと思って手を出す。

 引っかけた。

 ファーストゴロだ。

 打ち取った。

 しかし。

 しかしだ。

 一之倉のカバーをセカンドとライトとピッチャーが忘れている。

 一之倉がゴロをつかんだ。

 だが送球がヘロヘロ。

 バックホームするが間に合わない。

 セーフ。

 船岡高校が一点を先取。

 なお満塁。

 一塁のカバーに入っていた草津がマウンドにもどりながら一之倉に叫んだ。

「どうしてあんなイージーゴロでアウトにできねえんだよ!」

 一之倉が口をとがらせた。

「おれは最初から言ってたはずだ! 投げられないって!」

 草津が気づく。

「あっ! そうか! ちっ。やっぱりお前なんか入れるんじゃなかったぜ」

「なにを! お前たちが入ってくれとたのむから入ってやったんだ! 気にくわなきゃやめてやる!」

 星見がマウンドに走って来た。

 にらみ合う草津と一之倉を止める。

 アキラや能代ではファーストは無理だ。

 一之倉にやめられたら試合放棄は確実。

 星見がなんとかその場をおさめた。

 しかし頭に血ののぼったエースでおさえられるはずがない。

 コントロールが定まらず連打を食らった。

 ツーアウトからあとひとつのアウトが取れない。

 あせればあせるほど泥沼。

 ヒット三本で三点を追加された。

 つづく一番バッターがやっと外野フライを打ちあげた。

 センターの崎守が取ってチェンジ。

 けど一回の表だけで四点を取られた。

 教頭がベンチでほくそ笑む。

 初回で四点だ。

 もう負けたな。

 校長の言うとおり気をもむ必要はなかった。

 これでハゲにならなくてすむわいと。

 桜子は監督でありながら野球は素人だ。

 絵的に美しいか美しくないかはわかる。

 けど試合展開はわからない。

 ただ見ているだけ。

 選手に指示をあたえることはしない。

 監督の役目は星見がしている。

 ベンチの能代にサインを送り監督の指示のように見せかける作戦だ。

 一回の裏がはじまった。

 男樹高校の一番は弓削山。

 左打席に入る。

 船岡高校の投手は右投げ。

 弓削山は初球を流し打ち。

 三遊間をやぶった。

 シングルヒット。

 弓削山が一塁に立つ。

 二番打者は右天内だ。

 その名のとおりヒットは打てない。

 けど送りバントは県内一。

 初球を三塁前に転がす。

 送りバント成功。

 ワンアウト二塁。

 三番打者は一之倉。

 右打席に入る。

 三球目のストレートをジャストミート。

 レフトセンター間をやぶるツーベースヒット。

 弓削山がゆうゆうと二塁から生還。

 男樹高校が一点を返す。

 これで四対一。

 つづくバッターは四番の崎守。

 男樹ベンチは期待に息を飲む。

 しかし崎守は力なく三振。

 相手投手の球が気に入らないようだ。

 この試合の崎守は期待できそうにない。

 五番の星見にすべての期待がのしかかった。

 星見が気負う。

 外角のスライダーを引っかけた。

 あえなくファーストゴロ。

 スリーアウト。

 チェンジ。

 ちなみに草津の打順は九番だ。

 交代を考えないエースなら四番でいい。

 しかし交代が前提の投手を四番に置くわけにはいかない。

 草津の調子が崩れれば次は能代かアキラだ。

 能代もアキラもバッターとしては失格。

 もっとも崎守もこの投手相手では失格。

 打てないと打たないのちがいがあるだけ。

 役立たずな四番という点では草津と同レベル。

 二回の表。

 草津がまた打たれた。

 しかし得点にはならなかった。

 ファーストの一之倉の肩が穴だと判明したせいだ。

 船岡高校はランナーが満塁になったところで一之倉を狙った。

 一塁前にバントを転がす。

 けど今度は三人が一之倉をカバーした。

 飛んで来るコースがわかればダブルプレイは容易だ。

 ホームベースでまずひとりアウト。

 次に一塁でもうひとりがアウト。

 ワンアウトだったためアッと言う間にチェンジ。

 二回の裏。

 六番の左池が左打席に入る。

 インコースにスライダーを決められ三振。

 七番の二村。

 やはり左打席。

 スライダーにうまく当てた。

 しかしサードライナー。

 ツーアウト。

 八番の三笠が右打席に立つ。

 内角に食いこむシュートに詰まらされファーストゴロ。

 スリーアウト。

 チェンジ。

 三回の表。

 草津がツーアウトまで順調に打ち取った。

 試合は落ち着くかと思われた。

 ところが三人目の打者がセーフティスクイズ。

 三塁線にコロコロと転がった。

 意表を突かれた三笠がダッシュで拾いあげる。

 しかし投げられない。

 バッターはすでに一塁を駆け抜けたあとだ。

 一塁ランナーが盗塁のかまえで草津をゆさぶる。

 草津がけんせい。

 それが悪送球。

 ボールが転々とする間にランナーは二塁に進んだ。

 草津はこの悪送球で動揺した。

 つづく打者にはフォアボール。

 ツーアウト一塁二塁。

 次の打者がバントのかまえを見せた。

 あくまでゆさぶるつもりだ。

 やるぞやるぞ。

 そう見せかけてフォアボールを選んだ。

 これで満塁。

 あとひとりアウトに取ればチェンジ。

 なのにあたふたと草津が落ち着かない。

 これまで決まっていたカーブがはずれはじめた。

 はっきりとわかるボールになる。

 ストライクが入らず押し出し。

 一点を追加された。

 五対一。

 男樹高校は四点のビハインド。

 星見がマウンドに走る。

 草津の様子を見た。

 草津は肩で息をしている。

 顔色はまっ青。

 心が完全に折れている。

 体力があってもこれではもう投げられない。

 投手交代しかないだろう。

 星見はベンチの能代を見た。

 行けるか?

