四話 その蓋は最初から開いている
アリシャとシンは洞窟まで辿り着いた。
アリシャはチラリとシンを見る。
(…ここに来るまでの間、いつもみたいなことは言わなかったな。カルロスも気にしてたっぽいから私がこっちに来たけど、やっぱり思い過ごしだよね)
シン以外誰もが思っていただろうが、シンの意見に異を唱えると彼は感情的に理路整然に主張する。
シンにとって気遣いであるそれに対して否定と指摘は彼の琴線に触れてしまうのだ。
誰かが少し我慢すれば険悪な空気は避けられる。
キキの殺害の真偽はどうあれ、トマスの傍にそんなシンを置くことは憚られた。
アリシャは心の中で「大丈夫だ」と言い聞かせる。
すると、シンが心配そうにアリシャの方を見た。
「心の準備はいいかい?」
アリシャは目をぱちぱちとさせて、くっと笑った。
そう。もともと、シンは仲間に気遣い、心配する性質なのだ。
「私に準備不足なんて辞書はないんだ。そっちこそ大丈夫?」
「頼もしい。私も勿論」
訓練期間に戻ったかのような絆を感じ、二人は洞窟へ入った。
「…これ、ミュウの歌?」
進めば進むほど、女性の歌声がしっかりと聴こえる。柔らかい響きが神秘的だが、異世界に迷い込んだような不安はぬぐえない。
そして、二人は目を点にする。
「どういうこと?〝イング〟はこの辺りが浸水しているって言ってたよね?」
強力なライトをつけた二人の前方には地肌があった。
凹凸や濡れていることもあって足場は悪いが、進めない場所などなかった。
アリシャの苛立ち混じりの言葉に、シンも不可解な事態に眉を寄せていた。
「晴天続きだったあの期間よりも今の方が浸水していておかしくないのにね」
道なりは想定通り悪く、息を切らしながらも、やがて二人はミュウを示す点滅まで辿り着いた。
目の前に広がる光景に、二人は言葉を失う。
広々とした空間は吹き抜けになっていて、雲間の日差しがここまで届いている。どうやら外はもう晴れているようだ。
草原と池のような水溜まりが点在し、広場の中央には原種のリンゴの木が一本立っている。
歌声は空気に散って消えていった。
安息の地を切り抜いたそこに、ミュウはいた。
ずぶ濡れで、小麦色の長い髪が彼女の身体に張り付いている。リンゴの木の傍で腹を抱えるような姿勢でしゃがみ込んでいた。
ミュウもやってきた二人に気が付く。怯えと警戒の混じった目つきだ。
アリシャが一歩だけ歩み寄り、声をかける。
「…ミュウ。何があったか話してもらえる?」
「トマスは、なんて言ったのかしら」
答える前に、ミュウは質問する。二人が敵なのか調べているみたいだ。
シンが答える。
「君がキキを殺したと言っていた。…まだ本部には報告していない。話しができるなら、君からも事情を聞きたいんだ」
トマスの言い分を聞いて、ミュウは目を見張った。なにかを守るように、ぐっと力を体に込める。
「私はキキを―――」
「待って。あれ、なに?」
ミュウの言葉を遮って、アリシャはある場所を指差した。
アリシャが怖がるように言うので、ミュウもシンも恐る恐る視線を送った。
澄んだ池の畔に、淵のぼやけた黒い立方体があった。
サッカーボールくらいの大きさだが、来た時に気が付かないほどの存在感ではない。
ミュウも、今まで気づかなかったのが不思議に思うくらいの異様な物体だった。
黒い立方体は箱のように上部が開いた。
「ミュウ‼上‼」
箱から何が出るのかと震えていたミュウだが、アリシャの叫び声につられて吹き抜けを見上げる。
いつの間にか黒い雲が溜まり、そのままミュウめがけて落ちてきた。
「ミュウ‼」
恐怖に動けなくなった彼女は黒い雲に沈み姿が見えなくなる。
アリシャがミュウのもとへ駆け出そうとした時、その腕をシンが掴んで止めた。
「なにかの毒ガスだったらどうする⁉君が行ってももう助からない‼一度引き返そう‼この島そのものがおかしいのなら、任期の前に島から脱出するべきかもしれない‼」
アリシャはシンの手を殴るくらいの勢いで振りほどいた。
予想していなかったアリシャの剛腕に、シンの手は簡単に離れた。
アリシャはまた、心の中にシンへの憎い感情が湧き出す。それはまるで、否応なく理性を奪う毒のようだった。
「女だから?感情的?我儘?いい加減にして。アンタの価値観はただの古臭いフェミサイドだよ‼」
駆け出そうとしたアリシャを止めるため、シンは後ろから羽交い絞めにした。
