第二章 キスしたいボクって変態かしら?
夕食のコロッケはまずくはなかった。
しかし一週間に一度は出るらしい。
すぐに飽きそうだ。
夕食後。
アキラは弓削山に誘われて町に買い物に出た。
帰り道で日が暮れた。
寮にもどる。
ドキドキしながらアキラは五号室に入った。
星見が机に向かっている。
英語の勉強中だ。
「お前も勉強しろよ凪野。成績が悪いと部活動停止だぞ」
「えっ? そうなの?」
昨年の夏から勉強はしていない。
高校の英語なんかまるでわからない。
アキラは思う。
もし両親が生きていれば高校受験をやっていたかな?
セーラー服を着て高校にかよったかな?
女友だちもいっぱいできてまたソフトボール部に入ったかな?
涙がアキラの目からこぼれる。
星見が顔色を変えた。
「すまん。おどしすぎたか。泣くほど勉強がきらいだとは思わなかった。おれにわかる範囲でよけりゃ教えてやるぞ」
アキラも机につく。
星見といっしょに英単語を辞書で調べる。
アキラは弓削山に感謝した。
ボールを受けてもらうだけではなく勉強まで教えてもらえるとは。
こんな日が来るとは思ってもみなかった。
寮は十一時が消灯だ。
桜子先生がひと部屋ずつ回って声をかける。
「なるべく早く寝るのよ。お酒とタバコは二十歳をすぎてからね。見つけたらわたしも停学にしなきゃならないの。見つかってから泣き落としはだめよ。ただタバコは二十歳をすぎてもやらないほうが健康にいいわ。じゃおやすみなさい星見くん凪野くん」
「はい。桜子先生もおやすみなさい」
強制的に電源を切るというのはないらしい。
星見は真面目なのか桜子が去ってすぐベッドの上段にあがった。
「おやすみ凪野。イビキはかかないでくれな」
星見がベッドのカーテンを引く。
アキラも蛍光灯を消した。
ベッドに入る。
しかし眠れない。
目が冴えて仕方がない。
星見が本当に寝たのか気にかかる。
アキラはベッドの下段から抜け出した。
星見のベッドのカーテンをそっとあける。
スースーと寝息が聞こえた。
「もう寝たの星見?」
返事はない。
星見の頬をつついてみる。
反応がない。
寝ているようだ。
アキラは星見の顔を見つめた。
不思議な気がする。
一度試合で見ただけの男の子だ。
ボールを受けて欲しいと思った。
きょうまで話をしたこともない男の子だ。
それがいま目の前で寝息を立てている。
いっしょの部屋で眠ることになった。
どうしてこんな羽目になったのかよくわからない。
アキラが両親と暮らしていればこんな事態にはならなかっただろう。
それどころか両親は猛反対するにちがいない。
同い年の男の子といっしょの部屋に住むなんて。
寝ている星見の顔はととのって見えた。
「案外いい男。放送部も言ってたもんな。もてそうって。こんな田舎にひとりで来て彼女はいなかったのかな? どうしてこの高校に来たんだろ? 捕手はいやだって言ってたけど? 寝言でボクの問いに答えてくれないかな? おーい星見。きみって彼女いたのかーい?」
答えはない。
星見はぐっすりと夢の中。
アキラはじっと星見の寝顔を見つめた。
ふと気づく。
いつの間にか自分の顔が星見の顔に近づいている。
星見のくちびるにくちびるを合わせたい。
そんな衝動に駆られた。
ハッとアキラは顔を離す。
「わっ! やばっ! こ。これ。とってもまずいんじゃ?」
うわーっとアキラはパニックにおちいった。
星見に惚れてなんかいない。
そのはず。
ボールを受けてもらたいだけ。
そう思っていた。
けどこの感情はなに?
こんな状況でキスしたら最低の女じゃないわたし?
アキラの動悸が増す。
心臓が破裂しそう。
でもキスしたい。
よしよしって抱きしめてあげたい。
サラサラの髪の毛を指ですきたい。
わたしは女よって打ち明けたい。
アキラは胸を押さえる。
ホームランを打たれた直後のように気を静めようと。
しかし心臓のバクバク度を確認しただけ。
ぜんぜん静まらない。
うーとうなった。
「なんでこいつはこんな可愛い顔して寝てるわけ? わたし女の子にもどっちゃうじゃない」
自分の言葉にヒントがあった。
アキラはひらめく。
可愛い顔で眠っているからヤバい。
星見が可愛い顔でなくなれば大丈夫かも。
アキラは極太サインペンを手に持つ。
笑いが口から洩れる。
「ひひひ」
アキラは工作を終えた。
これでぐっすり眠れそう。
アキラもベッドに入る。
アキラの目が覚めたのは早朝の五時だ。
ソフトボール部にいたころはこの時刻に起きる習性だった。
昨年の夏以降アキラの睡眠は不規則だ。
朝まで眠れない日もあれば一日中眠る日もある。
いまからもう一度眠ると学校に遅刻しそう。
アキラはベッドを出た。
ジャージに着替える。
そのときベッドの上段で動きが起きた。
「もう目が覚めたのか凪野?」
「う。うん。起こしちゃった星見? ボク走りに行こうかって」
「いいことだ。ピッチャーの基本はランニングだからな。おれも行くか。着替えるからちょっと待ってくれな」
星見もジャージに着替える。
アキラは星見の裸を見ないよう星見から目をそらせた。
昨夜キスをしようとたくらんだせいで星見の顔が見られない。
アキラはずっと星見から目をそらせつづける。
ふたりで早朝の町に出た。
五月の田舎道を川べりに走る。
大きな川だ。
川幅が五百メートルはあるだろう。
途中。
自転車で走る新聞配達のおじさんとすれちがった。
おじさんが星見の顔を見て噴き出した。
自転車がこけそうになる。
星見が手を出して自転車を支えた。
「大丈夫ですか?」
おじさんが笑いはじめる。
「ぷっ。くくくくく。いや。大丈夫。ふふふふふ。いやあ大丈夫。運動部かい? 感心だねえ。ひひひひひ」
笑いながらおじさんが自転車で走り去った。
星見はけげんな顔だ。
アキラは思い出した。
アキラの顔が青ざめる。
星見の顔がますます見られない。
た。たいへんなことをしてしまった。
けどいまさらだ。
寮にもどるまでどうにもならない。
次に早朝マラソンの女子陸上部員数人とすれちがった。
とたんに全員が腹を押さえて土手を転げ落ちる。
星見がうしろをふり返った。
「なんだいったい?」
女の子たちは旭日高校と書かれたゼッケンをつけていた。
声を出さずに全員が笑い転げている。
土手の中ほどで七転八倒だ。
とても苦しげ。
アキラはまずいと思った。
星見の背中を押す。
「いいからいいから。進もうぜ星見」
かろうじてその場を切り抜けた。
また走りはじめる。
しばらくして星見が声を出した。
「ところで凪野。お前しばらく走ってないだろ?」
「えっ? どうしてわかるの?」
「きのう投げたとき身体の軸がぶれてた。コントロールが悪いのはそのせいだろう。足腰が弱ってるんだ」
「なるほど。ボク中学時代は毎日走ってた。監督に言われてさ。ピッチャーは走る時間で投げる球数が決まるって。ひと試合投げ切る時間を走って来いってよく言われたなあ。走りながら一回の表からイメージトレーニングするんだ。疲れて来るとバカスカ打たれる。中学のときは七イニングだったけど高校になったから九イニングかな? そうなると二時間は走らなきゃならないね」
「ああ。それがいいな」
その後もすれちがう人すれちがう人が星見の顔を見て笑い転げる。
ふたりが寮にもどったとき七時をすぎていた。
桜子と玄関ですれちがう。
桜子も笑いはじめた。
「きゃはは。なーに星見くんその顔? イメージトレーニングなの? それとも罰ゲーム? まさかいじめじゃないわよね? あーおかしい。くくくくく」
星見が食堂の入口に貼られた鏡に自分の顔を映す。
頬に極太サインペンでヒゲが描かれている。
ネコのようにピンと伸びたヒゲが左右対称に三本ずつ。
星見が笑いはじめた。
「あはははは」
アキラも笑う。
「ははは」
次に星見がアキラをにらんだ。
「なーぎーのー。お前。おれが寝てるあいだに落書きしたなぁ!」
「ご。ごめん。ちょっとしたいたずらだったんだよ。ゆ。許して。おねがい」
アキラは手を合わせる。
そこに桜子の笑い声を聞きつけてぞろぞろと寮生が顔を見せた。
全員が星見の顔を見て腹をかかえる。
弓削山がアキラに親指を立てた。
笑いながら。
「凪ちゃん! グッジョブ! きゃははは! お約束ねえ! くくくくく!」
アキラは星見の背中を押した。
部屋に入る。
シンナーで星見のヒゲを消す。
アキラは頭をさげた。
「ごめん。ホントにごめん。許して。消すの忘れてたんだ。ごめんなさい」
「消せばいいってものじゃないぞ。どうしてこんな子どもみたいないたずらをしたんだ? お前はそういう趣味があるのか?」
アキラは答えたくない。
まさかキスをしたくてたまらなくなったから落書きでごまかしましたとは言えない。
「ごめん。ちょっとした出来心なんだ。もうしないから許して。今度は絶対朝までに消すから」
星見がキレた。
「今度だと? またやる気まんまんじゃないかぁ! お前と同室なんていやだぁ!」
星見が叫んだ。
けどアキラは寝顔に落書き癖のある男だ。
そんな男と同室になりたい者がいるとは思えない。
アキラは弁解をつづける。
「あのさ。ボク。イビキはかかなかったでしょ?」
「ほぉ。イビキはかかなかった。けどヒゲは描きましたってか? そういう問題かぁ!」
「わーん! ごめんなさーい! おこらないでぇ!」
そのときドアがノックされた。
笑いながら桜子が声をかける。
「星見くん凪野くん。朝ご飯よ。早く食べないと遅刻するわ。ケンカは放課後にね」
ふたりで声をそろえた。
「はーい」
アキラはしょげた。
食事中。
星見が顔をそらせてアキラを見ない。
登校するときも星見が口をきいてくれない。
休み時間になった。
弓削山が一年一組に顔を出した。
「凪ちゃん。おトイレに行こ」
一年一組全員が身を引く。
アキラはいいのかなあと思いながら弓削山につづく。
個室の戸の外で弓削山が見張る。
その間にアキラは用をすませた。
弓削山がとつぜん声をあげる。
「決めた!」
アキラは個室を出た。
「なにを決めたの弓削ちゃん?」
「あたしやっぱり虎丸に抗議に行く。あたしたちは関係ないのに活動停止なんて納得できない。虎丸に部活動を解禁してもらうの。すでに不祥事を起こした張本人が卒業してるんだからね。こっちは二年間約束を守って活動を停止してるのよ? そろそろ許してもらっていいころだわ。凪ちゃんもそう思わない?」
「うーんとねえ。そうかも」
アキラは星見に球を受けてもらえばそれで満足。寝顔にいたずら描きもした。ひさびさにすっきりした朝だ。
弓削山が話を強引につづける。
「そうでしょ? そうよね? そうなのよ。じゃ放課後さっそく行きましょう」
「はい? どこへ?」
「決まってるわよ。虎丸のお・う・ち。家庭訪問ね」
うーんとアキラは悩む。
やっぱりこのオカマどこか変かも。
オカマはみんなこんなに活動的なのかな?
