七、「浮気の話っぽくない?」→いや違います。
「キヨ太、出るの早いよ!」
学校に着くなり、姫が僕のクラスに駆け込んできた。何事かと教室がざわつく。
「姫が遅いんだよ。ほら」
タイミングよくチャイムが鳴った。姫はいつも遅刻ギリギリの時間に登校する。起きられないとわかっていながら夜更かしをするからだ。だけど今日は少し事情が違うようだ。
「迎えに行ったら、もう出たって言われて」
「迎えにって、家に?」
姫はウンウンと頷く。そのたびに寝癖がぴょんぴょんと跳ねた。
「だってどうなったか気になるじゃん」
「何が?」
「昨日の話! ほら、黒い髪の女の子の――」
そこまで言って姫は周囲をうかがった。視線が集まっているのを知って内緒話に切り替える。額がぶつかるくらいに顔を近づけた僕らに冷やかしの声が飛んだが気にしない。
「それで、出たの?」
姫は小声で言った。
「僕、昨日倒れたんだよ? それで小説書けたと思う?」
書いたくせに、僕は書かなかったかのように振る舞った。あの流れで必死になって書いたと知れたら「どんだけ会いたかったんだよ」とか言われそうだったからだ。
だけど姫は
「キヨ太なら書けなくても書くでしょ」
とケロッと言った。
「『書けない』という日本語は『書けない』という意味しか持たないんだよ、姫。だから『書けなくても書くでしょ』って台詞は――」
「そういうのいいから。体調悪くたって、多少の無理ならするでしょって話。キヨ太、小説のためならそうするでしょ」
これまた当然のようにスパッと言い切る。
気圧されて「ま、まあ」と僕は言って頷いてしまった。
「それ、どっちに対して?」
姫がイラ立つ。不機嫌曲線が不穏な曲がり方をしたのが見えて、僕はもう本当のことを言うしかなくなった。
「どっちもだよ。書いたし、会えた」
返答に姫はまず喜んだ。たぶん、純粋に成功を喜んでくれたのだと思う。姫はそういうやつだ。しかし僕の顔を見て表情を曇らせた。気まずそうに内緒話の距離感を解除して、一般的な男子と女子の間合いに戻る。
「……そんなに嬉しいんだ? 顔、ゆるんでるよ」
「またそうやってすぐ僕を馬鹿にする。まあ、嬉しかったのは間違いないけど。なにせずっと会いたいと思っていたからね」
「たくさん話できたの?」
「ああ。めちゃくちゃ楽しかった」
僕ははっきりと言った。
「そう。よかったね」
姫は笑ったけれど、笑顔には見えなかった。その理由を僕に悟られないようにしたのか、すぐに言葉を継いだ。
「昔のキヨ太と今のキヨ太の違い、わかったんだ。やっぱりそれが原因だったんだね。っていうか、それにすぐ気づいた私ってすごくない?」
それは本当にそうだと思う。
さすがだな、と僕は素直に言った。だけど姫は得意げにするでもなく照れるでもなく、面白くなさそうに肩をすくめた。偶然、僕も同じようなポーズをとったところだった。
「でも今日もやってみないと、それが正解だったかわからないよ。昨日はたまたまだったのかもしれないし。他に要因があったかもしれないし」
「ふうん」
やっぱり面白くなさそうだ。興味がないのではなく、不満げなのだ。
「それで会えたらどうするの?」なんて台詞についてはどうだ? 教室に駆け込んできたときの勢いを考えれば「ねえ、どうするの! 教えて! 教えて!」くらいのテンションで聞いてきてもおかしくないのに、むしろいつもよりも声のトーンが一段下がっているではないか。
「どうするって?」
つられて僕の声も少し沈む。
「キヨ太はこれから物語を……ううん、やっぱり何でもない」
「何だよ。言いかけたことを途中でやめるのはナシだ」
「キヨ太だってよくやるじゃん」
「たまにはあるけど、よくはやらないよ」
「そお?」
「そうだよ」
ぼくの返答に、姫は視線を逸らした。窓の方に目をやってボソッとこぼした。「ばかキヨ太」と言ったように聞こえたが、その顔がずいぶんと淋しそうな気配をまとっていたので聞こえなかったことにした。
何とも言えない空気が流れる。
こういうときこそお前たちの出番じゃないかと、久米川・小平ペアに期待するも、召喚ならず。僕と姫の間の空気は何とも言えないままだった。
この空気にアレギー反応でも起きたか。鼻の奥がむず痒くなる。堪えきれず僕はくしゃみをした。その音に、どこかのグループの笑い声が重なった。カチンコでシーンを切り替えるように、僕らの間にあったものがリセットされたように感じた。
僕は姫を見た。姫もこちらを向いていた。
「それにしても、どんな小説書いたか気になるなあ。ねえ、読ませてよ」
何でもなかった風に、切り出したのは姫だ。
「持って来てないの?」と言って僕の鞄を勝手にあさり始める。
「持って来てないし、見せないよ」
僕は鞄を取り返して言った。
「なんでよー」
姫の不機嫌はさっきとは毛色の違うものだった。口を尖らせる様はコミカルにも見える。マンガのキャラクターのような愛らしさにちょっとした憎たらしさが混じっていた。
さっきとは違って、言葉ほどは不機嫌ではないのかなと思った。
「見せないよ。あれは僕だけの物語だから」
あんなもの姫にだって見せられないという照れ隠しの言葉だった。だけど姫には違う意味合いで刺さったらしい。
「何でよ。私が気づいたのに、どうしてそんなこと言うの」
また不機嫌の質が変わった。
きゅっと結んだ口。
眉はハの字に下がった。
「『僕』だけじゃないからでしょ。キヨ太とその女の子のための物語だからでしょ」
言葉が強くなった。
姫の声はよく通る。
本鈴に備えて幾分おとなしくなった教室内に嫌な感じで響いた。
「めるめる、どした?」と久米川さんたちがやってくる。今まで他の女子と話していたから、僕らが何故こんな状況になっているのか理解していない。
だけど姫の表情と言葉から、きっと悪いのは僕の方だと決めつけているようだった。
慰めるように姫の肩を撫でる友人たち。
どこからか「浮気の話っぽくない?」「秋津くんってそんなやつだったの?」という声が聞こえてきた。
「いや、そういう話じゃなくて」
誰にともなく弁解する僕。でも誰も僕の言葉なんて聞いちゃいない。
「私、教室戻る」
姫は僕の顔を見ようとせず、久米川さんたちにだけ「じゃあね」と手を振った。またあとで、とは言わなかった。
「なんだよ。姫がやってみろって言ったんじゃないか」
僕は納得がいかなくて、ひとり不満を呟いた。「お前、あとで説教な」と久米川さんたちに囲まれたのも、まったく納得できることではなかった。