八、馬鹿。阿呆。間抜け。……鈍感。
インターホンを押す。
ピン、ポーンと、いつもよりも間延びして聞こえたのは気が急いてるせいか。
落ち着こうと深呼吸をした。吸って、吐いて。吐ききる直前に「はい。あ、澄高くん? ちょっと待ってね」と姫のおばさんの声が響く。僕が返事する前に通話は切れた。切れる直前に姫を呼ぶ声が聞こえた。
それからしばし待たされることになる。
たぶん、
「めるー、澄高くんよー」
「いないって言ってー」
「何言ってんの。早く下りてきなさい」
「だーかーらー、いないって言ってってば」
「下りてこないなら部屋に上げちゃうわよ」
「ちょっと! 勝手にやめてよ!」
というようなやりとりがされているはずだ。
玄関が開いたらむすっと膨れた顔の姫が立っているだろう。
僕の予想は的中した。
体感でノンフライ麺のカップ麺にお湯を注いでできあがるまでくらいの時間待ったのち、ガチャリとドアが開いた。隙間からこちらをのぞき込むようにして姫が顔を見せる。見るからに不満そうだ。
「あのさ、姫」
「なに?」
僕を睨みつける。
不満そうではあるけれど、完全に僕を拒絶してはいないようだ。
僕はふっと短く強く息を吐いた。
そうして勢いをつけてから言った。
「僕と一緒に寝てくれないか」
「…………はあ?」
姫は鳩が豆鉄砲を食ったような間抜けな顔を見せた。
「ごめん。何言ってるかわかんない。説明して」
姫の部屋には、〆切り前のバタバタした感じの名残があった。つまりそれなりに散らかっていたということだ。
僕はテーブルに落ちていたトーンの欠片を拾いながら、姫と真正面に向き合った。姫はまだ制服姿のままだった。椅子に座った姫と、床に正座する僕。『姫』と下僕みたいな位置関係になったが、今のヒリついた空気との相性は悪くない。
今朝の騒動の後、姫とはまったく話せていなかった。
姫は僕を見ればそそくさと逃げたし、何かしらの指令が下っていたのか、久米川さんと小平さんが一日中僕を見張っているからちょっとした軟禁状態で身動きがとれなかった。
「帰り、姫の教室に行ったんだけどさ、帰りのホームルーム終わってそこからダッシュで行ったんだけど、もういなくてさ。すぐ追いかけようとしたんだけど、久米川さんたちに捕まって」
「それで?」
「それはもう……『お前何やったんだよ。吐けよ』とか言われて。捕虜の尋問か警察の取り調べか、はたまたヤンキーのカツアゲかっていう具合で。そういうわけで、参るのが遅くなった次第です」
僕は仰々しく言って土下座した。
だけどすぐに顔を上げて、
「ところで僕が何をしたって言うんだ。怒られるようなことをした覚えはないぞ」
反論を開始した。
「姫が『試してみろ』って言うからやったのに、それでどうして僕が怒られないといけないんだ」
「ばかキヨ太」
「馬鹿ってなんだ。馬鹿って言う方が馬鹿だ」
「じゃあアホ」
「阿呆っていうやつも阿呆だ」
「間抜け。鈍感。ほんと鈍感。あとは、ええと……」
姫は難しい顔をして他の言葉を探している。
「もう馬鹿でも阿呆でも間抜けでも鈍感でも、何でもいいよ。いいから僕と一緒に寝てくれ」
「だから、何なのよそれ」
「言葉の通りだよ。この前みたいに一緒に物語の世界に行こう」
「そういうこと? ……行ってどうするの」
姫は怪訝な顔をする。
「姫に見てほしいものがあるし、聞いてほしいことがある」
「見たくない、聞きたくないって言ったら?」
「ごめん。無理矢理でも連れて行くかも」
僕は姫のベッドの掛け布団をめくった。「さあ!」と横になるようにうながす。
「言うとおりにするわけないでしょ」
冷たい視線が僕を突き刺す。
僕は怯むことなく、もう一度「さあ!」と言った。ついでにポンポンとベッドを叩く。犬や猫を呼ぶような仕草で姫を呼んだ。
「ば、ばかじゃないの! だいたい寝ようとか言ったってすぐに寝られるわけないってば」
「大丈夫。準備は万端だから」
僕はスマホを開いてブクマしてあった動画を再生した。
カリカリカリ。シャッ、シャッ、シャー。
「何のつもり?」
聞こえてきた音に姫は眉をひそめる。
「子守歌だよ」
「ペン作画の音でしょ」
「姫にとっては子守歌だろ?」
「……これだから素人は。同じペン作画の音でも好きな音とそうじゃない音があるんだから。リズムとか、力の入れ加減とか――ん?」
好きなタイプかもと言いながら、姫は僕のスマホを分捕った。どんな絵を描く人の音なのか気になったようだ。
「眠れそう?」
「一通り見て満足したら、たぶん」
そう言う姫の目はぱっちり開いて動画に釘付けになっていた。
逆効果だったかなと思ったが、しばらくして、満足したらしい姫が当たり前のようにベッドに腰掛けた。
「で、どうすればいいの?」
「一緒に寝てくれるの?」
「言い方。『一緒に寝る』じゃなくて『一緒に物語の世界に入る』でしょ」
「同じことだろ」
「響きが全然違うから」
姫は僕を見ようとしない。そっぽを向いたまま横たわった。
僕はそこに布団を掛けてやる。そして、姫が僕の部屋でしていたように、ベッドの脇に座りもたれかかった。鼻先に姫の匂いがした。
「それじゃあ、やろうか」
僕が言うと、姫は片手だけを布団から出した。急に協力的になるとそれはそれで戸惑う。
僕は慎重に姫の手に自分の手を重ねた。
姫の手が僕の手を受け入れる。
僕は置いただけだったのに、その手のひらを姫が握った。
「手が離れるとよくないんでしょ?」
姫はやはり僕を見ない。
「そうだな。僕は寝相が悪いらしいから、しっかりつないでおかないとな」
僕も手のひらに力を入れた。ぎゅうっと、少し痛いくらいにお互いの手を握って、僕らは目を閉じた。