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 第一章 ボクは女なのよ

 凪野なぎのアキラが初めて星見要ほしみかなめを見たのは夏のグラウンドだった。

 安心感のある捕手だ。

 アキラはそう思った。

 アキラの名字が凪野ではなかったころの話だ。

 当時アキラは中学三年生の女子ソフトボール部員だった。

 となり町のリトルシニアにうまいキャッチャーがいる。

 そう聞いていた。リトルシニアは硬球を使う少年野球だ。

 少年を硬球に慣れさせる。

 それがリトルシニアの設立意味だ。

 春と夏に全国放送される高校野球の甲子園大会も硬球を使う。

 リトルシニアは甲子園を目ざす第一歩と言える。

 星見少年は中学三年生だ。

 それまで連戦連敗だったチームを常勝に導いた捕手。

 アキラはそんな噂を聞いていた。

 実際の星見を見たのはアキラがソフトボール大会の決勝を待っているときだ。

 となりの市民球場で星見たちリトルシニアの準決勝が戦われていた。

 アキラが見たとき星見は捕手としてすわっていた。

 ピッチャーは平凡な右投手だった。

 可もなく不可もなく。

 そこそこのストレートとスライダーを駆使する投手。

 悪く言えばどこにでもいそうな中学生投手。

 その投手が星見のサインに首を横にふりつづけた。

 アキラもピッチャーだ。

 投手心理はよくわかる。

 投手が捕手のサインにうなずかない。

 それはストレートが投げたいときだ。

 場面は九回裏。

 ツーアウト二塁三塁。

 得点差はわずか一点。

 バッターは四番。

 ボールカウントはツーストライク。

 四番をおさえればゲームセット。

 ヒットを打たれればサヨナラ。

 右打者の四番はしつように投げられる外角球をファールでねばっている。

 こういうときピッチャーは内角高めの速球でズバリと三振に取りたい。

 九回裏に四番バッターをストレートで三振に切って試合終了。

 これほど気持ちのいい勝ちはない。

 アキラには投手の気持ちが手に取るようにわかった。

 しかし捕手の星見はサインを変えようとしない。

 ついに投手が星見を指で招いた。

 マウンド上で星見と投手の会話がはじまる。

 スタンドから見ているアキラに会話は聞こえない。

 だが内容は推察できた。

 たぶんこんな会話だ。

 まず投手が星見に食ってかかる。

「星見お前のリードはおかしいよ。なんで外角にスライダーばかり投げさすんだよ? 打ってくれって言ってるようなものじゃないか。ここは内角に一球ズバッと決めるところだぜ」

 次に星見が投手を説得した。

「それじゃだめなんだ。バッターが待ってるのはその内角の球だ」

 グラブで隠す投手の口がとがる。

「常識のねえキッチャーだな。いくら内角を待ってるって言ってもよ。外角ばかりつづけりゃ目が慣れる。次また外角だと打たれるに決まってるじゃねえか」

「いいや。大丈夫だ。目が慣れたって外に逃げるスライダーならヒットはない。ファールでねばるのも限界が来る。かならず三振に取れる。おれを信じてくれ」

 そういうやり取りがしばらくつづいた。

 けど双方とも折れることはなかった。

 けっきょく投手が舌打ちで会話を打ち切った。

 タイムの時間切れだ。

「ちっ」

 舌打ちをした投手の表情がアキラの印象に残った。

 ほんの一瞬だが波乱の予感をおぼえた。

 つづく一球。

 星見のミットは外角にすえられた。

 しかし投手が投げた球は内角のストレート。

 待ってましたと四番バッターが三遊間をきれいに抜いた。

 三塁ランナーがホームイン。

 二塁ランナーもホームを踏む。

 サヨナラ安打だ。

 試合終了のあいさつのあと敗戦投手がグローブをグラウンドに叩きつけた。

 つづいて星見の胸ぐらをつかむ。

 こぶしが星見の頬に入った。

「てめえが余計なことを言うから集中力が切れたんだ! 負けたのはてめえのせいだぞ!やってらんねえや! やーめたっと!」

 投手がグローブを拾わずに球場から消えた。

 星見は殴られた頬を押さえてひざを地面についている。

 アキラに投手の言葉は聞こえない。

 でもそういう口の動きだった。

 うつむく星見の表情は見えない。

 真夏の太陽だけがギラギラと星見の背中に照りつけている。

 星見はなにを考えているんだろう?

 泣いているのかな?

 アキラは思いつつ自分の試合に足を向けた。

 時間は敗者に無慈悲だ。

 星見が熱戦を戦ったグラウンドは次の試合に向けて整地が進められて行く。

 運の悪い捕手だ。

 アキラはそんなふうに思った。

 ピッチャーが投げた最後の一球。

 外角のスライダーなら試合に勝っただろうか?

 それはわからない。

 当たりそこねがポテンヒットになることもある。

 もしは野球にない。

 結果しかないのが野球だ。

 わたしなら最後の球はなにを投げたろう?

 自身の試合前の投球練習をしながらアキラは考えた。

 星見の要求どおり外角のスライダー?

 それとも内角のストレート?

 アキラは受けてくれる捕手のミットを目に考えつづけた。

 内角のストレートで勝負に行きたい。

 それは投手なら誰だってそうだろう。

 しかし打たれるのがほぼ確実な場面では得策ではない。

 わたしが投げるとすれば外角のスライダーだ。

 アキラはそう結論を出す。

 アキラには欲求があった。

 願望と言ってもいい。

 全力で打者に投げてみたい。

 そう中学の三年間を思いつづけた。

 全力で投げるにはアキラの球は速すぎた。

 捕手が取れない。

 すくなくとも中学生女子は捕れなかった。

 アキラは力をセーブして投げている。

 そのせいか試合はいつも苦戦だ。

 僅差のゲームが多い。

 いつ負けてもおかしくない。

 そんな状態で決勝まで来た。

 中学女子のソフトボールに大きなイベントはない。

 甲子園もオリンピックもない。

 勝てば楽しい。

 負ければ悔しい。

 しかし楽しさも悔しさも三日たてば忘れてしまう。

 そんな感覚でチームメイトたちはソフトボールに取り組んでいる。

 きょう決勝だというのにアキラの両親と小学三年生の弟の姿は球場にない。

 アキラが来るなと断ったせいだ。

 全力で投げないため勝つ自信はどこにもない。

 アキラは毎回ヒットを打たれる。

 そんな苦戦を家族に見て欲しくない。

 決勝戦の試合開始は日曜の午後一時だ。

 他のチームメイトたちの家族は弁当持参ですでにスタンドに陣取っている。

 姿がないのはアキラの家族だけだろう。

 主審がプレイボールを告げた。

 そのときにもスタンドにアキラの家族の姿はなかった。

 アキラはそれを確認してホッとした。

 両親や弟にいいところを見せようとして力が入りすぎる。

 そこが怖い。

 家族の前で連打されて球がうわずるのが怖かった。

 ぶざまに負けるのを見られるのが怖いのではない。

 家族にいいところを見せようと思う虚栄心が怖かった。

 自分の歯車が狂うのが怖い。

 平常心を失って負けるのが怖かった。

 いつものように試合が乱打戦で進んだ。

 最終回の裏。

 一点差で二死だ。

 ランナーは満塁だった。

 あとバッターひとりをおさえれば優勝。

 そこまでアキラはこぎつけた。

 キャッチャーがサインを出す。

 内角低めのストレートだ。

 カウントはスリーボール・ツーストライク。

 ヒットを打たれればサヨナラ。

 フォアボールだと同点。

 打者は三番。

 次の四番は要注意だ。

 四番まで回せばサヨナラ負けはほぼ確実。

 この三番バッターで勝負。

 インコースに速い球で三振。

 または詰まらせて内野ゴロ。

 それがキャッチャーの選択だった。

 アキラはうなずいた。

 セットから投げる。

 ストレートが渾身の指を離れた。

 ビンと音を立ててボールがバッターに飛ぶ。

 三番打者のバットが空を切った。

 三振!

 勝った!

 優勝だ!

 そう思った瞬間に暗転が来た。

 キャッチャーミットに収まるはずのボールがバックネットに転がっている。

 二塁三塁のランナーが次々とホームベースを踏む。

 空ぶりをしたバッターが一塁を駆け抜けた。

 ふり逃げだ。

 アキラの球が速すぎて捕手がパスボールをしていた。

 勝ったチームの全員が抱きあって勝利を喜びはじめる。

 ぼうぜんとアキラは肩を落とす。

 けど泣くほどのことじゃない。

 アキラはそう悔し涙をかんでやせがまんを張った。

 スタンドに目を向ける。

 やはり家族の姿はない。

 ホッとした。

 悔し涙を見られなくて。

 アキラの本当の暗転はそのあとに来た。

 グラウンドをしりぞいたアキラの手を青い顔の監督と部長が取った。

「アキラちゃん。すぐ病院に行ってちょうだい。あなたのご家族がたいへんなことに」

 監督も部長もその先は声にならなかった。

 アキラはタクシーで病院に送りこまれた。

 病院ではアキラの手を婦人警官が引いた。

 アキラが対面した家族三人の顔に白い布がかけられていた。

 両親と弟の勇紀ゆうき

 三人とも息をしていない。

 そのあとの出来事はアキラ自身もよく憶えていない。

 記憶がバラバラだ。

 マイクを突きつけられた憶えはある。

 警察の副署長の記者会見をテレビで見た憶えも。

 しかし悪夢のように順番がぐちゃぐちゃ。

 誰がなにを言ったかわからない。

 さまざまな大人がいろいろなことを言った。

 なぐさめられた。

 はげまされた。

 マスコミのテレビカメラがずらりと並ぶ中を横切った気もする。

 でもアキラの記憶の鮮明さは灼熱のグラウンドで途切れている。

 星見要が殴られた瞬間。

 アキラの球を捕手が取りそこねた一瞬。

 そこだけをアキラはくり返し思い出す。

 暑い夏の敗戦投手だ。

 家に帰って笑って話そう。

 両親と弟の勇紀に。

 きょうはいいところまで行ったの。

 けど負けちゃった。

 そんなふうに。

 見に来なくてよかったね。

 そんなふうに。

 翌年の五月だ。

 甲子園から直線距離で五十キロ離れた私立高校の校長室だった。

 甲子園から五十キロにしては田舎町だ。

 B県の私立高校で男樹おとこぎ高校。

 校長室には校長と教頭それと来客の桂井忠則かつらいただのりがいる。

 桂井は精神科医だ。

 歳は三十五。

 校長とは高校の同級生。

 とうぜん校長の枝島敏宗えだじまとしむねも三十五歳。

 若い校長だ。

 教頭の寝呉戸雄蔵ねごとゆうぞうは五十五歳。

 こちらは順当な年齢だろう。

 頭も硬そうと桂井は見た。

 B県は正式名称ではない。

 甲子園球場から五十キロしか離れていない。

 にもかかわらずすべてB級。

 それでついたあだ名がB県。

 しかし高校野球の世界では名がとおっている。

 高校野球に関しては日本で十指に入る実力県だ。

 この男樹高校も二十年前に春夏の甲子園でそれぞれ優勝経験がある。

 B県の高校野球を全国レベルに高めたのはこの男樹高校だ。

 いまは見る影もないが。

 桂井の提案に教頭が頭から湯気を立てた。

 こぶしをふって力説する。

「断固として反対だ! うちは男子校だぞ! 女子をひとり入学させる? そんなの論外だ! 認められん!」

 桂井は教頭を無視した。

 校長の枝島を見る。

「教頭はそう言ってるがお前はどうだい枝島?」

 枝島が教頭の顔色をうかがう。

 若い校長はお飾りで教頭が実権をにぎっている。

 そう桂井は推測をめぐらせた。

「ぼくちゃんも反対だなあ。桂井には高校時代世話になったけどさ。やっぱり女の子をひとり入れるってのはどうもねえ」

「男子校って教頭は言ったけど本当はそうじゃないんだろ枝島?」

 枝島が困った顔を見せる。

 小太りで色白の枝島はフィギュアオタクだ。

 校長室のガラスケースには美少女フィギュアがズラリ。

 すべて巨乳だった。

「いや。そうなんだけどさ。バブルのころに共学にするって案があったらしくてね。男にかぎるという一文をはずしたんだって。けどその後の不況で共学にできなかったんだ。女の子用のトイレや更衣室といった設備を作る予算がなくてさ。だから女が入校しても問題はないよ。けどね桂井の案はまずい気がする。女の子を男装させて男として入れるんだろ? しかも住むのが男子寮? うちの男子寮はふたりがひと部屋だよ? それって男と女が同室になるってことじゃんさ。まちがいが起きたらどうするわけ?」