放課後になった。
弓削山が部室で草津をつかまえる。
尋問をはじめた。
「虎丸の家はどこ?」
「なんだオカマ? 虎丸の家なんか聞いてどうするんだよ?」
「交渉に行くのよ。部活動再開の」
「えっ? ダイナマイトか? ダイナマイトなのか? うわあっ! ダイナマイトはいやだぁ!」
草津がうずくまった。
相当なトラウマらしい。
弓削山が肩をすくめる。
「先輩方。誰か虎丸の家がどこか知らない?」
左池が手をあげた。
「家がどこかは知らない。けど電話帳を調べればわかるはず。虎丸の親父は有名人だから」
「なるほど」
たしかにすぐわかった。
この県に常盤姓はすくない。
次に電話帳で旭日高校を調べる。
電話で虎丸が在校中かをたずねた。
野球部は本日は練習をしていないとのこと。
虎丸の父親のきげんをそこねるとまずい。
そんな配慮で一年四人で虎丸宅に向かう。
となり町の虎丸宅は豪邸だった。
立派な日本家屋だ。
敷地面積が野球場くらいある。
田舎の土地は安い。
しかしこんな大邸宅はすくない。
アキラは感心した。
「ふえー。すっごいおうち。虎丸っていいとこのお坊ちゃんなんだ」
崎守が口を出す。
「銀乃丞の家もすごいぜ。なにせ四百年つづく剣術師範の家だ。武家屋敷だもんな。県庁所在地のB市にある。お城の近くだ」
弓削山が眉を吊りあげた。
ふれて欲しくない話題のようだ。
「古さじゃ弥之助の家が一番古いわ。千年前の建造物ですもの」
「せ? 千年? なにそれ?」
「あら。お寺なのよ弥之助の家は。お坊さんになるのがいやで弥之助は男樹高校に進学したの。本当なら僧侶の専門学校に行くはずだったんだけど」
弓削山が門柱につくインターホンに声をかける。
虎丸に会いたいと。
お手伝いさんが玄関に出て来た。
案内をいたしますと頭をさげる。
すっげーとアキラは内心で思った。
お手伝いさんのいる家なんて初めてだ。
弓削山が星見を見た。
「星見くん。悪いけどここで弥之助を見張ってて。虎丸にはあたしと凪ちゃんで会うわ」
崎守が口をとがらせた。
不満たっぷり。
そんな顔で。
「なんだよそれ? どうしておれを連れて行かない?」
「だってこの家を見てよ。きっと虎丸ってのもおれさまだわ。おれさまにおれさまを対面させればなにが起きるかわかりゃしない」
「そう言うお前はなにさまだよ銀乃丞?」
「あたしはあたしさまよ。とにかく弥之助はここで待つの。星見くんは弥之助が悪さをしないように見張ってて。弥之助は顔に落書きはしない。でも塀にはするかもしれないから。いいわね弥之助。おとなしく待つのよ」
崎守が肩をすくめた。
星見はまだアキラを見ない。
アキラは悲しい気分で弓削山とお手伝いさんのあとにつづく。
庭に面した和室で虎丸にむかえられた。
和服を着ている。
高校生とは思えない落ち着きだ。
アキラは虎丸の顔をしげしげとながめた。
これが中学三年生のとき高校生にダイナマイトをくわえさせた男かと。
頑固そうな顔だがなかなかハンサムだ。
戦国時代の武将といったおもむきがある。
お茶を運んだお手伝いさんが去った。
虎丸が口を切る。
「で。おれになんの用だ?」
弓削山がひざを詰めた。
「男樹高校野球部の活動を再開させて欲しいの。あなたとの約束を守ってまだ活動を停止してるのよ。あなたの怒りを買ったのは花咲って主将でしょ? もう花咲キャプテンは卒業していない。なのに関係ないあたしたちまでどうして部活動を制限されなきゃならないの? それっておかしいわよ。先輩たちはあなたとの約束を守って二年間対外試合をしなかった。もういいでしょ野球部が活動をはじめたって。ちがう?」
虎丸がお茶をすする。
「なるほど。お前の言い分はわかった。けどおれも男だ。約束は守りたい。三年間活動を停止するって約束を交わした。元はと言えばお前の先輩が女心をもてあそんだせいだ。非はお前の先輩にある」
「それはそうだけどあたしたちは関係ないわ」
「気持ちはわかる。だがおれもまだ収まっちゃいねえ。同好会を認めてやっただけでもありがたいと思え」
「そんなのありがたいと思えない。張本人を苦しめるべきでしょ? あたしたち後輩を苦しめてどうなるわけ? それってまちがってない?」
虎丸の顔がゆがんだ。苦虫をかみつぶした顔になる。痛いところを突いたようだ。
「張本人をぶち殺しとけばよかったんだがな。こっちにもいろいろと事情がある。そうだな。そこまでおれにケンカを売るのなら買ってやろうじゃねえか。殴り合いじゃお前らが不利だろ? 野球で勝負はどうだ? お前たちが勝ったら野球部の復活を認めよう。おれが勝ったらまたいまから三年間野球部は休眠する」
そのとき庭越しに声が飛んで来た。
「おう! いいぜ! その勝負受けてやる!」
アキラは声に顔を向ける。
塀の上に崎守の顔があった。
弓削山が顔をしかめている。
なんで星見くんはちゃんと見張ってないのよ。
そんな顔だ。
虎丸がアキラと弓削山を見た。
「あいつも関係者みたいだな。ああ言ってるがお前たちはどうだ?」
弓削山が苦い顔をする。
崎守が乗り気な以上もう止められないと。
「仕方がないわね。受けましょう。で。いつ試合を?」
「そうだな。お前たちに選ばせてやろう。道はふたつ。おれたちと直接試合をする。これがひとつ。もうひとつは夏の県大会でけりをつける」
「県大会で?」
「ああ。県大会まであとふた月ある。それに審判も公正だ。直接試合をして審判の判定がおかしいとか言い出されちゃ困るからな。おれたち旭日高校は県大会の優勝候補だ。お前たちも勝ち進めばどこかで当たるだろう。そのときどちらが勝つかでけりをつけようじゃないか」
「なるほど。たしかにそれだと公正に決まりそうね。でもさ。県大会は四ブロックにわかれるって聞いてるわ。もしうちと当たる前にそちらが負けたらどうするの? 管理野球の理想学園が大本命って下馬評よ。早くに理想学園と当たったらあなたも無事じゃすまないでしょ?」
虎丸が考えた。
「たしかにそうだ。直接対決がないときはそうだなあ。お前たちが旭日高校と同じレベルまで来ればいいか。ああ。ついでだ。ハンデをやろう。うちがベスト四に残らなければお前たちの勝ちでいい。つまりお前たちが部活動を再開するパターンは三つ。直接対決でうちに勝つ。くじ運に助けられてうちと同じレベルに達する。うちがベスト四に残らない。それでどうだ?」
今度は弓削山が考える。
「ブロックが四つ。旭日高校と男樹高校が同じブロックになる確率は四分の一。ということは一番楽なのは最後のパターンね? あたしたちが一回戦で負ける。それでもあなたの旭日高校がベスト四に残らなければあたしたちの勝ち?」
「そういうことだ。まずありえないがな」
「あたしたちが一回戦で負けるのがありえないのよね?」
「ふふふ。なかなか言う。おもしろいやつだなお前は。まあおれとしては直接当たって勝つほうがいいがな。県大会を選ぶなら二ヶ月後だ。それまでせいぜい練習をしておけ。公式戦は二年ぶりだろ? 簡単に試合勘がもどるとは思えんぞ」
「あんがい優しいのね? 公式戦に出てもいいなんて」
「二ヶ月だけだからな。八月になればまた同好会に逆もどりだ。今度後輩に恨まれるのはお前たちになる。そのときはまたお前たちの後輩がうちに来るかな?」
「どうでしょうね。あなたは卒業してここにいないと思うけど」
「なぜそう思う?」
弓削山が虎丸の全身に目を走らせる。
アキラも虎丸をよく見た。
素晴らしく締まった肉体をしている。
身長も百九十センチはある。
手も大きい。
指も長い。
投げる球はたしかに速そうだ。
「プロ野球のスカウトが来るほどの投手なんでしょ? 卒業したらプロ入りじゃないの?」
「おれは卒業後も野球をやりたいとは思わねえ。野球でメシを食う気なら旭日高校を選んでねえよ。中学時代に愛美学院から誘いがあったんだ。野球をつづけるつもりなら最初から愛美学院に行ってる」
「なるほど。そう言われりゃそうねえ。じゃあたしたちの後輩が来たらまた相手をしてやってね。あなたは大人になってるんだからもっとハンデをあげてよ」
「ははは。やっぱりお前おもしれえ。ところでお前。男か女か?」
「あーら。話しててわからないの? あたしは女よ。女」
「わかった。女だな。女だからって手かげんはしねえぞ。いいな?」
「望むところよ。こっちこそ手かげんはしないわ。じゃ二ヶ月後。県大会で会いましょう」
弓削山がお茶を飲み干す。
席を立つ。
お手伝いさんに送られて虎丸邸を出た。
崎守と星見がむかえてくれる。
崎守が口を開く。
「虎丸はやっぱりおれさまだったか銀乃丞?」
「そうねえ。おれさまというより殿さまって感じかな?」
「殿さま対おれさまか。元祖おれさまの勝ちだな。ふふふ。で。試合はいつやるんだ?」
「二ヶ月後よ。詳しくは帰ってから話すけどね。県大会に出れるのあたしたち。公式戦よ」
崎守がこぶしを突きあげた。
「おーっ! そいつはごきげんだぜ! 祝! 野球部復活だぁ!」
アキラは弓削山のつぶやきを耳にした。
そんな簡単じゃないんだけどと。
四人は部室にもどる。
弓削山が説明をはじめた。
左池がふんふんとうなずく。
「つまりこうだな弓削山? 虎丸の旭日高校がベスト四に残れなければ野球部は復活?」
「そう。だから強豪三校と同じブロックに入らないように祈るのよ。もしくは強豪三校だけが同じブロックに入るように」
右天内が右手をあげた。
「けどよ弓削山。そのパターン。ひとつ穴があるぞ。もしおれたちがベスト四まで行くとするだろ? 虎丸の旭日高校もベスト四まで行く。そこで対戦する高校は四校だ。虎丸の旭日と当たらない可能性もある。虎丸と対戦しないままおれたちが負ける。一方の旭日がベスト二まで進む。その場合はどうなるんだ? 直接対決なしで旭日がベスト二で負けたら?」
「ベスト四ってことは準々決勝に進むってことでしょ? そこまで勝ち進んで負けたら虎丸に負けたといっしょってことよ。ハンデは必要ないってことでしょうね。だってベスト四の次は準決勝だもの。あとふたつ勝てば甲子園よ。本気で甲子園に出ようかってチームにハンデをあげたくないわあたし」
「なるほど。それもそうか。くじ運だけで準々決勝まで行けりゃおんのじだもんな。そこから先はハンデなしで戦えってか」
「そういうこと。もともと虎丸は直接対決しか考えてなかったの。旭日がベスト四まで進まなかったらってのはハンデ。虎丸が途中でこける。そんな虫のいいことを考えてたら勝てる試合も勝てなくなるわ。これからしばらくは猛練習あるのみよ。ところでさキャプテン。月曜は紅白戦の日でしょ? 火曜から金曜はどんなメニュー?」
「軽く打撃練習。グラウンド整備と球拾い」
「それだけ? ホントにそれだけ? ホントにホントにホントそれだけ?」
「そう。それだけ」
「それで勝とうっての? そんなのゆるせなーい! 一からきたえ直しだわ! 男樹高校の野球部再建を目ざして! おーっ!」
全員が不承不承にこぶしをあげた。
しかしすぐ練習にはかかれない。
しばらく使ってないピッチングマシンその他の道具の手入れからだ。
全員で手わけして道具を整備する。
けど星見がまだアキラを見ない。
アキラは悲しい。
整備が終わった。
すでに下校時刻だ。
左池が弓削山を指で招く。
「おれいま気がついた。たいへんな見落としがあるぞ弓削山」
「見落とし? なにそれ?」
「監督だ。監督がいねえ。このチーム」
「か。監督ぅ? なぜ? どうしていないのよ? 普通いるでしょ?」
「ああ。たしかにいた。この四月まで。けど死んだんだ。四月にガンで。だからいま監督不在だ。監督のいないチームなんてありえないぞ?」
「顧問はいるわけ? 野球部の顧問は?」
「名目上は教頭の寝呉戸が顧問だ。部として活動してないから一度も顔を見せないけど」
「寝呉戸教頭に監督も兼任してもらうってのはできないの?」
「すでに部長を兼任してもらってる。それに寝呉戸はスポーツ音痴だぞ? 頭も硬い。そんなのを監督にすえれば勝てる試合も勝てなくなる」
「なるほど。そうね。あの教頭。よぶんな口出しが好きそうだものね。誰かいないかしら? あっ! そうだ!」
「なんだ? 誰か適任者がいるのか?」
「うん。あたしに心当たりがひとり。監督経験者だって言ってた先生がいるわ。きっと引き受けてくれると思う」
「おお。そいつはありがたい。じゃ弓削山にまかせた」
そのとき星見が口をはさんだ。
「あの左池先輩。このチーム。捕手もいません」
全員が星見をにらむ。
口がそろった。
「捕手はお前だろ星見!」
「お。おれはいやですよ。捕手は疲れる」
弓削山が星見の手を取った。
星見の手の甲を指でスリスリする。
星見がゾクッとちぢみあがった。
「ねえ星見くーん。捕手をやってくれないとさぁ。桜子先生にたのんであなたと同室にしてもらうわよぉ。そうなるとこのていどじゃすまないかもねえ。あたしと夜をともにしてみるぅ? めくるめく快楽の一夜をお約束するわよーん」
星見の素肌の部分に鳥肌が走る。
星見の顔が青ざめた。
「や。やる。おれ捕手をやる。いや。やります。やらせて。やらせてください。おねがい」
弓削山が星見の手から指を離した。
「最初からそう言やいいのよ。バカねえ。凪ちゃんの球はあんたしか取れないんだから」
そのときアキラはふと頭数を数えてみた。
全員で九人だ。
しかし草津と自分は投手。
「あのさ弓削ちゃん。捕手は星見で決まりだよね? でもファーストがいないんじゃない?」
弓削山が眉を寄せた。
指を折る。
顔ぶれを見回した。
「セカンドは二村先輩でしょ。ショートはあたし。サードは三笠先輩。ライトは右天内先輩。センターは弥之助。左池先輩はレフトにまわってね。投手は凪ちゃんと草津キャプテン。捕手は星見。そうね。たしかにファーストがいないわ。ねえ草津キャプテン。キャプテンはファーストでどう?」
草津が即答で返す。
「だめだ。おれはピッチャーで四番。ファーストなんかやりたくない」
星見が弓削山のユニフォームを引いた。
星見がささやく。
「草津キャプテンは守備がまずい。一塁手の守備は最重要だ。ミットさばきのうまい者でないとアウトが取れないぞ」
星見の言葉を受けて弓削山が全員を見回す。
専門の一塁手は捕手と同じでミットを使う。
きのうの紅白戦では一塁手もグローブで受けていた。
公式戦となればそれは不利に働く。
かといってグローブとミットでは勝手がちがう。
慣れるまでしばらくかかる。
このメンバーでミットが使えるのは星見だけ。
「あのさキャプテン。これまでの紅白戦で捕手は誰がやってたわけ? 捕手もグローブで取ってたの?」
「そうだ。おれの球だけバスケ部の主将がミットで受けてた。男樹寮で一番背の高い男だ」
「ああ。星見と同じ部屋だった人ね」
「そう。あいつは小学校中学校と捕手だった。だからミットも使える」
「じゃあの人に」
「だめだだめだ。あいつは夏のインターハイに向けてこれから忙しくなる。バスケ部はいま調子がいいんだ。それに三年だぜ。最後の夏だ。それを野球部のために手を貸してくれなんて言えん。かけ持ちにしたってもしあいつがインターハイに出場が決まったらどうする?」
「そうね。県大会と重なっちゃうわ。じゃどうすればいいのかしら? 急造で一塁手を育てるのはむずかしいわ」
アキラは手をあげた。
「ボクにちょっとだけいい案がある」
「なに? 凪ちゃん?」
「一之倉さんじゃだめかな? 投げられないけど受けれる。バッティングもいい。ミットさばきも慣れてたよ?」
全員が眉を寄せた。
あの肩ではなあ。
そんな顔だ。
一塁手は球を取るだけではだめ。
ランナー三塁で一塁前にバントを転がす場面も来る。
その際に本塁へ矢のような送球ができなければ簡単に点が入る。
一塁手の送球に難があると敵に知られたらその策を毎回取るだろう。
ヒット一本で一点。
たえずその覚悟をしなければならない。
アキラはなお言いつのる。
「県大会まで二ヶ月を切ってるんだよみんな。一塁手のカバーは投手とセカンドとライトですればいいじゃない。一之倉さんがグラブトスをしてくれれば投手が代わりに投げりゃいいじゃないさ。とにかく一塁手なしじゃ試合はできないよ」
左池がうなずいた。
「たしかに捕手と一塁手なしでは試合にならない。しょうがない。一之倉を誘ってみるか。でもあいつ入部するかなあ? どのクラブにも入ってないぞ?」
弓削山が口をはさむ。
「あたしたちで説得するわ。最悪は二ヶ月でいいのよ。七月まで参加してくれればね。クラブに入ってないなら好都合だわ」
なるほどと全員が納得した。
日暮れに一之倉の家を探し当てた。
一之倉酒造と看板が出ている。
倉が三つ並んでいた。
日本酒を作っているらしい。
敷地の中で一之倉がタルを洗っているのが見える。
白木のタルだ。
野球部全員が入れるほど大きい。
四人が近づくと一之倉が顔をあげた。
弓削山が声をかける。
「一之倉先輩。ファーストをやってくれない?」
「ファースト? おれが? きのうの雪辱戦をやるのか? でも投げれないから負けるぞ? それでいいならやってみよう」
「ううん。ちがうの。公式戦よ。七月の県大会に出るの」
一之倉の眉が曇る。
糸のように細い目がますます細まった。
「じゃだめだ。紅白戦なら通用するかもしれない。でも公式戦に通用する肩じゃない。一回戦で負けたいのか?」
「おねがい。一之倉先輩しかたのめる人がいないの。県大会だけでいいから出て」
「だめだ。おれの返球じゃどこも刺せない。おれひとり狙われて恥をかけってのか? そんなのごめんだね。帰ってくれ」
「そこをなんとか。おねがい先輩」
「だめ。おれはもう野球はやめたんだ。帰ってくれ。洗うタルがまだ残ってるんでな」
そこに声がかかった。
「やってやれ酒男」
アキラは声に目を向けた。
やせたおじさんが立っている。
目が糸みたいに細い。
一之倉もおじさんを見た。
「お。親父」
おじさんがスタスタと一之倉に近づく。
一之倉を立たせた。
「お前をたよって後輩が来てるんだろ? 逃げるな酒男」
「逃げる? おれがか? おれがいつ逃げたよ?」
「お前のひじだ。手術すれば治ると医者は言った。でもお前は手術をしなかった。それはなぜだ?」
「おれは野球をやめたんだ。手術なんかしなくても日常生活に支障はない」
「それは言い訳だ。お前は野球が好きだ。まだ忘れられない。いまでもシニアリーグの試合は見てるじゃないか。どうして高校野球の試合は見ない?」
「そ。それは」
「自分が出られない試合を見るのがつらいからだ。お前は変化球に逃げた。ストレートでおさえられなくなったからじゃない。逃げたんだ。エースで四番の重圧から。勝って当たり前。負ければさんざんにののしられる。それが耐えられなくなったんだ。背負えなくなった。みんなの期待を。それで変化球ばかり投げるようになった。ひじを壊す。肩を壊す。わかっていても止められなかった。投げられなくなってホッとしたんだろう? 手術をしてひじが治ればまたあの重圧を背負う。それがいやでひじの手術をしなかった。お前は野球が好きなんだ。逃げつづけてもつらいだけだぞ酒男。男には乗り越えなきゃならない山が来る。いまがその機会だとおれは思う。乗り越えてみろ酒男」
一之倉がうつむいた。
答えが返らない。
アキラは待った。
弓削山も待つ。
崎守と星見も。
一之倉はうつむいたまま。
弓削山が顔を出口に向けた。
「一之倉先輩。入部を希望するなら部室に来てください。あたしたちはずっと先輩を待ってます。ファーストのポジションをあけたまま」
弓削山がアキラの手を引く。
一之倉家をあとにした。
帰り道。
アキラは誰にともなくたずねる。
「一之倉先輩。来るかな?」
崎守が答えた。
「来るさきっと。お前の球を打ったんだぜ。あの楽しさを知って来ないはずがねえ。おれは虎丸の球を打つのがいまから楽しみだ。わくわくして眠れなくなる。打ちたくて打ちたくてたまらなくなるはずだ。一塁手ならそんなに重圧もないしな」
「だといいね」
「おれさまが保証する。きっと来る。まちがいなく来るさ」
寮に着いた。桜子が四人をむかえる。
「お帰りなさい。今夜はロールキャベツですって」
弓削山が一歩前に出る。
「桜子先生。先生って高校時代に監督をしてたんでしょ?」
桜子が突然の質問にとまどう。
「えっ? ええ。してたわ。それが?」
「あのう。あたしたちの監督を引き受けてくださらない?」
「あら。わたしでいいの?」
「はい。先生が適任だとあたしは思うの。先生って名監督になりそうな予感がするわ」
「名監督? それはとってもうれしいわね。じゃ引き受けようかしら」
「きゃー! ありがとう先生! あした部室に来てね。みんなを紹介するから」
「わかりました。校長先生にも話しておきます」
四人は自室にもどる。
そのうしろで桜子が首をかしげた。
「でも変ねえ? 男樹高校に映画研究会なんてあったかしら?」
アキラたちは誰ひとり桜子のつぶやきを聞いていない。
消灯時刻が来た。
星見がさっさとベッドの上段にあがる。
アキラは蛍光灯を消した。
アキラも下段で横になる。
しかしやはり眠れない。
指がうずうずする。
星見のベッドのカーテンをあけたい。
星見の寝顔を見たい。
でも見ればまたキスをしたくなるかもしれない。
ううん。
したくなる。
すでにキスをしたい。
ボクってとってもエッチな女の子なのかな?
