第二章
月曜日、午前八時。始業時刻一時間前であり始業開始一時間後といえば、俺の会社が所謂ブラック寄りであることが伝わるのではないだろうか。もちろんブラックの定義は人によるし、二時間前出勤ぐらい朝飯前だという人もいるだろう。そういう人々がいるのは自由なのだが、頼むから自分の常識を他人に当てはめて、それぐらいして当然だと言い張るのは止めて欲しい。俺は始業時刻に出勤して定時に帰りたいのだ。
そんな苛立ちに任せてキーボードを連打していると、隣に座る同僚が、椅子ごと身体を傾けてきた。
「小野さん、昨日のシステムエラーの話聞きました?」
「いや、昨日は非番だったので何も。何かあったんですか?」
目を細めて話す同僚は、いつもはよく通る声を潜めており、内密に話を済ませたいのが丸わかりだった。そんな形で語られる内容がまともなはずがなく、朝から厄介案件かよと頭が痛くなる。ただし、仕事である以上聞かないわけにもいかないので、俺はしぶしぶ話を聞く体勢を作ってやった。
「昨日、スカイビルでビルの電源系統が全部落ちるシステムエラーがあったんですよ」
「またスカイビルですか。あそこ本当によく落ちますよね」
スカイビルはうちの会社が開発した管理システムを導入している隣町のビルだ。ビルといっても立派なものではなく、テナントの六割は空き状態で、いつ取り壊されてもおかしくないような経営状態なのだが、どういうことか俺が入職してから今まで潰れる気配なく存在し続けている。システムの使用料も遅滞なく払われているらしいから客としても文句はない。そんな潰れかけのビルだが、うちに務める人間のなかでスカイビルを知らない人間はいない。いや、管理職を除いたエンジニアに限定するなら、訪れたことのない人はいないレベルだった。
スカイビルのシステムは、とにかく、恐ろしいほどよく落ちるのだ。俺がメンテナンスに行った回数も両手では足りないほどだが、復旧して三日後には他の技術者が呼ばれていたなんていうことも珍しくない。この前、上の命令でスカイビル過去三年分のシステムエラーを纏めた資料を作らされたが、一般のビルで起こるエラーの三倍以上の件数が叩き出されていた。そんな状態にも関わらず、先方は文句ひとつ言わず金を払い続けているのだから、ありがたいのか恐ろしいのかよくわからない状態だった。
「もはやあそこは呪われてるようなものでしょう。いちいち相手していたらきりがないですよ」
「呪われてる、ですか。結構的を射てそうですよね」
明らかに含みのある表現に思考が引っかかる。見ると、同僚の視線が語りたくて仕方がないという感情を滲ませていた。できるのであれば今すぐ聞かなかったことにして逃げ出したかったが、相手がそんなことを許してくれるはずがない。
「スカイビル三階の謎って知ってます? あそこってただでさえ空きが多いですけど、三階は全く何も入ってないじゃないですか。窓も暗幕で閉ざされているし、完全なデッドスペースだと思ってたんですけど、どうやら違うみたいなんですよね」
にたにたと頬を緩めながら語る同僚を見ながら、そういえばホラー映画鑑賞が趣味だと言っていたことを思い出す。全く理解できない趣味だが、このたっぷりもったいぶった言い方は、確実にそういう類のものの影響を受けていると思う。
「昨日のメンテは上地が行ったんですけど、三階の空きテナントから物音が聞こえてきたらしいんですよ。あいつお人よしじゃないですか、停電状態の部屋に取り残された人がいるかもしれないって思って、音の出どころを探しに行ったんですって。無人のフロアなんだから放っておけばいいのに」
「いやそれ、どうせ物置と化した空き部屋で、何かが倒れて音を立てたとかいうオチなんでしょう?」
ここまでベタだと恐怖も高揚もあったものではない。残念だがこちらは休み明けで仕事が溜まっている。安っぽい怪談話の相手は別に見つけてくれと暗に伝えたつもりだったが、同僚は俺の冷やかしに眉一つ動かすことなく、いつの間にかその表情が険しいものにすら変わっていた。普段見ることのない姿に、俺の方が気圧され口を噤んでしまう。
