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沸点と、融点

作者: ペンのひと.


 物質には、沸点と融点がある。

 その閾値をまたぐとき、厳然たる定理によって、あるものは気化し、またあるものは融解する。


 では、心はどうか?

 人の心にもまた、沸点と融点が存在すると言えるだろうか?

 たとえば――。

 この閾をまたぎこえたら、心は恋に沸きたち、あるいは愛の熱に融かされる、といったように。


 魔法を究めし我われ魔導師が追い求める問いと答えとは、つまりはそういうものだ。

 この手を宙にかざし、地、水、火、風、光、闇さらにあまねきものと交信するとき、我われは常にそのあわいに立っている。


 沸点と、融点のあいだに。



        ♢



 ページを閉じて、はるか昔に装丁された分厚い魔導書に見惚れる。

 かび臭くもたちのぼる甘い薫りに、スンと鼻が鳴る。

 古代宮廷魔導師モルセトス著、九泉系魔導大全第一巻。

 最近読んだ資料の中でも、この序文は群を抜いてマチルダの好みだ。 

 本編の内容がさらに素晴らしかったのは、言わずもがな……。


 魔法が存在したかつての時代に興味を惹かれ魔導学を専攻し、大学院まで上がって魔導書を読み漁る毎日。

 それが、伯爵令嬢マチルダ・アボットの日常だ。

 同い年の令嬢たちは高等学園卒業を機にそれぞれ良家への輿入れを早々に決めてすでに花嫁となっていた。そのうちの数人は、婚期を逸してまで学問の道へ進むマチルダを尊敬すると言ってくれたが、その賛美にはどこか女としての憐憫めいたものがあったかもしれない。


 実際のところ、生まれてこのかたマチルダは色恋と無縁だった。極度の赤面症であり、自身それを意識するあまり表情は力んで目はつりあがり、赤ら顔で仏頂面の彼女はまるでいつでも怒っているように見えた。

 沸点の低そうな女だ、とてもじゃないが恋愛対象にはならないよな、と高等学園の令息たちが放課後の教室で評している声を、マチルダ自身聞いたこともあった。たしかにその通りだと思った。


