第三章
結果から言うと、真希の期待通りになりそうだった。食堂のバルコニーで会話してから四日後の木曜日現在、隣室は腹立たしいことに非常に賑やかな状態である。栄と話した日とその翌日はまだ静かだったのだが、三日目になったらもう駄目だった。壁の向こうからはやいのやいのと言い騒ぐ声と、床を叩くような音が響いていて、とても安眠できる環境ではない。このままでは本当に第二ラウンド突入の展開になりそうだ。
勘弁してくれよと飲みかけていたビール缶を机の上に置いて天井を仰ぐ。時刻は既に二十三時を回っていて、そろそろ眠らないと明日の仕事に関わってくる時間だ。会社から帰宅してシャワーを浴びたらこの時間なのだから、自由も人権も有ったものではない。
そうとはいえ、このままでは苛立ちで眠れそうにないので、台所に置いていた煙草を手に取りベランダに出ることにした。生ぬるい風は火照った身体を冷やすどころか、更に汗を分泌させてきて、もうどこにも俺の安息の地はないのではないかという錯覚に陥りそうになる。いや、もう実際ないのかもしれない。あるとしたら、この煙を吸った先にある思考が麻痺した世界にだけだ。
ぼやけてきた視界のなかで、肺に入った空気を吐きだしていると、隣から窓を開く音が聞こえてきた。一瞬焦るが、まだ煙草が残っている。安くはないこの火を、このまま部屋に入って消してしまうのはあまりにもったいなかった。
「順一さん、ですよね?」
静かにしていればバレないだろう。なんて甘い考えは、隣から響いた声であっけなく破壊された。夜の闇に隠れるような控えめな声は、以前聞いた栄の声で間違いない。どうして気づいた?わざわざ話しかけるなんてことをしてきた? こいつは俺とどうなりたいんだ? さまざまな疑問と冷や汗が湧き出してくる。ただ、このままだんまりはさすがに良くないだろう。俺は動揺を悟られないように、わざとらしくベランダの柵に肘をついてから口を開いた。
「そうだけど。なんでわかった?」
「煙草の煙が見えました。順一さんも煙草吸うんですね」
少しだけ嬉しそうな声に頭を抱えたくなる。そういえば、俺が栄に出会ったきっかけも煙草の煙だったか。目の前を漂う煙を疎まし気に睨んでみるが、すぐに夜闇に溶けてしまった。
「煙草吸う奴なんて山ほどいるだろ。別に珍しいことでもない」
「確かに」
わざと突っぱねるような口調で言ってみたが、栄には全く堪えていないようだった。静かな笑みが聞こえた後、今度は間仕切りの向こう側から灰色の煙が流れてくる。
もう二度と会いたくないと思っていたが、ここで会ったのも何かの導きなのかもしれない。真希の望みに応える形になるのは癪だが、もう一度ぐらい文句を言ってやってもいいかと間仕切りの向こうを覗き込んで、再度、俺は息を呑むことになってしまった。
間仕切りの向こうにいた栄は、この前と同じようなタンクトップ一枚の薄着姿だったが、以前は安っぽい金髪に染められていた髪が、ぐっしょりと血で濡れていたのだ。
髪の隙間から垂れる赤い液体が、額から顎まで伝ってぽたぽたと床に落ちている。ホラー映画のワンシーンにしか見えない光景に、悲鳴を上げなかった自分を褒めたいぐらいだった。しかし本当に恐ろしいのは、それだけの大怪我をしているにも関わらず、何の問題もなく話を続けようとする栄の方だ。
「ずっと気になっていたんですけど、順一さんって東京の人じゃないですよね」
「は……。あ、うん、そう。秋田出身」
なんとか会話を成立させたが、意識は未だに流れ続ける血にしか向かない。何をしたらそんなことになるんだと聞いてみたかったが、答えを聞いたら後戻りができなくなる気がして、口にすることができなかった。そんな俺の葛藤なんて全く気にせず、栄は血みどろの顔を輝かせる。
「やっぱり。話し方の癖がそれっぽいなって思ってたんです。僕も秋田出身なんですよ」
その後、栄が口に出した町の名前に、俺はまた思考を止めることになった。あまりに聞き覚えのある響き。驚くべきことだが、俺とこいつは同郷だったらしい。
「へえ……俺もその辺に実家あるよ。あの二丁目のバス停あたり」
「ええ! 僕もその辺りです。小学校どこだったんですか?」
詳しく聞いてみれば、こいつは小・中と俺と同じ学校に通っていた後輩らしい。後輩と断言できたのは年齢を聞いたからで、今年で二十二歳の大学四年生だそうだ。大学はここの近所にある有名私立大学。専攻は心理学で、サークル活動はしていない。サークル未所属ということは、普通に学力で合格したのだろうが、俺の記憶が正しければ、あそこはかなり偏差値の高い学校だったはずだ。人は見かけによらないというのは案外真実なのかもしれない。