「寮で同室にしなくったって男と女にまちがいはつきものだ。まちがいが起きれば起きたときの話だろ? いまは死にかけの十五歳をどうやって立ち直らせるかを考えてもらいたい。このままじゃ彼女は確実に死ぬ。人間を拒否して食うことも生きることもこばんでるんだ。憎しみでも悲しみでも楽しみでもいい。前を見る力を彼女にあたえてやって欲しい。校長はともかく教頭あんた教育者だろう? 救いを求める生徒を突き放す気か?」

 教頭が息を飲んだ。

 教頭は桂井の見こみどおり頭の硬いおじさんらしい。

 世間の常識にはひたすら弱いタイプだ。

 教育者のひと言にも弱いはず。

 校長の枝島と教頭がひたいを寄せ合った。

 ないしょ話をはじめる。

 桂井はふたりがどういう相談をしているか手に取るようにわかる。

 いかにうまく断るかを密談しているだけだ。

 結論が出たらしい。

 校長の枝島が顔を桂井に向けた。

「やっぱりだめ。その子は受け入れられない。別の高校に持ちかけてくれない桂井?」

「残念だがこの男樹高校じゃなきゃだめなんだ。ところでな枝島。男樹高校って野球部はあるのか?」

 枝島の眉が寄った。

 顔が青ざめる。

「桂井。まさかその女の子を野球部に入れるつもり? それって発覚すれば大問題だよ?」

「しかし東京で聞いた話じゃこの高校には野球同好会しかないって話だったぞ?」

 枝島が思案顔を作った。

 すこしのためらいののち決断をする。

 しぶしぶ口を開く。

「野球部はある。あるんだ。ただ自主的に対外試合を禁止してる。だから夏の県大会の抽選にも参加するよ。試合当日になって理由をつけて棄権するだけさ。もっとも出たところで一回戦負けだけどね」

「どういうことだそれ?」

「原因は女がらみのもめごとなんだ。二年前の秋の話でね。当時のうちのエースで四番が五股いつまたをかけた。二年生の花咲麗一はなさきれいいちって男子だったんだけどさ。なかなかハンサムだったよ。女のうち四人に問題はなかった。女同士のさやあてはあった。でも一種の協定みたいなものができててさ。問題は最後に参加した五番目の女だった。当時高校一年生の若竹真由美わかたけまゆみって女だったんだけどね。その若竹が自殺をはかった。花咲は若竹と肉体関係はないと言い張った。キスだけだと。自殺をはかるほど深刻な関係じゃなかったと。若竹はきっとストーカーみたいな女だったんだろう。ぼくちゃんは若竹に会ってないんだ。となり町の旭日きょくじつ高校の生徒でさ。自殺未遂後は誰にも会いたくないって。花咲のほうはさんざん問い詰めたんだけどね」

 桂井は想定外の答えにしばし思考が止まった。

 それって不祥事か?

「ふうむ。それで対外試合の自粛中? たしかに五股はひどい。けど部の問題じゃないだろ? その花咲ってエースが卒業すれば部活動は再開すべきじゃないのか? 今年卒業したわけだろ?」

「たしかに花咲は今春卒業した。けど部活動の再開はしないと思うな。学校側が自粛させてるわけじゃないんだよ。自殺をはかった若竹は県議会議長の息子と知り合いでさ。その息子ってのがキレると手のつけられないやつなんだ。常盤虎丸ときわとらまるって男だがね。東南海の虎ってあだ名を持ってる。その虎丸がうちの野球部員全員に約束をさせたんだ。三年間部活動を停止しろって。同好会ならいい。だが野球部は認めないと。もともと一回戦負けが当たり前の野球部でさ。対外試合をしても負けるだけ。県議会議長の息子に逆らうメリットはないの」

「だから部員たちが自主的に自粛を?」

「うん。学校側はその件に関わってない。うちとしても表沙汰にしてうれしい話じゃないものね。だから表向き野球部は通常どおり活動中として黙認中なんだ」

「ということは来年の秋まで野球部は休眠状態?」

「きっとね。虎丸はいま旭日高校の二年生。来年の秋には虎丸の高校野球は終わる。そうすればまた野球部は再開するんじゃないかな? ただねえ。試合をしないから部員は現在六人に減った。桂井の言う女の子が入っても七人だね。たったいま解禁されても新入部員がいないと対外試合はできないよ?」

「なら好都合じゃないか。高野連主催の公式試合に女が出るとまずいんだろ? 練習試合に女が出ても問題はない。入学と入部をしぶる理由がないぞ枝島」

「あ。そういうオチかい。けど女の子として入学させるんじゃないんだろ? 男装させて男としてあつかえ? それって産地偽装と同じだよ。発覚すれば大問題になると思うなぼくちゃん」

「女だと発覚すれば退学にしてくれればいい。教育を彼女に受けさせるのが目的じゃないんだ。彼女を前進させたいだけなんでね。そもそも入学試験を受けてないんだぞ。反則もいいところだ。リハビリに協力すると思ってしばらくがまんしてくれ。三年間あずかってくれとは言わない。おれの見こみでは夏までだ。夏がすぎて彼女に生きる意欲がもどらなければ終わりだろう。葬式はこちらで出す。お前は香典も出さなくていい」

「そんな。そこまでひどいのかい?」

「ひどいね。家族全員が通り魔に包丁で刺し殺されたんだぜ? 幸せそうに見えた。それだけの理由で両親と弟がね。快晴の日曜の昼さがりだ。駅をおりた人たちが次々に襲われた。その中で最も楽しそうに歩いてた彼女の家族が標的にされた。手作りの弁当を持ってソフトボール大会の決勝戦を見に行く途中のね。小学三年生の弟をあいだにはさんで両親が左右から弟と手をつないで歩いてた。お弁当のバスケットをさげて姉が投げる決勝戦を見るために。三人とも助からなかった。まずいことに彼女は家族に試合に来るなと言ってた」

「どうして? 決勝なんだろ? なんで来るなと?」

「いつ負けてもおかしくない試合ばかりだったからだそうだ。彼女はそのことを悔やんでる。決勝戦に来いと言っていれば通り魔に殺された時刻にはスタンドにいた。どうしても来るなと強硬に言い張ればやはり死ななくてすんだ。彼女は来て欲しくないと家族に言った。だが小学三年の弟がやっぱり見たいと言い出したそうだ。隣家の主婦にそうあいさつをして三人は駅に向かったと。仲のいい四人家族だったそうだ」

「ふうむ。やり切れない話だなそれ。ところで桂井。どうしてうちの高校なわけ? ここじゃないとまずいってのは?」

「そもそもがお前の姉ちゃんの案だからだ。辣腕病院経営者の凪野ゆかり先生の。おれがゆかりさんの医大の後輩なのは知ってるだろ? 精神科医としても大先輩だ。その縁で相談に行ったらお前の高校にならねじこめるだろうってさ」

 校長の枝島が肩から力を抜いた。

「おいおい桂井。それを先に言ってよ。わかった。受け入れよう」

 教頭の寝呉戸が枝島のそでを引く。

「どうしてです校長? そんな生徒はまずいですよ?」

「うるさい寝呉戸。姉ちゃんは絶対だ。ぼくちゃんは本来大病院の跡継ぎだったんだぞ。しかし医大の受験に失敗した。それで姉ちゃんが病院経営に手を染めた。代わってぼくちゃんは姉ちゃんが引き受けるはずだった男樹高校をまかされた。経営手腕のないぼくちゃんとちがって姉ちゃんは有能だ。この学校の赤字も姉ちゃんが埋めてくれてるんだぞ。姉ちゃんに逆らったらここは廃校だ。お前あしたから失業者になりたいのか寝呉戸?」

 教頭がしぶい顔を桂井に向けた。

 桂井は勝ったとこぶしをにぎり固める。

 桂井は紙袋から包装した箱を取り出した。

「引き受けてくれてありがとう枝島。みやげを持って来てる。メロウメタルって人の作ったフィギュアだ」

「まさか」

 枝島が包装を乱暴に解いた。

 ブラケースの中を見る瞳が輝く。

 次に疑念が顔に浮いた。

「わーお! けどなんだって桂井がこんなものを?」

「その作者。うちの患者だ。うつ病を治してやったらその人形をくれた。オークションに出せばそこそこの値がつくとさ。最初に出すとワイロになりそうだからあとにした。たぶんその作者はまたうちに来る。プレッシャーに弱いタイプだ」

 枝島が首をかしげた。

「つまり今回の件をうまくやればさ。またフィギュアを一体おみやげにくれる?」

「きっとな。転入する生徒の名前は凪野アキラ。戸籍上はお前の姉ちゃんの養女だ。お前の姪になる。でもひいきはしなくていい。それと彼女は貧乳だ。お前の趣味じゃないからまちがいも起きない。学生服を着ると女には見えないはずだ」

「なるほど。じゃぼくちゃんのすることは?」

「彼女に便宜をはかってやってくれ。水泳は無理だし体育もまずいかもしれん。勉強もできないはずだ。なにせ去年の夏から人間をやめてる。まだ半分眠ってるような状態だ。凪野アキラが女だということはお前と教頭だけの秘密にすべきだろう。それくらいだな。よけいな真似はしなくていい。干渉しすぎるとかえってバレるぞ」

「ふむふむ。あんがい問題ないかも。なにかあったら桂井に連絡すればいいんだね?」

「ああ。お前の姉ちゃんでもいいぞ」

「姉ちゃんはやめてくれよぉ。また売上が悪いって小言を食らっちゃう」

「わかったわかった。おれに連絡をくれればいい。フィギュアをもらったら持って来てやるから」

「ありがとう桂井。お前はいいやつだ。その女の子はぼくちゃんが引き受ける。まかせてくれ。フィギュアのためだものな」

 桂井はほくそえむ。

 これで校長の枝島はこちらの手に収まったと。

 教頭は難物のようだ。

 けど校長が味方につけばたいていの事態はさばけるだろう。

 戸籍上アキラは校長の姪でもあるし。

 一方で桂井は胸をなでおろした。

 この男樹高校でなければならない理由をはぐらかせるのに成功して。

 ひとりの男目当てに女が男装して男子校に入学する。

 そんな裏事情をバラせば断固として反対される。

 アキラにいま恋心はなくても男と女だ。

 いつそうなってもおかしくない。

 アキラが自分を取りもどせば星見への思いは恋に変わるかもしれない。

 五月の快晴の月曜日だ。

 凪野アキラは転入生として一年一組に登校した。

 型どおり先生が同級生に紹介をしてくれた。

 同級生は全員が男だ。

 けどアキラはなんとも思わなかった。

 アキラはぼんやりと自己紹介を終えた。

 主治医の桂井に教えられたとおりに。

「ボク凪野アキラです。東京から来ました。よろしくおねがいします」

 生徒たちは誰ひとりアキラに注意を払わない。

 アキラにとって授業は頭に入らなかった。

 気がつけば窓の外を流れる白い雲を目で追っている。

 昼休みになった。

 教えられたとおり購買でパンと牛乳を買って食べる。

 トイレに行きたくなった。

 男樹高校は男子校だ。

 女子トイレは教師用しかない。

 主治医の桂井からトイレも男子用を使えと指示されている。

 男子用トイレでも個室はあるから問題ないと。

 アキラはトイレに足を踏み入れた。

 男子用便器がならんだトイレには学生服の生徒がひとりいた。

 アキラの顔を見るなり悲鳴をあげた。

「キャーッ! 女よぉ! 女がいるぅ!」

 アキラはハッとした。

 自分を指さす。

「女ってボク?」

 長髪の男子生徒がかん高い声を出す。

 なよっとした男だ。

「あったり前でしょ? あんた以外に誰がいるのよ? ここにはあたしとあんたしかいないじゃない」

 アキラは眉を寄せる。

「あたし? きみ男じゃないの?」

 ムッと男が眉を立てた。

 背は百七十センチ。

 アキラとほぼ同じ身長だ。

「失礼ねえ。あたしは女よ。あんたこそなんで男子校に女がいるわけ? どういうことなの?」

 アキラは混乱した。

 目の前にいるのは男だ。

 男子用の学生服を着ている。

 小用を足す瞬間も見た。

 なのに自分は女だと言う。

 その上アキラを女だと糾弾している。

 アキラはひとつだけ理解できた。

 女だとバレれば即退学。

 その約束でここに来た。

 それが初日でバレた。

 つまりあしたから登校しなくていい。

 星見要に会えないまま。

 アキラの目から涙がこぼれはじめた。

 昨年の秋にアキラは泣くことすら忘れた。

 涙を流すのはひさしぶりだ。

 このときやっとアキラの頭からもやが晴れた。

 目の前の優男がおろおろとしはじめる。

 腰のあたりがしなっていた。

「やだ。泣かないでよ。なんかあたしが悪いことしたみたいじゃない。あたしはいじめてないわ。こんなところを誰かに見られたらたいへん。トイレで弱い者いじめなんて最低じゃないの。あんたさっさと用を足しなさい。話はそのあとよ。いいわね」