 そうサインで問う。

 能代がサインを返す。

 大丈夫だ。

 ピッチャーが能代に交代した。

 能代はナックルを投げた。

 船岡高校の打者が面食らう。

 空ぶりの三振。

 やっとチェンジ。

 三回の裏。

 九番の能代からはじまる男樹高校の攻撃。

 能代は三振に倒れた。

 つづく弓削山はライト前にヒット。

 それを右天内が送りバント。

 ツーアウト二塁。

 三番の一之倉がねばった末センター前にポトリと落とすポテンヒット。

 弓削山が帰って二点目。

 五対二。

 四番の崎守は見のがし三振。

 チェンジ。

 四回は両軍三者凡退。

 能代のナックルは打っても凡打だ。

 船岡高校の投手もなかなかいい。

 さすがは古豪のエース。

 五回にまたピンチがやって来た。

 先頭打者が能代のナックルをはじき返した。

 一二塁間を抜けるヒット。

 つづく打者がセカンドの頭を越えた。

 ノーアウト一塁二塁。

 星見がマウンドに走る。

「おい能代。おれの手をにぎってみろ」

 能代は左ピッチャーだ。

 左手で星見の右手をにぎる。

 力が弱い。

 星見がタイムを要求した。

 アキラはベンチからマウンドに走る。

 ナインがマウンドに集まった。

 星見がナインを見回す。

「能代の握力が尽きた。もうナックルは投げられない。投手交代しかないだろう」

 二村が不審顔を見せる。

「五イニング投げられるんじゃなかったのか能代?」

 能代は肩で息をするだけ。

 答える体力も気力もない。

 一之倉が二村を手で制した。

「言うな二村。投手はその日投げるまでわからない。それにプレッシャーだ。ひとりでマウンドに立つ重圧はすごい。まして負けてるゲームだ。これ以上点をやっちゃいけない。そう思うとよけい硬くなる。プレッシャーがかかると普段以上に体力を消耗するんだ。初めて試合に投げて三回を無得点におさえたんだぞ。立派なものだ。責めるんじゃない」

 二村が今度は一之倉を見る。

「そんなものか?」

「そんなものだ。投手は孤独なポジションなんだよ。面と向かって打者と対戦するんだからな」

「けどそうなると」

 二村がアキラを見た。

 もう投手はアキラしかいない。

 星見がアキラの顔色をうかがう。

 試合開始時より血色はいいようだ。

 星見がアキラのひたいに手を当てる。

 熱は微熱のまま。

 けどアキラしかいない。

「行けるか凪野?」

「行けるよ。けどボクの球で大丈夫かな? スピードがないんだろ?」

「なんとかするさ。もうお前しかいない。負けて元々だ。投げてくれ凪野」

「うん」

 アキラはマウンドに立った。

 しかしおなかがシクシクと痛い。

 星見がまず内角低めにストレートを要求する。

 アキラは投げた。

 けどボールが高い。

 アキラの手を離れたときすでに高い。

 いいときのアキラの球は最初は低い。

 最後に高めに浮く。

 きょうの球は最初から高めの棒球だ。

 星見は目をつぶった。

 まずいと。

 その瞬間カキーンと快音が響いた。

 星見が目をあける。

 ボールはライトに深い。

 ホームランか?

 いやライト右天内がフェンスぎわで捕球。

 二塁ランナーがタッチアップ。

 右天内が三塁に送球した。

 ワンバウンド。

 ツーバウンド。

 スリーバウンドで三塁はゆうゆうセーフ。

 一塁ランナーは一塁のまま。

 星見がマウンドに行く。

「チャンスが来たぞ凪野」

「チャンス? どピンチのまちがいじゃないの? ワンアウト一塁三塁で四番打者だよ? ここで一点取られたら六対二。ほぼ負けだよ?」

「だからチャンスなんだ。いまのプレイは右天内先輩のミスだ。サードに送球したって間に合わないタイミングだった。いまのは本来一塁ランナーをけんせいするのがセオリーだ。一塁ランナーは逆に三塁への送球の間に二塁に進まなきゃならない。そうすればワンアウト二塁三塁で四番だった」

「たしかにそのほうがピンチだねえ。ワンヒットで二点だもの。一塁三塁ならワンヒットは一点。そう考えろってこと?」

「ちがう。もう一歩踏みこめ。右天内先輩の送球は記録に現われないエラーだ。そして船岡高校の一塁ランナーが二塁に進まなかったのもだ。船岡高校の次の打者は四番。外野フライかヒットを狙うはず。ワンアウト二塁三塁なら内野ゴロを打っても一塁アウトの間に一点入る。ところがだ。ワンアウト一塁三塁で内野ゴロを打つとどうなる?」