「初めて足を踏み入れる三階は、複数の空きテナントが並んでいて、意外にも綺麗に整えられていたらしいです。物音は何かを殴打するような鈍い音で、それに混じって、得体の知れない、動物の鳴き声みたいな音も聞こえたと言ってました。さすがにちょっとびびって、扉の前でタイミングを図っていたら、扉の向こうから足音が聞こえてきた。しかもどんどんこちらに近づいてくる。上地は本能で危機を感じて、扉の死角に隠れたらしいんです。そしたら、開いた扉から何が出てきたと思います?」
「何と言われても。動物の声がしたとかいうから……巨大ネズミとか?」
空きテナントに潜む動物で、扉越しに足音が聞こえるようなサイズのものなんて全く思いつかない。ヤケクソ回答に、同僚は一瞬目を丸くしたかと思うと、すぐに失笑を零した。
「なにその発想面白すぎません? 出てきたのはスーツの男の二人組だったんですよ」
「はあ。……で?」
スーツの大人なんて、一番面白くない登場人物のうちの一種だ。大方、停電の見回りに来たビルの管理者あたりだろう。これなら巨大ネズミでも出てきた方が、話のオチがついてよかったとすら思う。
そんな不満が顔に出てしまっていたのだろう。同僚は、話はまだ終わらないんですよと弁解したうえで、懐から持ち出したスマートフォンを操作し始めた。オフィスで仕事中なのにと思われるかもしれないが、時刻はまだ八時過ぎ、始業時間は来ていないので、時間外だ。
「スーツ男達は、隠れた上地を見つけることなく、下階に下りて行ったようですが、二人の胸元では揃いのバッジが光っていた。上地は、彼らに発見されなかったことに心底安堵したらしいですよ。なぜかって、そのバッジっていうのがコレだから」
そう言って差し出されたスマートフォンを覗き込むと、そこには片翼が彫られた金色のバッジの写真が映し出されていた。途端に足先が冷たくなるような感覚に襲われる。この地域において金の片翼が示す意味は一つしかない。
「空閑組の代紋バッジじゃないですか」
「ご名答です。最近再活性化している反社会的勢力、指定暴力団空閑組。スカイビルの三階は奴らの寝床だったのかも、なんて」
同僚は今までで一番潜められた声でそう告げると、それからはずっと辺りを気にするように視線を配っていた。最初あれだけ瞳を輝かせていたのが嘘のような焦燥ぶりである。もしそれが正しいなら、音は拷問だかリンチだかが行われていた証拠で、動物の鳴き声は、かつて人だった者の呻き声、なんて恐ろしすぎる。
空閑組というのは、戦後の時代からこの町に根付いていた暴力団らしく、ここに引っ越してきた時から、金の片翼には気をつけろと口酸っぱく言われ続けてきた。きっとこの辺で生まれた子供も、皆同じ教育を受けているはずで、それを思えば、同僚のあの慌てようはむしろ健全な反応といえる。まあ、本当に普通の人間なら、空閑組の話題を口に出すことすら恐ろしくて躊躇ってしまうはずなので、根本的にズレてはいるのだろう。目の前の同僚も、不本意とはいえ反社のアジトに潜入しかけてしまったかもしれない後輩も。
「というか、上地まだ出勤してなくないですか? 無事なんですかね?」
「今日から出張ですよ。でも、少なくとも昨日の夜までは無事でした。メッセージ返信ありましたから」
そういうところをきちんとしているあたり、こいつも少なからず後輩想いということなのだろう。不幸な後輩のことはこいつに任せようと決心して、俺はもう一つ個人的な疑問を口にする。
「でも、スカイビルのシステムはうちの会社のでしょう。もし、そのことが事実だったとしたら大丈夫なんですかね?」
「そんなこと考えたくもないですよ。その辺はきっと、部長や、もっと上がなんとかしてくれます。というかそうじゃないと困る」