 男がアキラを個室に押しこんだ。

 アキラは泣きながら洋式便器に腰をおろした。

 話しはじめる。

 どうして男装をして男樹高校に来たかを。

 男が個室の戸の外でうんうんとあいづちを打つ。

 アキラは話をつづけた。

 支離滅裂に。

 順不同に。

 男はその間トイレに来た男たちを追い払っている様子だった。

「ふんふん。だいたいわかったわ。その星見って捕手にボールを受けてもらいたいわけね。そのためにわざわざこんなド田舎に来た。あたし一年三組の弓削山銀乃丞ゆげやまぎんのじょう。銀乃丞って呼ばれるのきらいなの。だから弓削ちゃんって呼んでね。それでさあ。ひとつ訊いていい凪ちゃん」

「凪ちゃん? ボク凪ちゃんなの?」

「アキラちゃんがいい?」

「ううん。凪ちゃんでいいよ弓削ちゃん」

「きゃいーん。初めて弓削ちゃんって呼んでもらえたわ。あたし感激。あんた女だけどいいやつね。ところでさ凪ちゃん。その星見要ってのに惚れてるわけ?」

「ええーっ! そ。そんなわけないって。ボクはボクの球を受けてもらいたかったから来ただけ。それだけなんだ。それだけ。本当にそれだけ」

「うーん。なんだかねえ。凪ちゃんの口から聞くと意味深に聞こえてならないわ。ホントにホント星見に惚れてるわけじゃないのね?」

「そんな事実はぜんぜんっ! ないっ!」

「いやーねえ。強調しなくてもいいわよぉ。惚れてたっていいじゃない。あたしなんか男に惚れてるのよ。あんた女だから男に惚れても問題ないっしょ?」

 アキラはすこし考えた。

 女として男樹高校に入学したわけではない。

 男樹高校は世間的には男子校だ。

 男同士なら星見は自分の球をちゃかさずに受けてくれるだろう。

 アキラはそう思った。

 女として星見に接するのが目的ではない。

 それに。

「そもそもさ。男装して男子校に来てるのが問題だよぉ。そんな変態が告白したらどんな顔をされるか。ボクそっちのほうが怖い」

「ほよよ? 男装した女が男に告白するのが変態か? 男が男に告白するのが変態か? たしかにどっちもいい勝負って気がするわねそれ」

「だろ? それにさ。ボク星見と話したことも顔を合わせたこともないんだ。一度グラウンドで試合を見ただけなんだよ。好きとかきらいってレベルじゃないんだ」

「なーるほど。いいキャッチャーなんだ星見って。でもそんな捕手いたっけかな? 野球同好会は週一で紅白戦をやってるけど目立つ捕手はいないわよ? きょうは月曜だから放課後にやるはず。見てみる凪ちゃん?」

「うん」

 アキラはおそるおそる個室を出た。

 弓削山銀乃丞が無言でアキラの背を洗面台に押す。

 手を洗えと。

 アキラは手を洗った。

 弓削山が手をさし出す。

「あらためてよろしく。あたし一年三組の弓削山銀乃丞。高校を卒業したら女になる予定よ。いまはオカマってみんなからバカにされてるわ」

 なるほどとアキラは弓削山の手をにぎる。

「ボク一年一組の凪野アキラ。女だとバレたら退学になる予定の女なの」

 弓削山が肩をすくめた。

「まあそれはたいへん。バレないように協力したげるわね」

 アキラは不思議に思う。

「どうして? さっきは女はきらいみたいなニュアンスだったのに?」

「女はきらい。それはたしかよ。女ってだけで男に告白できるでしょ? あたしなんか好きな男に好きって言えない」

「いや。それは女でもいっしょじゃないの? 好きな男には告白しにくいよ?」

「でも違和感は持たれないでしょ? あんた女から好きって言われたら引くわよね? あたしが告白すると相手は確実に引くもの。ふられるとかふられないとかって話じゃないの。あたしが本物の女だったらそんな苦労はしなくてすむわ」

「それはそうかも。だから女がきらいなの?」

「そう。女ってだけでもてるのが当たり前。そんな顔してる女が大きらい。あんたはよく見ると胸もぺったんこで共感が持てる。顔は男顔だしね。女にもてたでしょ?」

「そ。そんなことは」

 アキラは思い返してみる。

 中学一年のときからソフトボール部のエースだった。

 男からラブレターをもらったことはない。

 しかし女からはしばしばある。

 どれも丁重にお断りしたが。

「やっぱ女にもてたんだ。なかなかやるわねえ。この女殺し」

 そこにチャイムが鳴った。

 弓削山がアキラの手を引く。

 一年一組の教室にアキラを押しこんだ。

「じゃ放課後のグラウンドでね凪ちゃん」

 放課後になった。

 アキラはグラウンドに出る。

 すでにユニフォーム姿の一団が野球をやっていた。

 けど野球のユニフォームは六人だけ。

 サッカー部のユニフォームが六人。

 バスケット部が六人。

 紅白の帽子をかぶりわけた十八人が対戦をしている。

 弓削山が姿を見せた。

 背の高い男を連れている。

「紹介するわね凪ちゃん。こいつは一年四組の崎守弥之助さきもりやのすけ。たよりになる四番バッターよ」

 崎守が手を出した。

 身長は百九十センチ。

 身体はがっしりとしていかにも打ちそう。

「おれは崎守弥之助。けどおれはそんなに打たねえぞ。銀乃丞のほうがよく打つ」

「ボク一年一組の凪野アキラ。いちおうピッチャー。打つほうはまるでだめ」

 崎守が握手をしながらアキラを見おろした。

 アキラの身長は百七十センチだ。

 頭ひとつ崎守のほうが高い。

「ふうん。めずらしいな。エースで四番ってのが高校野球の定番だが」

 アキラは細い。

 なよなよ度ではオカマの弓削山といい勝負だ。

 崎守が試合に目をやった。

 次に弓削山に顔を向ける。

「おい銀乃丞。あんな野球に参加するのか? ありゃ草野球よりひどいぞ? 中学生のほうがましな球を投げるぜ? あんな球。おれにゃ打てねえぞ?」

「まあいいじゃんさ弥之助。あたしたちは凪ちゃんのつき添い。けど凪ちゃん。キャッチャーは紅白の両軍とも野球同好会じゃないわよ? 星見って捕手はいないんじゃない?」

 アキラは首を横にふる。

「ううん。いる。キャッチャーじゃない。レフトを守ってる。紅組のレフトが星見要だよ」

 弓削山が目の上に手をかざした。

 グラウンドの左翼を見る。

 五月の太陽がまぶしい。

「あれ? あいつ寮の一年じゃないさ。顔だけは知ってるわ。まあそうなの。あれが星見要。無愛想な男だわよ? あたしがあいさつしても頭を軽くさげるだけ。あれが凪ちゃんのお目当てねえ? ま。いいか。あたしたちも参加させてもらいましょう」

 弓削山がアキラと崎守の手を引く。

 グラウンドを横切った。

 弓削山が声を張りあげる。

「あたしたち三人いまから野球同好会に入りまーす。九人そろったんだから野球部にしましょうよ。ねっ?」

 野球をやっていた十八人全員が凍りついた。

 紅組のピッチャーが弓削山に顔を向ける。

 老けた顔をしていた。

 ユニフォームは野球部で背番号は一だ。

「なにをおかしなことを言い出すんだ? とつぜん出て来て野球部にしろぉ? お前いったいなにさまだよ?」

 崎守が一歩前に出た。

 紅組の背番号一に指を突きつける。

「おれはおれさまだ。えらそうな口をきくきさまこそなにさまだ。名を名乗れ」

 背番号一の顔がまっ赤に染まった。

「おれは野球部の主将だ! エースで四番でキャプテンだぞ! 三年の草津正義くさつまさよしだ! お前ら一年だろ! その口のきき方はなんだ!」

 草津キャプテンの右こぶしが崎守に伸びた。

 崎守がその手首をつかむ。

 指に力をこめる。

 草津が悲鳴をあげた。

「いててっ! 痛っ! 痛いじゃないか! 放せバカ!」

「おれは一年四組の崎守弥之助。おれたちも紅白戦に参加させろ。ならこの手を放してやる」

「わ。わかった。参加させる。参加させるから放してくれぇ。折れちまうぅ」

 崎守が草津の手を放した。

 右手をコキコキとふる草津に弓削山が声をかける。

「ところでキャプテン。この試合どういう法則で紅白をわけてるのよ? 野球部三人。サッカー部三人。バスケ部三人。それぞれが紅白で一チームを作ってるけど?」

 草津が弓削山を見た。

 うさんくさそうな目つきで。

 こいつオカマか?

 そんな目だ。

「学食の食券一週間分を賭けてサッカー部とバスケ部から助っ人を要請してるんだ。コールドなしで七回まで紅白戦をやる。延長もなしだ。いまではすっかりわが校名物になってる。生徒間でもどちらが勝つか賭けてるやつがいるほどだ。お前たちも参加したいんなら紅白どちらか好きなチームに入れ。代打で出してやる。おれは心の広い男だ。さっきの暴言は聞かなかったことにしてやろう」

 オカマの弓削山が紅白の顔ぶれを見わたした。

 どちらも素人の集団にしか見えない。

 体育祭の球技大会のレベルだ。

「んじゃねえ。あたしたち三人がサッカー部とバスケ部をひきいるわ。キャプテンは野球同好会の全員と好きな助っ人を選んでね。それであたしたちが勝ったら野球同好会を野球部にするってのはどう? それとも一年三人と残りものの助っ人チームに勝つ自信がないかしら?」

「バ。バカ野郎! 勝てるに決まってるじゃないか。おれはエースだぞ。四番で主将でキャプテンだ。三年生だぞ。先輩だ。えらいんだ」

「かもね。じゃその条件でよろしく。チームの再編をして先攻後攻を決めましょ」

 草津が弓削山に背中を向けかける。

 ふと思いついたらしく顔を弓削山にもどした。

「おっと。いま気づいた。お前たちが負けたらどうするんだオカマ? 各自食券一週間分か?」

 遠巻きに見ていたサッカー部とバスケ部が不満に口をとがらせた。

 勝手にそんなものを賭けるなという顔だ。

 一年生チームに回されたら負けは確実。

 弓削山がしばし考える。

「あたしもおカネは心細いわねえ。なにか罰ゲームじゃだめかしらキャプテン?」

「そうだな? おれたち野球同好会はグラウンド整備を六人でやってる。これがなかなかつらい。お前らが負けたらよ。一年生三人で一週間グラウンド整備と球拾いってのはどうだ?」