「セカンドとファーストでダブルプレイ?」

「そうだ。この場面。内野ゴロが最も怖い。船岡高校は一回と三回に点を取った。しかし能代に代わってからは無得点。ナックルに苦しんでた。その能代がお前に代わった。きょうのお前はたいした投手じゃない。バントは案外うちの内野守備が堅くてむずかしい。その上お前はスクイズで得点したいほど怖い投手じゃない」

「だから打って来るわけね? 特に四番だ。ここで追加点が入れば気持ちは押せ押せになるし」

「ああ。ここがチャンスと強打に出るはずだ。ワンアウト一塁三塁で四番だぞ。きょうのお前は並以下の投手。外野フライで一点追加。船岡高校は全員そう思ってるはず。特に四番打者は。つまり四番はいまプレッシャーのかたまりだ。ワンアウト一塁三塁とワンアウト二塁三塁はささいなちがいに見える。けど四番にあたえるプレッシャーが格段にちがう」

「四番はゴロを打っちゃだめ。そう思ってるの?」

「そのとおり。ダブルプレイがとにかく怖い。だから投球は低めだ。なにがなんでも低め。ゴロを打たせなくてもいい。四番打者のほうで打ちあげてくれるはず。ゴロを打っちゃいけない。外野フライをあげよう。そう思ってるからな。低めの球をすくいあげてインフィールドフライにするはず。うまくハマればツーアウト一塁三塁で五番をむかえられる。五番は四番の倍のプレッシャーをしょいこむ。外角の低めで内野ゴロに打ち取れるだろう。もしこのピンチで点が入らなければどうなる?」

「ピンチのあとにチャンスあり?」

「そのとおり。敵さんはがっくり来る。そこにつけこめばうちのチャンスだ。この回を締めるぞ。そうすれば道が開ける」

「わかった。低めだね?」

「そうだ。内角外角どちらでもいい。とにかく低めだ」

「うん。ピンチのあとにチャンスあり。それで行こう」

 アキラは慎重に投げた。

 内角の低めにボールが入る。

 星見の読みどおり四番が低めをすくいあげた。

 サードのファールフライだ。

 これでツーアウト二塁三塁。

 まだ無得点。

 五番がガチガチになって打席に入った。

 アキラは慎重に外角低めに投げこむ。

 五番が思い切りふった。

 しかしバットの先っぽだ。

 ファーストゴロ。

 スリーアウト。

 チェンジ。

 そのときスタンドの桃子が大声をあげた。

「きゃーっ! かっこいーいっ! アキラくーん! すってきーっ!」

 アキラにとって久しぶりに背中で聞く声援だ。

 なんとなくうれしい。

 五回の裏。

 ピンチのあとにチャンスありとはよく言ったものだ。

 本当にチャンスが来た。

 先頭の八番バッター三笠がシュートに詰まった。

 三塁線にゴロが転がる。

 ところがそのゴロがイレギュラーした。

 三塁手がお手玉。

 その間に三笠が一塁を駆け抜ける。

 ノーアウト一塁。

 先頭打者が塁に出た。

 つづく九番はアキラだ。

 セオリーどおりバントで三笠を二塁に送る。

 ワンアウト二塁。

 ここで二打数二安打の弓削山。

 男樹高校で最もヒットの打てる男。

 いやオカマ。

 船岡高校がタイムをかける。

 マウンドにナインが寄った。

 ベンチから伝令が走る。

 話がまとまった。

 ナインが散開する。

 キャッチャーがホームベースにもどった。

 立ちあがる。

 弓削山は敬遠だ。

 次の右天内と勝負をしたいらしい。

 右天内は送りバントしかしない。

 しかしバントだとわかればダブルプレイに取れる。

 そういう判断のようだ。

 弓削山が一塁に歩く。

 ワンアウト一塁二塁。

 つづくバッターは右天内。

 船岡高校が外野の三人を内野に呼び寄せた。

 内野が七人という極端なシフトだ。

 さすがの右天内でもこのシフトで送りバントは決められまい。

 そんな作戦を取って来た。

 投手が投げる。

 そのたびに内野の五人がホームベースにダッシュする。

 右天内がバットを引く。

 カウントはツーストライク。

 右天内が追いこまれた。

 三球目。

 投手が投げた。

 内野五人がダッシュ。

 右天内がプッシュバント。

 ダッシュして来る一塁手の頭を越えた。

 送りバント成功。

 ツーアウトでランナー二塁三塁。

 打席は一之倉。

 一打出れば二点。

 五対二から五対四にできるチャンスだ。

 船岡高校は三番の一之倉より四番の崎守が怖いらしい。

 一之倉と勝負を選んだ。

 一之倉が捕手の配球を読む。

 内角に見せ球がふたつ来た。

 決め球は外角のはず。

 外角低めのスライダーが有力。

 一之倉がバッターボックスのうしろに足場を作る。

 内角を打てるように。

 その体勢のままでは外角のスライダーにバットが届かない。

 ふっても空ぶりだ。

 一之倉がいかにもインコース狙いの素ぶりをして打席にかまえる。

 捕手が内角にミットをすえた。

 一之倉が捕手のミットの位置を横目で確認する。

 キツネとタヌキの化かし合いだ。

 一之倉は内角狙いだと見せている。

 捕手もそれに乗って内角にミットを置く。

 本当に内角に来れば一之倉の負け。

 外角狙いのスイングで内角の球はどん詰まるだけ。

 投手が投げる。

 その瞬間。

 一之倉がバッターボックスの前に踏み出した。

 バットを強振する。

 カキーン!