部長、その単語に眉が揺れるのがわかる。それと同時に頭上から脂ぎった男の声が落ちて来た。
「おい、お前らあ、そんなとこで油売ってねえでさっさと仕事しろお」
やべ、と呟いた同僚が物凄い速さで自分の机へ戻っていく。そのせいで奴の標的は自然と俺になってしまった。おい、一人だけ逃げようとするんじゃない。
「小野ぉ、この前の資料、ありゃどうなってる? 四年分のデータ纏めろっつったよなあ?」
「え、スカイビルのエラーの件ですか? 三年分ってお聞きしたんですけど」
またかよと頬を冷や汗が伝う。お前が三年分でいいと言ったんだよという文句をなんとか抑え込み、なるべく角が立たない言い回しを選んだつもりだったが、案の定、お気に召さなかったらしい。部長は、髪の少ない頭を真っ赤にして口を尖らせた。
「うるせえ! 口答えしてんじゃねえよ。今日中に仕上げとけよ。わかったなあ?」
ばさりと資料の束を投げつけられる。ひらひらと床に落ちていく先週の労働の成果を見ながら、俺は口元ですみませんでしたと呟いた。隣の席から同僚の哀れみの視線を感じる。可哀想だと思うなら、三年でいいって言ってましたって弁護して欲しい。まあ、俺が逆の立場なら沈黙を貫くだろうし、奴を責めるのはお門違いってものだ。その証拠に、部長が去ったのを見届けると、同僚は床に落ちた書類を拾い上げて渡してくれた。
「なんというか……本当災難ですね。俺も手伝いますよ」
「ああ、すみません。ありがとうございます」
始業三十分前、残業が確定する。朝から加速するストレスに胃が痛くなるような錯覚がした。
あの部長が就任してから会社の売り上げは上昇しているらしいが、労働時間は利益に見合わないほど増えた。前の、少人数で細々とやってた頃の方が良かったなんて思っても、金が入ってくる以上、会社はやり方を戻してはくれないだろう。
こんな時は、昨日会ったような大学生達が気楽で羨ましくなる。あいつら部長の家の隣に引っ越してくれないかな。そこでならいくら煩くしても俺が許すのに。それか反社がいきなり家に乗り込んで社会的に抹殺してくれるのでもいいかもしれない。なんてありもしない妄想する暇があるなら手を動かさなければ。仕事は山ほどあるのだ。とにかく昼休みまでに毎日の点検作業だけは終わらせておきたい。
容赦なく照り付ける真夏の太陽が高度をあげて、オフィスをじりじりと焼きだしたころ、休憩行ってきますの声が正面の席から聞こえた。もうこんな時間かと顔をあげる。
「じゃあ俺も。休憩行きます」
「いってらっしゃーい」
パソコンをデスクトップに戻して席を立ち、隣席に一声かけてからオフィスを離れると、どっと疲れが込み上げてきた。ここから午後と残業ボーナスタイムまであると思うと、もう全てを投げ出して家に帰りたい欲求が込み上げてくる。いや、家に帰っても煩い隣人に苦しめられるのか。
終わりが見えない労働と騒音被害、考えれば考えるほど精神が病んでいくのを感じる。とりあえず一端思考を空にしようと、なるべく早足でビルの階段を下りて地階へと向かう。地階にはビルで働く社員用の食堂があり、このクソ暑い季節の間は、外に出ることを嫌がった大人たちの昼食の場として重宝されていた。ちなみに、味はぎりぎり合格点程度なので、過ごしやすい季節は外で食べる人間の方が多い。
しかし、俺の目的は食事だけではない。ワンコインの定食をかっ食らうと、食堂から伸びる廊下を歩いていく。その先には、バルコニーという名の喫煙スペースが存在していた。設計当初は食堂のテラス席になる予定だった場所は、テラスの需要の少なさと、日に日に肩身が狭まっていく喫煙者の怨嗟の声によって、喫煙所に変貌させられていた。
懐から、高級ではない、しかし、嗜好品にかけられるぎりぎりの金額と引き換えにした煙草を取り出す。覚えきった動作で口にくわえると、脳が徐々に麻痺していく感覚がした。感覚を麻痺させて中毒性があるなんて、もうほとんど麻薬と言ってもいい気がする。この国が煙草を認めていてよかった。そうじゃなければ、幾人の労働者が犯罪者になっていただろうか。