「ええ。いいわ。それならできそう。あたしたちが勝てば野球部よ」

「お前たち一年はグラウンド整備と球拾いに決まってる。おれはエースで四番でキャプテンだ。県大会ではベスト四まで行ったんだぞ。一年生なんかに負けるか」

 草津が野球同好会の五人とつづいてサッカー部とバスケ部から三人を引き抜いた。

 見るからに俊敏そうな者ばかり三人を。

 残された九人は明らかに素人だ。

 絞りカスという感じ。

 崎守が弓削山のそでを引く。

「おい銀乃丞。あんな約束していいのか? おれはあのエースでキャプテンの球は打てねえぞ? このメンバーじゃ負けるのは確実だぜ?」

「負けたって一週間グラウンド整備と球拾いをするだけよ。こっちにだって投手はいるの。ねっ凪ちゃん?」

 弓削山がアキラの肩をたたく。

 崎守がアキラを見た。

 うたがわしげな目で。

「こいつそんなにいいピッチャーなのか? とてもそうは見えねえ。おい凪野とやら。お前の球速はどのくらいだ?」

 アキラは考えた。

 最速を聞いてるんだよなと。

「ボクの球速は百キロていどだよ」

 絞りカスのサッカー部とバスケ部から笑いが起きた。

 高校野球のピッチャーで百キロは遅い。

 新聞で騒がれる剛速球投手なら百五十キロ。

 通常の投手で百三十キロから百四十キロ。

 時速百キロだとスローカーブの球速だ。

 弓削山と崎守もがっくり来た。

 弓削山も崎守もシニア出身だ。

 中学時代そこまで遅いストレートを投げるピッチャーと対戦したことはない。

 まして高校生が時速百キロのボールを空ぶりするとは思えない。

 弓削山が崎守にささやく。

「あたし早まったかしら?」

「ま。百キロでもコントロールがよければ打たせて取れるだろうさ。野球はスピード競技じゃねえ」

「だといいけど」

 アキラたち三人は野球同好会のユニフォームを借りた。

 部室は立派だ。

 グラウンドも広い。

 ピッチングマシンや各種設備も充実している。

 どうして野球部にしないのかアキラには疑問だ。

 コイントスのけっか紅組のアキラたちがあと攻めを引いた。

 アキラはピッチャーズマウンドに立つ。

 弓削山はショート。

 崎守はセンターだ。

 アキラと弓削山と崎守がグラウンドの中心線を守ることになる。

 弓削山がマウンド上のアキラの指に気づいた。

 アキラはボールをひねくり回している。

 弓削山がアキラに寄った。

「ねえ凪ちゃん。ひょっとしてあんた硬球は初めて?」

「すっごーい。なんでわかるの弓削ちゃん?」

 弓削山が声をひそめる。

「わからいでか。そうよね。高校になって初めて硬球をにぎるって子も多いの。ましてあんたは女ですもの。硬球じゃなかったのよね。すっかり忘れてたわ。投げれそう?」

「わかんない。けどこれソフトボールより小さいから」

「ま。いいわ。あんたがだめならあたしが投げる」

「えっ? 弓削ちゃんってピッチャーなの?」

「いやぁねえ。あたしはショート。遊撃手よ。ショートしかやったことはないわ。でも送球は慣れてる。素人相手なら多少は大丈夫よ」

「なるほど。じゃボク安心して投げれるね」

 アキラは練習球をふりかぶった。

 捕手はサッカー部だ。

 投球フォームは下手投げ。

 弓削山が目を細めた。 

「お。右のアンダースローね」

 次の瞬間。

 弓削山は声をなくした。

 捕手が思いっ切り逃げ出している。

 アキラの投げた球はバックネットの金網を大きくゆらした。

 観戦中の一般生徒たちからもザワザワと声が洩れる。

 血相を変えたサッカー部のにわか捕手がマウンドに走って来た。

 アキラの胸ぐらをつかむ。

「おい! ふ。ふざけんなよ一年! いまのはなんだ? あんな球! 受けれっか! あれが百キロだって? 冗談じゃない! ありゃ百五十キロに近いぞ! おれを殺す気か!」

 弓削山も駆け寄る。

 アキラに耳打ちをした。

「どういうことよ凪ちゃん? あの球はたしかに百キロじゃないわ。あたしあんな速い球の投手とまだ対戦したことないわよ?」

 アキラにはわからない。

 どうしてそんなことを言われるのか。

「でもボク最高速で百キロしか出なかったよ? 市民球場のスピードガンで計ってもらったんだ。まちがいないと思うんだけど?」

「スピードガンで計った? あ! わかった! ソフトボールだったからだわ」

 ソフトボールは硬球より大きい。

 とうぜん速度は遅くなる。

 ちなみにソフトボールの世界最速は百二十キロだ。

 硬球の世界最速は百七十キロ。

 硬球を使う野球は投手と打者の距離がソフトボールより長い。

 それで百七十キロの速球でも打者は打てる。

 逆に投打間の距離が短いソフトボールの打者は百キロの球を空ぶりする。

 アキラはソフトボールの感覚で硬球を投げた。

 球速はほぼ五十キロ増になる。

 そこで困った事態におちいった。

 捕手がいなくなったわけだ。

 百四十キロの球でも素人には怖い。

 百五十キロともなると専門の捕手でないと捕れない。

 弓削山も崎守も捕手は経験がない。

 サッカー部とバスケ部は尻ごみするだけ。

 弓削山がチラッと白組の星見に目を向けた。

「どうするべきかしらね?」

 アキラの話によると星見は捕手の経験がある。

 アキラは星見に受けてもらいたがっている。

 こんなことになるのなら最初から星見を紅組に引きこんでおくのだった。

 弓削山はくちびるをかむ。

 まさかアキラの球がこんなに速いとは。

 弓削山の想定外の事態だ。

 そのときバックネット裏から声がかかった。

「受けるだけでいいならおれが受けてやるよ。ただしおれは投げられないぞ」

 短髪の男だった。

 身体つきはがっしりとしている。

 身長は百八十センチはあるだろう。

 目が糸のように細い。

 にやけ顔だ。

 二年生の襟章をつけている。

 野球部主将の草津が反対の声をあげた。

「そ。そんなの認められないぞぉ! お前たち三人はサッカー部とバスケ部だけで試合をする約束だぁ! もう助っ人はだめだぜぇ!」

 すると一般生徒から草津にヤジがぶつけられた。

「心の広いエースで四番がそんなことを言っていいのかぁ! 受ける捕手がいなきゃ話になんねえぞぉ! 待ってるおれたちの身にもなれぇ! もう賭けちまったんだぁ! いさぎよく負けろぉ野球同好会!」

 そうだそうだと声がつづく。

 草津が折れた。

「し。仕方がない。認めよう。さっさと入れ。そこの短髪の二年生」

 短髪男がグラウンドに入る。

 捕手の防具をつけてマウンドに寄った。

「おれは一之倉酒男いちのくらさけお。二年一組だ。サインはどうする一年坊主?」

「ボク凪野アキラ。けどサインどおりに投げる自信はないよ?」

「おいおい。高校一年生がサインどおりに投げられたら監督はいらないぞ。お前の球速でコントロールが抜群ならプロでも即戦力だ。そんな心配はするな一年坊主」

「ふうん。そういうものなの。でもボク球種は三つしかないんだ。ストレートとドロップとシュートだけ」

「ドロップ? いまどきそんなもの使うやつがいるのか? こいつぁびっくりだ。ま。簡単でいいけどな。サインは内角と外角。高めと低め。それと三つの球種。気に入らなかったら首を横にふれ。おれはキャッチャーじゃない。打者を打ち取る組み立てなんかできない。球を捕るだけだ。投げることもできない」

 アキラは眉を寄せた。

「それさっきも言ったよね先輩? どうして投げられないわけ?」

 一之倉が顔をゆがめた。

「どうでもいいじゃないかそんなこと。さあ。さっさと投げろ。お客さんがイライラしはじめたぜ」

 全員が守備についた。

 白組は一番打者から六番までを野球同好会六人が占めた。

 審判はテニス部だ。

 放送部がアナウンスを買って出る。

「白組一番。野球同好会センター左池芳裕ひだりいけよしひろくーん。二年五組。右投げ左打ち。おしゃれな伊達男。バレンタインに集まるチョコの数はわが校ナンバーワン。汗が似合わない男でもありまーす」

 放送部が笑いを取って左池が打席に入る。

 最初のサインはストレートを内角高め。

 アキラは投げた。

 ややずれた。

 ドまん中に入る。

 しかし左池が強振して空ぶり。

 ワンストライク。

 一之倉が返球をする。

 球は山なり。

 ヘロヘロ。

 小学生が始球式をやったみたいな球だ。

 投げられないとはこれか。

 そうアキラは納得した。

 二球目はストレートを外角低め。

 これも左池が強振。

 ツーストライク。

 三球目はストレートをまた内角。

 左池は完全にふり遅れ。

 ワンアウト。

「白組二番。野球同好会セカンド二村光親にむらみつちかくーん。二年二組。左投げ左打ち。大道芸人志望。ジャグリングはお手のものぉ。けど女の子にはもてなーい。もてるのは子どもとお年寄りだけぇ。気むずかしい性格をどうにかしろよぉ二村ぁ」

 二村が吐き捨てて打席に入る。

「ほっとけバカ」

 サインは内角高め。

 けど球は外角高めに行った。

 二村はこれを強振した。

 かすりもしない。

 次のサインはまた内角高め。

 しかし球はドまん中。

 二村はやはり空ぶり。

 三球目。

 サインはまたまた内角高め。

 二村はバットを短く持った。

 やっと内角高めにボールが入る。

 二村は短いバットでも空ぶり。

 二者連続の三振。

 ツーアウト。

「白組三番。サード三笠康正みかさやすまさくーん。二年三組。右投げ右打ち。某パンチラ漫画家の息子。なのに本人は絵が描けなーい。お父さんが泣いてるぞぉ三笠ぁ」

 苦笑しつつ三笠が右打席に入る。

 サインは内角低め。

 一之倉はあくまでインコース攻めをするらしい。

 でも行ったボールはまん中の低め。

 ワンバウンドになりそうな球を三笠はふった。

 空ぶりでワンストライク。

 二球目は外角高め。

 これはサインどおりに決まった。

 三笠のバットは空を切る。

 ツーストライク。

 三球目は外角低め。

 これもサインどおり。

 三笠はぐるりと一回転した。

 三球三振。

「スリーアウト! 白組無得点。チェンジです。次は一回の裏。紅組の攻撃でーす」

 マウンドをおりるアキラに観客から歓声が湧く。

「いいぞぉ! 一年坊主! 三者連続三振だぁ! なかなかやるじゃねえかよぉ!」

 グラウンドの外は湧きに湧いた。

 しかし一之倉の顔は浮かない。

 アキラの球はたしかに速い。

 でもコントロールはないにひとしい。

 たまたまサインどおりに来ることもある。

 そのていどのコントロールだ。

 野球同好会がアキラをなめてかかったから三者連続三振になっただけ。

 見きわめられたら三者連続フォアボールだったはず。

 球が前に飛ばなくても野球は勝てるゲームだ。

 紅組が勝つのはむずかしいかも。

 そんなふうに一之倉は思う。

 打順を決める段になってアキラはおどろいた。

 バスケ部の三人。

 みんな同じ顔をしている。

 見わけがつかない。

 弓削山がバスケ部の三人をアキラに紹介した。

「こちら二年の園多そのた先輩よ。三つ子なの。長男のハジメ先輩はあたしと男樹寮で同室よ。次男のツグト先輩は弥之助と同室。三男のミツル先輩はいまひとり。凪ちゃんが男樹寮に入るならミツル先輩と同室になるわねきっと」