 打球はライトの横に一直線。

 フェンスまで到達した。

 三塁ランナーの三笠。

 二塁ランナーの弓削山。

 ふたりが相次いでホームベースを踏む。

 二点返した。

 五対四だ。

 あと一点で同点。

 二点入れば逆転。

 一之倉が二塁上でガッツポーズを作る。

 船岡高校のバッテリーは一之倉のペテンに引っかかった。

 投げたのは外角のスライダーだ。

 内角ではなかった。

 打席に崎守が入る。

 船岡高校はド緊張。

 男樹高校は全員がっかり。

 また船岡高校がタイムを取る。

 崎守も敬遠するらしい。

 キャッチャーが立った。

 投手が敬遠のボールを投げる。

 崎守が一塁に出た。

 ツーアウト一塁二塁。

 一点で同点の場面。

 バッターは五番の星見。

 船岡高校の投手がリラックスした。

 星見は怖いバッターではないらしい。

 初球インコースにシュート。

 ワンストライク。

 二球目アウトコースにスライダー。

 ツーストライク。

 三球目。

 お遊びなしでインコース低めにシンカー。

 星見が空ぶり。

 三球三振でチェンジ。

 男樹高校は一塁二塁に走者残塁。

 ちなみにシンカーは落ちるシュートだ。

 曲がりながらフッと落ちる。

 フォークボールは曲がらない。

 真下にストンと落ちる。

 ドロップはほぼ真下にドロンと落ちる。

 名投手のドロップは肩の高さからひざ下まで一気に落下する。

 その落ち方を見てドロップと名づけられた。

 しばらく使い手がいなかったが最近またプロ球界で復活している。

 高校野球界でも流行するはずだ。

 ベンチにもどった星見がアキラに顔を向けた。

「すまん凪野。打てなかった」

「なんでボクにあやまるの? 一点差まで来たじゃない。弥之助くんと勝負されてても結果はいっしょだったはずだよ」

 崎守が口をはさむ。

「アキラ。弥之助でいいぞ。おれにくんづけはいらねえ。どう呼ばれようがおれはおれさまだ。そんな小せえことは気にしねえ」

 なるほどとアキラはうなずく。

「ま。とにかくさ。あと四回攻撃が残ってる。たった一点じゃないか。返せるよきっと。ボクは打てないけどね」

 崎守がふたたび口を出す。

「アキラ。一点じゃねえ。二点だ。でないと勝てねえぞ。おれも打たねえけどよ」

 マネージャーでスコアラーの陸本が口をとがらせた。

「じゃ誰が打つんだよ?」

 崎守が答える。

「銀乃丞と一之倉先輩だ。決まってるだろ。お前も打たないくせに大きな口を叩くな」

「おれの大きな口は生まれつきだ」

「チビもだよな。リトル陸本?」

 左池が崎守と陸本以外にささやく。

「打てない代表ふたりが一番大きな口を叩いてるぜ。すごいチームだなこの野球部は」

 まったくだとみんながクスクス笑う。

 アキラも笑った。

 先に降板した草津と能代も笑っている。

 アキラは一体感を覚えた。

 こんな楽しい時間をすごすのはひさしぶりだ。

 負けている試合でみんなが笑えるなんて。

 ナインがベンチを出る。

 守備に散った。

 六回から試合は膠着状態に入った。

 両軍ともに点が入らない。

 ランナーは出るものの無得点で九回まで来た。

 九回の表。

 アキラは慎重に低めをつく。

 おなかの痛みが気になって球が走らない。

 あの日だともし星見にバレたらどうしよう?

 そんな不安で腕がふれない。

 きょうのアキラの最高速は百四十キロに満たない。

 どこにでもいる高校生投手だ。

 変則のアンダースローで打ちにくいていど。

 しかし捕手にとっては速度よりコントロールだ。

 どれだけ速くても要求どおりに来ない投手はリードできない。

 きょうのアキラはスピードがないぶんコントロールに気を配っている。

 こういうときの投手は打たれにくい。

 調子のいいときほどホームランをくらう。

 ピッチングが単調になり打者とタイミングが合うからだ。

 いったん打たれると調子のよかったときの反動がドッとのしかかる。

 一回の草津のように。

 先頭打者が低めの球に詰まった。

 ファースト前に転がる。

 一塁手の一之倉は送球に難がある。

 アキラは一之倉のカバーに走った。

 一塁ベースにライトの右天内が入る。

 一之倉がファーストミットで球をすくった。

 走って来るアキラにパス。

 アキラは一塁にボールを投げる。

 そのときおなかが痛んだ。

 一瞬のおくれが微妙に送球をずらせた。

 一塁は間一髪セーフ。

 ノーアウトでランナーが出た。

 アキラは頭をさげる。

「ごめん一之倉先輩」

「セーフになったものは仕方ないさ。お前はきょう調子が悪いんだ。気にするな。そもそも肩のまともな一塁手ならイージーゴロだったんだからな」

「それもボクが無理にたのんだからだよ。でも一之倉先輩がいなけりゃうちは得点できてない。ここまでの四得点はみーんな一之倉先輩のおかげじゃないさ」

「なるほど。そういう見方もあるか。ま。あとをしっかりおさえることだ。九回表の追加点は痛いからな」

「う。うん」

 この一之倉のひと言がアキラの肩にズンと乗った。

 自分はいま不調だ。

 おなかは相変わらずシクシクと痛む。

 球がぜんぜん走らない。

 こんなはずじゃない。

 そう思う。

 しかしキレがよみがえらない。

 中学時代だと四回を投げれば調子がそれなりに上向いた。

 けどきょうはだめだ。

 もう五イニングも投げているのに全身がだるいまま。

 追加点を取られたらどうしよう?

