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第一章

 現代社会とはストレスの巣窟である。というのは、既に世界の常識だろう。「現代社会」に「ストレス社会」とルビを振る自己啓発本が現れ、下町の居酒屋からインターネット空間まであらゆる場所でストレスを嘆く愚痴が飛び交っている。最近はストレスを減らすのではなく、ストレスをどうコントロールするかに焦点が置かれ始めているのだから、もう現代人とストレスを切り離すことは全く不可能と言っていいだろう。

 では、一番効果的なストレス解消法とは何だろうか。一つ、美味しい料理を食べる。それもありだが、必ず金か手間がかかる。二つ、気の置けない友人と過ごす。もちろん効果的だが、それにはスケジューリングという大きな制約が課され、いつでもやれるものではない。そもそも友達がいない人間は他の方法を探るべきだ。三つ、非日常に飛び込む。旅行でもキャンプでもいい、普段しないことは気分を高揚させてくれるだろう。しかし、もれなく同じぐらいの疲労を運んでくるのも間違いない。

 では、どうすればいいのか。答えは簡単「家」なのだ。昼休みのトイレですら行列に急かされるこの世の中、他人の視線を気にすることなく自分のペースで過ごせる場所はもう自宅しか残っていない。会社で腹立たしいことがあっても、満員電車で古の奴隷船顔負けの移動を強いられても、家に帰ってベッドに飛び込めば、そこはもうストレスから隔絶された世界。たった1Kのボロアパートでも、俺にとっては最後の癒しの砦だった、はずだった。

 その唯一無二のオアシスが、最近、他者によって踏み荒らされている。

 発端はいつだったのか覚えていない。いつからか、毎日隣の部屋からの騒音に悩まされるようになった。騒音といっても、夜中に楽器を吹いているとか、テレビの音が大きすぎるとかではなく、人の声がするのだ。声は明らかに二種類あり、どちらも学業を放り投げてそうな若い男のもので、聞いているだけで腹が立ってくる代物だった。

 確かに、このアパートは家賃が安いことだけが売りのような場所なので、大学生が住み着いていても全くもって不思議ではないが、いくらなんでも限度というものがあるだろう。夜中の二時を過ぎても、わあわあと訳の分からない叫び声を上げられては、ただでさえ会社のストレスで不眠気味だというのに、眠れるものも眠れない。

 日々社会の歯車としてせっせと働く社畜の唯一の休息時間を潰して楽しいか、このモラトリアム共。そもそもこのアパート単身用だろ、なんで当たり前のように二人いるんだよ。湧き出る呪詛は日に日に密度を増し、俺のなかで新たなストレスとして降り積もる。人生最後の癒しが汚されていく危機感に苛まれながら、さりとて、隣人を注意する勇気も持てず。最近の俺は専ら、隣室と反対側の壁際に移動させたベッドの上で、掛布にくるまって騒音に耐えてばかりいる。

 

 その日は、神とやらが定めたらしい安息日で、俺にとっては十四日ぶりの休日だった。目覚ましが鳴らない朝とはここまで快適なものだったか。平日の十分の一の重さしかない身体を起こすと、部屋唯一の北向きの窓にかかったカーテンが目に入った。普段ならこんな見慣れた光景には何も感じないのだが、今日はそう簡単にありつくことのできない貴重な休日だ。上振れしていた機嫌が、勝手にカーテンを開かせる。

 とっくに朝の範囲を越え、昼にさしかかった空は夏らしい晴天に包まれていた、わけではなく、灰色の雲に覆われて重苦しい雰囲気を醸し出していた。ボロアパートの四階からでも届きそうなほど低い空に、高揚していた精神が萎んでいくのがわかる。別に外出の予定があったわけではないので、天気が晴れていようが荒れていようが関係ないはずなのだが、こればかりはもう気分の問題なので誰に文句を言うこともできない。

 むしろ、いつも騒がしい隣室の声が聞こえないだけで十分幸運と考えるべきかもしれない。昨日も夜中まで甲高い声を響かせていた連中は、今はすっかり夢の中なのだろうか。叶う事なら一日ずっと寝ていてくれと祈りながら窓の傍を離れようとした時、ふと蠢くものが目に入った。