 なるほどとアキラはうなずく。

 園多三兄弟は背が高いからバスケには向いてそうだ。

 しかし野球はうまくない感じがする。

 打順をあみだで決めようと意気ごんだ。

 そのときおれさまの崎守が手をあげた。

「おれは四番でいい。打てねえけど四番だ。決定」

 みんなが顔を見合わせる。

 でもまあいいか。

 そんな顔にみんながすぐ変わった。

 おれさまにはかなわない。

 草津主将にタメ口を叩く男だ。

 逆らってもむだ。

 そんなあきらめ顔で全員があみだくじを引く。

 一番打者はオカマの弓削山に決まった。

 二番はアキラだ。

 三番は園多三兄弟長男のハジメ。

 四番はおれさまの崎守。

 五番は園多三兄弟次男のツグト。

 六番は捕手の一之倉。

 七八九はサッカー部。

 ハズレくじの四人は代打要員だ。

 一回裏の攻撃がはじまった。

 放送部がメンバー紹介を読みあげる。

「紅組一番。ショート弓削山銀乃丞くーん。右投げ左打ち。弓削ちゃんと呼んで欲しい一年生でーす。ラブリィ弓削ちゃんに拍手ぅ」

 観客の拍手に弓削山が手をあげた。

 なよなよした腰つきははっきりオカマだ。

 いいぞぉの声が怒濤のように湧く。

 弓削山が投げキッスを観客に送った。

 ピッチャーズマウンドで白組の草津がなにやら吐き捨てる。

 ネクストバッターボックスのアキラは草津の口を読んだ。

「ケッ。オカマ野郎。だってさ」

 ほうというふうに一之倉がアキラを見た。

「わかるのか。なにを言ってるのか?」

「だいたいね。けどピッチャーだけ。ほかの野手はまるでわかんない」

「使えるか使えないかわからない才能だな。じゃ草津の初球はなんだと思う?」

「シュートだね。右ピッチャーの草津キャプテンが左打者の弓削ちゃんに投げるんだ。外角に逃げるシュートだよ」

「どうしてそう読んだ?」

「弓削ちゃんは内股にかまえてる。あれってインコースに強いかまえでしょ? アウトコースに逃げるシュートにはバットが届かない。だから外角に逃げて行くシュート」

 一之倉が笑った。

「ふふふ。そうかな?」

「あれ? ちがうの?」

「まあ見てりゃわかるさ」

 草津が初球を投げた。

 アキラの予測どおり外角に逃げるシュート。

 予測がはずれたのは次の瞬間だ。

 弓削山がアウトコースのシュートを三遊間に流し打った。

 クリーンヒット。

 アキラは一之倉を見た。

「な? なんで? 弓削ちゃんはアウトコースが得意なの?」

「弓削山がインコースを打つかまえで待ったのは内角が苦手だからだ。アウトコースならいつでも打てる。かまえる必要はない。そういう話だな。弓削山は中学時代五割を切ったことがない好打者だ。県下一のくせ者バッターだよ」

「ど。どうしてそんなことを知ってるの一之倉先輩?」

「解説はもどってからだな。お前の番だぞ凪野。バントで弓削山を二塁に送って来いよ」

 アキラは一之倉に背中を押された。

 アナウンスがアキラを紹介する。

「紅組二番。ピッチャー凪野アキラくーん。右投げ右打ち。脅威の剛速球投手でーす。野球部をぜひ作りましょう。そうすればわが男樹高校も甲子園に行けるかも。みなさーん凪野アキラ。凪野アキラを応援しましょう。わが校期待の凪野アキラ。ちなみにぼくは白組に賭けちゃいました。あーん。ぼくの千円返せぇ。せめて引きわけに持ちこめ白組ぃ。そしたら賭け金は返って来るぅ」

 観客たちがどっと湧く。

 賛同者がおおぜいいた。

 歓声を聞くかぎりでは約八割が白組に賭けている模様だ。

 アキラは右打者。

 外角に落ちるカーブにバットを合わせた。

 草津のカーブは落差が大きい。

 エースで四番は伊達じゃないらしい。

 かろうじてバントに成功した。

 弓削山を二塁に進める。

 ワンアウト二塁。

 三番バッター園多ハジメ。

「紅組三番。セカンド園多ハジメくーん。バスケ部の園多三兄弟の長男でーす。野球は素人。当ったるかなぁ? 当ったらないかなぁ?」

 放送の間にハジメが初球に手を出した。

 セカンドゴロ。

 ランナーの弓削山は三塁に進む。

 けどツーアウト。

 崎守が打席に入る。

 とつぜん放送部が本気の実況に切り替えた。

 崎守の雰囲気がそうさせるらしい。

「紅組四番。センター崎守弥之助くん。右投げ左打ち。いやあ。身体だけ見ればガンガン飛ばしそうな四番です。一年でこれですから三年になればすごいでしょうねえ。ホームランを量産すれば高卒即プロで大活躍も期待できます。ひさびさに現われた大器。ゴジラ松井の再来を思わせる豪快な一年生です」

 しかしその崎守。

 自身の言葉どおり草津のひょろひょろカーブを力なく三振。

 観客もプレイヤーも全員ががっくり。

 ここまで期待はずれな四番もめずらしい。

 二回の表。

 打者は四番の草津から。

「白組四番。ピッチャー草津正義くーん。三年一組。右投げ右打ち。腐った正義と呼ばれるほど性格の悪ーいピッチャーでーす。投げる球は曲がる曲がる。変化球だけなら県下一。二年前の県大会では通算七回を無失点で乗り切ったリリーフエースでーす」

 草津が気合い充分で打席に入った。

 しかし肩に力がもりもりで三振。

 ピッチャーとしての草津は評価できる。

 けど打者としてはだめらしい。

 つづく五番は星見。

「白組五番。野球同好会レフト星見要くーん。一年五組。右投げ右打ち。東京からわざわざこの田舎町に来た男。東京でまずいことがあったとしか思えませーん。女性関係のトラブルかぁ。はたまた借金かぁ。みなさーん見た目にだまされないようにぃ。真面目そうな星見くんはきっと悪いやつでーす。女にもてそうな男をぼくはきらいですからぁ」

 アキラの心臓のドキドキが激しくなる。

 まさか星見に受けてもらう前に対戦する羽目になるとは。

 ただでさえあやういコントロールがますますぶれた。

 フォアボール。

 星見は一度もバットをふることなく一塁に歩く。

「白組六番。野球同好会ライト右天内和史うてないかずしくーん。二年四組。右投げ右打ち。その名のとおり打てませーん。紅白試合でもヒットなし。無安打記録を更新しつづける無敵のバッターでーす。ただーし。送りバントを決めさせたら県下一。中学時代愛美あいび学院からスカウトが来たのはこの男だーけ。県下随一の送りバントの名手でーす。ここはバントを決められるでしょうかぁ?」

 右天内は通常のかまえで右打席に立った。

 バントのかまえではない。

 サインは内角高め。

 バントに来たらフライにさせようという配球だ。

 この場面ではセオリーどおりと言える。

 バッターサイドから見れば四球のあとの初球を叩く。

 そんなセオリーもある。

 その場合にも内角高めのストレートは有効だ。

 アキラは一塁ランナーを目でけんせいして打者に投げた。

 右天内のバットがさし出される。

 キンと硬球が金属バットに当たった。

 球はピッチャーのまっ正面。

 軽くグラブで捕球した。

 一之倉の声が聞こえる。

「セカンド!」

 アキラはふり返り二塁に送球した。

 受けたショートの弓削山が二塁ベースを踏む。

 ジャンピングスローで一塁に投げる。

 あっと言う間のダブルプレーだ。

 スリーアウト。

 チェンジ。

 一塁を駆け抜けた右天内が右手をしきりにふっている。

 バントで手がしびれたらしい。

 観客が拍手をアキラに送る。

 一之倉がアキラをむかえた。

「ラッキーだったな凪野。右天内はおれが投げられないのを忘れてたらしい。キャッチャー前に転がせばワンアウト一塁二塁だったのに」

 うしろから追いついた崎守が一之倉に声をかける。

「いいや。そいつはちがうぜ先輩よ。右天内先輩はキャッチャー前に転がそうとしたんだ。けどアキラの球が速すぎて勢いを殺せなかった。サードに取らせてもいい。ファーストに取らせても内野安打になってたはずだ。だがピッチャー前にしか飛ばせなかった。アキラの球の威力勝ちだぜ」

「ふむ。たしかにそうかも」

 一之倉も左手をふった。

 アキラの球を受ける左手がジンジンしている。

 いまのところアキラの球をバットに当てることができたのは右天内だけだ。

 県下一のバントの名手は嘘ではないらしい。

 二回の裏。

 紅組五番の園多ツグトが三振。

 右投げ右打ちの六番一之倉がスライダーを流し打ってヒット。

 しかしつづく七番八番が倒れて無得点。

 草津も好投だ。

 三回四回五回と回が進む。

 だが紅組も白組も点が入らない。

 紅組のヒットは一番の弓削山と六番の一之倉だけ。

 白組はヒットなし。

 星見が二回フォアボールで出た。

 けど右天内が二度とも送りバントを失敗しダブルプレイ。

 六回の表。

 白組先頭の七番が三振に倒れた。

 アキラの球はサッカー部に打てる球ではない。

 この回も三者凡退に終わるだろう。

 そう誰もが予想した。

 予想を裏切ったのは紅組センターの崎守だ。

 とつぜん崎守がマウンドをとおりすぎてホームベースまで走る。

 なにをするつもりだ?

 そう見ている者たちがあっけに取られた。

 崎守が金属バットを拾う。

 左打席に立つ。

 白組の八番打者を突き飛ばす。

 バットをかまえた。

 宣言をする。

「代打! 崎守弥之助! さあ来いアキラ!」

 白組主将の草津が顔色を変えた。

 崎守に食ってかかる。

「なにを考えてんだ一年坊主! お前は紅組だろ! どういうつもりで白組の代打だよ! そもそも勝手に決めんなよな!」

 もっともな怒りだとアキラはマウンドでうなずく。

 崎守が草津を見おろした。

「だっておもしろくねえだろよ。こんなつまらねえ試合じゃ見てる連中がかわいそうだ。このまま両軍無得点で引きわけに終わらせるつもりか? そんなくだらねえのはまっぴらだぜ。そこでおれだ。おれさまがこの試合に決着をつけてやる。アキラからホームランをかっ飛ばしてやるぜ。おれを代打に出せキャプテン」

 草津が一瞬ぼうぜんとした。

 次に大笑いをはじめる。

「わっはっはっ。バカな。なにをほざくんだよおれさま野郎? お前はおれの球も打てないじゃないか。そんなやつが凪野の球を打てる? 冗談だろ? 認めるのはしゃくだがあの一年坊主の球。ろくでもない球だぞ? 毎日ピッチングマシンの最高速を打ちこんでなきゃとうてい無理だ。お前に打てるはずがないだろ。やめとけやめとけ」

 崎守が草津の肩に手を乗せた。

「まあまあキャプテン。そこをなんとか」

 崎守が草津の肩をつかむ。

 思い切り。

 草津が悲鳴をあげた。

「いたたっ! やめろこのバカ! わかった。わかったから手を放せ」

 崎守が手を放す。

 草津が主審に代打を告げる。

 崎守がかまえた。

 観客も放送部もあぜん。

 アキラは弓削山をふり向く。

 弓削山が肩をすくめた。

 口だけが動く。

 投げてやってよ凪ちゃんと。

 次にアキラは捕手の一之倉を見た。

 真剣な顔をしている。

 糸のような目が開いていた。

 一之倉がサインを出す。

 初球はアウトコースのボール球。

 アキラはうなずく。

 投げた。

 運よくサインどおりに行った。

 ワンボール。

 二球目は内角低めのボール球。

 これもコントロールよく決まった。

 ツーボール。

 そのとき崎守がタイムをかけた。

「おいおい一之倉先輩。妙な駆け引きはやめてくれよ。アキラにインコース高めのストレートを投げさせろ。渾身の一球を来いと。駆け引きはむだだ。力と力の勝負がしてえ。アキラのコントロールじゃ要求どおりのコースには来ねえ。多少のボール球でもおれは打つ。センターの金網を越えさせてやるぜ」

「ふむ」

 一之倉が観客を見た。

 代打崎守は意表をつく展開だ。

 誰ひとり予想しなかったにちがいない。

 しかし全員がかたずを飲んで見守っている。

 片や剛球投手。

 片やホームランを量産しそうな大柄打者。

 本日最大の山場と言っても過言ではない。

 草津対アキラでこの緊迫感は出ない。

 一之倉がマウンドのアキラに駆け寄る。

 崎守の要求を伝えた。

 アキラはうなずく。

 弓削山にもたのまれた。

 アキラ自身の願望もある。

 渾身の球を投げてみたい。

 男相手に自分の全力がどれだけ通用するか試したい。

「けど一之倉先輩。崎守って打てるの? 草津キャプテンの球は全部三振だったよ?」

「崎守をなめるな凪野。あいつは県下一のホームランバッターだ。ただ難点がひとつある。ひねくれ者なんだ。自分の気にくわない球は打たない。その代わり燃えたときはことごとくホームランにしてる。崎守はお前の球が気に入ったらしいぞ」

 アキラは再度うなずく。

「うん。わかった。渾身の一球だね?」

「ああ。ランナーはいない。ふり逃げもないからズバッと来い」

 打ち合わせは終わった。

 アキラはふりかぶる。

 全身の神経を右指の先に集めた。

 左足があがる。

 右手を引き絞った。

 ひじから指先に体重を移動させる。

 人さし指と中指でボールを切った。

 渾身の球がホームベースに走る。

 カキーン! 