 そんなわけで、彼女はいま大学院の図書館にいる。

 というか、入学以来まだ一週間あまりなのだが、講義とゼミ活動以外の時間はほぼ、この窓際奥の閲覧用テーブル席が定位置。

 簡素なピン留めで渋茶の前髪をまとめ、瓶底眼鏡のブリッジをときおり指先でカチャリと押しあげながら、積み上げた資料の読み込みにふける。


「――ここ、いいかな?」


 頭の上から降ってきた羽毛のように重みを欠いた声に、かなり遅れてマチルダは顔をあげた。

 もう次の魔導書の世界に入り込みかけていたからだ。

 返事をしなければならない。顔が赤くなる。


「……ぇ……コホンッ、……ええ、どうぞ」

「感謝する――」


 コトリとも音をたてず椅子を引き、美しい青年がマチルダの対面に座った。

 実に美しい青年だ。が、しかしその顔には表情というものがまるでない。欠落している、とでもいおうか。

 くせ毛の銀髪、端正だが冷めた印象の顔だち、細く高い鼻筋、氷のようにすき透った半眼の瞳。

 上背のある体を包むこざっぱりとした衣服には、王統者しか所有を許されない紋章入りの瑠璃のブローチが無造作に留められて、襟元を閉じ絞っている。


 一限開始までまだ半刻近くあるこの時間、館内に他の人影はない。

 けれど残りの閲覧席は司書が整理中の書物を検品するための作業台と化しており、座面までいっぱいに道具をひろげたまま当の司書はどこかへと姿を消していた。

 相席やむなし、ではあるが。


「何を読んでいる?」

 およそ興味がありそうにも思えぬ熱のないまなざしで青年にこう問われたものだから、マチルダは一瞬それを彼の独り言かと錯覚した。

 そのほうがむしろありがたかった。

 ただでさえもうマチルダの顔は真っ赤なのだ。鏡を見なくてもわかる。


「……まっ……コホンッ、……魔導書を、読んでいます」

「君は、魔導学専攻? ええと、名前は――」


 いつまでこの会話は続くのだろうか。

 私のこの赤ら顔が相手を不快にさせる前に、切りあげてしまいたいのに。

 マチルダはどぎまぎしたが、とはいえ自ら席を立つ度胸もない。


「……マチルダ・アボット、と申します」

「そうか、マチルダ嬢。エフ・コルベシュタインだ、以後宜しく。すまないが折り入って、頼みがあるんだが――」


 静かに両肘をテーブルに乗せる美青年エフ・コルベシュタインの、その端正な顔だちに少しも表情らしいものが浮かばないせいか、マチルダはどうにも場のテンポが掴めず。


「――どうだろう、僕を寝かしつけてくれないか」

「……ねねっ……寝かしつけ⁉」

 あまりの突拍子のなさに返答が大きくなってしまった。マチルダはずり落ちそうになった瓶底眼鏡のブリッジを押しあげ、慌てて小声で言いなおす。


(……寝かしつけ、ですか?)

「ああ、始業までに仮眠を取りたいんだが、ここまで足を急いだせいか意識が妙に冴えてしまってね。何か読み聞かせでもしてもらえると、うまく眠れるかなってさ」

 そう言いしな、エフ・コルベシュタインはマチルダの積み上げた魔導書を長い指の先で示した。

 驚きのあまり見開いたマチルダの瞳を、どうやら青年エフは了承の意と解釈したらしい。

 ふうむ、では頼んだよとかなんとかあくびまじりに言い残し、テーブルの上に組んだ両腕を枕にして顔を伏せだす。

 落ちかかる銀髪に、高い鼻筋だけをのぞかせてその美貌が隠れる。


 ……。

 …………。

 ………………。


 わけがわからなかったが、なんというか、やるしかない状況だった。

 マチルダは居心地悪く咳ばらいを幾度かした後で、悩み抜いた末に一冊の魔導書を手に取って広げた。

 そして、その序文をおずおずと読む。読み聞かせる。



 物質には、沸点と融点がある。

 その閾値をまたぐとき、厳然たる定理によって、あるものは気化し、またあるものは融解する。


 では、心はどうか?

 人の心にもまた、沸点と融点が存在すると言えるだろうか?

 たとえば――。

 この閾をまたぎこえたら、心は恋に沸きたち、あるいは愛の熱に融かされる、といったように。


 魔法を究めし我われ魔導師が追い求める問いと答えとは、つまりはそういうものだ。

 この手を宙にかざし、地、水、火、風、光、闇さらにあまねきものと交信するとき、我われは常にそのあわいに立っている。


 沸点と、融点のあいだに。



「……沸点と、融点のあいだに」


 マチルダがその序文を読み終える頃にはもう、うつ伏した銀髪の青年から穏やかな寝息が聞こえはじめていた。

 窓のすき間から小風が吹き込み、カーテンをふわりと揺らした。



        ♢

 


「うひゃあ! ほんならあんた、進学早々あの氷の王子エフ・コルベシュタインと相席しーの読み聞かせ―の寝かしつけ―のドンボロケっちゅうことかいな。やるやないの、マチルダ」


 いまだ事態の飲み込めないマチルダを、親友であるレーネ・ワイリー嬢が男爵領なまりの不思議な方言で激賞した。ドンボロケ?