アキラは恥ずかしく思う。
告白もしないでキスだけする卑劣な女にはなりたくない。
悶々とアキラは寝返りを打つ。
ついに耐え切れなくなった。
ベッドのはしごを登る。
カーテンをそっとあけた。
バレないように星見の顔を見る。
よく眠っていた。
やはり可愛い。
起きているときはいやなやつだ。
けど寝顔はとてもそそる。
うー。
とってもキスがしたい。
たまらなくなった。
「おーい星見。起きないとキスしちゃうぞぉ」
声をかけても起きない。
寝たふりをしているんではないかとくすぐってみた。
身体をよじるが起きない。
ますますキスがしたい。
「だめだこりゃ。ボクってとってもエッチだ。やっぱり落書きか?」
それにしてもとアキラは思う。
昨夜あんな落書きをされて翌日グーグー寝るやつがいるか?
こいつ脳みそがないんじゃ?
「ふふふ。ごめんねえ星見。こうしないとボクきみにキスしそうなんだ。許してね」
アキラは極太サインペンをかまえる。
「えーと。きのうはネコのヒゲだったよな? きょうはなにを描こう?」
アキラは星見の目の周囲を黒く塗った。
両目とも。
鼻の頭も黒く塗りつぶす。
「くふふ。パンダだ。これは傑作。いい出来だなあ。こんな顔にキスする気にはなれないや。よかった。変な顔に描けて。怪奇パンダ男。なーんちゃって。あした起きたら忘れないで消そうっと。ひひひひひ。変な顔。ざまあみろ。ボクを無視した罰だ」
笑いながらアキラはカーテンを元にもどす。
自分のベッドにもぐりこむ。
気づかないうちにアキラは眠りに落ちた。
早朝五時前。
星見は目をあけた。
部屋は静かだ。
そっとベッドからおりる。
下段のカーテンを音を殺してあけた。
アキラはまだ熟睡中。
星見はサインペンを手ににぎる。
「なーぎーのー。きのうの恨みを晴らしてやるぅ」
まずアキラのひたいに怒りの青すじを描く。
次に眉毛を太く吊りあげるように線を引く。
目尻も吊りあげた。
目の周囲に長いマツゲを幾本も伸ばす。
カイゼルヒゲを左右にピンと張る。
ついでにあごヒゲもスルスルと。
「くくく。どこからどう見ても変態だ」
星見が息を吸った。
アキラの耳に口をつける。
「おーい凪野。朝だぞぉ。ランニングに行くから着替えろよぉ」
ビクッとアキラが目をあけた。
星見は笑いをこらえるのに必死。
一方のアキラも星見のパンダ顔に笑いをかみ殺す。
消すひまがなかったと思いながらジャージに着替える。
星見がアキラをせかす。
「さあ。早く早く。朝食に遅刻しないよう行くぞ」
「う。うん」
アキラはいいのかなと思いながら外に出た。
きのうと同じコースを星見と走る。
きのうと同じ地点で新聞配達のおじさんが自転車で走って来た。
いきなり笑い転げる。
「どひゃひゃひゃ」
きのうこけそうになった経験からか今朝は自転車を止めて笑う。
「けけけけけ。毎朝感心だねえ。うひゃひゃひゃ。いやあ若いってうらやましい。ずひひひひ」
アキラは星見のパンダ顔を笑っていると思った。
星見はアキラの怒り顔がおかしいと思う。
ふたりはおじさんにおはようとあいさつをして駆け抜ける。
川原の土手に出た。
また旭日高校陸上部の女の子たちが走って来る。
きょうはアキラたちの顔を見るなり土手から転げ落ちた。
「きゃははは。死ぬぅ。笑い死ぬぅ。ふひゃははは。た。助けてぇ。人殺しぃ。あはははは」
アキラは思う。
たしかに星見のパンダ顔はおもしろいよなと。
星見も思う。
凪野の怒り顔は最高だぜと。
ふたりは走りつづけた。
黙々と。
ふたりが会話しない分すれちがう人が笑い転げてくれる。
ふたりは二時間走りつづけた。
笑いを町全体にふりまいて。
寮にもどった。
そこでも笑われた。
やはり桜子だ。
「おはよう。きゃーっ。くきゃきゃきゃきゃ。今朝はふたりともなのぉ? くふふふふ。あんたたちそれわざとぉ?」
桜子が身体をふたつ折りにして笑う。
星見が先に気づいた。
「ふたりとも?」
アキラも気づく。
「まさか?」
ふたりで食堂の鏡をのぞきこんだ。
パンダ顔と怒り顔が並んでいる。
思わず噴き出した。
こんなのが正面から走って来たら笑うだろう。
そう実感を持った。
お互いに相手をなじろうとする。
けど笑いがみこあげておこれない。
ひとしきり笑い転げて顔をあげた。
そこにまた寮生たちが団体で顔を見せる。
みんなが一斉に笑う。
弓削山の声が聞こえた。
「なーぎちゃん」
アキラは声の主を見た。
その瞬間ピカッと光った。
写真を撮られたらしい。
あとで見せてもらった。
パンダ顔の星見とのツーショットだ。
どうせなら普段の顔で撮ってよぉ。
そう思った。
初めての星見とのカップル写真はパンダ顔と怒り顔だ。
泣くに泣けない。
星見とふたり自室に逃げる。
サインペンを落としながら星見が声を出した。
「おい凪野。もうやめようぜ。きりがないや」
「そうだね。ボクももうやめる」
言いながらアキラは考える。
どうすれば眠る星見にキスをしないですむかと。
アキラの胸は痛い。
もしボクが女のまま星見に会っていたらどうしただろう?
いきなり告白できたかな?
男同士として接したからこんなに胸が苦しいのかな?
いっしょの部屋で寝ながら好きって言えないから?
星見に嘘をついているせい?
なんでボクこんなに胸が苦しいんだろ?
涙がこぼれはじめた。
星見がうろたえる。
「ご。ごめん凪野。泣くほど気にするとは思わなかったんだ。もうしない。もうしないから泣きやめ」
「ううん。ボクこそごめん。泣いたりして。先に落書きしたのはボクなのにね。いままでのこと水に流してくれる? ボクを無視しないでくれる?」
「お前が妙ないたずらをしなければな。しないよな?」
「えーと。そのう。ちょっと。ほんのちょっと。すこしだけ。それじゃだめ?」
「だーめ。一切だめ。おれにいたずらをするなぁ!」
「あーん。星見がおこるぅ。弓削ちゃんに言いつけてやるぅ」
うっと星見がひるんだ。
キョロキョロと星見があたりを見回す。
弓削山がいないかと警戒をしている。
そういう点が可愛いなあとアキラは思う。
弟の勇紀みたいだ。
いたずらしたあと両親にバレないかと恐れて周囲を気にした勇紀。
いるのが当たり前だった。
いなくなる日が来るなんて想像したこともなかった。
それがいまはいない。
どこにもいない。
アキラは星見の顔をしげしげと見た。
どこか勇紀に似ている。
勇紀が大きくなったらこんな高校生になっただろうか?
きっとなっただろう。
また桜子が呼びに来た。
アキラは星見の背中を押す。
これ以上星見に泣き顔を見られたくない。
放課後。
桜子が弓削山を探して野球部の部室にたどり着いた。
弓削山から話を聞いていた全員が桜子をむかえる。
「新監督の紫東桜子先生! よろしくっス!」
ユニフォーム姿の全員を見て桜子が目を丸くした。
「なんでユニフォーム姿? どうして野球部なの? あ! そうか! わかった! 青春野球映画を撮るのね? いいわぁ。わたし燃えそう。野球と言えば青春。青春と言えば野球。やっぱこれっきゃないわよね。で。シナリオはどうなってるわけ? カメラマンは誰?」
今度は野球部全員が目をパチパチする。
代表して左池が疑問を口に運ぶ。
「シナリオ? カメラマン? なんの話それ? 先生?」
「えっ? シナリオもカメラマンもまだなの? そんなのでよく映画を撮ろうって思い立ったわねえ。向こう見ずにもほどがあるわ。ええい。まかせなさい。わたしがシナリオを書いてあげましょう。カメラマンもわたしがやったげよう」
「はい? 映画を撮る? 怪獣映画ですか?」
野球部全員と桜子がにらみ合う。
根本的に会話がずれている。
「あのね。わたしは怪獣映画なんか撮らない。わたしが撮るのはリアリティにあふれた日常的な映画よ。人々の心に感動を巻き起こすジーンと来る映画。安っぽい特撮が撮りたいなら別の監督にたのみなさい。そもそも野球部に怪獣を登場させてどんな映画になるっていうの? 野球で怪獣を撃退する話? そんな荒唐無稽な映画はわたしには撮れません」
弓削山が自分の勘ちがいにやっと気づいた。
桜子は高校時代に監督をやっていたと口にした。
高校野球の監督を女子高生が引き受けるのはかなり例外だ。
桜子は映画研究会だかの監督だったのではないか?