 その心配が頭を去らない。

 心の不安がコントロールに反映した。

 低めに決まっていた球がうわずる。

 センター前にはじき返された。

 うわあっ!

 まずい!

 アキラはちぢみあがった。

 ノーアウト一塁二塁。

 回は九回表だ。

 ここで点を取られるとだめ押し。

 なにより相手のピッチャーに余裕をあたえる。

 一点差と二点差でむかえる九回の裏は気持ちがまるでちがう。

 一点差ならつけいるすきはある。

 しかし余裕を持たれたらすきがなくなる。

 投手が四番バッターを怖れるのは実績ではない。

 四番という打順が怖い。

 いま男樹高校の実質上の四番は一之倉だ。

 しかし船岡高校のバッテリーが怖がっているのは打てない四番の崎守。

 打つ気のない崎守を敬遠までして来る。

 それほどピッチングは精神状態に左右される。

 相手投手にプレッシャーをあたえるのが野球の攻撃の基本だ。

 それがいまアキラがその状態にある。

 ノーアウト一塁二塁。

 船岡高校は当然の策として送りバントで来た。

 打者もプレッシャーで身体が硬い。

 ピッチャー前に平凡なゴロが転がる。

 取って三塁に投げれば三塁二塁でダブルプレイが完成する。

 アキラは拾った。

 星見の声が聞こえる。

「サードだ凪野!」

 アキラは投げようとあせる。

 軸足がずれた。

 送球がそれる。

 サードの三笠が球を取れない。

 カバーに入ったレフトの左池がかろうじて球を押さえる。

 アキラにエラーが記録された。

 ノーアウト満塁。

 本日最大のピンチ。

 星見がマウンドに走る。

「大丈夫か凪野? 腹痛がひどくなったのか?」

「ううん。そうじゃない。不安なだけ。星見。ボク。ボク」

 星見がアキラの顔を見る。

 泣きそうな顔だ。

 しかしもう投手はいない。

 交代させるメンバーそのものが男樹高校にはいない。

 どんなピンチだろうがこのままアキラに投げてもらうしかない。

 星見が決断をくだす。

「凪野。お前おれにしてもらいたいことがあるか?」

「してもらいたいこと?」

「そうだ。あったらさっさと言え。長くここにはいられない。審判に注意されるからな」

「そうだねえ? ボク星見にキスして欲しい」

 星見が天をあおぐ。

「ごめん。それは無理。おれにその趣味はない。学食の食券一週間ぶんで手を打ってくれ」

「いつかキスしてくれる?」

「おれが二十歳になって酒を飲みすぎたときならあるいは」

「ホントだね? 約束したよ?」

「ああ。約束しよう。おれは一生酒を飲まないことにする」

「あーん。そんなのないよぉ」

「ちょっと元気になったな凪野。学食の食券一週間ぶんを賭けようぜ。ここをおさえたらおれがお前に食券をやる。おさえられなかったらおれは弓削山と一之倉先輩に食券をやる」

「なんでさ? なんでボクにくれないの?」

「だってよ。ここまでの功労者は弓削山と一之倉先輩だろ? 負けたらあのふたりの取ってくれた点がむだになる」

「なるほど。それもそうだね。でもボクもここをおさえたらさ。食券じゃないごほうびが欲しい」

「キスはだめだぞ」

「ちぇっ。なんで乗ってくんないんだよぉ。しょうがないなあ。食券でがまんするか」

 星見がポンとアキラのお尻をミットではたく。

 ホームベースにもどる。

 軽口を星見と交わしてアキラはすこし落ち着いた。

 星見のサインはインコース低め。

 アキラは慎重に投げる。

 いつか星見とキスをする日が来るのかな?

 そんなことを考えながら。

 取りあえずは一週間ぶんの食券だ。

 カツ丼がいいかな?

 チャーシュー麺がいいかな?

 ハンバーグ定食も好きだな。

 どの食券を買ってもらおう?

 球は内角の低めに行った。

 打ち気の打者がすくいあげる。

 カキーン!