事実、栄の話し方はきちんと論理が通っている地頭がいい人間のものだった。その調子で地元の話や上京の苦労話を聞いていると共感が止まらず、思わず話を続けたくなってしまう。気が付けば、栄に対する恐怖はかなり薄れ、俺達は昔からの友人のように言葉を交わしていた。
そうして柔らかくなった空気が、凝り固まっていた言葉を溶かして顕現させるのに、そう時間はかからなかった。
「なあ、その怪我、手当てはしないのか?」
意図的に触れずにいた頭の傷を指差すと、栄は浮かべた笑みを絶やさないまま、三本目になっていた煙草を片手で掲げた。
「大丈夫ですよ。コレが痛み止め代わりになりますから」
いや若い子怖すぎる。喉元まで出かかった言葉をなんとか飲み込んで、俺は小さく息をついた。
「そうじゃなくて。まずは止血だろ。包帯とかないの?」
「部屋に帰ればあるんですけど……」
「じゃあ煙草なんてしてないですぐに取りに行け」
「それが、ちょっと追い出されてしまって。今は部屋に入れないんです」
発言の意味がわからず疑問符が浮かぶ。眉を下げて曖昧な表情を浮かべる栄は、都会の空に浮かぶ星明りよりも頼りなさげに見えた。
「入れないって。お前の家なのに、なんでそんなことになるんだよ」
「同居人の機嫌が悪くて。でも、少し待てば収まるんですよ」
なんだか不穏な言葉の響きに、胸がざわつくのを感じる。こいつに同居人がいることは、出会った時にも聞いたし、普段の騒音からも疑うこと無き真実だ。しかし、いくら気に食わないことがあるといっても、一緒に暮らしている人間、それも怪我人を追い出すなんて、随分身勝手な話である。
「それなら何でベランダなんかにいるんだ。部屋に入れないとしても外へ出て、なんなら病院にでも駆け込めばいいのに」
瞬間、栄の顔から表情が抜け落ちた。
突然の変貌にひゅっと喉が鳴る。先ほどまで困惑を浮かべていた瞳は、ぽっかりと穴が開いたように夜闇より深い黒に染まっていた。そこには一切の光がなく、一つの感情も読み取ることもできない。生の気配が消え失せた状態に無性に不安が込み上げてきた。
「……俺、まずいこと言ったか?」
「いえ。僕がぼーっとしてしまったみたいで。すみません」
「いや、それならいいんだけど」
居たたまれなくなって視線を逸らしながら口元だけで答える。そんなことをしていたから、うっかり聞き間違ってしまったのかもしれない。
「その、僕は外には出られないんです。この部屋から出ないっていうのが約束なので」
今までで最大級に意味の分からない内容が聞こえた気がした。
「……は? どういうこと? お前、部屋から出られないのか? 一歩たりとも?」
「はい。玄関扉は内側からも鍵が無いと開けられないようになっています。でも、ベランダだけはいいみたいで、だからここに来たんです」
それって軟禁……と思ったが、口に出すのは止めた。軽率な発言は怒りに触れるかもと思ったからだ。しかし同時にもう一つ疑問が湧く。部屋から出ない人間がどこでこんな大怪我をしたのだろう。アパートの一室では転げ落ちる階段もないというのに。
「なあ、その怪我どうしたんだよ」
その問いは、今まで封印されていたのが嘘のように自然に飛び出した。すると、栄は口元だけを持ち上げ、僅かに視線を落として呟いた。
「その……同居人と喧嘩して……」
「喧嘩? ……殴られたってことか?」
途端、伏せられていた顔が上げられ、張りつめた悲鳴が響いた。
「そういう言い方は止めてください! ……僕が悪いので」
固い響きが余韻となって夜の町に消える。隣からは未だに荒い息が聞こえてきて、見開かれた黒い瞳が細かく震えている。その反応が全てを語っているといって過言ではなかった。
さまざまな感情が一気に湧き出してきたが、最初に認識したのは、そんなこと現実にあるのかというものだった。軟禁も家庭内暴力も縁遠い人生を送ってきた身としては、ニュースかドラマの中のものとしか思えなかったのだが、今の栄はその状態そのものである。やんちゃの跡と思い込んでいた身体の痣や傷も、こうなってしまうと映り方が全く変わってしまった。
あまりに想定外で重いカミングアウトに、頭が真っ白になって動かなくなる。手元の煙草が燃え尽きたが、そんなこと意識の片隅にも浮かばなかった。
「と、とにかくあれだ。電話、電話しないと。なんだっけ、なんとかセンターってところ」