きっと野球部の監督ではなかったはず。
弓削山が一計を案ずる。
「じゃ先生。おれさまが殿さまを撃退するって映画ならいかが?」
「おれさまが殿さまを撃退するの? それどんなストーリー?」
「昔々あるところに野球部がありました。主将が殿さまの怒りにふれて活動を停止させられたの。ところが殿さまの仕打ちがあまりに理不尽だったわけ。そこで主将の部下たちが立ちあがったのね。殿さまは野球がうまかったのよ。それで殿さまと野球で勝負をしようってなったの。主人公の四番バッターはおれさまね。殿さまが勝てば殿さまの決定を受け入れる。殿さまが負ければ決定を取り消してもらう。殿さまはその提案を飲んだわけ。その日から部下たちは」
「わかった! 猛練習をして野球がうまくなるのね? それで殿さまを最後にやっつける? 赤穂浪士の野球版ね?」
「まあそういうお話よね。殿さまにたどり着くまで殿さまの手下チームと激闘をくり広げるの。おれさまたちは苦戦に苦戦を重ねて殿さまと対戦するのよ。当面桜子先生にはリハーサルを引き受けて欲しいわ。夏休みにアルバイトをしてカメラを買うからさ。それまでの演技指導をおねがいできないかしら? リハーサルだから先生はすわってるだけでいいの。気がついた点をちょいちょいと指摘してくれれば。ねっ? 本撮影は秋ってことでいかが?」
「ふーん。手がこんでるわねえ。じゃ舞台はどういうところを予定してるの?」
「七月の県大会に参加するわ。そこで実際に起きた死闘をあとで再現して一本の映画にまとめようと思うの。本当にあった野球の場面だから臨場感が湧くはずでしょ?」
「うーん。リアリティ重視ねえ。そうよ。そういう映画がわたしは撮りたいの。よし! 乗った! その監督引き受けましょう!」
やったと弓削山が指を鳴らす。
「じゃ先生もベンチに入るため野球部の監督として登録してちょうだい。でないと県大会のベンチに入れないわ。校長にそう申し出れば高野連に提出する書類を書いてくれるの」
「わかったわ。県大会のあいだ野球部の監督になればいいのね?」
「はい。ユニフォームを着てダッグアウトにすわってね。貴重な経験になると思うわよ」
「ふんふん。それはそうねえ。本物の試合を目の前で見れるのよね?」
「ええ。テレビの地方放送にも映るはず。字幕に男樹高校監督紫東桜子と出るわ。うちが勝てば勝利監督としてインタビューもされるの。偉そうな顔をして選手たちがよくやってくれましたって言えるわよ」
「きゃー。楽しみぃ。さっそく校長に知らせましょ。野球部の監督になったって」
星見がアキラのユニフォームを引いた。
弓削山に目を流す。
「このオカマ。とんでもない嘘つきだぞ? いいのかこんなやつに引きずられて?」
ボクも嘘つきだよ。
男だってきみをだましてるんだ。
そう言いかけてアキラは口をつぐむ。
「ま。いいんじゃないの? ボクら全員弓削ちゃんに引きずられてるもの」
星見が思い返す。
たしかにアキラの指摘どおりだ。
星見がふたたび捕手をやる羽目になったのも弓削山。
野球同好会を野球部にしようという案も弓削山。
星見が桜子に弓削山の嘘を告げ口しようとして取りやめた。
弓削山に逆らうと部屋替えをされそう。
落書き男よりオカマのほうがいやだ。
桜子が校長室に向った。
入れ替わりに一之倉が現われる。
全員しばらく声がない。
一之倉とにらみ合う。
気まずい。
アキラは意を決した。
「先輩。一塁手をやってくれるんだね?」
一之倉が入部願いの用紙を手に取る。
「おれは打たれるのが怖かった。自分の実力を認めるのが怖かった。だからひじを手術しなかった。楽なほうを選んだだけだ。こんなおれでもいいのか?」
誰も答えない。
アキラはまた口を開く。
「みんな打たれるのは怖いよ。ボクなんかマウンドでちぢみあがるもの。自分の実力を思い知らされるのはつらい。上には上がいるからね。でも仕方ないじゃない。自分は自分だ。勝つ者がいれば負ける者がいる。きょう勝ったってあした負ける。それが野球だよ。勝ちつづける日は来ない。けど負けつづける日も来ないんだ。ボクはそう思って投げてる。きょう負ければあしたは勝てると」
一之倉が細い目をさらに細めた。
「ふふふ。楽天的な男だなお前は」
「だってそう思わなきゃ投げらんない。ホームランを打たれたって投げつづけなきゃいけないんだもの。中学時代のチームは投手がボクひとりしかいなかった。勝ちも負けもぜーんぶボクが背負って来たよ。おかげで度胸だけはついた」
「うちもよく似たチームだった。けど度胸はつかなかったな。勝ち進むにつれて重圧だけが増した。どこまで行っても終わりのない中を投げてるみたいだった。味方が先行してくれるのが怖かったよ。一点を守り切るのがすごく怖い。どんな球を投げても打たれる。そんな気がした。負けてる試合のほうが気楽だった」
「それは先輩がいい投手だからだよ。ボクはいつも先に点を取られてた。うちのチームは後半の逆転勝ちばかりだったもの」
「えっ? お前が点を取られた? どんな相手だそりゃ?」
一之倉だけでなく全員が目を見張る。
アキラの速球は百五十キロ近い。
そんな球を打つ中学生ってどういう化け物だと。
「いや。重量級の打線ばかりだったんだ」
女子ソフトボールで力をセーブして投げていたとは言えない。
星見が口をはさむ。
「凪野は立ちあがりが悪いからじゃないかな? エンジンがかかる前に点を取られるタイプだ。後半は尻あがりに球が速さを増す」
なるほどとみんなが納得した。
左池がふと気づいた。
左池が質問をする。
「星見よ。じゃ虎丸はどんな投手だと見た?」
「虎丸ねえ? 去年の夏の大会と春のリーグ戦をビデオで見ましたよ。虎丸の最高速は百五十五キロ。凪野より速い。たいていの投手は立ちあがりに不安がある。けど虎丸にはその穴がない。ひょうひょうと投げて来る。コントロールもそこそこだ。とらえどころのない投手じゃないですか? 穴はむしろ内外野の守備と虎丸以外のバッティングでしょう。旭日高校は虎丸以外本当に素人だ。虎丸がいなければ楽勝の相手なんですがねえ」
「うちが虎丸を打てると思うか?」
「プロ野球の打者でも五打数一安打。ホームランを打つのはかぎりなくむずかしい。それほどの好投手ですよ。ただ球種がすくない。ストレートとスライダー。そのふたつしかない」
「ストレートとスライダーしかなくて去年の県内奪三振王か。ストレートが来るとわかってて打てないんじゃしょうがないな」
左池がアキラを見た。
アキラのドまん中の直球もそうだ。
来るとわかっていても打てない。
弓削山があごをなでる。
「じゃうちと旭日高校が当たったら投手戦になるの? 凪ちゃんが初回を乗り切れば持久戦?」
星見がうなずく。
「両投手の出来がよければそうなる。一点を争う無得点試合になるんじゃ? ひとつのエラーやフォアボールが勝ち負けをわけると思うな」
「でもさ。ピッチングマシンは百六十キロのストレートを打ち出せるわ。その球を打って練習すれば虎丸を打ち崩せるんじゃない?」
「言うのは簡単だ。でもたぶん無理。うちには虎丸よりスピードのおとる投手がいるじゃないか。その凪野のストレートでも弓削山はバットにかすらない。ピッチングマシンの球と人間の投げる球は回転数がちがう。フォームも影響するしな。凪野はアンダースローだ。球を離す位置も変則的。ボールの出どころが見えない。こういう投手は球速がなくても打ちづらい。虎丸も腕が身体の影に隠れるタイプだ。ビデオで見るぶんには打てる気がする。でも打席に立つときっと球の出どころが見えない。弓削山はボールの変化を追う目は抜群だ。けど力押しで来るボールには弱い。マシンの百六十キロが打てても虎丸攻略はむずかしいはず。しかしまあ。やってみりゃどうだい? マシンで目を慣らして凪野の球を打ってみては? 虎丸ほどじゃないけどうちの新人投手も高校最速に数えられそうな逸材だ」
「なるほど。試す価値はありそうね。じゃ凪ちゃんそういうことで」
さっそくピッチングマシンを引き出す。
最高速で全員が打つ。
しばらくつづけると球に当たりはじめた。
次にアキラに投げてもらう。
弓削山がかまえる。
ドまん中なのにかすりもしない。
弓削山が金属バットをほうり投げた。
「なんでこんなに当たんないわけ?」
星見がボールをアキラに返す。
「凪野がリラックスして投げてるからだ。ミットに収まるまで回転が落ちない。お前は手元でグンと伸びたように感じてるはずだ。試合でこの球が投げられるといいんだが」
「どういうことよそれ?」
「プレッシャーだ。練習でホームランを打たれても悔しくもなんともない。しかし試合じゃそうはいかない。腕がちぢむ。身体がこわばる。そうなると球は来ない。お前だって試合で十割は打てないだろ?」
「そうね。中学時代は五割だったわ。けど勝ちたいって試合ほど打率は落ちたわね」
「そんなものだ。練習でならベストの力を出せる。だが試合はなあ」
「普段どおりの力を出せないってわけね。じゃ凪ちゃんも?」
「どうだろうなあ? おれは凪野が投げた試合を見てない。けど投手ってやつはみんな同じだ。その日投げなきゃ出来がわからない。前回いいピッチングをしたから次もと思うとそうじゃない。その点虎丸はかなり安定した投手だ。たぶん全力で投げてないからだろう」
「はい? 百五十五キロが全力じゃないわけ?」
「おれの見た感想だよ。けどそう思うね。あと三キロは余力があると見た。ただ百五十五キロは最速だ。一試合で三球ていどしか来ない。虎丸の通常投げる球は百五十キロ前後。最速の百五十五キロはコントロールが悪い。プロも球速よりコントロールを優先させる。たいていのプロの投手はコントロールが関係ないならもっと速い球を投げられる」
「なるほどなるほど。それはそうかも。じゃ凪ちゃんももっと速くなる?」
「凪野の場合は力めばキレがなくなるぞ。速く投げろは禁句じゃないかな? むしろ力を抜けだな。凪野が自然体で投げたときのボールはおれの頭上を越えるほど浮く。凪野の最速は百五十キロに届かないんじゃないかな? だがアンダースローのライジングボールは打ちにくい球の代表だ」
「それが凪ちゃんの決め球?」
「そう。けど要求しても投げられない。凪野自身がどう投げれば浮きあがるかわかってないんだ」
「役に立たないわねえ」
「そうなんだ。せめて五球に一球出せれば三振を取るのが楽になるんだが」
「ふうん。そういやさ。理想学園は虎丸に勝ってるわけでしょ? 五年連続夏の甲子園に出てるんだから。どうやって虎丸に勝ったわけ? 理想学園の真似をすればうちも勝てるんじゃないの?」
「理想学園の真似か。気楽に言ってくれるな。理想学園のレベルに達するには時間が足りなすぎる。まあいい。理想学園が虎丸にどうやって勝ったか説明してやろうか。理想学園は虎丸を打ってない。理想学園対虎丸はまだヒットが一本だ。それも内野安打だけ。見方によっちゃエラーと公式に記録されておかしくない当たりだった」
「ヒット一本? それでどうして勝てるのよ?」
「まずバントで虎丸と内野陣をゆさぶる。次は待球戦法だ。ファールでねばってひたすら四球を待つ。塁に出たら足でかき回す。この春のリーグ戦。理想学園はノーヒットの試合で虎丸から三点を取って勝ってる。ちなみに強打者虎丸は全打席敬遠のフォアボールだ」
「ひぇー。徹底してるわねえ」
「それも理想学園のきたえ方があってこその戦法だ。うちがそれをやろうとしても無理だな。ファールでねばるがまず不可能だろう。虎丸から四球を選べないんじゃないかな?」
「けどさ。理想学園の選手はよくそんな作戦に従ってるわねえ?」
「監督の命令にそむいたら即退部。理想学園の野球部は才能のある者を入部させない。凡人ばかりを取る。監督の命令に忠実な凡人ばかりを」
「凡人ばかり?」
「そう。お前や凪野や崎守なんかは最初から入れてもらえない。おれや右天内先輩みたいなのを一年生からきたえあげる。少数精鋭で毎日毎日夜の十時まで。つらくて地味な訓練ばかりをくり返す。四月に百人入部した部員が五月には十人にへるそうだ。だから理想学園の野球部はいつも三十人前後。甲子園に行けばどんな部員もかならず一度は使ってもらえる。それがきびしくつらい練習の対価だ」
「なるほど。甲子園がほぼ確実だから選手は耐える価値があるわけね」
「甲子園に行けなくても毛利常喜って監督の人望が選手をそこまでさせるって噂だぞ」
「そ。そんなあ。そこまで管理野球をしいる人が人望あるわけ?」
「人望のない監督が夜の十時まで猛練習を強制しても生徒がやるわけないじゃないか」
「あ。なるほど。それもそうね」
「理想学園の強さの秘密は猛練習じゃないんだ。監督と選手の一体感にある。監督も選手もお互いがどうしたいか手に取るようにわかる。その緊密な連帯感が理想学園の最大の武器だ。むろん打撃も守備もそつがない。しかし天才はひとりもいない。そこが理想学園の怖さだ。虎丸の旭日高校とは正反対だぞ」
そのとき弓削山が笑いはじめた。
ふふふと。
星見が眉を寄せる。
「なんだよ弓削山? なにがおかしい?」
「だってさあ。あんた捕手はいやだってさんざんごねたじゃない。でもすわらせりゃ捕手以外の何者でもないわ。ピッチャーをどうリードするか。次の試合にどう勝つか。それしか考えてないもの。凪ちゃんの短所長所もちゃんと把握してるしさ。県大会で当たるかもしれない強敵の分析もすでに完璧じゃない。それでも捕手はやなの?」
ハッと星見が気づく。
ボールを受ける前は二度と捕手はしたくないと思っていた。
けどボールを受けはじめると頭の中が空っぽになる。
どの球を打者のどこに投げさせれば三振を取れるか。
どこに打たせればダブルプレイか。
そればかりを頭が追う。
あんなにいやだと思っていたのに。
二度とごめんだと決めたのに。
そこに校内放送が流れて来た。
「一年一組の凪野アキラくん。一年五組の星見要くん。至急校長室までおいでください。くり返します。一年一組の」
アキラはマウンドをおりる。
星見に寄った。
「なにかな?」
「桜子先生の監督就任の件じゃないか? とにかく行ってみよう」
星見がプロテクターをはずす。
ふたりで校長室に向かう。
校長室には校長と教頭だけがいた。
桜子はいない。
教頭が切り出す。
「男樹高校のジャージを着たふたり組がお笑いの修業をしているそうだ。毎朝顔面ペインティングで町内を笑わせまくっているらしい。警察に苦情が届いた。腰が抜けて歩けなくなったおばあさんからな。あごがはずれて朝ご飯が食べられなくなったおじいさんからもだ。朝から笑いっぱなしで仕事にならなくなった農家のおじさんからもだぞ。顔面に落書きをして町内を走り回る高校生を取り締まる法律はないか。そんな問い合わせが警察に殺到しているらしい。むろんそんな法律はない。しかしわしは副署長からどやしつけられた。お宅の生徒だろ。生徒指導を徹底しろと。調査の結果。お前たちふたりではないかとなった。身におぼえがあるか星見と凪野?」