 いい当たり。

 しかしサードの正面。

 三塁ライナーだ。

 各塁上の走者があわてて帰塁する。

 ノーアウト満塁がワンアウト満塁に変わった。

 次の左打者に星見の要求はまず内角高めのボール球。

 のけぞらせる球だ。

 狙いどおりに行く。

 打者が身をそらせてボールをよけた。

 二球目は外角低め。

 ワンバウンドしそうな球。

 打者が空ぶり。

 ワンボール・ワンストライク。

 三球目はまたインコース高めのボール球。

 打者がふたたびのけぞる。

 四球目はアウトコースの低め。

 かろうじてバットに当たる。

 けどファール。

 ツーボール・ツーストライク。

 五球目はまたまた内角高めのボール球。

 打者がのけぞりムッとした。

 この場面。

 身体に当たればデッドボールで一点入る。

 しかし右のアンダースローから浮いて来る球だ。

 球すじはよく見える。

 よけられない球ではない。

 わざとボールに当たってもコースがストライクならデッドボールの判定はない。

 最終的にボールだとわかるが変化球ならストライクになるかもしれない。

 そんなコースだ。

 うかつに当たりに行くわけには行かない。

 打者がバッターボックスで身を乗り出す。

 次は外角に来るはずと。

 星見のサインは内角低め。

 アキラはバッターにぶつけないよう投げた。

 ストライクゾーンぎりぎりに球がすべって行く。

 バッターのバットが出て来た。

 アウトコースに来ると思った球がインコースに来た。

 バットを引きながら打つ。

 球はバットの根本に食いこんだ。

 ボテボテのサードゴロだ。

 三笠が前進してゴロをすくう。

 三塁ランナーが本塁に走る。

 三笠が星見に球をパス。

 三塁ランナーを間一髪でアウトに取る。

 本塁フォースアウトだ。

 やっとツーアウト満塁。

 アキラは息をつく余裕もない。

 星見がミットをかまえる。

 今度は右打者の外角からだ。

 外角低め。

 外角まん中。

 外角高め。

 三球を外角につづけた。

 次の一球は内角にズバッと来るだろう。

 四球目はそんな打者の読みをはずす外角低め。

 ストライクかボールか。

 判定不能のきわどい球。

 打者があわてて手を出した。

 引っかけてセカンドゴロ。

 二村が落ち着いてさばく。

 ファーストに送ってスリーアウト。

 チェンジ。

 アキラはマウンドでため息を吐いた。

「ふう」

 きょう初めて洩らす安堵だ。

 取りあえず九回まで投げた。

 九回の裏に点が入らなければ五対四で男樹高校の負け。

 アキラの投球はここで終了。

 男樹高校の夏もおしまい。

 ベンチにもどってアキラは賭けを思い出した。

 星見に声をかける。

「星見。カツ丼とチャーシュー麺とハンバーグ定食。それぞれ二食ぶんずつちょうだい」

 星見がちょっと考えた。

 ふに落ちない顔をアキラに向ける。

「おい凪野。高校の一週間は五日だぞ? 一日ぶん多いじゃないか」

「いいじゃんさ。どれを一食ぶんにしていいか決断がつかなかったんだもん。ねっ?」

「しょうがねえやつな。男がそんな食い意地を張ってていいのか?」

 アキラは口をつぐむ。

 つい口にしそう。

 ボク男じゃないもんと。

 九回の裏。

 男樹高校の打順は八番の三笠から。

 一点ビハインドの先頭打者だ。

 プレッシャーが三笠に重い。

 ガチガチで打席に入った。

 頭に血がのぼる。

 来る球が見えない。

 三球三振。

 ワンアウト。

 一塁側。

 船岡高校のスタンドが湧きに湧く。

 もう勝ったと言わんばかりの大騒ぎだ。

 次は九番のアキラ。

 アキラさえ打ち取れば船岡高校の勝ちが決まる。

 アキラの次の一番打者は弓削山。

 弓削山にヒットを打たれても二番の右天内は確実にアウト。

 弓削山は短距離バッターだ。

 ホームランはない。

 一之倉まで回さなければこの試合はうちのもの。

 そう船岡高校は計算を立てた。

 アキラは打席に立つ。

 ソフトボールとちがって硬球は小さい。

 なかなかバットに当たってくれない。

 しかもおなかがシクシクと痛い。

 もともと打つのは苦手だ。

 ボールに力負けしてしまう。

 三球目が勝負のわかれ目となった。

 ツーストライクから内角のきびしいところに来た。

 そのときアキラのおなかが痛んだ。

 アキラは声をあげる。

 おなかを押さえた。

「痛っ!」

 審判がハッとする。

 球はアキラのユニフォームをかすったように見えた。

 実際はアキラに当たっていない。

 しかし審判がアキラのあげた声にまどわされる。

「デッドボール。打者は一塁へ」

 いいのかなと思いながらアキラは一塁に歩く。

 たしかにボールはユニフォームをかすった。

 縫い目がユニフォームに痕跡を刻んでいる。

 アピールすればデッドボールと判定されるはず。

 けどアキラは審判に言われるまで気づかなかった。

 アキラが痛みに声を出さなければ誰も気づかなかっただろう。

 勝負のシーソーがかたむきを変えた一瞬だった。

 一番の弓削山が打席に入る。

 バッテリーが苦心に苦心を重ねて弓削山に投げた。

 しかし苦心が実らない。

 弓削山があっさりセンター前にはじき返す。

 本日弓削山は三打数三安打。

 敬遠をふくむ二フォアボールのおまけつき。

 ワンアウトランナー一塁二塁。

 ワンヒットで同点。

 長打が出ればサヨナラ。

 次の打順は右天内だ。

 星見があわてた。

 打席に入りかける右天内を呼び止める。

「右天内先輩! 靴ひもがほどけてますよ!」

 えっと右天内が自分の足を見た。

 たしかにひもがたるんでいる。

 しかしほどけてはいない。

 なおも星見が声をかける。

「靴ひもはちゃんと結ばなきゃだめですよ先輩」