 窓の外で、空気に溶け込みふわふわとゆらめくそれは、煙だった。所在なさげに天へと昇っていく無形のもやは、白色と言うには汚れていて、俺はすぐにその正体に思い至った。煙草の煙だ。いつも世話になっている。しかし、そんなことよりも重要なのは、その煙の出どころだった。煙は部屋間を仕切る間仕切りの向こう側、隣室のベランダから伸びている。

 先にいうと、この時の俺は本当に浮かれていたのだろう。なにせ十四日ぶりの休日だったのだ。悪いのは週休二日を掲げながら十四連勤をさせた会社の方であり、俺の判断力に問題があるわけでは断じてないと弁明させて欲しい。とにかく、視野が狭まりきっていた俺は、勢いよく窓を開き、ベランダ用に置き去りにしていたサンダルに足を突っ込むと、非常時に破れるようになっているという薄い間仕切りの前に立ち、わざと投げやり気味に口を開いた。

「なあ、最近煩すぎないか? こっちまで全部筒抜けだぞ」

 隣人とはいえ、顔も見たことのない相手への一言目には到底相応しくない言いぐさだったが、日ごろの恨みをぶつけるのに、これ以上のタイミングはなかった。これは静かな自宅を取り戻すための戦い、絶対に負けるわけにはいかない。本当は震えが止まらない両手を握りしめながら、間仕切りを睨みつけていると、空気を吐くような掠れた男の声が耳に届いた。

「え、あ……、すみません」

 良く言えばハスキー、悪く言えば不明瞭なその声は、明らかに委縮していて、普段隣室から聞こえてくる騒音の一部とは似ても似つかないものだった。てっきり怒鳴られたり罵られたりするものかと思っていたので拍子抜けしてしまう。同時に、こんなの相手なら俺でも押し切れそうだという直感が、紡ぐ予定の無かった文句を溢れさせた。

「別に、自分の家で一言も喋るなとは言ってねえよ。ただ、限度があるよな? 何してるかは知らないけど、深夜まで騒がれると迷惑なんだよ。このアパートの防音設備なんてあってないようなものだし、どうしても騒ぎたいなら、バイトでも行って、もう少し良い家借りたらどうだ?」

 人間というのは、どうして文句を言う時ばかり饒舌になるのだろうか。更に、自分がそうなっていることになかなか気づけないから質が悪い。すっかり自分の言葉に酔ってしまった俺は、それからも延々と文句を垂れ流していたが、間仕切りの向こうの声は、黙り込んだままその全てを受け止めたうえで、最後にもう一度謝罪を付け加えた。

「ほ、本当にすみません。ご迷惑をおかけしました……」

 意外だ。ちゃんと謝れるらしい。素直な態度も好感度が高い。

「じゃあ、もう煩くしないって約束してくれるか?」

 その問いの答えは返ってこなかった。ここにきて無視かよ。さっきのしおらしい態度は、隣の煩い親父をやり過ごすためだけのものだったのか。きっと間仕切りの向こうでは、辟易とした表情でベランダの柵に肘でもついているに違いない。そう考えると、さすがに腹が立ってきて、俺はわざとらしくため息をつくと、先ほどよりも更に低いトーンで攻撃に出る。

「あのなあ、すみませんで済んだら警察いらないんだわ。そちらは暇なのかもしれないけど、こっちは毎日働きに出てるの。当然、夜は寝たい。当たり前のことだろ?」

 明確な敵意を持って間仕切りと対峙するが、向こうからは相変わらず沈黙が返ってくるばかりだった。雲の隙間から差し込んでくる熱が肌に汗を走らせ、それによって首元に張り付いた髪の毛が苛立ちを加速させる。ああもう、全てが面倒くさい。

「そっちがその気なら、本当に警察呼ぶこともできるんだぞ」

「警察はやめてください!」

 思わずといったような、切羽詰まった叫びが聞こえる。芯が入った声は、今までのものとは別人のようで、びくりと身体が跳ねた。

「すみません。わかりました。これから気を付けますので、お願いです。警察だけは止めてください。本当にすみません、お願いします」

 今にも溢れて零れ落ちそうな声が響くたびに、ゴンゴンと、目の前の間仕切りが音を立てて揺れる。おそらくだが、謝罪するたびに、間仕切りに頭をぶつけているのだろう。突然の自傷行為に驚いてしまった俺は、思わず後ずさりをして間仕切りから身体を離した。その途端、間仕切りの向こうで固いものが落ちる音が響いた。