アキラは身をちぢめた。
「あ。あります。ご。ごめんなさい」
「やっぱりお前らか。今後顔面ペインティングで町内を走るのは禁止だ。それからもうひとつ。タレコミがあった。町内のランジェリーショップでうちの生徒ふたりが女性用下着を楽しげに買って帰ったそうだ。派手な勝負下着だったと聞いている。性犯罪者になるかもしれないから注意を喚起すべきです。そんな匿名の電話があったぞ。それもお前らふたりか? 女性用下着を買うなとは言わん。しかし盗むのは犯罪だ。町内で下着泥棒が起きればわが男樹高校がうたがわれる。瓜田に履を納れず李下に冠を整さずだ」
アキラは教頭のことわざをこう聞いた。
「家電を口に入れず理科に寒ブリを絶やさず?」
教頭が頭から湯気を出す。
「うたがわしい真似はするなってことだ凪野!」
星見がアキラのユニフォームを引く。アキラに耳打ちをした。
「かでんにくつをいれず。りかにかんむりをたださずだ。ウリ畑に踏みこんだり梨の木の下で帽子を直すと泥棒とまちがえられても仕方がない。そういう意味の中国のことわざだ」
「へえ。星見って物知りだねえ」
教頭が咳払いをした。
「コホン。とにかくだ。わが校を卒業するまで女性用下着店には入らないように。いいなふたりとも?」
星見が口をとがらせる。
女性用下着を買った憶えはない。
「いや。それはおれじゃないです」
アキラは星見をつついた。
星見の耳に口をつける。
「ごめん。それもボク。おとといの夜。夕食のあとで弓削ちゃんとふたりで行ったの。ボクは買わなかったけど弓削ちゃんが」
なるほどと星見が納得をする。
あのオカマ野郎と。
仕方がなく弓削山のぶんもふたりで叱られた。
校長室を出る。
アキラは舌を出した。
「おこられちゃったね。てへ」
「てへじゃないだろ? お前ホントにオカマじゃないんだろな?」
「あー。ボクがきみを襲った? 落書きはしたけどさ。エッチなことはしてないよ」
星見が記憶をたどる。
けどわからない。
顔中に落書きされても気づかないほどだ。
夜中になにをされていても気づけないだろう。
「本当にお前そっちの趣味はないのか?」
「えっ? いや。その。ほ。ほんのちょっと」
「あ! あるのかぁ! やっぱりその趣味かよぉ!」
星見が身を引く。
「ちょっとだってば。ほんのすこしだよ。安心して。寝てるときにはしないからさ」
「起きてるときもやめてくれぇ。おれは正常だ。その世界には興味がなーい」
「知ってるよ。星見は巨乳好きだもんね。机の引き出しにその手の雑誌を隠してるんだよね?」
星見がアキラの口を手でふさぐ。
「やめろ。学校の廊下でそんな話を持ち出すな。おれがどんな趣味でもいいじゃないか。男として正常なことだ」
「じゃボクがどんな趣味でもいいじゃない。ねえ星見。東京に彼女はいなかったの?」
「なんだよ突然それは?」
「答えてよ。いなかったの?」
星見がしばらく口を閉ざす。
やっと口をあけた。
「いればこんな学校に来てないな」
やったとアキラは心の中で声をあげる。
うれしい。
ちょっと希望が出て来た。
「じゃどうしてこの男樹高校を選んだのさ? 昔この県に住んでたの?」
「いいや。おれは東京生まれの東京育ちだ。宝川監督って人がいてな。この男樹高校を二十年前に甲子園で優勝させた監督だ。緻密な攻撃野球を全国に広めた監督でさ。知将と呼ばれた。いまの高校野球の基本戦略を系統立てた人なんだ。キャッチャー出身でさ。その監督がこの三月に男樹高校の監督に復帰した。しばらく病気療養中だったんだ。おれは宝川監督に聞いてみたかった。捕手ってなんだって」
「聞けたの?」
「聞けたよ。病院でだけどね。野球は捕手ひとりじゃできない。捕手だけよくて勝つ試合はない。けど投手だけよければ勝つ試合はある。捕手ってのは損なポジションだってさ。けど監督はもっと損だって」
「なんで?」
「どんなにピンチでも手を出せない。見るだけしかできない。指示は出せても選手がそのとおりに動いてくれない。プレイできるうちが幸せなんだ。そう言ってた。ベンチから見るだけになったらイライラしてやってられないと」
「へえ。そんなものなんだ。監督っていつも怒鳴ってるお気楽な人だと思ってた」
「監督には監督の苦労があるんだろうさ。ところで凪野。お前。転入生なんだろ? 試合に出て大丈夫か? 転入後一年は試合に出られない。そう高野連の規定にあるぞ?」
「ああそれ。ボク転入生って紹介されたけど病気で入学が遅れただけなんだ。高校に通うのはこの男樹高校が初めて。それに家庭の事情による入学だから大丈夫。そう主治医の先生が言ってたよ」
「えっ? 病気だったのかお前? どこが悪い? 内臓か?」
星見がアキラを見た。
アキラのピッチングを見るかぎり病気とは思えない。
「ううん。心の病気。病気だって説明するとさ。みんなが心配してくれるだろ? だから転入って紹介してもらったの。自律神経失調症だってさ。プレッシャーに負けたみたい。夜中に眠れなくなったりするの」
「それでおれの顔に落書きしてるのか?」
「まあそう。だって星見って気持ちよさそうにグーグー寝てるんだもの。この野郎って思っちゃってつい」
「そうなのか。悪かったな。寝つきがよくて」
「ホントうらやましいよ。あれだけ落書きしても起きないんだもの」
「お前だってよく寝てたぞ。落書きしても起きなかった」
「だってえ。星見の顔に落書きしたあとは気持ちよく眠れるんだ。昼間の顔とちがっておマヌケ顔なんだもの。親近感がとても湧く」
「ほっとけ。お前の寝顔もなかなか抜けてたぞ」
「ええーっ? うっそー? そんなの観察するなよぉ。スケベ」
アキラはあえてふれなかった。
根本的な大問題に。
日本高等学校野球連盟の参加規定にはこう書かれている。
参加資格は男子生徒と。
そのころ校長室で校長と教頭が密談を交わしていた。
教頭が口の端から泡を出す。
「校長。なぜか野球部が県大会に出るみたいですぞ? しかもピッチャーがあの凪野だ。バレるとたいへんな事態になりますぞ。早く手を打たないとまずいのでは?」
「けどさ教頭。監督は紫東先生だよ? 紫東先生は美術の先生だ。スポーツはまるでだめ。単に県大会に参加するだけじゃないのかい? 一回戦で負けちゃえば問題はないと思うなぼくちゃん」
「でも校長。凪野が女だとバレたら」
「それなんだけどさ教頭。高野連の大会規定って読み方によってあいまいなんだよね。男子生徒で学校長が選手として適当と認めたもの。そう書いてあるわけよ。野球部には弓削山っているじゃん? あれオカマだよね? あの子がもし女の子になると言い出したらどうなるわけ? 最近じゃ男も戸籍上は女に転換できるよ? 弓削山はいま男で大会規定には引っかからない。けど戸籍上女になったらぼくちゃんはどう判断すればいい? 弓削山は選手として適当だろ。でも男子生徒なのかな?」
「校長。それはいま関係ないでしょう?」
「ううん。凪野がもしいまぼくちゃんの言ったケースの逆を採用すればどうなる? 戸籍上男になることができるよ。そうなれば身体は女性のまま男子生徒になるんじゃない? 学籍って戸籍をそのまま引用するからね。そもそもさ。選手として適当ってなんだよ? 不適当な人間がいるわけないじゃないか。ちがうかい?」
「素行の悪い生徒とか?」
「どんな生徒がそれに当たる? タバコを吸えば選手として不適当? ぼくちゃんは巨乳好きのフィギュアオタクだよ。そのぼくちゃんが自校生にお前は不適当だなんて言えない。ぼくちゃんが高校を卒業できたのは桂井が答案をいつも見せてくれたからなんだ。ぼくちゃんこそ不適当な男の代表だよ。成績が悪い生徒にお前は野球選手として不適当だなんて恥ずかしくて言えない。それにさ。高野連の規定には犯罪を犯した者は出場させないとは書かれてない。つまり人を殺した生徒でも甲子園に出場できるんだ」
「しかし校長。それと女が大会に出るのとはちがうでしょう。とにかく女はまずい。バレたら取り返しがつきませんぞ」
校長がため息を吐いた。
やれやれと。
「教頭。きみはうちの姉ちゃんをよく知らない。うちの姉ちゃんは政治家にも顔がきく。精神医学界の重鎮でもある。女の戸籍を男に変えるなんてお手のものだよ。診断書一枚で変わっちゃうもの。凪野が姉ちゃんに泣きつけばそうなっちゃうんじゃないかな? そのときは大会規定に引っかからず女が高野連の大会に出られるはず。すでに高野連以外の大会には女が野球部員として出場してるしね。いまはしばらく静観すべきじゃないかな? うちの姉ちゃんはリハビリと称して男子校に女の子を送りこむ女なんだぜ? どんな裏わざを持ってるか知れやしない」
教頭が眉毛をかく。
「ううむ。なるほど。そう言われればそうですな。書類一枚で凪野を男子生徒に変えられてはかえって問題だ。マスコミに大騒ぎのネタをあたえるだけになる」
「おもしろおかしく騒がれると困るよね。それにさ。すでに凪野アキラを男子生徒として入学させちゃったわけよ。女子を入学させると手つづきが面倒だから。つまりいま書類上の凪野アキラは男子生徒なの。高野連に部員登録しても問題ないと思うよぼくちゃん。凪野アキラは実物が女だよ。でもさ。男樹高校一年一組の凪野アキラは男子生徒として書類上存在してるわけだからね」
「それって詭弁じゃありませんかね校長?」
「うーん。よくわかんない。発覚すれば訴訟沙汰になるかな? けどさ。野球部が一回戦で負ければ問題は消えるはず。野球部復活の切り札としてわざわざ起用した宝川監督も死んじゃったしさ。野球で学校起こしの案はボツだよ。また一回戦負けの野球部でいいんじゃないの? 姉ちゃんも凪野のリハビリのためと言えば野球部をつぶせなんて言わないだろうしさ」
「ふむ。わかりました。では夏の大会の抽選結果を見てまた検討しましょうか?」
「そうだね。でも心配することはないと思うな。うちの野球部が勝ち進むはずないって。監督はあの紫東桜子だよ? 宝川監督ならわからなかったけどさ。要するにバレなきゃいいんだバレなきゃ。あんまり気をもむとハゲるよ教頭。ただでさえ毛が薄いんだから」
「そ。それは言わない約束でしょう校長」
その夜。
アキラは悩んだ。
星見はすでに寝た。
アキラはまた星見の寝顔が見たい。
キスもしたい。
横になっていられない。
かといってすわるのもだめ。
いても立ってもいられない。
ひと目だけ。
ひと目だけ見て寝よう。
そう決めた。
アキラは二段ベッドのはしごを登る。
カーテンをあけて寝顔を見た。
やはり弟の勇紀に似ている。
星見は無防備に夢の中だ。
「ボクに襲われるって考えないのかなこいつ?」
頬をつついてみる。
寝返りを打って顔が逃げた。
髪の毛をそっとなでる。
硬い指ざわりだ。
女の髪ではない。
男の子の髪の毛。
あごヒゲが薄く生えかけている。
「勇紀も高校生になったらヒゲが生えたのかな? 勇紀。小学三年生でいなくなったボクの弟」
両親と勇紀を思い出すと涙があふれた。
星見の寝顔を見るどころではない。
アキラは思う。
星見だと思うからキスをしたくなる。
弟だと思おう。
弟の勇紀だと。
そうすればキスなんか考えないだろう。
「勇紀。今度はお姉ちゃんが守ってあげるからね。絶対に絶対お前を守る。だからゆっくりおやすみ勇紀」
泣きながらアキラは自身のベッドにもどった。
ひさしぶりに両親と勇紀の夢を見た。
夢の中でアキラは報告をした。
あの日できなかった試合の報告を。
三人とも笑って聞いてくれた。
勇紀が父に笑う。
やっぱり見に行かなくてよかったねお父さん。
アキラも笑う。
そうよ。
負け試合だったからね。
試合に負けたのにぜんぜん悔しくなかった。
いつもの日曜の夜がいつものように暮れて行った。
アキラの夢の中で。
声が聞こえた。
星見の声だ。
「凪野。朝だぞ。ランニングの時間だ。起きろよ」
「えっ? もう朝なの?」
目をあけると星見の顔が眼前にあった。
星見の顔に落書きはない。
星見はすでにジャージ姿だ。
アキラもあせって着替える。
ふたりで部屋を出た。
食堂の前でふたりそろって足を止める。
ふたり同時に鏡をのぞきこんだ。
どちらの顔にも落書きはない。
アキラは星見を見た。
「星見。ボクを信じなかったなぁ」
星見もアキラを見る。
「お前こそおれを信じてなかったんじゃないか。鏡で顔をたしかめるなんて。そもそもふた晩も連続で落書きされたんだぞ? もうやりませんなんて信じられるかよ」
「教頭に釘を刺されたんだよ? それでまたやるほどボクはガキじゃない」
「わかるもんか。教頭に注意されたのは落書き顔で町内を走るなだ。落書きするなじゃない」
アキラはポンと手を打つ。
「なるほど。そりゃそうだ。ごめん。ボクがまちがってた。そうかそうか。落書きはいいんだ」
「よくなーい! くそ。教頭のやつ。落書きをするなって言えばよかったんだ。するなよ。今度落書きをしたらお前とはもう口をきかないからな」
「ええーっ。ちゃんと口はきいてよぉ。落書きをしてもさぁ」
「だめ。さあ行くぞ」
すっかり慣れた朝の道をふたりは走る。
いつもの場所で新聞配達のおじさんとすれちがう。
おじさんが目を丸くした。
「あれぇ。今朝はお笑い修業じゃないのかい? つまんないねえ」
アキラは足踏みをする。
「教頭におこられたんだ。学校の評判が落ちるからやめろって」
「なるほど。昔もいまも学校ってやつは頭が硬いねえ。ま。ほとぼりが冷めたらまたやってくれよ。朝の楽しみになっちゃってさ。じゃまたね」
「はい。おじさんも気をつけてね」
川の土手に出た。
旭日高校陸上部の女の子たちが走って来る。
やはり目を丸くして足踏みをした。
先頭の女の子が口をとがらせる。
「きょうは落書きをしてないの? どうして?」
アキラも足踏みをした。
「教頭に叱られたの。腰が抜けて歩けなくなったおばあさんとあごをはずしたおじいさんが出たんだって」
「きゃはは。それいい。くふふふふ。よくもまあ毎朝笑わせてくれるわねえ。あたし近松桃子。旭日高校三年生。女子陸上部主将よ。きみたちふたりは落語研究会?」
「まさか。ボクらは野球部。男樹高校の野球部だよ」
「ふーん。よく見るときみなかなか可愛い顔してるわねえ。こっちの人もけっこうハンサム。落書き顔しか見てなかったけど素顔はいい男じゃない」
桃子が星見のあごに手を伸ばす。
思わずアキラは叫んだ。
「だめぇ! それはボクの彼氏! 盗らないでぇ!」
女の子たちが顔を見合わせた。
腹をかかえて笑いはじめる。
桃子の足が止まった。