 週に一度、休日に女どうし二人きりで興じる王立庭園の散歩。

 運動不足を解消し、ぜい肉という名の油断ならぬ悪霊を祓う巡礼の旅である。

 目的が目的なので、散歩と言ってもほとんど競歩に近いスピードのままに、花咲く生け垣のあいだを縫っていく。

 人目に配慮しつつ、日光を避けるつば広の帽子も平服に近いドレスもごく軽い生地のものにしているが、男爵令嬢レーネも伯爵令嬢マチルダもすでにうっすらと汗をかいている。

 息も弾むがトークもはずむ、高等学園の同窓生コンビ。


「しかしまあ聞くところ、世間の評判通りのガチな無表情っぷりのようやな、氷の王子殿下は。おモロすぎるでしかし」

「笑いごとでもないんだけど……」


 レーネの言う通り、氷の王子エフ・コルベシュタインの噂は、王都に住む誰もが知るところだ。

 王の先妻が御産死とともに残した一粒種の忘れ形見。つまり王太子であるが、継母の現王妃からはその存在を忌まれ、義母子の不仲を持て余した王が避暑地区の別荘へ引き離して乳母に育てさせたという、げにいわくつきの筆頭王位継承者。

 そして何より、一切の感情を持たぬかのような冷たい半眼の相貌から、氷の王子として有名な人物だ。その氷は恐ろしく融点が高く、凍てつく無表情が融けゆるむ瞬間を見た者はいまだかつて誰もいないという。

 歪んだ生い立ちによるものか、なんでも、見た目通りの冷酷無比な性格らしいとか……。


「どっこい、あんたは図書館でその氷の王子にここ毎朝読み聞かせしてすやすや寝かしつけとるっちゅうんやから、そらもう見あげたもんやでマチルダ。ちと休憩しよか」


 うながされて、マチルダはレーネとともに庭園敷地の噴水広場で歩を休める。

 二人がベンチに腰掛けると、ピエロの格好をしたアイスキャンデー売りがすぐに近付いてきた。

 レーネが迷わず注文し、彼女のピンクブロンド髪によく映える氷の棒を実にうまそうに唇へ運ぶ。

 マチルダもそれにならった。

 甘さがキンと舌先を滑り、そして口の中いっぱいにひろがる。

 嗚呼、運動不足のぜい肉対策……。


 ともかく、これまたレーネの言う通り、マチルダはここ数日というもの毎朝図書館へやって来る氷の王子エフ・コルベシュタインに頼まれるまま、魔導書の読み聞かせと寝かしつけを仰せつかっているのである。毎度凍てつく無表情の王子を前に、赤面症の自分ばかりが顔をかっかと赤らめながら。


 王位継承者たる王子ともなれば、たいていは宮廷学術師数名による個別のエリート教育を受けるはずなので、学校に通ったりはしない。少なくとも高等学園まではそうだ。

 より専門的な学術研究の場である大学院だと、話は別なのかもしれないが。


「ひゃいひゃんふひゃへ」

「何?」

「ゴクッ――。大チャンスやで、マチルダ! 一世一代、美しき氷の王子との運命の出会いや。しっかりしいやドンボロケ!」


 レーネはアイスキャンデーの棒を澄み渡る空に突き上げ、謎の予言者のようにニカッと笑った。



        ♢



 マチルダにその唯一の親友ができたのは、ほとんど事故も同然だった。


 男爵令嬢レーネ・ワイリー。

 略奪愛によって射止めた公爵令息との挙式を目前に控え、ある界隈では泥棒猫との悪評芬々な、地方出身のじゃじゃ馬娘。


 マチルダとレーネが知り合ったのは数年前、まさにその略奪愛の現場たる高等学園卒業パーティーでのことである。

 二人は当時ともに最下級生で、本来、卒業生を送るスタッフの役回り。

 受付テーブルでチケットのもぎりをやっていたマチルダは、会場内がにわかに騒がしくなったのに気付いてホールへ足を踏み入れた。

 すると令嬢令息の喧騒の中心で、男女のこんな修羅場がはじまったのである。


「侯爵令嬢ルルシア、お前との婚約を破棄する。この俺、公爵令息ダンツは真実の愛に目覚めた。俺が真に愛するのはこの娘、男爵令嬢レーネ・ワイリーだ!」

「はあっ⁉ ふざけんじゃないわよ、このクソフィアンセが! あんたなんかこのルルシアちゃんの方から願い下げよ、親同士が決めた婚約だからいままで体裁だけは取り繕ってやったけど、あんたに恋したことなんか一瞬たりともないっつーの!」


 パチィンッ!