 初めは遠くで響いた音がベランダのコンクリートを擦る音に変わり、こちらに近づいてくる。音の出どころを探ると、足元に見覚えのないボールペンが落ちていた。ペンは品のあるブラウンで、艶やかに磨かれた表面と重厚感のあるフォルムをみるに、明らかに安物には思えない。

 先ほど聞こえた音は、このペンが落ちた時のものだったのだろう。間仕切りの下にはペン一本通すには充分すぎるほどの隙間があるため、向こうで落ちたペンがこちらに転がってきてしまったのだ。

 いくら騒音魔相手でも、人の物を盗るのは騒音以上の犯罪だ。返さなければとペンを拾い上げると、胴軸の中心に、金文字の筆記体で文字が入っているのが目に入った。顔を近づけてみると「Narihira」と読める。ナリヒラ。音の響きとペンに刻まれているという事実からみるに、おそらく名前だろう。

「あんたナリヒラっていうのか?」

「いえ? 僕は栄です。業平は友人の名前で……あれ? どうして業平のことを知ってるんですか?」

 その返答は心底不思議そうなもので、言葉の奥には隠しきれない警戒すら覗いていた。どうやらペンを落としたことに気付いていないらしい。結構大きな音がしたように思うが、もしかしたら、相当鈍感な人物なのかもしれない。俺はベランダ柵の方に足を進めると、柵から腕を伸ばして隣室の方に業平のペンを差し出した。

「これに書いてあったんだよ。さっき落としてこっちに転がってきたんじゃないか?」

「ああっ、すみません!」

 息を呑む音に続いて、痛恨のミスを目の当たりにしたような、慌てた声が聞こえてくる。どこまでも大げさな挙動に思わずため息が零れた。

「そんなに大事なものならベランダなんかに持ち出すな。それに他人の物ならもう少し丁寧に扱った方が……」

 続きは言葉にならなかった。別に話を遮られたわけではない。むしろ、会話対象である騒がしい隣人・栄は、柵から上半身を乗り出した体勢で口を噤んでこちらを見つめていた。友人のペンを持った俺を責めるでも、自分の行動の言い訳をするでもない。しかし今、奴の存在こそが、俺の言葉を縛り上げていた。

 今までは間仕切り越しで会話していたため、栄の姿を見たのはこの瞬間が初めてだった。顔つきこそ童顔っぽかったが、僅かに襟足が伸びた髪は、チープな金髪に染められていて、両耳の耳朶と軟骨にそれぞれピアスが刺さっている。服装は黒無地のタンクトップ一枚で、むき出しの腕は、先ほどまでの弱々しい声とは裏腹に年相応に鍛えられていた。所々に青あざや切り傷が浮かんでいるのは名誉の負傷というやつなのだろうか。もし、喧嘩など仕掛けられたら秒速で敗北しそうだ。そして、視界の奥では、未だに火のついている煙草を挟む手が覗いていて、ゆらゆらと煙が立ち上っていた。

 暇で仕方のない大学生という予想はあながち間違いではなかったのかもしれない。どう考えてもヤンキーである。それも、バイトで不謹慎な動画を撮影して炎上したりしそうなタイプの。絶対に関わりたくない存在に声をかけてしまったうえ、間仕切り越しとはいえ、説教じみた物言いをしてしまったことへの後悔が今更降りかかってくる。とりあえず、十四日ぶりの休日はもう終わりだろう。いや、休日が一日潰れるぐらいならまだ安い。これから今まで以上に突っかかられたりしたら、ただでさえ限界近い精神はもうもたない。諦めを悟り、荷物でも纏めるかと現実逃避をしていた時、栄が口元を静かに綻ばせた。

「ありがとうございます。失くしたら怒られたと思うので助かりました」

 道端の雑草がつける小さな花のような笑顔で告げられた感謝は、どこまでも優しい響きをしていた。てっきり、表出ろやからのボコボコルートだと思い込んでいた俺は、想像と真逆の展開に混乱する。その間に俺の手からペンを受け取った栄は、丁寧な手つきで腕を下ろしていた。間仕切りに隠れて見えないが、おそらくズボンのポケットにでもしまったのだろう。