笑いすぎて足踏みができなくなったようだ。
「くくく。きみたち最高。あはははは。やっぱり男子校ってそういう関係なんだ。おっしゃれー。いやーん禁断の愛って素敵よねえ。よし。決めた。あたしたち男樹高校を応援したげる。虎丸くんの次にだけど」
「あ。ありがとう。ボク凪野アキラ。こっちは星見要。ふたりとも一年生」
「ふむふむ。じゃまた新しいネタ考えといてね。あたし朝走るのが楽しくなっちゃってさ。うちの部員どもも張り切る張り切る。きみたちふたりのおかげよ」
「ごめん。もう町内の人を笑わすなって言われてるんだ。女性用下着店にも行くなって」
「女性用下着店?」
「そう。こないだ友だちと行ったんだ。友だちが欲しいって言うから。そしたら性犯罪者予備軍になるからもう行くなって教頭が」
「買ったわけ? 女性用下着?」
「うん。友だちが」
「男の友だちよね?」
「そ。そう」
「きゃーっ! かっこいーい! すってきぃ! なんて勇気のある男の子なんでしょ! あはははは。ごめん。笑いが止まらないわ。きゃははは。ううう。つらいぃ。けはははは。死ぬぅ。笑いすぎで死ぬぅ。死んじゃうぅ。くはははは」
ほかの女の子たちもまた土手を転げながら笑っている。
桃子がやっと笑いを収めた。
「ありがとう。その調子で毎朝たのむわ。きみって野球部よりお笑い芸人に向いてる。夏の県大会に負けたらお笑いに本腰を入れなさい。じゃまたあしたね」
桃子たちと別れた。
走りながら星見が不審顔を向ける。
「おい凪野。ボクの彼氏ってありゃどういうことだ?」
「ごめん。ちょっと言いまちがえた。ボクの女房役って言おうとしたの。あわてたんでつい」
「ほぉ。女房と彼氏はずいぶんちがうぞ? おかげで誤解されたじゃないか」
「誤解されないほうがよかった? 桃子ちゃんって巨乳だったもんね!」
「な。なにをおこってんだよ? お前が桃子ちゃんを狙ってるのか?」
「バカ! 星見のバカ! バカバカバカ! 星見なんかきらいだ!」
アキラはスピードをあげる。
星見がついて来る。
またあげる。
星見がまた追いつく。
どんどん速くなる。
ついに限界が来た。
アキラは足が動かない。
肩で息をする。
目から涙がポタポタ。
「こんなところで泣くなよ凪野。おれが泣かせたみたいじゃないか」
「きみだもん! きみが泣かせた! 星見がボクを泣かせたの!」
「えっ? おれが? どういうことだそれ?」
「ボクは星見が大事なんだもん。女に盗られたくないの。なのになのに。わーん」
「泣くなって。わかったわかった。女と遊んでるひまはない。そういうわけだな。打倒虎丸。打倒旭日。だから特に旭日高校の女はまずい?」
「そ。そう。旭日高校だけじゃなく女はだめ」
「わかった。たしかに女にうつつをぬかしてるようじゃ虎丸は倒せない。お前の言うのも一理ある。女に近づくのはやめておこう。それでいいか?」
「うん。女にさわっちゃやだよ。キスもだめ」
星見が目を泳がせた。
「まだしたことないそれ」
アキラは笑う。
「なーんだそうなの。星見の中学時代って野球漬けだったわけ?」
「まあな。そう言うお前はどうなんだ? 女にさわがれそうな甘い顔だが?」
「えーと。ラブレターはもらったことがある。けど男の子とキスをしたことはないよ」
星見がポカンと口をあける。
うろたえた。
「そ。そろそろ帰ろう。は。早く帰らないと朝食に遅刻するぞ。さ。さっさと帰ろうぜ」
聞かなかったことにしよう。
そんな顔の星見だ。
寮にもどった。
玄関で寮生と桜子が待ちかまえている。
ふたりの顔を見て全員が肩を落とした。
桜子が期待はずれといった顔を向ける。
「どうして今朝はなにも描いてないのよ? 笑えないじゃない。青春映画には笑いも必要よ」
ここでもみんなが楽しみにしていたらしい。
アキラは思う。
そんなに毎朝笑いのネタを考えられないぞと。
休み時間になった。
弓削山がまたアキラを誘いに来る。
「凪ちゃーん。おトイレ行こ」
一年一組の全員がもう慣れた。
となりの席の生徒がアキラをうながす。
「おい凪野。彼女が誘いに来たぜ。早く行ってやれよ」
「うん。じゃちょっと行って来るね」
トイレに入った。
生徒が五人いる。
三年生が四人。
ひとりの一年生を取り囲んでいた。
変な雰囲気だ。
トイレ本来の用だと思えない。
一番背の高い三年生がアキラと弓削山をにらんだ。
「なんだ一年坊主? ジロジロ見てんじゃねえぞ。さっさと用をすませて出てけ」
アキラは三年生の影にいる一年生の顔を見た。
口の端から血がひとすじ垂れている。
三年生たちに殴られたようだ。
一年生の背の高さはアキラたちと同じ百七十センチ。
ずんぐりとした身体つき。
やや小太り。
目つきが卑屈。
いじめられっ子といった印象だ。
トイレの入口で観察しているアキラたちにノッポ男がいら立った。
「さっさと出てけっつってんだろ! 出てかねえとてめえらもしめるぞ!」
アキラは怖い。
三年生たちが一年生をいじめている場面に出くわしたらしい。
弓削山がキャーッと悲鳴をあげて逃げるだろう。
アキラはそう思った。
アキラの予想に反して弓削山が前に進む。
「やめなさいよ。みっともない真似は」
「なにをぉ! てめえオカマだなぁ! オカマが口出しするこっちゃねえ! すっこんでろい!」
ノッポ男が恫喝する。
弓削山がひるまない。
「年上が年下をいじめて恥ずかしいと思わないの? いまやめるなら痛い目を見せないであげる。さっさとお逃げなさい。でないとコテンパンにのしちゃうわよぉ」
「わはははは。なにを寝言ぶっこいてんだバーカ。コテンパンはてめえだ。オカマがおれたちに勝てると思ってるのかよ?」
「じゃやってみましょうか。弓削山一刀流まいる! 免許皆伝の腕を見せたげるわ!」
弓削山がノッポ男のふところに飛びこんだ。
ノッポ男の腹に右こぶしを叩きこむ。
速い。
あっと言う間にノッポ男が床に崩れる。
次の三年生がかまえた。
その間に弓削山がふところに入る。
腹に一撃をくらわす。
三人目四人目はかまえるひまなく弓削山のこぶしを腹にもらった。
三年生全員がトイレの床で虫のように丸くなる。
弓削山が掃除道具入れからトイレ用ブラシを手に取った。
「どう先輩方? オカマの実力を思い知ったかしら? それとももっとやる? 次はトイレのブラシで顔を掃除してあげちゃうわよ」
ノッポ男がヨロヨロと立つ。
「けっ! オカマなんかに負けてたまるかぁ!」
ノッポ男がこぶしをふりあげた。
弓削山がサッとノッポ男の眉間でトイレブラシを止める。
ノッポ男がこぶしをくり出すひまがない。
「やめなさいって。このままブラシを突き出せばケガじゃすまないわよ? もう弱い者いじめはだめ。今度やってるのを見たらあたしと同じオカマにしたげる。そしたらふたりで仲よくオカマバーを経営しましょうね」
ノッポ男の顔が青ざめた。
「オ。オカマはいやだあ! 助けてくれぇ!」
三年生全員が逃げ出した。
弓削山がため息を吐く。
「まあ失礼しちゃう。オカマはいやだなんて」
つづいて残った一年生に顔を向ける。
「あんたケガは大丈夫? おカネをおどし盗られたの?」
一年生が口をぬぐった。
強がる。
「パシリになれって殴られただけだ。カネは盗られてない」
アキラはハンカチを出した。
一年生の口の血をぬぐってやる。
一年生がアキラの手をふり払った。
「おれは女になんか助けてもらいたくない! さわるな女!」
アキラの顔が青ざめる。
弓削山が割って入った。
「なんでこの子が女だってわかるのよ?」
一年生が眉を寄せた。
「そいつ骨格が女じゃないか。見てわからないほうがどうかしてるぞ?」
うーんと弓削山がアキラを見る。
見てわかるとは思えない。
胸もほとんどないし。
「じゃあたしは? 男の骨格をしてる?」
「ああ。お前は男だ。肋骨から腰の線。ヒップラインが男だ」
アキラはうろたえる。
暗い顔で一年生の手をつかんだ。
「ボク。どうすればいいの? なにをすれば黙っててくれる?」
一年生がちょっと考えた。
しかしすぐ答えを返す。
「腹にサラシを巻いちゃどうかな?」
アキラは意味がつかめない。
「はい? サラシ?」
「そう。サラシだ。木綿がいいぞ。かぶれない。腹を増量すりゃ骨格はごまかせる」
アキラは会話がずれていることに気づいた。
「あ。あのう。こういう場合。エッチなことを要求するんじゃないの? 黙っててやるからおれの女になれとか?」
一年生の顔がまっ赤に染まった。
アキラの手をふりほどく。
「おれをバカにするなぁ! 自慢じゃないがおれは巨乳好きだぁ! 貧乳は女じゃなーい! たのまれたってお前みたいな貧困バストを揉みたくないぞぉ! おれに色仕掛けをするならトップバストが九十センチを越えてからにしろぉ!」
弓削山がアキラに耳打ちをする。
「凪ちゃんいま胸囲なんセンチ?」
「七十センチ。九十センチには二十センチも足りないよぉ」
一年生がその会話を洩れ聞いた。
「わかったか? おれは貧乳を女と認めない。おれの女にして欲しければ胸を増量してから来てくれ。当社比三十パーセントアップだ。まあ助けてくれてありがとうよ。ついでにもうひとり助けてやってくれないか? いつも体育館の裏で先輩たちにたかられてるやつがいるんだ。一年五組の陸本翔ってチビだ」
弓削山がけげんな顔で一年生を見る。
「なんであたしたちがそんなチビまで?」
「お前ら正義の味方だろ? ひとり助けるもふたり助けるもいっしょだ。ま。おれとは関係ないチビだからどっちでもいいけどな。あ。おれは一年五組の能代栄吉だ」
アキラも自己紹介をした。
「ボク凪野アキラ。一年一組」
弓削山もつづく。
「あたし弓削山銀乃丞。一年三組」
能代がアキラたちに背を向ける。
「知ってる。野球同好会だろ? 紅白戦を見たぞ。じゃあな」
残されたアキラと弓削山は顔を見合わせた。
なんだあいつと。
アキラは本来の用を思い出す。
「ボクとにかくトイレね」
「あたしも」
アキラと弓削山はトイレから出た。
アキラは能代の依頼を考える。
「どうする弓削ちゃん?」
「ええい。ついでよ。昼休みか放課後に体育館裏に行ってみましょう」
昼休みが来た。
アキラは弓削山と体育館裏に向かう。
途中。
アキラは弓削山にたずねる。
「弓削ちゃんって剣道の達人なの?」
「まあね」
「じゃどうして剣道をやってないの? この学校にも剣道部はあるよ?」
「昔はやってたわ。でも卑怯だって言われたの」
「卑怯?」
「そう。剣道場の息子が強いのは当たり前だって。対戦相手の親たちがそう言うの。あたし五歳から毎日真剣をふらされたわ。手にマメができてはつぶれる。そんな日々をくり返したのよ。走りこみもやったわ。寺の石段も駆けあがった。毎日毎日ね。最初から強かったわけじゃない。なのに勝つのは剣道場の息子だからって。強い親の血を引いてるせいだって。うちの息子がどんなに努力しても勝てるはずがないわって。剣道場の息子が試合に出るのは卑怯よって。あたし悔しかった。それで野球にしたの。野球なら一からスタート。誰もそんな陰口を叩かないから」
弓削山の目から涙が落ちた。
「ごめん。いやなことを聞いちゃったね」
「ううん。いいの。この話をしたのは凪ちゃんが初めてよ。話せる相手ができてよかった。弥之助とはそのリトルリーグでいっしょだったの。弥之助は五歳から鐘をつかされてたって。釣り鐘って姿勢が決まらないといい音にはならないそうよ」
「あ。それでバッターボックスの崎守くんって腰がすわってるの?」
「たぶんね。中学のシニアリーグでもあたしたちいっしょだったわ。あたしが一番。弥之助が四番。けど弥之助って気まぐれでしょ? 準決勝まで一本のヒットも打たなかったの。それどころか一度もバットをふらない。監督がおこっちゃってさ。見る目のないオッサンだったのよねえ。決勝戦で弥之助をレギュラーからはずすって宣言したわ。あたし悔しくってね。弥之助といっしょにあたしも野球をやめちゃった」
「け? 決勝戦の直前に?」
「そ。勝つために弥之助をはずしたのよ。なのに主力ふたりが欠けたから決勝戦はボロ負け。ざまあみろよね。高校野球の監督も見る目がないに決まってるじゃない? だから野球部に入らなかったの。野球をやるために来た学校じゃないしね」
「あのさ弓削ちゃん。じゃなんで男樹高校に?」
「えっ? あーら。聞かないでよ。そんなこと。あはは。弥之助を追って来たなんて恥ずかしくて言えないわ」
「言ってるじゃんさ」
「うふふ。だって凪ちゃんは訊きはじめるとしつこいんだもの。答えるまで訊きつづける性格でしょ? そういうとこ遠慮がないわねえ。だから女ってきらいよ」
アキラは思い当たった。
「あ。それでこないだの晩ランジェリーショップに? 弥之助くんといっしょの部屋になったから?」
「あはは。バレちゃった」
「じゃうまく行ったの? あの下着。使った?」
「バカねえ。告白もしてないのにそんなところまで行くわけないじゃない」
「なーんだ。そうなんだ。弥之助くんといっしょになりたくてボクと同じ部屋になってくれなかったんだね?」
「まあね。女といっしょの部屋になったって楽しくないもの。そう言うあんたこそどうなのよ? 下着は買わなかったけど勝負はかけたわけ?」
「えっ? そのう。星見って先に寝ちゃうんだ。それで寝顔を見てたらキスをしたくなってさ。どうしてもがまんできなくなって」
「しちゃったの?」
「うん。落書きを」
「落書き? キスをしたんじゃなくて落書きをしたの? どうして?」
「変な顔になればキスをしたくなくなるだろうって」
「あ。それで星見の顔にあのおかしな落書きが。そういう理由だったわけ。あんがい切実な理由だったんだ。じゃキスはしなかったの?」
「うん。あの落書き顔じゃ笑っちゃってさ。キスどころじゃなかった」
「でもきょうは落書きはなかったわ。昨夜はがまんしたわけ?」
「ううん。弟だと思うことにしたの。弟の勇紀が高校生になったらこんなかなあって」
「なるほど。弟かあ。あたしにも妹がいるのよ。小学六年生のね。この県はさ。古いの。江戸時代は将軍さまの親戚だった県なわけ。わが家はこの県のお殿さまに剣術を教える係だったのよ。いまでも父は県警で剣道を教えてるわ」
「由緒正しい家柄なんだ」
「そうなのよ。この県そのものが古くさいわけ。あたしの家の近所もみんな古い考えの人ばかり。町中が骨董店みたいなものよ。そんな中であたしは剣道場の長男だったわ。父は男は男らしくってのが口ぐせでさ。剣の道を五歳から仕込まれたわけ。自慢の息子だったのよねえ」
「なるほど。自慢の息子がオカマになるとお父さんは困るんだ」