喫茶店とかトイレの中で見たことある気がする暴力被害者のための相談所。こんなことになるなら、もっときちんと見ておけばよかったなんて思うが、あの番号を覚える人間なんて、それこそ必要としている本人ぐらいだろう。部外者は覚えていなくて当然なのだ。しかし、今はわかりませんで済ませられる状態ではない。
本当に、この時代にインターネットが普及していてよかった。こんな何の手がかりもない状態でも、携帯さえあれば目的の番号にたどり着くことができる。俺は自室の窓に手をかけると、栄の同居人の耳に入らないように声を潜めた。
「相談所探して連絡してやる。警察も呼ぼう。部屋で連絡とってくるから、お前はそこでじっとしてろよ」
同居人が栄と俺が顔見知りであることを知っているかはわからないが、まさか今まで黙り込んでいた隣室から通報されるとは予想しないだろう。自分の安全も最低限は保証されるだろうと踏んでの判断だったのだが、部屋へと戻る俺の足を止めたのは、他でもない栄だった。
「や、止めてください……!」
僅かに震わされた夜の熱気が、鼓膜を通り越して心臓を揺らす。思わず間仕切りの方を見つめると、息が詰まるような懇願が響いてきた。
「順一さんが考えているほど酷い状態でもないんです。部屋の中では自由にさせてもらっていますし、食事に困ることもない。だから、僕のことは気にしなくて大丈夫です」
最後の大丈夫が嫌に鮮明に聞こえて、やはりこのままでは駄目だと脳が警鐘を鳴らす。俺は間仕切りの傍まで寄ると、ベランダ柵から僅かに身を乗り出した。
「そんな血みどろで大丈夫って言われても説得力の欠片もねえよ。この際、お前がどう思ってるかは関係ない。軟禁も暴力も犯罪なんだ。聞いた俺には警察に通報する義務がある」
「警察は駄目です!」
間仕切り越しにも関わらず、鋭く響いた声に身体が硬直するのを感じる。その間を見逃さずに栄は更に訴えを加速させた。
「警察だけは呼ばないでください。そんなことをされたら、きっと僕も順一さんも無事ではいられません。どんなに遠くまで逃げても必ず捕まります。その後どうなるかなんて、正直恐ろしすぎて考えたくもない」
首を振る栄の瞳が怯えと焦燥で揺れている。生ぬるい夜のなかで、なぜかその光景が鮮明に想像できた。
「心配して頂けているのは分かります。でも、順一さんに迷惑をかけたくないです。これは僕達二人の問題なので」
そこには、明確な拒絶が含まれているように聞きとれた。今までしつこいぐらい友好的な態度で接してきた栄の突然の変化に、俺は自分で考えていた以上に衝撃を受けたらしい。機能を失くしてしまった喉は、空気が漏れ出す音しか鳴らすことができず、口は酸欠の金魚のように開閉を繰り返すばかりだった。
「……すみません。僕が言い出したのに勝手ですよね」
極めつけに謝罪と諦めたような微笑までつけられたら、もう何も言えなくなる。現状のまま進めば、待つのはどう考えても消耗と破滅だけだというのに。彼に触れることすら罪だと言わんがばかリの状況はどういうことなのだろう。しかし、それを打破する方法があるわけでもないため、俺にできるのは黙って次の煙草に火をつけることだけだった。煙が溶けきるまでの時間なら、何をしなくてもこのベランダにいることが許される気がしたからだ。
無言の空間で、ちびちびと勿体ぶりながら吸う煙は全く美味しくなかった。見ると、間仕切りの向こうからも灰色のもやが漂ってきている。俺が仕事から逃避するために煙草を吸うように、栄も降りかかる痛みから逃れるために煙草を使っているのだろう。しかも、その本数は俺のものより明らかに多い。溶け合う二つの煙を眺めていると、少し呂律が甘い声が響いた。
「栄、ねえ、栄どこ?」
「ごめん業平。今行くから」
間仕切りの向こうを少し覗くと、栄は吸いかけていた煙草をベランダ柵で消すと、慌てて吸い殻を携帯灰皿に押し込んでいた。一瞬目が合って、黒い瞳が柔らかく細められる。
「順一さん。話聞いてくださってありがとうございます。また会えたら、その時も付き合ってもらえたら嬉しいです」
そう言って、小さく頭を下げると、栄は部屋の中へと戻っていった。同時に、どこに行ってたんだよ。業平が出ていけって言ったんだよ。そんなの知らない。とやり取りが聞こえてくる。
俺は言いようのない無力感に襲われながら、最後の煙を大きく吐き出すことしかできなかった。
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