 婚約破棄を言い放った公爵令息ダンツに、負けじと即座の張り手をかます侯爵令嬢ルルシア。

 張り倒されるダンツを受け止め、ブチ切れる男爵令嬢レーネ・ワイリー。


「なにさらしとんじゃこのアマ!」

「ひっ⁉ なによ、このイモ娘‼」


 令嬢どうし、髪の毛やらドレスの裾やら引っ掴んでの取っ組み合い。

 もつれあいながらも侯爵令嬢ルルシアを組み敷き、ピンクブロンドのレーネが吠えた。


「こちとら底辺も底辺、生まれたとたんにハンデありありの男爵令嬢やっとんねん。ダンツは私が決死の誘惑で射止めた旦那や‼ 本気でもないあんたなんかに、手出しさせるかっちゅうねん! そもそも先に浮気しとったのはルルシア、あんたやないか。これ以上痛いとこ突かれんうちに、どっか行かんかい!」

「くっ、おぼえてなさいよこのイモ娘。うえええん、ダーリィィィン」


 浮気相手の男に泣きついてホールを出ていく侯爵令嬢ルルシア。

 会場に残されて、腰砕けの公爵令息ダンツ。

 その目がうっとり眺めるのは、膝立ちで獣のように息を切らす男爵令嬢レーネ・ワイリー。

 騒然とする観衆。


 そしてマチルダは――、思わずブフッと噴き出した。

 仏頂面の赤ら顔で笑いを噛み殺しプルプル震えるマチルダに気付き、近くにいる者がやがて怪訝そうに離れていく。

 でもなぜだか、その光景を前にこみ上げてくるおかしさを抑えきれなかった。

 三々五々に散っていく野次馬の真ん中で。


 真っ赤になったマチルダに、そのとき一人の令嬢が歩み寄り、ニカッと鋭い八重歯を見せた。

 男爵令嬢レーネ・ワイリーだった。


「あんた、ええセンスしとるやないの。親友になれそうやな」

 

 

 あれから数年。

 マチルダは大学院で魔導学を学ぶ日々。

 親友レーネは、ついに結婚式を迎える。



        ♢



 親友レーネの結婚式を間近に控え、大学院生マチルダの日課も徐々に定まりつつあった。


 平日はまず、図書館の開館時刻きっかりに登校し、館内で興味深い魔導学の資料を物色。

 窓際奥の閲覧用テーブル席で、主に禁帯出の魔導書の読み込み。早朝の読書は心地良く、常に新たな発見が、新鮮な驚きがある。文字を通してだが、それでもかつては存在したはずの魔法に、魔導の神秘に触れる感覚。その喜びに、魔法も魔導師もすでに存在しない現代を生きるマチルダはすっかり夢中になる。魔導学研究科の学生冥利に尽きる瞬間の一つだ。


 しかし、けして高くはない鼻からずり落ちる瓶底眼鏡のブリッジをマチルダが何度か押しあげると、決まってあの美しき氷の王子エフ・コルベシュタインが図書館に姿を現す。

 さもおなじみのことのごとく、凍てつく無表情で対面の椅子に腰かける氷の王子殿下。

 そして仮眠を所望するその氷のようにすき透った半眼の瞳にうながされ、マチルダはけっきょく毎度、手持ちの魔導書をおずおずと彼に読み聞かせ、寝かしつけをさせられる羽目になる。