 なにか指示があるらしい。

 そう右天内が気づいた。

 タイムを取って靴ひもを結び直す。

 しゃがんだ右天内に星見が小声でささやく。

「先輩。三振かフォアボールでおねがいします。バットに当てちゃだめです」

 右天内が靴ひもを結びながら口だけ動かす。

「どうしてだ星見?」

「バントで送るとランナーが二塁三塁になります。すると一之倉先輩が敬遠される。一之倉先輩が敬遠されると次は崎守だ。きょうの崎守はたよりにならない」

「なるほど。うちが負けるわけか。けど一之倉はきょう当たってるぞ? 敬遠もありじゃないか?」

「でも三番バッターです。船岡高校は四番の崎守を警戒してる。三番の一之倉先輩より四番の崎守が怖い。崎守が打ちたくないってのを船岡高校は知らないわけですよ。崎守の身体を見ればガンガン打ちそうですからね。船岡高校はきっと一之倉先輩で勝負をして来るはず。もし一之倉先輩が敬遠されたらそれでうちの夏の終わりです」

「わかった。了解だ。バットに当てないようにしよう」

 右天内が打席に立つ。

 バントのかまえを見せた。

 星見の顔が青ざめる。

 指示とちがうじゃないかと。

 初球のストレートが来た。

 内野手がダッシュをかける。

 右天内がバットを引く。

 ワンストライク。

 二球目も直球だ。

 変化球はバントしやすい。

 速球だとバントしてもフライに終わる可能性が高い。

 内野手が一斉にダッシュをする。

 右天内がバットを引く。

 ツーストライク。

 三球目。

 右天内が普通にかまえた。

 投手が投げる。

 右天内がバントのかまえをした。

 内野手があわててダッシュ。

 球は直球。

 外角にボールかストライクかきわどいコース。

 右天内が球すじを見る。

 ボールと判断してバントを引く。

 しかし審判のコールはストライク。

 三球三振でバッターアウト。

 右天内が審判をふり返る。

 えーっあれがストライクですか?

 そんな顔で。

 右天内が肩を落としてベンチにもどる。

 星見が出むかえた。

「芸がこまかいですね先輩。打つ気かと心配しましたよ」

 右天内がニコッと笑みを見せた。

「おやおや。お前も引っかかったのか? まあ敵をあざむくには味方からって言うからいいんじゃないか? 九回裏まで来てのダッシュはこたえるだろうさ。あいつら勝ってるせいで投手を替えなかった。さすがのエースも九回まで投げて疲れてるんじゃないかい? それにああやってバントを失敗してみせりゃさ。うちが追い詰められて普段の力を出せないと思ってくれるだろう。一之倉に来る球があまくなりゃ儲けものだ」

「かもしれません。どちらにしてもこの一之倉先輩の打席。ここですべてが決まりますよ。きょうの最大の山ですね」

「そのとおりだな。でもよく一之倉を引き入れたよ。一之倉はあの肩だ。おれたちは一之倉を使えないと思ったもんな。ふたをあければ全打点が一之倉だ。凪野の超ファインプレーだよ」

「まったく」

 打席にはその一之倉が立っている。

 ネクストバッターズサークルの崎守が大あくびをした。

 崎守は打つ気がないから気楽なものだ。

 しかし船岡高校から見ればあくびをするほど余裕があると映った。

 考えすぎと言うか。

 おかげで最も当たっている一之倉が敬遠されずにすむ。

 船岡高校の捕手が一之倉の挙動を注視する。

 前回の五回の打席。

 一之倉は内角を打つと見せて外角を長打にした。

 今度も同じ体勢でかまえている。

 かまえだけを見れば狙い球は内角だ。

 打席のうしろに立っている。

 この位置でバットをふれば外角の球にバットが当たらない。

 しかし五回は打席の前に踏みこんで外角の球を打った。

 今度の打席の一之倉をどう見るか? 

 捕手は悩む。

 前回に外角の球を長打にした。

 今度も外角を打つか?

 それとも今度は内角か?

 誘いをかけることにした。

 外角にはずす球を要求する。

 投手がホームベースぎりぎりに外角球を投げこむ。

 一之倉が一歩踏み出す。

 外角球を打った。

 ボールはライトへ弧を描いて飛んで行く。

 ホームランか?

 いやポールの右だ。

 ファール。

 捕手がホッとした。

 やはり一之倉の狙いは外角球。

 捕手が二球目のサインを出す。

 外角高めにはずす球。

 投手が投げる。

 かなり高い。

 今度は一之倉がふらない。

 ワンボール・ワンストライク。

 次は内角低めのボールになるカーブ。

 一之倉がピクリとも動かない。

 ツーボール・ワンストライク。

 また外角低めにはずす球。

 一之倉が踏みこんだ。

 強振する。

 ライナーが一塁線に飛んだ。

 しかしラインの外だ。

 ファール。

 ボールカウントはツーボール・ツーストライク。

 アウトカウントはツーアウト一塁二塁。

 この一之倉を打ち取れば試合終了だ。

 捕手がニヤリと笑う。

 やはり一之倉は外角狙いだ。

 すでに一之倉を追いこんでいる。

 決め球は内角にくいこむシュートがいい。

 見送れば三振。

 打っても詰まって内野ゴロだ。

 ゲームセット。

 五対四で船岡高校の勝ち。

 捕手がサインを出す。

 投手がうなずく。

 内角にシュートを投げた。

 狙いどおりの球だ。

 速度もキレも申しぶんない。

 やった。

 勝った。

 捕手は左手のミットを一之倉のへその高さで待つ。

 審判の試合終了の宣告を。

 一之倉が左足を引いた。

 踏みこみはしない。

 左足をスッと引く。

 腕をたたんだ。

 腰の回転でボールをとらえる。

 会心のシュートが一之倉のベルトの高さに食いこむ。

 踏みこんで打てば内野ゴロだ。

 しかし一之倉は身体を引いた。

 バットのスイートスポットに球が来るように。

 カキーン!