さすがに大男の羽交い絞めから抜け出すことはできず、アリシャは「ミュウを助けないと‼」と叫ぶことしかできなかった。
紳士的でないと分かっていても、アリシャを危険な場所に向かわせたくない一心でシンは離さなかった。
重く冷たい黒い雲。
ミュウは真っ暗な周囲に声も出せなかった。
黒い雲の正体が分からないのに、〝これ〟が自分を選んだことが分かった。
やがて、黒い雲はミュウを巻くように動き、そしてつむじ風が霧散するように消えた。
姿を見せたミュウに、シンがほっと力を抜いた。
その隙をつき、アリシャはシンを振り払ってミュウに駆け寄る。
「ミュウ‼大丈夫⁉体は⁉痛くない⁉」
座り込むミュウの隣に膝をつき、肩や背中をさすってやる。
アリシャの暖かい手を感じ、呆然としていたミュウはハッと正気に戻った。
「アリシャ…。だ、大丈夫。怪我はないわ」
「本当に?なんだったの、今の…。でも寒いよね。上着貸すから…」
アリシャが自身の上着を脱ごうとした時、後ろからシンに強く引っ張られた。
「ちょっと‼シン‼なにさ!」
アリシャはシンの手を殴り払う。シンは顔をしかめて手を離したが、厳しい目つきでミュウを見下ろした。
「今のはなに?あの黒い箱は?」
「し、知らない…私だってさっきアリシャに言われて…」
声も細く、その動揺はまるで嘘をついているように見えた。
シンは埒が明かないと箱の追求を諦める。特別ミュウに変わった所がないことを確認し、「一体潜水艇でなにがあったのか、話してもらおうか」と尋ねた。
彼の冷たい言い方にミュウは肩を震わせたが、懸命に話し始めた。
―――――――
シン、カルロス、アリシャが調査に出て行ってすぐだ。
ミュウは次の調査エリアの用意をしていた。
崖を登る予定だったので皮膚再生用の絆創膏を貰うため医務室に向かった。医療用品はキキが全て管理しているので、持ち出す時は彼女の許可が必要だ。
(あと、ちょっと診て欲しいのよね)
重々しくため息をつく。腹部の鈍痛と張りが日に増していた。気分も悪く、軽い吐き気と頭痛もある。
本調子まで回復したキキは、くるくるとした長い髪を指先でいじりながら、ミュウの容態を聞いてしかめっ面になる。
「…一体どうなっているんだろうね。経血は?」
「ないわ。ただの体調不良なら良いんだけど、痛みの位置が生理に似ているの」
診察台に腰かけるミュウは目を閉じて深く息を吐く。
キキはミュウの肩に手を置いて、優しく微笑む。
「今度はあたしが歌う番かね?音痴で良ければ、だけど」
「遠慮しとく」
冗談を交えて笑わせてくれるキキに、ミュウもふっと表情を和らげる。
今回心強いのはキキが復活していることだ。原因解明を求めて、ミュウは採血と採尿、脳波など、〝イング〟でできる範囲で検査をした。
検査結果を待っている間、ミュウは診察台で横になり、〝トネリコの森〟という民謡を口ずさんでいた。
やがて検査結果を持ってきたキキが戻って来た。ミュウは顔だけキキに向けて「やっぱり生理かしら」と尋ねる。
しかし、キキは肯定せず、静かに診察台の近くにある椅子に腰かけた。
「落ち着いて聞いてくれ。ミュウ。アンタ、妊娠九週目だ。着床のタイミングを考えると島に来る前になるけど、心当たりは?」
一瞬なにを言われているのか理解が追い付かなかったが、理解した直後、ミュウは身体を起こした。
「なんですって?そんな、生理が来るよりあり得ないじゃない。なにかの間違いでしょう?」
「落ち着いて。まず、時期として心当たりは?」
「…そりゃあ、生きて帰って来られるか未知の調査だもの。出航前に恋人とやることはやったけど」
「じゃあ、それだね」
キキは持っていた検査結果を見せることはなく、ミュウが錯乱しないように彼女の手を優しく握る。
「ミュウ」
「待って。おかしいわよ。どうして?絶対にありえない」
「分かってる」
「分からないわよ‼だって、だって本当におかしいじゃない‼出立前の検査で何も引っかからなかったのよ⁉〝MSS〟のシステムなのよ⁉停止したって、精度が落ちることはないはずなのに‼」
「ミュウ。ミュウ…」
キキがパニックになるミュウを抱きしめる。異常事態が予想を超えていると、キキも彼女を宥めながら思った。
「いいかい。ここには〝MSS〟がないんだ。だから、」
医務室の扉が開いた。
キキは扉に立っているトマスに少し驚いた。騒ぎが聞こえて立ち寄ったようだ。