 二人きりの図書館で、自分ばかりが顔をかっかと赤らめながら。


 一限開始に遅刻しないぎりぎりの頃合いを見はからって律儀にもマチルダが咳払いすると、うつ伏した氷の王子はその銀髪頭をむっくりと起こして眠りから覚め、


「感謝する」


 とだけ言い残して医科棟のある敷地へと消える。

 どうやら医術研究科の学生のようだ。


 氷の王子エフ・コルベシュタイン殿下を見送った後、マチルダは魔導科棟の講義室か研究室で夕刻近くまで自分のカリキュラムを消化し、ふたたび、みたびと図書館へ。

 汲めども尽きぬ知識の泉に後ろ髪を引かれつつ寮の自室へ戻るのは、夜も深くなってからである。


 さて、そうこうしているうちに親友レーネの結婚式当日がいよいよやって来るわけだが……。

 この間、エフ・コルベシュタイン王子殿下と自分の関係が親しくなったなどとは感じるはずもないマチルダだった。

 なにしろ相手は、氷の王子。その凍てつく氷そのものの美しき無表情に、融点などありそうもなかったのだから。



        ♢


 

 それは素敵な、本当に素敵な結婚式。


 男爵令嬢レーネは、ついに公爵令息ダンツ・ホーデンと結ばれた。

 リングボーイの運ぶ指輪を、愛しあう2人はたがいの薬指に迷いなく嵌めて。

 誓いの口付けを交わした新郎新婦の髪や睫毛には、フラワーガールの撒く花びらがヒラヒラと舞い貼り付いて。

 披露宴の会場では、ホーデン公爵、ワイリー男爵両家にゆかりのある人々が各テーブルに列席して若き二人の門出を祝福した。


 父子家庭のワイリー男爵家で三人の弟とともに育った、地方出身のじゃじゃ馬娘にして新婦レーネ。

 この数年、やれ略奪愛だやれ泥棒猫だとある界隈からはさんざん後ろ指をさされながらも。

 ピンクブロンド髪によく映えるウェディングドレスの裾を握りしめながら、はじめて見せる泣き顔を隠しもしない彼女の檀上挨拶は、間違いなくこの祝宴のピークだった。


「おおきに、ほんまおおきにっ。お父ちゃん、こんな私を……、育ててくれてありがとう。こら、アホちん弟三人、なに泣いとんねん。安心しいや。お姉ちゃん見ての通り玉の輿や、あんたらに金の苦労はさせへん。お義母様、お義父様、至らぬ点はどついてください。立派な公爵夫人になって、ダンツを男の中の男にして見せます。いや、いまも超イケメンやけど。――ご列席の皆さん、今日はほんまにありがとうございました。ダンツと私は、世界一のドンボロケです」


 会場は割れんばかりの拍手喝采。

 披露宴の円卓の一席で、赤ら顔のマチルダもまた、親友の勇姿を見守りながら滂沱の涙にまぶたを腫らしていた。

 共感とか共鳴とか、そんな言葉ではとてもそぐわない。

 新婦レーネがいまマチルダに見せてくれているものは、もっとかけがえがなく、とらえどころのない、そう、いわば魔法のような何かだった。

 

 そっと。

 隣りの席からハンカチが差しだされる。

 王家の家紋が刺繍されたその薄布をありがたく頂戴し、マチルダは真っ赤な顔でお礼を言った。


「ぐしゅっ、ありがとうございます、エフ・コルベシュタイン王子殿下」

「いや、かまわない」


 なぜかこちらに興味を示すかのように顎杖をつき、しかし凍てつく無表情なまなざしで、美しき氷の王子がマチルダを見つめていた。


 親友レーネの差し金で、二人は同じテーブルになったのである。



        ♢



 そうして親友レーネの挙式も終わり、季節も緩やかに移り変わろうとする頃。

 今日も今日とて、大学院の図書館。

 早朝の資料漁りも、氷の王子への魔導書読み聞かせと寝かしつけも、午前の授業もすでに終え。

 昼食をパンのひとかじりで済ませたマチルダは、貴重な昼休憩も魔導書という神秘の大海にのめり込んでいた。

 しばらくすると瓶底眼鏡のせいかさすがに目もとが熱に疼きはじめたので、しかたなくページを離れて窓の外へ視線を逃がす。


 ぼんやりと敷地を眺めていると、各棟を繋ぐ歩道の半ばでヨタヨタと右往左往する一人の老淑女に目がとまった。

 誰だろう?