「よかった。やっぱりまだ業平に持たせるのは怖いから」

「怖い? ペンが?」

 多分独り言であろうその言葉が耳に届いたのは、この場を包む熱気の気まぐれのせいに違いなかった。反射的に聞き返すと、栄は一瞬表情を凍り付かせてから眉を下げて微笑した。

「いえ、ペンって先が尖ってるじゃないですか。油断していると危ないんですよ」

 確かに、シャーペンをノックするつもりでペン先で指を突き刺した時の痛みなどは相当なものだと思うが、それが怖いからペンが持てないとなってしまえば本末転倒だ。それに、業平はこいつの友人ということなので、小さな子供だという可能性も考えにくい。積み重なる疑問をどう言葉にすればよいのかわからないまま悩んでいると、それよりも、と話題を仕切り直された。

「騒音のこと、本当に申し訳ありません。これからはなるべく煩くしないようにします」

 安っぽい金髪がばさりと下げられる。今度ははっきりと顔を見ることができたので、奴の真意を疑うことはなかった。いや本当は、これ以上深堀りして怒りの琴線に触れてしまったらと考えると、怖くて疑えなかったというのが正しい。

「まあ、俺が家にいる時間、静かにしてくれればそれでいいんだよ」

 少し早口で灰色の空に向かって吐き出してから、ふと大事なことを思い出した。

「そうだ。お前の部屋、もう一人いるだろ? この際、大家には黙っておいてやるから、そいつにも静かにするように伝えてくれると助かるんだけど……」

「え、なんでそのことを?」

「二人分の声が丸聞こえ」

「そ、そうなんですか……」

 しゅんと肩を落とす栄は、ギラギラした見た目とは不釣り合いなほどに縮こまっていた。もしかしたら、このガラの悪い身なりは見掛け倒しで、実はそこまで強くないのかもしれない。なんて都合が良すぎるか。とりあえず、これ以上、栄と顔を突き合わす理由はない。むしろ、あのヤンキー相手によくここまで食い下がった俺。冴えない社畜もやればできるんだよと一種の達成感を抱えながら部屋に繋がる窓に手をかけると、間仕切りの向こうから声が聞こえてきた。

「あの、よかったら、お名前をお聞きしてもいいですか?」

 ぴたりとサンダルを脱ぎかけていた足が止まる。同時に忘れていた恐怖が蘇ってきた。俺の名前を知ってどうするつもりなのだろう。ウザイ隣人としてSNSにでも晒すつもりだろうか、ヤンキー仲間で共有して後日お礼参りなんてこともあるかもしれない。とりあえず、答えても碌な事がなさそうなので無視に限ると、窓の敷居を跨ごうとした時、再び、間仕切りの向こうで息を呑む音がした。

「す、すみません。久しぶりに他の人と話せたのが楽しくって、つい……。ご迷惑なら忘れてください」

 その声は、今まで聞いたどの声とも違う、僅かに震えの入った痛々しいもので、口元だけに笑みを張り付けて笑う栄の姿が、間仕切り越しでもはっきり見えた気がした。一度しか見たことのない黒瞳の静かな輝きに、踏み出しかけていた足が自然に止まる。ああ、馬鹿らしい。なんでこんなことをしているのか全く分からない!

「小野。小野順一だ」

「順一さん。よろしくお願いします」

 自分の名前なんて聞き飽きた響きのはずなのに、栄のハスキーな声で呼ばれると、背筋を指でなぞられたような感覚がして肌が粟立った。思わぬ感覚に止まった足を上手く動かすことができず、窓の敷居でつまずきそうになる。すんでのところで体勢を立て直したからよかったものの、かかとが床を踏みしめた時の音は、思いっきり向こうにも響いていただろう。これではどっちが騒音魔かわかったものではない。

 吹き出した羞恥を隠すために、俺は努めて平坦に言葉を紡いだ。

「じゃあ俺、今日は一日休みだから、騒ぎたいなら外行けよ」

「……そうですか」

「もう会わないことを祈ってる。じゃあな」

「はい」

 曇り空に簡潔な返事が溶けて消える。その響きが妙に頭に残って、胸をざわつかせた。

第二章 1/17公開予定

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