「なんだ、トマスか。…丁度良い。皆にも相談しないといけないことだから、君にも」
「妊娠ってどういうことだ?」
トマスの張りつめた声にキキの言葉が消される。トマスは医務室に入って来て、キキの置いた検査結果に目を通した。
「本当に、妊娠している。しかも、これは――」
「トマス。混乱するのは分かるけど、あたしたちは冷静でいなくちゃ駄目だ。ミュウ、君はここにいなさい。すぐにカルロス達に連絡しよう」
キキがミュウから離れた途端、トマスがキキの腕を強く掴んだ。
「待ってくれ。あなたはコレをどうする気だ?」
トマスの言い方が気に障ったキキは少し敵意を込めた眼差しになる。
「人の命に向かってコレとはなんだ。どうするも何も、まずはミュウの身体を第一に考えるだけだ」
「それなら今すぐ堕胎させろ‼」
トマスの張りつめた声が医務室に響いた。ミュウはその声に固まり、キキも面食らった顔から、怒りと軽蔑の表情となる。
「なんてことを軽々しく。どういうつもりだ、トマス」
「どういうつもり?僕は君たちの〝ジーカリニフタ〟を受けたという主張は信じるよ。結局本部から虚偽の報告は来ていないんだ。間違いはないんだろう。でも、だとしたら異常はこの島にある。シンの様子もおかしいって分かるだろ?島のせいでできた子供なら産ませては駄目だ。ミュウのことを考えるなら、堕胎させなくては」
「まるでミュウの胎にいるのが怪物だとでも言いたげな顔だね。残念だけど、なんの変哲もない人間の胎児だよ」
「人間か怪物かなんて関係ない。軽々しい?君の方こそなんだ。古臭く無責任な考え方をするんだね。僕がおかしいと思うのなら今、本部にこのことを報告してみようよ。すぐに君に指示が出されるはずだ。〝それ〟は絶対に任務に支障が出る。早急に――」
トマスを黙らせるために、キキはハサミを手に取って彼に向けた。
暴力に訴えたキキに、トマスは言葉を失う。
「あたしの腕を離しな、トマス。いいかい。ここには〝MSS〟が無いんだ。価値の天秤をあたしたち人間が傾ける時は、死ぬほど考えて答えを出さなきゃいけない。例え、最後に決める答えがどれだけ簡単なものだったとしても」
キキの気迫に飲まれていたトマスだが、怒りに顔を歪ませ、ハサミを持つ彼女の手を抑え込む。
そのまま体当たりをして、キキを壁際に叩きつけた。拍子にトマスの手がサッと切れるも、気にせずキキの顔面を殴りつける。
「き、キキ‼」
目の前で起きた暴挙に、ミュウはハッと我に返って叫んだ。
床に倒れたキキを背に、トマスはハサミを持ってミュウに近づいた。
「死ぬほど考えなくてもわかる。ミュウ、僕は君を傷つけたくない。助けたいんだ。怖いよな、わけの分からないものが身体の中にいて」
トマスはゆっくり診察台に近づく。
恐怖で動けないミュウの膝に、トマス手が置かれた。
「もし、堕胎を罪に感じるなら、君は僕を恨んでいいよ。でも分かるだろ?僕らの任務は沈没都市の未来がかかっている。任務に支障を来す障害は全て罪だよ」
いっそ優しい声音で、トマスはミュウの膝を強く掴んだ。
喉が潰れたように声のでないミュウが目を閉じた時。
片目が開かないままキキがトマスを後ろから抱きつき、彼の足を払って床に引き倒した。
「逃げな‼ミュウ‼簡単に決めていいことじゃない‼大丈夫、なにを選んでもあたしがついてる‼
―――――逃げな‼」
最後の一喝でようやく体に力が入ったミュウは、装備の入ったリュックを手に取って診察台から医務室の扉に駆け出した。
医務室から一歩出た瞬間、キキから聞いたことのない呻き声が短く上がった。
ミュウはつい足を止めて振り返った。
トマスが体重をかけて、キキの首に深くハサミを刺していた。
息を荒げるトマスは震えながら体を起こし、ミュウの方へ振り向いた。
その光のない瞳と合った瞬間、ミュウは即座に手動で医務室のドアを電子施錠した。火事などで使われる施錠で、これなら手で開けることは叶わない。
ドン‼と扉が叩かれた。紙一重でトマスが迫っていたようだ。
ミュウは一度俯き、そしてそのまま〝イング〟から逃げたのだ。
―――――――ー
話が終わると、息苦しい沈黙が続いた。
「それで」
その沈黙はシンの凍った声音で破られた。
ミュウが返事をできずにいると、シンはもう一度「それで」と続けた。
「君の話しを本当だとしよう。いいよ。信じる。じゃあ妊娠も事実なんだよね?それで?君はその子供をどうするの?」
「どうって…」