 透明感のある金属音が県営球場を切り裂く。

 外からまん中に入るシュートはホームランになりやすい。

 シュートの進入角とバットの回転角の反射がセンターのバックスクリーンを向くせいだ。

 自然にはじき返してやればセンターオーバーのホームランになる。

 けどシュートは右打者のふところに食いこむ。

 バットの根本に当たれば詰まるだけ。

 野球のホームランと凡打はいつも紙一重だ。

 一之倉は内角のシュートを待っていた。

 外角に手を出したのは誘いだ。

 一之倉はそもそも投手。

 弓削山や崎守のような海千山千の打者と数多く対戦した。

 バッテリーがどういう読みで打者にのぞむかも知っている。

 もし船岡高校バッテリーが外角の球を決め球に選んだなら一之倉の負けだ。

 空ぶりの三振に終わっただろう。

 しかし球は読みどおり。

 しかもスイートスポットでとらえた。

 最後の懸念はひとつだけ。

 身体を引いて打った。

 通常センターに飛ぶ球がレフトに飛んで行く。

 レフトポールの内ならホームラン。

 外ならファール。

 打ち直しはきかない。

 引っかけは二度通用しない。

 一之倉の集中力も切れる。

 いま飛んでいる一球がこの試合の勝敗をわけるだろう。

 打球はレフトのポールぎわだ。

 風は右から左。

 浜風だ。

 レフトへはファールになりやすい。

 一之倉の打球がレフトフェンスを越えた。

 あとはフェアかファールか。

 球場が一瞬静まる。

 審判の手が回った。

 大きくグルグルと。

 一之倉が右手を突きあげた。

 まっすぐに伸びない右腕を。

 サヨナラスリーランホームランだ。

 大会第五号。

 五対七で男樹高校の勝ち。

 試合が終わった。

 苦しい戦いだった。

 一塁側。

 船岡高校のスタンドは静まり返る。

 泣き出した女生徒もいた。

 三塁側。

 男樹高校のスタンドはぼうぜんとしている。

 負けたみたいな力の抜けようだ。

 一之倉がホームベースを踏む。

 そのときになってやっと勝ったと悟った。

 男樹高校応援団と旭日高校のチアガールたちが手をにぎり合って喜びはじめる。

 男樹ナインと船岡ナインが整列した。

 礼をする。

 アキラは涙が止まらない。

 船岡高校の捕手も泣いていた。

 崎守が船岡高校の捕手の頭に手を乗せる。

「あー。泣くな泣くな。みっともねえ。お前たちはよくやった。うちの三番の悪知恵がお前のリードに勝っただけだ。おれなんか一度も打てなかったぞ。なかなかいい試合だった。胸を張れ」

 次に崎守がアキラの頭をなでた。

「アキラも泣くな。くだんねえ。たかがタマ遊びだぜ。県大会の初戦に勝っただけだ。先は長いぞ」

 校歌斉唱が終わった。

 スタンドにあいさつをする。

 ベンチ前にもどった。

 教頭が泣いている。

 みんなが顔を見合わせた。

 左池がいぶかしげに口を開く

「教頭が感激して泣いてるぜ。あしたは雨か?」

 しかし教頭は内心こう叫んでいた。

「うおおぉっ! 勝つなよぉ! 勝つんじゃなーいっ! わしがハゲになるぅ!」

 アキラは涙をそででぬぐう。

 スタンドの最前列まで来た桃子に礼を言う。

「応援ありがとう桃子ちゃん!」

「どういたしまして。ありがたいと思ったら今度デートしてね」

「えっ? でもボク」

「あたしは星見くんとでもいいわよ」

「だめえ! 星見はボクの彼氏ぃ! 盗らないでえ!」

 期待したとおりの答えだったらしい。

 桃子のうしろにいるチアガール隊が一斉に笑い転げる。

「きゃはは! サイコーっ! 凪野くん星見くん! どっちもかっこよかったわ! 次も応援したげるね!」

「あ。ありがとう」

 チアガール隊が引きあげた。

 視線を感じてアキラはふり向く。

 星見が怖い顔でアキラをにらんでいる。

「凪野ぉ。彼氏はまずいって言ってるだろ」

「じゃさ。女房はまずくないの? よく似たものじゃんさ?」

 うっと星見が詰まる。

 男の彼氏と呼ばれるべきか?

 男の女房と呼ばれるべきか?

 インタビュールームで教頭と桜子のインタビューが収録されはじめた。

 この試合のもようは県大会全記録としてDVDで発売予定だ。

 実況中継は県内に放送されている。

 男樹高校の校長室で校長の枝島敏宗が見ているはずだ。

 こうして男樹高校野球部の初戦が終わった。


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