 快音を残してボールがセンターに消えた。

 打った崎守の身体の芯がずれてない。

 ふり抜いた姿勢で余韻を楽しんでいる。

 打撃音と崎守のぶれのなさにアキラは悟る。

 渾身の一球をホームランにされたと。

 ふり向くまでもない。

 ボールが離れたとき会心の指ざわりだった。

 打たれた瞬間の音と球の角度。

 最悪だった。

 負けたとアキラは思った。

 しかし崎守は走らない。

 ふたたびバッターボックスでかまえた。

「もう一球来いアキラ」

「えっ? も。もう一球?」

 ホームランを打った打者からもう一球と要求された経験はアキラにない。

 弓削山がマウンドに寄って来た。

「投げてやって凪ちゃん。ああなったら得心の行くまであきらめないわ」

「わかった」

 アキラは気を取り直す。

 深呼吸をした。

 ホームランを打たれたからといって試合が終わるわけではない。

 実際の試合ではこういう場面は何度も来る。

 打たれたあといかにおさえるか。

 それもピッチャーの心得だ。

 アキラは投げた。

 十球。

 そのすべてを崎守がホームランに変えた。

 観客も放送部も声をなくしたままだ。

 プレイ中のナインも口が開きっぱなし。

 アキラと崎守のふたりだけの世界だ。

 誰も口出しできない。

 やっと崎守がバットを置いた。

 アキラはホッとした。

 それもつかの間。

 次は弓削山がホームに走る。

「ごめんねえ凪ちゃん。あたしも凪ちゃんの球を打ちたいのぉ。ちょっくら投げてよぉ」

「ええい。こうなりゃやけだ! 誰にだって投げてやる!」

 アキラは投げた。

 またホームランにされるだろうと。

 しかし弓削山は空ぶりばかり。

 弓削山は草津の球を三安打したのに?

 弓削山も打席で首をかしげている。

 どうしてバットに当たらないんだろうと。

 弓削山が空ぶりを五球つづけた。

 一之倉が立つ。

「弓削山銀乃丞。三振。バッターアウト」

「ええっ? なんでよぉ?」

 詰め寄る弓削山を一之倉がいなす。

 一之倉が防具をはずしはじめた。

「次はおれが打つからだ」

 弓削山がけげんな顔を一之倉に向ける。

「あのさ先輩。先輩がキャッチャーをやめたら誰がキャッチャーをやるのよ?」

 一之倉が星見に目を流す。

「弓削山。お前キャッチャーがいなくなってあわてたとき星見を見たよな? あの星見って一年坊主キャッチャーじゃないのか? 返球の仕方がキャッチャー投げだったぞ? グローブも使い慣れてない。なにより目の使い方が野手じゃない。各打者を値踏みするように観察してやがった。敵も味方もだ。そんな妙な観察をするのは捕手だけだ。ちがうか?」

「ふうん。なかなかするどいわね。じゃあたしもひとつ。先輩のそのひじ。野球ひじでしょ? 小学校中学校と変化球を投げすぎた。それでひじが変形した。元投手よね先輩?」

 一之倉がひと呼吸置いた。

「ああ。エースで四番だった。おれはボールを投げるのはもうできない。けど凪野の球が打てたら」

「代打は可能ってわけね。了解」

 弓削山が星見に走る。

 弓削山が星見の前に立つ。

「星見くーん。キャッチャーをやって」

 星見が眉を寄せた。

「なんでおれが?」

「あんた元捕手よね? 一之倉先輩が凪ちゃんの球を打ちたいんだって。おねがい。取ってあげて。このとおり」

 弓削山が手を合わせた。

「だめだ。おれはもう捕手はやらない。やりたくないんだ。それにキャッチャーなんかいらないだろ。あのピッチャー。球は速いけどノーコンだ。金網にぶつけりゃいいじゃないか」

 弓削山が一計を案じた。

 観客に顔を向ける。

 大声で叫んだ。

「うわーん! 借金王の星見くんがあたしの借金を踏み倒すぅ! こないだ購買でパンを買うからって千円貸したのにぃ! 返してくれないんならカツアゲよぉ! 恐喝だわぁ! 詐欺よぉ! ペテンだわぁ! みなさーんこの星見要は鬼畜でーす! こんな男は男樹高校の恥よぉ!」

 星見が目を白黒させた。

 なおも叫びつづけようとする弓削山の口を押さえる。

「なんてことを叫ぶんだこのオカマ。おれがいつ借金を踏み倒した? そもそもおれはお前にカネなんか借りてないぞ?」

 弓削山が観客に目を流す。

「あーら。お客さんたちはそんなこと信じてない目よ。どう? 捕手をやってくれるかしら? いやなら誤解はそのままね。一年五組の星見要くんは東京で借金を踏み倒して男樹高校でも借金まみれ。そんな噂をふりまいてあげるわ」

「な。なんて卑劣なオカマだ。男の風上にも置けないやつ」

「だってオカマだもん。高校卒業したら女になる予定なの。その際はよろしくね」

「どうよろしくなんだ?」

「もちキャッチャーよ。あんたがキャッチャーをやるのをみんな待ってるの。さあ。さっさと防具をつけるのよ。つけてつけて」

 弓削山が星見の思惑に関係なく防具をつけさせる。

 次に声を張りあげた。

「観客のみなさーん。みなさま方のご協力のおかげで星見くんが借金を返してくれるそうでーす。ご協力まことに感謝いたしまーす。ついでに言っときますとぉ。星見くんにはカネを貸さないようにぃ。返って来る保証はとても薄いでーす」

 笑いを取って弓削山が場をしめた。

 星見だけがふきげんだ。

 ブスッとした顔ですわる。

 アキラに催促をした。

「こら凪野。さっさと投げろ」

 一之倉が右打席でかまえる。

 経過がどうあれアキラは胸がいっぱいだ。

 ついに星見に受けてもらえる。

 サインはなし。

 星見がドまん中にミットをすえた。

 ストレートを来い。

 そういう意図だろう。

 アキラは投げた。

 ドまん中の高めに球が浮く。

 一之倉のバットが空を切る。

 ボールのはるか下をバットが通過した。

 審判は目を丸くするだけ。

 星見が声を出した。

「ワンストライク」

 星見のミットが下に移動する。

 ドまん中低め。

 アキラは投げた。

 渾身の力をこめて。

 球が浮く。

 初球より浮きあがった。

 星見が頭の上でキャッチした。

 なにごともなかった顔で星見がボールをアキラに返す。

「ワンストライク。ワンボール」

 アキラは不思議だ。

 あの高めに伸びるボールを捕れたキャッチャーはまだいない。

 キャッチャーは低めを要求する。

 アキラは低めに投げた。

 そのつもりだ。

 しかしボールは高めに浮く。

 打者の胸元に食いこむように。

 中学最後になったソフトボール大会のラストの球もそうだった。

 キャッチャーはひざ下に沈むストレートを予測してミットをかまえている。

 そこから頭上を越える伸びたストレートが走って来る。

 ミットを上にあげる時間がない。

 たいていはパスボールだ。

 そんな球をどうして星見は捕れるのだろう?

 星見がまたまん中低めにミットをかまえた。

 アキラは投げる。

 もはやアキラの目に映るのは星見だけ。

 星見の固定するミットだけ。

 バッターも観客も野手もない。

 恋人とふたりっきりで見つめ合うようミットだけを目に投げた。

 球はうなりをあげてミットに吸いこまれる。

 やはり高い。

 しかし今度は一之倉がふった。

 かすりもしない。

「ワンボール・ツーストライク」

 星見が淡々とボールを返す。

 次に星見のかまえるミットの位置が大きく変化をした。

 外角低めだ。

 ボールになるかならないかのきわどいコース。

 ふりかぶるアキラの指に迷いがよどむ。

 ストライクが入らないかもしれない。

 ボールが指を離れたときそんな思いがチラッと頭をよぎった。

 その瞬間。

 金属バットがするどい音を立てた。

 硬球をはじく快音がグラウンドにこだまする。

 球は怖ろしい速さで一塁線を抜けて行く。

 みごとな流し打ち。

 長打コースだ。

 一之倉もやはり走らない。

 星見がすわったまま次のボールを寄越す。

 今度のミットは内角低め。

 アキラはまた迷う。

 一之倉先輩にぶつけちゃいけないと。

 ひじの返しが微妙にずれた。

 また快音とともにボールが三遊間を抜ける。

 速球を引っ張られた。

 ヒットコースに飛んだのを確認して一之倉が星見に顔を向ける。

「いまどういうリードをした星見? どの球も球速は変わらなく見えたぞ? なのに内角と外角の二球は棒球だった。ドまん中の高めに来た二球は正直打てない。どうちがう? 同じストレートだろ?」

 センターがボールを星見に返した。

 星見が一之倉に答える。

「凪野はピッチャーとして完成してないんですよ先輩。確実にストライクになる球は安心して投げられる。けどストライクになるかならないかギリギリの球は自信が持てない。特に低めはワンバウンドが怖い。その不安が球のキレに現われる。身体に固さが出るんでしょうね。凪野の球の速さは身体の柔軟さに秘密がある。全身がリラックスした状態なら万全の球が来る。回転の乗ったとんでもない球がね。けど肩やひじに力が入りすぎると回転しない球になる。打者の手元で失速する打ちごろの球がね」

「なるほど。プレッシャーか。けど凪野はまだ一年だぞ? プレッシャーに負けるなってほうが酷じゃないか? お前はわざと凪野の弱点をさぐったみたいだが?」

「そのとおりです。投手の短所と長所をつかまなければ打者を打ち取れない。でもね先輩。公式戦で勝とうとすればプレッシャーに負けるわけには行かない。そうでしょ? この紅白戦は身内の遊びだ。プレッシャーなんてない。のびのび投げられる。しかし公式戦はちがう。相手も勝つために必死。マウンドにあがりゃ一年も三年もない。一年だからって対戦相手は手を抜いてくれませんよ」

 ううむと一之倉がうなる。

 星見は典型的なキャッチャーだ。

 投手をやりこめるすべを知っている。

 きっと投手をその気にさせるテクニックも持っているだろう。

 この点が投手と捕手の差だ。

 試合に勝つために捕手はとことんまで非情になれる。

 投手はつい流されてしまう。

 試合に勝つより目先の対戦相手に勝つことを優先するのが投手だ。

「皮肉なものだな。おれは凪野のドまん中の絶好球にかすりもしなかった。逆に通常は内野ゴロに詰まらされる内角と外角の球を簡単にはじき返せた。投手の精神状態だけでそれだけのちがいが出るのか?」

「出ますね。特にいま投げてる凪野は心の中がそのまま投球に反映するみたいだ。乗って来ればドまん中の球だってバットにかすりませんよ。凪野にはコントロールが必要です。けど精神的な安定のほうが不可欠だと思いますね」

「さすがによく見てるな。お前はやはりキャッチャーだ。それ以外のポジションは宝の持ちぐされだぞ?」

 星見が首を横にふった。

「おれはもうキャッチャーはいやですよ。これほどむくわれない立場もない。つらいだけだ」

 星見はふと思う。

 その凪野がどうしておれにだけ四球を連発した?

 おれには投げにくい理由があったのか?

 おれはホームランバッターというわけじゃない。

 過去にアンダースロー投手と対戦した記憶はないぞ?