 どうやら道に迷っているのか、遠くからでもその狼狽ぶりが感じられた。それに、かなり高齢のようだ。


 ほうってもおけまい。

 マチルダは自分の作業を中断して荷物を肩掛け鞄に手早く詰め込むと、図書館を出てその老淑女のもとへ向かった。


「あの……何かお困りですか?」

「坊ちゃまを、――エフ・コルベシュタイン王子殿下を探しておりますの。早くお弁当を届けないと、きっとお腹を空かせておいでです!」


 赤ら顔で問いかけるマチルダと目が合うなり、老淑女は提げ持った籐製のバスケットを示して見せながら駆け寄ってきた。しかしその足取りはいかにもおぼつかない。

 あやうく転げそうになる彼女をマチルダはすんでのところで抱きささえた。

 小柄でひどくほっそりと身の軽い、聡明そうな女性だ。

 白い結髪にあくのない顔だち、目尻に深い小じわの刻まれた瞳、地味ながらも襟元と袖口にフリルのあしらわれたワンピース。

 

「ごめんなさい、お嬢さん。私ったらつい慌ててしまって。申し遅れました、王太子殿下付きの乳母ミアベルでございます。エフィー坊ちゃまがどちらにいらっしゃるか、ご存じありませんか、失礼――」

「……アボット伯爵家の、マチルダと申します。ここの院生です。あの、お役に立てるかもしれません。エフ王子殿下とは……幾ばくかの面識がございますので」


 乳母を名乗る老淑女ミアベルに付き添って、マチルダは医科棟の講義室を順繰りに訪ね歩いた。ちょうど午後の授業がはじまったばかりだ。うまい具合に三つ目の講義室の覗き窓から目当ての人物を発見し、ドアを叩いて教授に事情を話す。

 すると、すべてを言い終わらぬうちに聴講席から彼が足早にやって来た。氷の王子エフ・コルベシュタインが。


「ミアベル、いったいなぜここに? ダメじゃないか、ちゃんと寝ていなきゃ。それに、車椅子はどうしたんだい」

「いえ、今日はなんだかお膝の具合も良いようでしたから。それより、エフィー坊ちゃま、お腹がお空きでしょう? さあ、ランチをお持ちしましたよ」


 先ほどまでの切迫が嘘のようにニッコリと笑うミアベルを見て、凍てつく無表情のまま氷の王子は小さくため息をついた。

 それから彼は、マチルダを見つめた。



        ♢



 老淑女ミアベルを両脇からささえるようにして、マチルダは氷の王子とともに馬車に乗った。

 そのままミアベルをはさんで後部席に座ると、馬車は避暑地区に向けてゆっくりと走りだした。王子と乳母が共に暮らすという別荘をめがけて。


 王子に出会えて安心したのか、まもなく、まるでいたいけな子供のようにこっくりこっくりと老淑女ミアベルは眠りに落ちてしまった。マチルダと繋いでいた彼女の小さな手からスッと力が抜ける。

 その頃合いを横目に見はからってか、氷の王子エフ・コルベシュタインが淡く呟いた。

 

「――長くはない」


 その呟きが邸宅へと向かう道程のことを言っているのか、それとも老淑女ミアベルの余命のことを言っているのかは、いかに無表情とはいえ彼の横顔を伺えばわかった。


「最近とみに老衰の兆候が顕著だ。少女期からの奉公とその後の乳母づとめの無理がたたり、実年齢より何倍も先んじて老け込んでしまった。床に臥せる時間が多く、記憶も混濁している。ごくまれな体調の良い日を除き、移動は主に車椅子。――今日だって、何をどうやって大学院までやって来られたものか」