俺もその一人かもな。なんてくだらないことを考えながら空気に溶け込む灰色のもやを眺めていると、後ろから溌剌とした女の声が聞こえた。
「よう、今日もしけた顔してんねっ!」
ばすりと肩を叩かれる衝撃で振り返ると、青い帽子を被って灰色の作業着のようなものを身に着けた予想通りの人物が、口元を三日月形にして立っていた。帽子から伸びる真っすぐな黒髪が無骨な作業着とはミスマッチだなといつも思う。
「真希、お前また俺になんか構って。本当に物好きだな」
ため息混じりに言ってやれば、真希は薄い唇を不満げに突き出した。
「はあ? 知ってる人に会ったら挨拶するのが普通でしょ? それに、無視したら寂しいじゃない。順君、私ぐらいしか友達いないんだから」
「い、いや、そんなことないし。友達ぐらいちゃんといるし」
「はい嘘ー。もう、何年幼馴染やってると思ってるの。それぐらいお見通しです」
ずばり言い切られた言葉が図星すぎて何も言い返せない。教育機関と名のつく所を出て十年あまり、現在、俺には友達と呼べる存在がいなかった。仕事の同僚を友人とするのは違和感があるし、もうずっと会っていない元同級生を、今更友人と言えるかと考えると首を傾げたくなる。一つ認識のズレがあるとするなら、俺には彼女を友人と認めた記憶がないということだけか。
真希と俺は、小学生の時からの同級生だった。しかも、俺が大学進学のために上京した際、彼女も同じタイミングで東京に出てきたのだ。それは、俺達がそれだけ深い関係だったからというわけでは決してなく、俺はなんとなく都会に出たいという曖昧な欲求から、彼女は歌手になるという明確な夢のためだった。
真希は、高卒で音楽の世界に飛び込み、精力的に自分を売り込み続けているが、その成果は芳しくないというのが現実だった。地元にいた頃、何度か一緒にカラオケに行ったことがあるので、彼女の歌が上手いのはよく知っている。ただ、上手いだけではどうにもならないのがプロの世界なのだろう。歌手として食べていける領域に全く追いついていない真希は、飲食や配達のバイトをいくつか掛け持ちしてなんとか暮らしているのだという。
今の灰色の作業着は、自動販売機補充のバイトのものだと聞いた。そして、どうやら彼女の配達区域にうちの会社が含まれているらしく、しかも、バルコニーに自動販売機が置かれているので、今日のように補充の時間と煙草タイムが被ると顔を合わせてしまうことがあるのだ。
懐かしい顔に会えるのは悪くないことのはずなのだが、いかんせん、真希はテンションが高く、話しているとこちらがあてられてしまう。今のように、消耗している昼休みに絡みに来られるのは少し辛いのだ。
しかし、そんなこと真希の方は知ったものではない。彼女は、しゃがんだ状態で飲料が詰まったダンボールをこじ開けながら、相変わらず流れるような口調で話しかけてくる。
「そういえばさ、あれどうなったの? 隣の部屋が煩いって話。先週もの凄い愚痴言ってたじゃん」
そんなことあったかと記憶を探るが思い出せない。ただ、先週は休日出勤をしていたうえ、確かに騒音も酷く、非常に苛立っていた記憶は残っているので、そういうことを言っていても不思議ではないような気がした。
「ああ、昨日、隣の部屋の奴と会ったよ。ベランダで鉢合わせてさ」
「へえ。よかったじゃん、ちゃんと文句言えてさ」
「あれは言えたというのか……」
あの見た目にびびり散らして、最後の方は挙動不審だった気もする。言葉尻を濁すと、真希はただでさえつり目気味の瞳をより鋭く細めた。
「何それ! 折角黙らせるチャンスだったのに。がつんと言ってやりなよ」
向けられた漆黒の瞳には隠す気のない非難が含まれていて胸の奥が痛む。しかし、真希は栄の姿を見たことがないからそんなことが言えるのだ。