「そういうこと。あたしって健康で五体満足でしょ? 父から見れば一時的にアイドルにかぶれた男の子みたいに見えるわけ。女になりたいだって? そんなバカなってね。すぐに冷めるだろう。そういうふうに思うらしいの。でもちがうのよ。あたしは物心ついたときからこの身体は変だって思ってた。けどさ。家は由緒正しい剣道一家なの。小学六年生の妹もいる。それがあそこの息子はオカマよって近所でこそこそやられちゃたまんない。わかるでしょ?」
「うん」
「悲しいわよね。他人から見るとたいしたことじゃないの。男のかっこうをして男言葉で話をして男っぽくふるまえば何の問題もないだろって。けどそれはつらいの。そんなのいやなの。あたしは女として生きたいの。男じゃないのよって。周りはみんながまんすればいいって言ったわ。でもそんながまんはしたくない。どうして女と主張しちゃいけないわけ? どうして男の肉体に引きずられなきゃならないわけ? 男の身体なんかもういやなの。でも妹がいじめられちゃかわいそう。それであたしこの高校に来たの。ここだったらあたしひとりがオカマってバカにされるだけですむから。弥之助もここにするって言ったし」
弓削山が泣く。
アキラは弓削山の肩を抱いた。
弓削山がポケットティッシュで涙をふく。
「ごめんね。泣いたりして。さ。気合いを入れていじめ撲滅に行きましょうか」
体育館の裏に三年生が五人いた。
三年生の向こうに背の低い男が見える。
あれが陸本翔だろう。
弓削山が叫ぶ。
「こらあ! 弱い者いじめをするなあ!」
三年生たちがビクンと飛びあがる。
つづいてアキラたちに顔を向けた。
「なんだおめえら? おれらに文句があるのかよ? 痛い目を見たいらしいな?」
「なんでこういう連中ってよく似たセリフしか吐かないのかしら? バカのひとつ憶えね」
「なにをぉ!」
「とっととかたづけちゃいましょ。痛い目はあたしが見せたげるわ」
弓削山が三年生たちに飛びこむ。
あっと言う間に五人が地面に崩れた。
「手かげんしたげたわよ。言っとくわ。今度弱い者いじめをしたらオカマにしたげるわね。オカマになりたければいらっしゃい。あたしは野球部の弓削山銀乃丞よ」
三年生五人の顔が青ざめる。
立つ。
逃げた。
「うわあっ! オカマはいやだあ!」
弓削山が眉をしかめた。
「またぁ? 失礼しちゃうわね。なんでみんなオカマをいやがるのかしら? 腹が立つわねえ。次からは強制的にオカマにしちゃうおうかしら?」
弓削山が陸本に近づく。
陸本は背が低い。
いままではおびえていた。
三年生が消えたことでなにもなかった顔を取りつくろっている。
弓削山が陸本に声をかけた。
「恐喝されたの?」
「ほっといてくれ。おれが自発的にあいつらに寄付しただけだ。おれはそんなに弱くねえ」
「可愛くない子ねえ。でもなんであんた的にされたわけ?」
陸本が胸を張る。
「生意気だからだ」
「あいつらが?」
「ちがう。おれさまがだ。えっへん」
わっとアキラはおどろく。
弓削山のそでを引いた。
「こいつもおれさまだよ」
弓削山がアキラにささやく。
「いじめられるはずだわね」
弓削山が陸本に向き直る。
「ま。いいわ。またいじめられたら野球部にいらっしゃい。あいつらを全員オカマにしたげる。あんたもオカマになりたけりゃいらっしゃいね。めくるめく禁断の愛を教えたげるわ」
「おれはオカマにゃならねえ。お前といっしょにすんな。けどありがとうよ」
陸本が背を向けた。
アキラと弓削山は顔を見合わせる。
肩をすくめた。
一件落着と。
その放課後。
野球部全員でわきあいあいに練習をしていると桜子がやって来た。
ユニフォームに着替えている。
手には金属バットだ。
かっこうだけなら野球部の女監督に見える。
「はーいみなさん。ちょっと聞いてね。さっきからあなたたちの動きを見せてもらいました。なってません。根本的にだめ。身体が思いどおりに動くようきょうから特訓よ」
ええーっと左池が不満の声をあげた。
そっぽを向く。
「おれはスマートに生きるんだ。特訓なんかやってられっか。一抜けた」
「左池くん。わたしは監督ですよ。監督の指示に従えない役者はいりません。わたしが監督を引き受けた以上わたしの指示に従ってもらいます。そもそも左池くん。そのだらしのない身体の動きはなんですか。あなたならハリウッドでも主役が張れる顔なのに」
左池が顔を桜子に向け直す。
「ハリウッド? おれ映画俳優になれるの先生?」
「もっと身体をきたえたらアクション映画俳優になれます。東洋系アクション映画俳優はハリウッドで引っ張りだこですよ。外人は大柄だからどう撮っても身軽なアクションに見えないの。映画ばえする軽快な動きは東洋系ならではだわ。目ざしてみては左池くん?」
「そういやそうかも。じゃどうすればいい先生?」
「もっと俊敏な動きを身につけること。動きにメリハリをつけなさい。速く動くときは思い切り速く。動かないときはじっと止まる。この止まるときの演技がむずかしいのよ。止まっていてなおかつ自分をアピールしなきゃね。背中で次の動きが語れたら立派な映画俳優だわ」
「なるほど。じゃ具体的におれはなにをすればいい?」
「左池くんはレフトね? じゃ反復横跳びとダッシュ二十本。野球映画だから背走も練習すること。とうぜんフライを取る練習は言うまでもありません。さ。ほかのみんなも各守備位置に散って。ひとりひとり動きをチェックしますよ」
全員が守りにつく。
ノックは星見。
アキラは球出しだ。
桜子の指示どおり各ポジションに打ちわける。
桜子が声を張りあげた。
「わたしはみっともない映画は撮りたくないの! わたしの映画作りに妥協はないわよ! よく憶えといてねぇみんなぁ! 美しいプレイをするのよ! 二村ぁ! 上腕二頭筋のきたえ方が足りなーい! 腕立て伏せ百回! 右天内ぃ! 足がふらついてるわよぉ! グラウンド十周! こらあ! ヘロヘロ球を投げるなあ! 草津ぅ! 遠投五十球!」
各員がそれぞれ弱点を指摘される。
残っているのは弓削山と崎守だけ。
センターとショートのあいだに星見がポテンフライを落とす。
崎守が拾う。
弓削山が崎守の背中に回ってカバーの体勢を取った。
弓削山が崎守に声をかける。
「桜子先生って役になり切るタイプ? ど根性野球映画を作る気かしら?」
「お前とんでもないのを監督にしたんじゃねえ? これじゃ理想学園なみのしごきだ」
桜子の声が飛んで来た。
「そこのふたーり! むだ口を叩かなーい! 返球は素早くぅ!」
こうして妥協のない映画作りのための特訓がはじまった。
野球本来の練習よりきつい。
全員でグラウンド十周を走りながら弓削山がぼやく。
「桜子先生にはすわってるだけでいいって言ったのにぃ」
崎守が相づちを打つ。
「一本取られたなこりゃ。けど美しい動きができるようになりゃ守備力はアップする。銀乃丞のバックパスは芸術品だからな。先生はああいう絵が欲しいんだろう」
「あらあ。弥之助のジャンピングチャッチも見事だわ。ホームランをもぎ取っちゃうんですもの」
「ありゃフェンスぎりぎりじゃねえとだめだ。年間三本あればいいとこだぞ。ショートのほうが見せ場は多い。身体がでかいと小回りがきかねえからなあ」
そこに一年生がふたりグラウンドにやって来た。
弓削山がいじめから助けた能代と陸本だ。
生意気な陸本が弓削山を呼び止める。
「弓削山。おれさまは受けた恩は返す。お前の役に立ってやる。野球部に参加させろ」
崎守がランニングの足を止めた。
「態度がでけえ。お前なにさまだよ?」
「おれはおれさまだ。一年二組。陸本翔。身長は百五十五センチだ」
全員が足を止めて笑う。
左池が口に出した。
「ふうん。おれさま二号だ。こいつはいい。漫才コンビでこんなデコボコの組み合わせがあったよな?」
弓削山がうなずく。
「あったあった。陸本は小さいからさしずめリトルおれさまね」
陸本が口をとがらせる。
「なんだよ弓削山? どうしておれがリトルおれさまだ?」
「だって。うちにはビッグおれさまがいるもの。だからあんたはリトルおれさま」
「清水の次郎長の大政小政じゃねえぞ。まあいい。とにかくおれは恩を返す。おれを野球部に入れろ」
みんなで陸本を見た。
身長百五十五センチ。
背が低い。
ひ弱そうに見える。
スラッガーにも投手にも見えない。
弓削山が訊く。
「あんたなにができるわけ? 希望のポジションはある?」
陸本が胸を張った。
「おれは運動はできねえ。野球なんか金輪際やってねえ。中学の球技大会でバットを三回ふっただけだ。えっへん」
「えっへんじゃないわよバカねえ。そんななにもできない人間が野球部に入ってどうしようって言うの?」
「恩返しだ。鳥の鶴でも助けてもらった恩は返す。おれは人間だ。恩は返さなきゃなるめえ」
崎守が弓削山をうしろに一歩引かせる。
「どうしてこんな変なのを助けた? 鶴の恩返しなら昔話になる。こいつのは生意気の恩返し。いや恩知らずだ。打ても守りもできねえ厄介者だぞ? こんなのはいらねえ」
弓削山が考えた。
ひとつ空白のポジションがあると気づく。
「ううん。必要だわ。マネージャーってのが不可欠なはずよ」
「ああ。なるほど。記録員ってのも必要だったな。じゃこいつはスコアラーでいいか」
話がまとまった。
弓削山が陸本に向く。
「リトルおれさま。あんたはマネージャー兼スコアラーをやってちょうだい。それでいいわね?」
「おう。わかったぜ。資金管理はおれさまがやってやろう。おめえら。むだづかいをするんじゃねえぞ」
左池がみんなにささやく。
「おいおい。マネージャーが一番いばってるぞ? いいのかこれ?」
アキラは肩をすくめた。
「リトルおれさまだからしょうがないんじゃない? 害になるわけでもないし」
陸本はマネージャーでけりがついた。
全員が能代に目を向ける。
能代はなにをしに来たんだろう?
弓削山が能代に向く。
「あんたも恩返しに来たわけ?」
能代がうなずく。
「まあそうだ。おれはピッチャーができる。打つほうはだめだ。ただし五回までしか投げられない。リリーフに使ってくれ」
全員が草津キャプテンを見る。
リリーフはすでに草津がいる。
能代はずんぐりむっくりな体型だ。
代走では使えないだろう。
草津が声を荒げた。
「おれは四番でエースのキャプテンだ。リリーフはもういる。お前みたいな小太りの投手は必要ない。帰れ帰れ」
クルリと能代が背を向けた。
星見が能代の制服をつかむ。
「待てよ。投げてからでも遅くはない。リリーフがひとりじゃ心細いんだ」
左池も口を添える。
「そうだな。ベンチ入りは二十人だ。誰かがケガをしたときの控えは必要だぜキャプテン」
草津がしぶしぶうなずく。
「みんながそう言うならいいだろう。おれは心の広い男だ。入部を許可してやってもいい。とにかく投げてみろ一年坊主」
桜子に許可を取って能代をマウンドにあげた。
星見が防具をつけてすわる。
左投げの能代がふりかぶった。
投げる。
遅い。
素晴らしく遅い。
時速百キロに満たない球だ。
しかし星見がその遅いボールを取れなかった。
ボールはコロコロと横に転がって行く。
アキラは目を見張る。
「どうしたの星見? 星見が取れないなんてなぜ?」
星見の顔色が青ざめた。
「誰かバッターボックスに立ってくれ。崎守。お前が打て」
指名された崎守が左打席に入る。
かまえた。
能代が投げる。
やはり遅い球が来た。
崎守は力なく空ぶり。
星見が声をあげる。
「しまった! 崎守じゃだめだったんだ。一之倉先輩。先輩が打ってください」
見ている全員が星見のあわてぶりを理解できない。
能代の投げる球はただのスローボールにしか見えない。
横からではキャッチボールをしているとしか思えない。
一之倉がけげんな顔で右打席に入る。
能代が投げた。
一之倉が目を見張る。
ボールを見送った。
星見がミットでお手玉をする。
かろうじてつかんだ。
一之倉がため息を吐く。
「ほぉ。こいつはすげえ。ナックルか。初めて見たぞ。右に左にぶれやがる。こいつは打ちづらそうな球だな。時速は九十キロってとこか」
アキラは疑問を口にした。
「ええっ? そんなゆるい球が打ちづらいのぉ? 簡単に打てそうじゃない?」
一之倉がアキラにバットをわたす。
だったら打ってみろと。
アキラは打席に立つ。
能代がふりかぶる。
来た。
アキラは打った。
ジャストミートした。
そう思った。
しかし球は重い。
バットの真芯でとらえたはずなのに球はピッチャー前だ。
コロコロと力なく転がる。
能代がなんなく拾いあげた。
一塁に投げるそぶりを見せる。
ピッチャーゴロ。
ワンアウトだろう。
アキラは星見をふり返った。
「どうして? ヒットだと思ったのに?」
星見が答える。
「ナックルボールは球に回転がないんだ。ピッチャーから打者まで約十八メートル。その間にナックルは一回転するかしないかだ。回転のない球は空気の抵抗を受けやすい。つまりゆっくり回る間にボールの縫い目が空気の抵抗を受ける。変化球ってのはボールの縫い目が空気抵抗を受けることで変化するんだ。それでナックルは左右や上下にゆれ動く。打者の目はそこでまずほんろうされる。次に回転のない球は打っても飛びにくいんだ」
「飛びにくい?」
「そう。凪野の球は速い。それは回転が多いからだ。回転の多い球は空気を切り裂く。切り裂くと空気の抵抗がすくなくなる。回転の多い球ほど速くなる」
「えっ? そうなの? 空気って抵抗はほとんどないじゃんさ?」
「人間の動きの速さじゃわからないだけだ。時速百キロを越えると空気は壁になる。自転車で向かい風に走るとスピードがあがらないだろ? バイクでヘルメットをかぶらず百キロ出すと目をあけてられない。百キロを越えるボールにとって空気はすごい抵抗になるんだよ。だから縫い目に大きな力がかかって変化する。ストレートは上下の純回転だ。空気を縦に切り裂くからストレートは変化しない」
「そ。そうなんだ。じゃカーブやシュートってのは横に回転してるわけ?」
「そのとおり。速球ってのは回転の多い球なわけだ。速くて回転の多い球はスピードが落ちにくい。俗にキレがいいって言うだろ? けどバットに当たればよく飛ぶ。ホームランになるのは速いストレートが圧倒的だ。剛速球はバットに当たらないから三振の山が築けるだけ。ミートすりゃみんなホームランになる。ところが回転のない遅い球をホームランにするのはむずかしい。空気の抵抗を切り裂いてくれないからな。外野フライにしかならない。だから大リーグではナックルボールを専門に投げる投手がいる。大リーグはホームラン打者が多いから」
「日本にナックルを投げる投手はいないの?」
「ナックルを専門に投げる日本人投手はな」
「なぜ?」
「手の大きさと握力のちがいだ。外人は日本人より手が大きく握力も強い。能代が五回までと言ったのは五回で握力が尽きるからだろう」
「ふうん。日本人って不利なわけ?」