 そのとき放送部がやっと理性を取りもどした。

 草津に問いかける。

「おーい。野球同好会キャプテン。試合はけっきょくどうなったんだよぉ? 没収試合かーい?」

 崎守が手をあげた。

「そのとおーり! 決着がつかず引きわけだぁ! 両投手の出来がよすぎたぜぇ! またの機会を期待してくれぇ! 本日はここまでぇ! 解散!」

 草津が顔をしかめた。

 マウンドをおりたアキラは草津の口を読む。

 一之倉と星見に声をかけた。

「勝手に解散させるなよおれさま。だってさ」

 あとかたづけがはじまった。

 引きわけのため紅白戦参加者全員で道具を始末する。

 弓削山が草津のユニフォームを引いた。

「ねえねえキャプテン。やっぱ部にしましょうよぉ。せっかく九人そろったんじゃない。もったいないわよぉ。剛速球の凪ちゃんと軟投型のキャプテンがいれば県大会突破も夢じゃないわ。甲子園に行ってみたいと思わないの? ねえねえキャプテンてばぁ?」

 草津が複雑な顔を見せた。

 甲子園には行きたい。

 でも野球部にはできない。

 そんな顔を。

 崎守が追い討ちをかける。

「そうだぜ。同好会と試合をしてくれる野球部は強くねえ。部にしなくちゃ。まして紅白戦ばかりじゃ歯ごたえがなくていけねえや。ここは断固として野球部にすべきだぜキャプテンよ」

 草津に代わって左池が口をはさむ。

 ハンサムな二年生の左池が。

「野球部にできない事情があるんだよ弓削山と崎守」

 弓削山が口をとがらせた。

「どんな事情? 男樹高校が不祥事を起こしたって話は聞いたことがないけど?」

 なおも話そうとする左池を草津が止める。

「おれが話す。おれが野球部のキャプテンだ。いまから二年前の秋。うちの野球部にイケメンでエースの四番がいた。花咲麗一主将だ。当時二年生。ところがこの人は女ぐせがひたすら悪かった。左池なんか目じゃないほど悪い。来る女こばまずで四股をかけてた」

「ヨツマタ? それで出場停止に?」

「いいや。ちがう。四股でおどろくのはまだ早い。そのあと五股になった」

「イツマタ! だから出場停止?」

「いや。まだまだだ。話はそんな簡単じゃない。最後に花咲キャプテンとくっついた女。若竹真由美って旭日高校の一年生だった。旭日はとなり町の普通科高校だ。公立で男女共学だな。偏差値はうちより高い。準進学校ってとこだ。その女が自殺をはかった。花咲キャプテンの五股を苦に」

「うーん。わかるわその気持ち。自分だけの男だと思ってたのに自分以外に四人も女を作ってたなんてさ。やってられないわよね」

「そ。そうなのか? 花咲キャプテンは最初からそういう男だとみんな知ってたぞ? それでも女ってそういう虫のいい考えをするものなのか?」

 弓削山が顔をまっ赤に染めた。

 怒っている。

「女が虫のいい考えをしなくてなにが女よ! だからあたしは女がきらいなの!」

 うーんとアキラはあきれる。

 弓削ちゃんって女になりたいけど女はきらいなんだと。

 草津が肩をすくめて話をつづけた。

 すでに全員が手を止めて話に聞き入っている。

「ま。若竹真由美は死なかった。死ななかったせいで学校も問題にしなかった。旭日高校も男樹高校もな」

「じゃ誰が問題にしたわけ?」

「オカマ。一々ちゃちゃを入れるなよ。それをこれから説明するんだからな。若竹真由美の知り合いに常盤虎丸ってのがいたんだ。当時中学三年生。東南海の虎とあだ名される暴れん坊だ。父親が県議会議長で地元の有力者。この虎丸が怒り狂った。おれたちは夏の県大会でベスト四まで行った。次の秋季大会は優勝だってんで練習に明け暮れてた。合宿を張ってな。そこに虎丸が乗りこんで来たんだ。おれはその場に居合わせた」

 草津がブルルと全身をふるわせた。

 五月の夕暮れだ。

 寒いってほどではない。

「で。どうなったわけ?」

「虎丸の父は県の建設族のボスなんだ。土建業界にとにかく顔が効く。虎丸はどこから都合をつけたのかダイナマイトを用意した」

「ダ。ダイナマイトぉ?」

「そうだ。ドカーンってやつだな。そいつを虎丸は花咲キャプテンの口に突っこんだ。次に導火線に火をつけた。花咲キャプテンは顔色まっ青。目は白目。口から泡を噴いてた。おれたちも動けない。中学三年生の虎丸がおれたち全員に条件を出した。死にたくなきゃ野球部を活動停止にしろと。三年間対外試合はなしにしろ。同好会としてなら活動を認めると」

「それでその条件を飲んだの?」

「あったり前だろ? ダイナマイトだぜダイナマイト。そんなもの口に突っこまれて火をつけられちゃたまんないぞ。おれはいまでも夜中にその夢を見る。汗びっしょりで目が覚める。生きててよかった。そうパジャマを着替える日々だ。あのときの虎丸の目は忘れられねえ。ありゃ虎というより狂犬の目だった。もしダイナマイトが爆発してたらだぞ。おれたちもだが虎丸自身も吹っ飛んでたんだからな。よくあんなむちゃをやりやがったもんだぜ。というわけでおれは虎丸が怖い。だから野球部はなし。野球同好会でいい。口にダイナマイトはいや」

「根性なし」

「好きなように言え。あの恐怖は味わったものでなきゃわかんねえ。導火線が目の前でパチパチと短くなって行くんだぞ? あとで聞いたら三十秒で燃え尽きるって話だ。おれは死の三十秒前まで行った男だぜ。それを考えりゃ野球部なんかいらない。どうせ県大会に出ても一回戦負けだ」

 アキラはふと気づいた。

 口をはさむ。

「あれ? 二年前はベスト四まで行った。そう言わなかったキャプテン?」

 草津がしぶい顔になった。

「しょうがない。白状しよう。ベスト四まで行ったのはくじ運だ。うちの県は田舎だろ? 夏の県大会の参加校は四十しかない。そのうち実力校は毎年四校前後だ。予選は四十校をABCDの四ブロックにわけてトーナメントを組む。一ブロック十校だな。運よく実力校四校が同一ブロックに入ってくれれば儲けもの。残りの三ブロックは練習もろくもしないスチャラカ校同士のつぶし合いで終始する。二年前がそうだった。それでベスト四まで勝ち残ったわけさ。そこから上は実力校が残ってるから勝てない。そいつがベスト四の真相だ。たまたまだっただけ。それが証拠にここ五年。連続で理想りそう学園が夏の甲子園に行ってる。超管理野球の実力校だ。理想学園は県下随一の進学校でもある」

 弓削山がうんうんとうなずく。

「なるほど。運さえよければそうなるのね?」

「ああ。四十校だとシードなんてほとんど意味がない。参加四十校のうち一回戦を戦うのは十六校だけ。残りの二十四校は二回戦から。つまり五連勝すれば甲子園に行ける。一回戦を戦っても六連勝だ。しかも四十校のうち三十六校はほとんど素人。四月からみっちり日暮れまで練習すれば勝てる相手ばかり」

「ラッキーじゃんさ。おいしい話だわ」

「そうとも言えない。実力校はケタのちがう力を持ってる。県大会ベスト四までは必死で練習すればたどり着ける。でもその上は無理だ。だから甲子園には行けない」

「どうして?」

「かける時間とカネと才能がちがう。今年の実力校は三校。理想学園。愛美学院。旭日高校。理想学園は管理野球。この十年で夏の甲子園に二回優勝してる。ド本命だな。理想学園の毛利もうり監督は甲子園最多勝の記録も持ってる。しかし毛利監督の命令を聞かない選手は即退部だそうだ。毛利独裁野球部と影では呼ばれてる。理想学園は連日夜の十時まで練習漬けだ。日本屈指のハードトレーニングだと聞いてる。次の愛美学院は準本命だ。カネにあかせて全国から有力選手をスカウトして来る成金校。今年の投手はハーフだって話だぜ。旭日高校は穴馬ってとこだな。豪腕投手の常盤虎丸が投げて打つワンマンチームだ。百五十キロを越えるストレートで三振の山を築く。プロのスカウトがすでに日参してるって話だ。才能から行くと虎丸が抜群だな」

「でもその虎丸をおさえて理想学園が五年連続甲子園に行ってるわけでしょ?」

「そう。理想学園はとにかくそつがない。穴のない野球だ。打てなくてもフォアボールやエラーを足がかりに得点して来る。いやらしーい野球だぞ」

「キャプテンみたいね」

「なんか言ったか?」

「いえいえ。なにも。でもさ。それってプロ級のピッチャーが投げても理想学園には勝てない。そういうことなのキャプテン?」

「でもないと思うな。理想学園も旭日高校に毎回苦戦してる。どれだけ鍛えてもやはり高校生だ。虎丸の球を打ち崩すのはむずかしい。けどな。旭日高校は虎丸以外たいしたことがないんだ。虎丸のワンマンチームだから。そもそも旭日高校は普通科高校だ。虎丸入学以前は一回戦負けの弱小校でな。一番近い高校だからおれたちもよく練習試合をやった。うちは旭日に一度も負けなかった。いつもコールド勝ちだった。そのくらい弱かったぞ。ピッチャーひとりがプロ級でも野球は勝てないって話じゃないか? 内外野が足を引っ張れば勝てないだろう」

「なるほど。けどねキャプテン。その花咲ってキャプテンは卒業したんでしょ?」

「ああ。今年の春につつがなく卒業した。いまは名古屋でホストをしてるって聞いてる」

「じゃあね。うちがいま対外試合を自粛してるのはさ。すでに卒業した花咲キャプテンのせいなわけよね? 卒業した人の悪行でまだ自粛中ってのは釈然としないわ。どうして抗議をしないわけ? そんなに虎丸が怖いの?」

 草津が口をつぐむ。

 怖いらしい。

 口にダイナマイトを押しこまれるのが。

 弓削山が他の二年生を見た。

「右天内先輩。二村先輩。左池先輩。三笠先輩。先輩たちはどうなの? 二年前の秋なら先輩たちはまだ入学前でしょ? 自分たちに関係のない話で県大会に出られないのよ? 腹が立たないの?」

 四先輩が顔を見合わせた。

 左池が代表して口を開く。

「納得できない。それはたしかだ。けど虎丸の親父ってのが県の有力者でさ。弓削山はよそから来てるからわからないだろうがな。おれたち地元の者はその親父に逆らいたくないんだ。三笠の親は漫画家だからいい。でもおれたちの親は建設関係でさ。たいてい虎丸の親父の息がかかってるんだ。だから虎丸を刺激したくない。虎丸の親父の逆鱗にふれたら一家離散だからな」

「うーん。そんな事情なのぉ。そいつはちょっとまいったわねえ。でも来年の秋まで活動停止ならさ。解禁されても先輩たちの高校野球は終わっちゃってるわよ?」

「仕方ないだろ。それにどうしてもってほどの実力じゃないし」

 弓削山が野球同好会の先輩たちの顔ぶれをながめる。

 草津も入れて五人。

 守備も打撃もそこそこだ。

 飛び抜けているほどではない。

 県大会の三回戦まで進めたらおんのじ。

 そのていどの実力だろう。

 かたづけが終わった。

 男樹寮入寮者と地元からかよっている者とにわかれる。

 野球同好会の先輩五人は地元組だ。

 捕手として飛び入り参加した一之倉も地元組。

 星見・弓削山・崎守・サッカー部・バスケ部・それにアキラが寮に向かう。

 男樹寮は学校の敷地の外に建っていた。

 二階建てのアパートみたいな作りだ。

 寮に入るとメガネをかけたスーツ姿の女がアキラたちをむかえた。

 二十五歳くらいの女だ。

「おかえりみんな。きょうの晩ご飯はコロッケだそうよ」

 うげえという顔を園多三兄弟が見せた。

 コロッケには飽きているらしい。

 次に女がアキラに顔を向ける。

「あなた。一年生の凪野アキラくんね? 話は教頭から聞いてるわ。わたしは紫東桜子しとうさくらこ。美術教師でこの寮の寮長です。あなたの部屋は園多ミツルくんと同室でいい?」