言い淀むミュウに、アリシャが恐る恐る尋ねた。
「…トマスが怖かったから、逃げたんだよね?」
腹を抱えるようにするミュウに気が付き、アリシャはゾッと血の気が引いた。
「まさか、そんなよく分からないもの産もうだなんて考えてないよね⁉トマスが怖かったんでしょ⁉それなら潜水艇に戻ろうよ!本部からの処分が確定するまで、トマスは縛り付けておくからさ!」
アリシャからの追求にも答えられず、ミュウは俯いてしまった。
そんなミュウを説得しようとアリシャは一歩進み出たが、シンが阻んだ。
「アリシャ。ミュウは正気じゃない。説得は難しいよ。――ミュウ」
シンが進み出た。敵意の感じるその一歩に、ミュウは体を強張らせる。
「潜水艇に戻ろう。答えないならノーだと受け取る」
ミュウの返答によって、シンの次の行動が決まる。
是と答えれば乱暴にはされないだろう。
否と答えれば、シンが力づくで縛り、潜水艇へ連行されるだろう。
どちらであってもその後、堕胎させられることは変わらない。
ミュウは答えなかった。
シンはハァ、と失望したため息をついて装備からロープを取り出した。
「ちょ、ちょっと、ちょっと待ってよシン‼」
アリシャがシンの腕に抱きつき、動きを止めさせた。
「もとはトマスがキキを殺したから!拘束するならトマスでしょ⁉」
アリシャが全力でしがみつこうとも、シンは子供を見るような顔をしていた。
「分かってるよ。トマスだって許されない。でもねアリシャ、ミュウが逃げなければそこで終わっていた。トマスはミュウを殺そうなんてしてない。助けたいって言ったそうじゃないか」
「でも目の前で仲間を殺されたら私だって逃げたくなるよ!きっとトマスもおかしくなってたんだ。おかしいのはこの島だよ。だから!」
シンはやけに必死なアリシャの様子に違和感を覚えた。
「…ねえ、アリシャ。君も本当は何かあるの?」
シンの薄暗い視線、ミュウもまたアリシャに対して疑念の眼差しとなる。
アリシャは息を吸い損ね、動揺を見せたことに「あ…」と小さな声を漏らした。
すぐに取り繕うこともできなかった彼女をシンは確信を得て追い詰めていく。
「ああ、やっぱり。だからミュウを庇っているんだね?キキには生理が来るし、ミュウは妊娠して…。君は?君はなんだっていうの?」
「わ、私…なにも…」
「そういえば最近、休憩時間になるとカルロスか、キキの所に行ってたよね。キキはいないもの。カルロスに訊いてみようか」
「やめて‼」
アリシャはつい叫んでシンから咄嗟に離れた。
ミュウが宥めようと声をかけようとしたが、それを掻き消すようにまくし立てた。
「なにもしてない‼結局、なにもなかった‼カルロスにだってできないってはっきり言われて、それ以上私だって頼まなかった‼ちゃんとキキから薬を貰ったよ‼でもおさまらないの!どうしても、どうしても体が…‼」
意味を理解したシンは鬼のような形相でアリシャの頬を叩いた。
シンは一度だってその大きな体を怖く思わせなかった。しかし今の彼の行いに、ミュウは言葉を失い、叩かれたアリシャは自分の頬に手を当てて呆然としている。
「私のことをフェミサイドと言っておいて…汚らわしいな、君は…」
怒りに声を震わせて、シンは呟く。
「潜水艇に戻るよ、二人とも。全く…。君たちなんてこの島に来なければ良かったんだ」
胸の奥から腹まで貫く、冷たい槍のような言葉だった。
ふらついて地面に両膝をつけたアリシャを気にせず、シンはミュウにまた一歩近づいた。
ミュウの視界に揺らいだロープが入った。
一度、ミュウは俯き、その瞳を伏せる。
己の心に訊く。
―――〝それ〟はこの先、変わらない答えなのか。
ええ。私の身体は答えるわ。それでもずっと変わらないと。
「――――ッッい⁉」
シンは唐突に手に走った強烈な痛みにたじろいだ。
数歩下がり左手を右手で握る。はたはたと鮮血が落ちていた。
握っていたロープも綺麗に断絶されている。
視線の先、ミュウの頭上にはなにかが浮いていた。
紙飛行機の形をした、金細工のようなもの。
シンの左手を斬りつけ、ロープを断絶したその一つは地面に突き刺さっている。
ゆっくりと地面から矛先が抜かれ、ミュウのもとへ戻る。
そしてもう一度、その矛先はシンに向けられた。
「私は戻らない」
恐怖に俯き、声も細かった彼女はもういなかった。
明確な決定と敵意を示し、警告した。
「どうしても私を連れて行くのならその身体、穴だらけにするわよ」