「そうとも言えない。日本人の指の長さはフォークボールにちょうどいい。外人でフォークが得意な投手はいない。日本人のフォークは大リーガーもきりきり舞いする。一長一短だな」
「あのう星見。ところでさ。フォークボールってなに?」
聞いていた全員が肩を落とした。
星見があきれ顔を見せる。
「お前。フォークも知らないで投手をやってるのか? 信じられない男だな? どんな田舎にいたんだいったい?」
「だ。だってえ」
ソフトボールにフォークはない。
フォークボールは人さし指と中指で球をはさんで投げる。
ソフトボールは大きすぎてはさめない。
弓削山が割って入った。
それ以上追求されるのはヤバいと。
「あたしに打たせて。ナックルボールをあたしまだ打ったことない」
弓削山が打席でかまえる。
しかしナックルを打ったことのある高校生はごくまれだろう。
日本のブロ野球の打者でも年間で五打席あるかないかだ。
能代がふりかぶる。
投げた。
ためにためて弓削山がはじき返した。
「えい!」
能代の頭を越える。
センター前のポテンヒット。
「きゃーっ! やったやった! ヒットだわ!」
弓削山がはしゃぐ。
その弓削山を草津が押しのけた。
「次はおれだ。エースで四番でキャプテンのおれが打ってやる」
しかし草津はキャッチャーゴロ。
そのあと全員が能代のナックルに挑戦した。
ヒットにできたのは弓削山ひとり。
崎守は最初から打つ気なし。
桜子も打席に立つ。
けど桜子にはただボールが飛んで来たとしかわからない。
「この球がなんでみんな打てないの? わたしにだって打てそうだけど」
言いながら桜子がふる。
でもバットに当たらない。
みんながナックルに再挑戦をはじめた。
アキラは星見のうしろから能代のナックルを観察する。
ミットに収まるまで右に左にゆれ動く。
星見が捕球できなかったのはそのためらしい。
「あれってさ星見。能代くんが意識して左右にぶれさせてるの?」
星見が答えた。
「いいや。投げてる本人もどう変化するかわからない。投手に向かい風が吹けばもっと変化するぞ」
「ナックルは打たせて取る球なわけね?」
「そういうこと。ところで弓削山は野球以前になにかスポーツをやってたのか? あのバットの使い方。野球というより居合い斬りみたいだぞ?」
「うん。家が剣道場で五歳から真剣をふってたって」
「なるほど。それで変化球には強いんだな。ボールを点としてとらえるんだろう」
「点?」
「そう。崎守はボールを直線としてとらえる。だから速球にはやたら強い。変化球は直線じゃないだろ? 変化する一瞬一瞬を弓削山は点としてとらえてるんだ。それでナックルでもはじき返せる。たいていの打者はそんな芸当はできない」
「じゃナックルボールって無敵?」
「そうも言えない。野球はそもそもいやらしいゲームなんだ。真芯で完璧にとらえると野手の正面をつくようになってる。よく言うだろ? 当たりそこねがポテンヒットになりましたって。あれは当たりそこねだからヒットになる。ボールの芯とバットの芯が完全に当たるとアウトかファールになるんだ。ホームランはバットの芯の五ミリ上にボールを当てたときホームランになる。本当のジャスミートをすればホームランにはならない。ライナーがいいとこだ。野球ってのはバットにボールを当てそこねるゲームなんだよ」
「バットにボールを当てそこねるの?」
「そう。だから無敵のボールなんてない。打ちそこないがヒットになるゲームだからな。お前も投手だから経験があるだろ? いいコースに決まって完全に打ち取ったのになんでヒットだよって。野球ってのはそういうゲームなんだ。打者は微妙に打ちそこねないとヒットにできない。それでどんな好打者でも打率が十割にはならない。バットの真芯でとらえればとらえるほどアウトになるせいだ」
「するとナックルボールってヒットも出やすい?」
「バットにボールが当たるわけだからな。はじき返し方が通常のボールと異なるから内野ゴロになるだけだ。毎日打てばコツがつかめるはず。とは言っても才能が必要だろう。剛速球はバットに当たらないからヒットにならない。お前の球は疲れて来ると回転が落ちる。すると打ちごろになる。ナックルボールは逆だ。握力が弱まると回転が速くなる。すると打ちごろの球になってしまう。無敵の球なんてないのさ。ボールにバットが当たればヒットは生まれる」
「じゃ虎丸の球も?」
「当たればな。残念ながらいまはお前の球ですら崎守しか当たらない。さすがにバットに当たらないとヒットは無理だ」
「なるほど。そりゃそうか」
「まあヒットにできたところでさ。四人にひとりしかヒットが出なきゃ点にならない。ナックルってのはそういう球だ。四人にひとりずつヒットが出てもホームランがなきゃ得点はゼロのまま。連打にしにくい球なわけだ。お前だってそうだろ? 連打されなきゃ負けない。動揺して投げると連打をくらい次から次に点が入る」
「そう。止まらなくなるね」
「野球はそこが怖い。打たれても動揺しない投手が無敵だよ。球が無敵なんじゃない」
「ううむ。耳が痛いよそれ」
「ははは。打たれても動揺しない投手なんていない。動揺して当たり前だ。いかに早く動揺を静めるか。そこにいい投手と悪い投手のちがいが出るだけ。人間だから動揺はする。そのあとをどう立ち直るかが問われる。残念ながらおれは投手を立ち直らせるすべを知らない。たいしたキャッチャーじゃないんでね」
「そんなことないよ。星見はいいキャッチャーだ。ボクは星見に受けてもらいたい」
「そう言ってくれるなら動揺したときは教えてくれ。ふたりでどう静めるかを考えよう。頭に血がのぼると簡単に点を取られる」
「わかった。そうするよ」
たしかにナックルは毎回変化がちがう。
打てない球だとは思えない。
しかし打ちそこねが圧倒的に多い。
強振すると内野ゴロだ。
厄介な球であることはまちがいない。
能代が敵じゃなくてよかったとアキラは思った。
曲がりなりに男樹高校野球部は始動をした。
仮免許だけど。
守備は桜子の演技指導のせいで上達をはじめた。
特に二遊間が目ざましい。
ミラーマンという芸がある。
ふたりの人間が向かい合って同じ動きをする芸だ。
同じ動きとは言うが鏡に映った自分をふたりの人間でこなす。
片方が右手をあげればもう一方は左手をあげねばならない。
朝起きてヒゲをそる場面からはじめることが多い。
鏡に向かってヒゲをそりはじめる。
最初はふたりが同じ動きをする。
じょじょに一方が動きをずらす。
最後はまったくちがう動きをして観客を笑わせる。
そういう出し物だ。
二村は大道芸人志望でミラーマンもレパートリーに持っている。
ジャグリングはお手のもの。
二村は弓削山の動きを真似た。
二村は左打ち左投げ。
グローブは右手だ。
弓削山は右投げ。
弓削山と二村が向かい合うとちょうど鏡に映ったみたいになる。
弓削山の守備は華麗だ。
牛若丸のように飛び跳ねる。
二村は弓削山の真似をした。
守備を真似たのではなく芸として身のこなしを真似た。
身体の動きが真似られると次は実際にボールを取った。
弓削山の動きを真似してボールをトスする。
みごとにダブルプレイが完成した。
ちょうど二塁ベースをはさんで弓削山が左右に分身したように見える。
バッティングの基本はピッチャー返しだ。
ピッチャーの近くを通過した打球は二遊間を抜く。
二遊間の守備がまずいと連打をくらう。
いい打者であればあるほど二遊間を打球がやぶる。
特にタイムリーヒットを狙うときは二遊間に打つ。
二遊間の守りが堅いとアウトカウントは増えやすい。
二村が短期間に成長したことでやっと高校の野球部らしくなった。
そこに夏の県大会の抽選日が来た。
参加校は四十校。
くじの一番から十番までがAブロック。
十一番から二十番までがBブロック。
二十一番から三十番までがCブロック。
三十一番から四十番までがDブロック。
昨年の県大会優勝校の理想学園がトップだ。
理想学園の主将がシード校用のくじ箱に手を入れた。
三番を引く。
理想学園はAブロックだ。
シード校からくじを引く。
抽選が進む。
虎丸はCブロック。
愛美学院はDブロック。
強豪三校がいないのはBブロック。
十一番から二十番を引けばBブロックに入れる。
草津主将がくじをつかむ。
手を箱から抜いた。
紙を広げてみんなに見せる。
十番だ。
十一にはひとつ足りない。
おーっとぉと野球部全員の顔が青ざめた。
弓削山がぼやく。
「なんで理想学園と同じAブロックを引くわけ? ド本命を引き当ててどうするのよ? それにくらべて虎丸の旭日高校はスチャラカ校ばかりのCブロック。あれじゃ虎丸のベスト四は決定じゃないの。虎丸とうちを交換してもらいたいわねまったく」
壇をおりて来た草津の顔も青い。
足もふらふらしている。
「そ。そうなんだ。花咲キャプテンはくじ運がむちゃくちゃいい人だったんだよ。二年前はあの虎丸の位置にうちがいた。それでベスト四まで勝てたんだ」
弓削山が草津を見くだした。
「てことは草津キャプテンはくじ運が悪い? まあなんて人でしょ? 守備もだめ? くじ運もだめ? 打撃もだめ? 変化球のキレだけが抜群? 最低ね」
ズコンと草津が全身を沈ませる。
打ちひしがれた。
目は白目だ。
アキラは弓削山を非難の目で見る。
「あーあ。とどめを刺しちゃった。ゆいいつの三年生にそれはないよぉ弓削ちゃん。お年寄りはうやまわなきゃ」
草津がさらに沈んだ。
「おれは年寄り? 年寄りだったのかあ」
全員が草津から目を離す。
草津どころではない。
たいへんなことになったぞ。
そんな顔で全員がお互いの顔を見交わす。
せっかくあれだけ練習してまた活動休止かよ。
そういう顔ばかり。
そこへ虎丸がやって来た。
「ははは。戦うまでもないようだな? お前らが理想学園を引いてどうすんだ? 野球部の活動をつづけたきゃ理想学園に勝つしかなくなったぞ。せいぜい短い夏を楽しむんだな。負ければ海に遊びに行けばどうだ? ちょうど海水浴シーズンでいいぞ。おれたちは甲子園に行くから海で遊ぶひまなんかないが」
言うだけ言って虎丸が背中を向ける。
弓削山が歯をきしらせた。
「きいぃ! く! 悔しいぃ!」
アキラは弓削山の肩に手を乗せる。
弓削山をなぐさめるように。
「しょうがないよ弓削ちゃん」
「凪ちゃん! あんたまでがそんなことを言うの!」
「うん。勝つしかなくなったんなら勝てばいい。ちがう?」
全員が声をなくした。
勝つなんて言葉が出るとは思ってみない。
理想学園はそれだけ強い。
弓削山が笑いをかみ殺す。
「凪ちゃん。あんた。みごとな天然ボケねえ。みんなあっさり活動休止を受け入れるのを考えてたのよ。あきらめて夏を終わらせようって。あんた全然あきらめてないじゃない。しょうがないよってそれ。最後まで悪あがきをしようって意味だったのね?」
「あれ? みんなそう思ったんじゃないの? ボクだけズレたわけ? だって戦う前から負けるって思えば勝てないよ。買わない宝くじは当たらない」
陸本がアキラの肩に手を乗せる。。
「ひひひ。宝くじは買っても当たらないぞ凪野」
「そ。そりゃそうだけどさ。買わないと絶対に当たらないよ。買えばほんのすこしだけ当たる。かもしれない」
星見が気を取り直した。
「かもしれないか。たしかにそんな確率だな。ま。凪野の言うとおりだ。戦う前に負けてどうする。戦って負けよう。いさぎよく散るべきだ」
弓削山がツッコミを入れる。
「負けるのが前提じゃないのよそれ。だめ。勝つの。勝つのよ。理想学園に勝つわ。勝って虎丸をぶっ叩くのよ! 打倒虎丸! 目ざせ虎丸!」
能代がけげんな顔で弓削山を見た。
能代は野球部の仮免許のいきさつを知らない。
「あのよ。それもまちがってないか? ふつう目ざせ甲子園だろ? この会場にいる連中みんなそうだと思うぞ?」
「ううん。うちは甲子園はどうでもいいの。打倒虎丸。この一点よ。そのために理想学園を蹴散らすの」
能代が肩をすくめた。
「変わった野球部。甲子園を目ざさないでド本命に勝つ? そんなのありかい?」
「ありもあり。大ありよ。とにかく虎丸の鼻をあかすの。ぎゃふんと言わせてやるんだから」
陸本が水をさす。
「うちが先にぎゃふんと言うよなきっと。きひひひひ」
アキラはにらみ合う弓削山と陸本のあいだに入る。
「まあまあ。取りあえず二回戦からになったんだからいいじゃない。草津キャプテンもくじ運が悪いばかりでもないんだって。一回戦免除だから五回勝てば甲子園だよ」
左池がため息を吐き出す。
「ということは二回勝てば理想学園と当たる。順調に勝ってもうちの夏は三戦で終わりだ。たしかに短い活動再開だったな」
アキラは組み合わせ表を見た。
男樹高校はAブロック。
虎丸の旭日高校はCブロック。
「じゃうちが理想学園に勝ってもさ。虎丸との対戦は決勝までないんだ。てことは野球部の活動再開が実現したらさ。決勝に勝つってことじゃない? つまり甲子園行きなわけ?」
草津が口をはさむ。
「それはちがうぞ凪野。各ブロックの勝ち残りが決定した段階でもう一度抽選をやるんだ。だからAブロックの勝者とBブロックの勝者が当たるとはかぎらない。前回おれたちはBブロックだったけどDブロックの理想学園と当たって惨敗した」
「ふうん。そうなんだ。じゃ準決勝で虎丸と当たる可能性もある?」
「ある。しかし準決勝まで行けるもんか。理想学園がどんなに強いかお前は知らないんだ。おれはエースで四番でキャプテンだぞ。理想学園の強さは知り尽くしてる。勝てるはずがない。それほど理想学園は強い」
「それ。どれだけ強いのかわかんないんですけどキャプテン」
星見が割りこんだ。
「あのう。みんな理想学園ばかり問題にしてるけどね。当面の第一戦。船岡高校を分析すべきじゃないかな? 船岡高校はシード校で毎年ベスト八まで残る古豪だぜ? 二戦目はどこが勝ちあがって来るかわからないけど」
草津が頭をかかえた。
「ああ! そういやそうだ! おれたちの時代は船岡高校と練習試合で勝ったことがない。夏には当たらなかったんで忘れてたぜ」
能代が肩をすくめた。
「要するに男樹高校野球部って最低ランクの野球部なわけだ。それでよく打倒虎丸だな? おれが聞いてる虎丸は超高校級のピッチャーだって話だぞ。最高速が百五十五キロ。プロ並みの投手だろ? 虎丸に勝てば甲子園まちがいなし。そんな前評判が新聞に載ってたぞ? しかも打倒虎丸の前に理想学園? 甲子園に行くよりむずかしいんじゃねえ?」
弓削山が能代の胸ぐらをつかんだ。
「きいぃ! むずかしくってもやるしかないのよ! でないと野球部にはなれないの!」
アキラは能代と陸本に虎丸とのいきさつを説明する。
なるほどとふたりが納得をした。