 アキラは星見をチラッとうかがう。

 どうせ男と同室になるなら弓削山か星見がいい。

 けど星見と同室になると女だとバレるかも。

「ボク弓削山くんと同室がいい。きょうすっかり意気投合したからうまくやれると思う」

 おおと園多三兄弟が声を洩らした。

 先生からそう聞かれても先輩と相部屋を断る新入生がいないせいだ。

 たいてい先生の指示どおり先輩と後輩が同室に収まるのが常だった。

 桜子が弓削山を見る。

 それでいいかと。

 弓削山が答えた。

「あたしはいや。ねえ桜子先生。あたしたち一年生三人はきょう野球同好会に入部したの。それでさ。早朝トレーニングをしたいのね。だからあたし弥之助と同室にしてくれない? 野手同士コンビネーションプレイの打ち合わせもあるしさ。凪ちゃんは星見くんと同室がいいと思う。凪ちゃんってイビキがすごいのよ。星見くんそういうの気にしそうにないから」

 星見と園多ミツルがそろっていやーな顔をした。

 イビキがうるさい男と同室はいやだ。

 そんな顔を。

 アキラは弓削山に抗議をしかけた。

 ボクはイビキなんかかかないぞと。

 弓削山がアキラの口を手でふたする。

 桜子がこめかみに指を当てた。

「イビキがすごいの? 人は見かけによらないわね。可愛い顔してるのに。そうね。わたしも高校時代に監督をやってたわ。部活動っていろいろと打ち合わせがあるのよねえ。じゃ弓削山くんの言う部屋割りで行きましょうか?」

 桜子が星見に顔を向ける。

 それでいいかと。

 星見は反対しようと口をあけかけた。

 その星見の尻をミツルがつねる。

 ミツルが星見の耳にささやく。

「おれはイビキ野郎はいやだ。お前が引き受けろ一年生。でないと寮生全員でいやがらせをするぞ」

 星見が仕方なくうなずく。

 桜子もうなずく。

「よし決まった。じゃ凪野くんは星見くんの部屋よ。いま星見くんと同室のバスケ部主将は園多ミツルくんの部屋に移ってね。弓削山くんは崎守くんの部屋に。園多ハジメくんと園多ツグトくんが同室ね。これで部屋割り完了。凪野くんの荷物はすでに届いてるから寮長室まで取りに来てね。わからない点があったらわたしか同室の星見くんに教えてもらって。じゃ凪野くんついて来て。荷物をわたすわ」

 桜子が寮長室にアキラを連れて行く。

 アキラは荷物を手に寮長室を出た。

 星見が待っている。

 アキラの荷物を半分持った。

「部屋はこっちだ。ついて来い凪野」

 アキラは弁解をする。

「ボク。イビキはかかないよ。あれは弓削ちゃんの嘘だ。そもそも弓削ちゃんとはきょう会ったばかりなんだ。いっしょに夜をすごしたことはないよ」

 星見が足を止めた。

「嘘? どうして弓削山は嘘なんかついたんだ?」

「さあ?」

 アキラはとぼける。

 心臓のドキドキがどんどん速まって行く。

 弓削山が気をきかせてくれたんだと悟った。

 けどそれってとアキラは思う。

 女だとバレる危険もある。

 でも星見と今夜ふたりっきりだと気づく。

 男とふたりっきりでひと部屋ってどうなの?

 そう思うと心臓がのどから飛び出しそう。

 星見がまた足を動かす。

「まあいいか。あのオカマの行動はむちゃくちゃだ。意味なんかないんだろう。弓削山は打撃も守備もいい。だが性格は最悪だな」

「そ。そんなことないよ。弓削ちゃんはいいやつだ。オカマだけど」

「凪野。お前もそのか?」

「そのケ? オカマってこと? ううん。ボクはオカマじゃない」

 星見がホッと息を吐いた。

 星見は寝つきがいい。

 イビキをかく上に襲われちゃたまらない。

 そんなため息だ。

 アキラは星見の部屋に入った。

 五号室だ。

 背の高いバスケ部主将が荷物をかたづけている。

 アキラは興味深く観察した。

 男の子の私物はアキラにはめずらしいものばかり。

 ふたつ並ぶ机の上にグラビア誌が山積み。

 片方の机にはベースボールマガジン。

 もうひとつの机にはエッチっぽい雑誌ばかり。

 主将がそのエッチ雑誌を手に取った。

 一冊をアキラに投げる。

「欲しそうだな一年生。やるよそれ」

「あ。ありがとう」

 アキラはパラパラとめくってみる。

 きわどい水着ばかり。

 しかも全員巨乳。

 アキラは横目で星見をうかがう。

 星見も巨乳好きなのかと。

 一方で星見はアキラが巨乳好きだと思ったらしい。

 安心した顔を見せた。

 弓削山の友だちなら男が好きでは。

 そううたがっていた顔だ。

 なるほどとアキラは認識をあらためた。

 男として生活をする。

 それは女の子が好きなふりをしなきゃならないんだなと。

 たまにはその手のエッチな雑誌を買って偽装することも必要らしい。

 バスケ部主将がふとんを背負って部屋を出た。

 ベッドは二段だ。

 主将は二段ベッドの上を使っていた。

 部屋のすみに新品のふとんセットがビニール袋詰めで置かれている。

 アキラのふとんだ。

 星見がタオルや下着をタンスから出す。

 風呂の用意をはじめた。

 風呂とトイレは共同だ。

 部屋にはついてない。

「おい凪野。お前ベッドは上がいい下がいい?」

「えっ? ボク? どっちでもいいよ」

 アキラは二段ベッドに寝た経験はない。

 家ではひとり部屋だった。

「じゃおれが上でもいいか?」

「うん。いいよ」

 星見が下段のふとんを上段に敷き直す。

 アキラは新品のふとんセットを下段に敷く。

 星見がシャンプーのボトルの立った洗面器を手にした。

「風呂は十時までだ。お前も適当に入れよ。じゃお先に」

 星見が出て行った。

 アキラはホッとする。

 いっしょに風呂に行こうぜ。

 そんな誘いをかけられなくて。

 しかしとアキラは不安に駆られた。

 ボクお風呂はどうすればいいんだろう?

 こっそり銭湯に行くべきか?

 ここは男子寮。

 風呂に入って来るのはみんな男。

 そういえば桜子先生はお風呂をどうしてるんだろう?

 桜子先生といっしょに入れないかな?

 そう考えてアキラは気づいた。

 桜子にだって女とバレちゃだめだと。

 ボクいったいどうしたらいいんだ?

 アキラは頭をかかえた。

 一気に落ちこむ。

 さっきあれだけ投球して風呂に入らなければ不潔きわまりない。

 星見にだって怪しまれる。

 星見に汗臭いって言われるのはいやだ。

 ああどうしよう?

 そのときドアがノットされた。

 コンコンと。

 ドアがあいた。

 弓削山だ。

 手には洗面器。

「凪ちゃんいる? お風呂行こ」

「えっ? ボクといっしょに?」

 いくらオカマでも弓削ちゃんといっしょでいいの?

 アキラは悩む。

 弓削山の身体は男だ。

 自分は女。

 お風呂は水着で入らないはず。

「弓削ちゃん。それってまずくない?」

「いいからいいから。さっさと用意をするのよ。ほらタオルと下着を出して。シャンプーはあたしのを貸したげる」

 不意に弓削山が声をひそめた。

「あんた。女の子用の下着じゃないでしょうね?」

「弓削ちゃんは女の子用の下着なの?」

「普段は男物よ。趣味で女物もつけるけど」

「ふうん。そうなんだ。ボクも男物だよ。主治医の先生が用意してくれた」

「それだと大丈夫ね。さ。用意して。行くわよ」

 アキラは強引に手を引かれた。

 風呂の外で湯あがりの星見とすれちがう。

 弓削山が星見の手をつかむ。

「いまお風呂に誰かいる?」

「いいや。誰もいない。いまならあいてるぞ。それがなにか?」

「ううん。すいてるお風呂に入りたいだけ。あたしみんなに避けられてるから」

「なるほど。けど凪野といっしょはいいのか?」

「凪ちゃんは人見知りするから」

「そうなのか。ま。弓削山が面倒を見てくれるなら手間がはぶけていい。凪野にこの寮のことも教えてやってくれな」

「ええ。まかせなさーい」

 弓削山が胸を叩いた。

 星見が自室に帰る。

 弓削山がアキラを風呂に押しこむ。

「さあ早く入りなさい凪ちゃん。あたしがここで見張っててあげるから」

「えっ? 弓削ちゃんもいっしょに入るんじゃないの?」

「あたしはいや。まだ男の身体だもの。こんな身体を女に見られたくない。ちゃんと女の身体になったらそのときいっしょに入りましょうね凪ちゃん」

 ううむとアキラは悩む。

 女の身体になったらいっしょに風呂に入る?

 それってさ。

 男の弓削ちゃんを知ってる以上。

 男だと思っちゃうんじゃない?

 身体が女になれば女と入ってる気になれるだろうか?

 アキラにはよくわからない。

 いっしょに入ってみなければ出ない答えだろう。

 けどとアキラは決めた。

 取りあえずお礼は言おうと。

「ありがとう弓削ちゃん」

「でも早くしてね。長湯はいやよ。ごまかし切れないと思うわ」

「わかった」

 アキラは手早く服を脱ぐ。

 タオルで隠して風呂場に入る。

 頭と身体を洗った。

 湯船につかる。

 そのとき外の騒ぎが聞こえて来た。

 弓削山と知らない男の声だ。

「きゃーっ! 男はいやーっ! あたしは女よぉ! 男とお風呂になんか入れなーい!」

「おいおい弓削山。きのうまでいっしょに入ってたぞ? どうしていまになって?」

「とつぜん女に目覚めたのよ。オカマってデリケートなの。思春期なのね。あたしいよいよ女の子になるの。だから男とお風呂に入れないわ。ごめんね。二十分だけ待って。二十分で入っちゃうから」

「そんなに待てるかよ。おれは陸上部なんだぞ。汗だくだ。いますぐ入りたい」

「あーら。いいのかしら? あたし男の子が好きなの。けど身体は男よ。裸の男に欲情しちゃうのよねえ。あたしとふたりっきりで裸のおつき合いがしたい。そうおっしゃるならねがってもないことだわ。それでお断りしたんだけど? あたしのお相手をしてくださるわけ?」

「ご。ごめん。そいつはとってもかんべんして。さよならぁ」

 男の声が遠ざかる。

 弓削山が追い討ちをかけた。

「ほかの人にもそう言っといてねえ。二十分間お風呂に来るなって。襲うわよぉって」

 湯船でアキラは弓削山に感謝した。

 持つべきものはオカマの友だと。

 アキラは手早く浴室を出る。

 服を着た。

 外に出る。

 弓削山の手をにぎった。

「ありがとう弓削ちゃん。すっごく助かった」

「どういたしまして。けど凪ちゃん。その胸。どうやって押さえてるの? ホントにぺったんこだけど?」

「ごめんね。貧乳で。これで地なの。制服のときはスポーツ用のサポーターをつけてる」

「なるほど。ま。お風呂はしばらくこの手で行きましょ。じゃあたし入るわね。星見にバレないように気をつけるのよ」

「う。うん」

「なんか不安そうな返事ねえ? バレそうなの?」

「そうじゃないよ。どうしていっしょの部屋になってくれなかったのさ弓削ちゃん? ボク星見といっしょの部屋で寝るんだよ? ドキドキして眠れないと思う」

「なんだ。そんな不安なの。それは女の子なら一度はとおる道よ。覚悟を決めれば大丈夫。見知らぬ男よりその気になりそうな男のほうがいいでしょ?」

「そ。そうかもしれないけど。やっぱり困るよぉ。どうして弓削ちゃんじゃだめなのさ?」

「あたしも身体はまだ男だもの。その気になったら困るでしょ? それともあたしならいいの凪ちゃんは?」

「微妙。弓削ちゃんがそうしたいって言ったら許すかも」

「あたしはいや。女とそんな関係になりたくない。だから凪ちゃんといっしょの部屋はいや」

「うーん。なんかふられたっぽい気がする」

「ま。バカ言ってないで部屋に帰って荷物の整理をなさい。女の子の必需品を星見の目からどうやって隠すか考えるのよ。月に一度は来るんでしょ?」

「なるほど。それもあるね」

「着替えとかもバレないようにしないとまずいわよ。慎重にね。じゃまた食堂で」


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