「だって、大学生ぐらいのド金髪ピアスじゃらじゃら男だったんだぞ? なんか喧嘩慣れしてそうな感じだったし、怒らせたら何されるか分からねえだろ。普通に怖えーよ」
「若い子にびびるなんて情けないねえ」
身振り付きで訴えてみたが、真希はどこ吹く風という様子でため息をついている。絶対に俺の恐怖の半分も伝わっていないだろう。そもそも、物事を他人に完全に伝えるなんてことは不可能なのだ。ここは諦めて俺が折れてやろう。別に逃げるわけじゃない。不毛な争いで要らない消耗をしたくないだけだ。
「はいはい。俺が悪うございました」
「何よその態度。まあいいや。次会ったら今度こそちゃんと言いなよ」
次なんて絶対に来ないで欲しいと思っていると、自販機にペットボトルを詰め終わった真希がその場で立ち上がり、腰に手を当てて伸びをした。
「はあー、やっぱりしゃがみ仕事は腰にくるわ。寄る年波には勝てんってね」
そう乾いた笑いを零すと、真希は作業着のポケットからシートに入った薄桃の錠剤を取り出した。そして、ロキソプロフェンと印字されたそれを、水を使わずに飲み込んでみせる。よく見た光景ではあるが、何度見ても慣れるものではない。
「よく水使わずに飲めるよな」
「もう慣れちゃった。去年腰痛めてから、痛み止めが手放せないんだよね」
そのやりとりも何度したかわからない。ただ、薬をラムネのようにバリバリ食べる状態を健全とはいえないだろう。そんな状態になってまで働く情熱は俺にはない。
そもそも真希の生き方自体が、俺から言わせれば理解できない部分が多すぎる。どうしてわざわざ歌手などという茨の道を選ぶのか、十年成果が無くてもあれだけ前向きでいられるのか。さすがにそれを指摘するのは失礼だと思うので黙っているが、もっと上手い生き方があるような気がする。言葉を失くしてしまった俺の前で、真希が怪訝そうに眉をひそめた。
「あ、また暗い顔してる。本当に順君っていつもそう」
そのまま、つかつかとこちらに近づいてきたと思うと、真希は両の人差し指で俺の頬を持ち上げた。触られた場所から少し高い体温を感じて身体が硬直する。
「……笑い方も忘れちゃうぐらいなら、わざわざ居続けなくてもいいのに」
ぽつりと告げられた言葉は、テラスを漂う熱気に溶けて消えた。消えたことにした。俺は真希の手を払うと、その隣を通り抜けてテラスの出口の方へ足を運ぶ。後ろから何やら言いたげな視線を感じるが振り向いてはやらない。
「……次会った時に聞かせてよね! 社畜対ヤンキー少年、第二ラウンドの結果!」
「いや何でだよ! お前絶対面白がってるよな? 他人事だと思いやがって!」
怒りに任せて振り返れば、そこには、いつも通り人を揶揄うような笑みを浮かべた真希が立っていた。先ほどまでの張りつめた空気は完全に消え失せてしまっている。
「いやいや、これでも心配してるんだよ? 大事な幼馴染の生活が懸かってるんだから」
「そう思ってるなら、これ以上煽らないでくれ。俺は今まで通り、それなりに生きていけたら満足なんだよ」
地位も名誉も大金も、誰かの特別もいらない。社会が決めた一般のレールに乗っかって、死ぬまでそれなりの枠に入っていられればいい。それが人生のなかで得た価値観だ。興味本位で他人と関わってもいいことなんてあるはずがない。
「とにかくこの話は終わり、解散。俺戻るから」
「はいはい。お仕事頑張ってね」
ここで、そっちもな。が言えないのがいつももどかしい。背後で手を振る気配を感じながら、大量の残務が残ったオフィスを目指して歩き始める。残りの仕事量を考えれば、二十一時に上がれればよい方だろうか。いや、どうせ追加で仕事が増えるから、もう一時間ぐらいはみた方がいいかもしれない。増した肩の重さに憂鬱になっていると、真希との会話はいつの間にか頭の隅へと追いやられてしまった。
第三章 1/18公開予定