 マチルダの肩に、眠る老淑女ミアベルの頭が甘えるように凭れかかる。その白い結髪をマチルダは無意識にそっと撫でて答えた。


「……左様で」


 そのまま、会話らしい会話はないままに馬車は進み、やがて避暑地区へと入った。車窓を流れる景色が、より牧歌的な色彩を帯びていく。

 繁茂する森、高い木立ちが作りだす涼やかな陰り、遠い虫のすだき。

 ホワイト・ロッジという形容がいかにもふさわしい邸宅の前で、馬車は静かに停まった。

 いつのまにか、もう陽が傾きつつある。


「着いたよ、ミアベル」

 氷の王子がそっと手をかけると、老淑女ミアベルは何度かむずかるように身じろぎした後で、パチクリと目を覚ました。

 そして、目尻に小じわの刻まれたその瞳に無邪気な光を宿し、彼女はだしぬけにこう言いだした。


「ではさっそく、蛍狩りへ出かけましょう」


 マチルダにはなんのことかわからなかったが、その提案はすぐに氷の王子によってたしなめられた。

「今日は無理だよ、ミアベル。僕はこれから登城しなければいけないんだ。最近、父上から珍しく召喚が掛かってる。それに、この前も言っただろ? 蛍狩りにはまだ季節だって悪いって」

「でも、お約束してくださったでしょう、エフィー坊ちゃま。蛍狩りへ、森の泉へきっと連れて行ってくださるって」

「それはそうだけど」

「今日がいいわ、絶対。今宵はきっと、蛍が見られます」

「……まいったな」


 どうしてそんなことができたのか。

 驚くほど素直に、マチルダの口からとっさの申し出が漏れた。


「あの、もし私で良ければ――」



        ♢



 老淑女ミアベルを乗せた車椅子を押して、マチルダは森の泉へ赴いた。

 ホワイト・ロッジが背後の木立ちに隠れる。おそらく氷の王子はすでに王城へと発ったはずだ。

 邸宅から暮れなずむ繁みへと敷かれた細い舗装路は苔むし、ところどころひび割れてもいたが、ミアベルの膝に抱えられたランタンの灯を頼りにどうにか注意深く森を奥へと進んでいく。

 わずかながら息が上がる。


 そして、ほとんど前触れもなく。

 視界は急にひらけ、舗装路もまたそこで尽きた。

 ひっそりと木立ちに囲まれた暗い泉が、目の前にあった。


「ええ、ここよ。この泉なの」

 ミアベルがささやいてランタンの灯を消す。息が弱いせいか、吹き消すまでに何度かかかった。

「さあさ、そーっとね、静かに静かに待ちましょうね」

 彼女に従い、マチルダは待つことにした。

 この泉に、蛍が現れるのを。


 深まりはじめた宵闇の中、ほの白い結髪のうなじに視線を落とす。

 車椅子に座るこの人こそ、王の亡き先妻に代わり王太子を育てあげたであろう女性。

 乳母ミアベル。


「変ねえ、蛍、もうそろそろだと思うんだけれど」

 不安げにしおれかかるミアベルの声に、マチルダは話題の矛先を少しだけ変えてみる。

「エフ王子殿下とは、以前にもこの泉へ?」


 マチルダが問うと、泉を眺めたままでミアベルがゆっくり頷く。

「はい、何度も蛍狩りに参りました。季節が来ると、ここへ。特にエフィー坊ちゃまがおしゃべりのできる年齢になってからしばらくの、幼いうちは。ここで蛍を見つけると、坊ちゃまはもうたいそうおはしゃぎになって」

「そうですか。……それは、なんだかとても――」

「うふふ。……意外、かしら。あの氷の王子がおはしゃぎになるなんて?」


 森の泉は、宵闇の中でいまだその静寂を保っている。

 水面にはどんな虚飾も映り込んではいない。

 和らぐミアベルの声音に、マチルダも自分の赤ら顔を気にせず素朴な感想を漏らすことが出来た。


「ええ。なんだか、意外です。私はあの方が、エフ王子殿下が表情をほころばせたり、ましてやはしゃいだりするところなんて――見たこともないから」

「そうでしょう。エフィー坊ちゃまは大きくなられるにつれて、あの凛とした表情をけして崩そうとはしなくなった……。そのうちに、誰が言いはじめたのか、凍てつく無表情の『氷の王子』などと綽名されて」


 そう、いまや王都に住む誰もが知るところだ。

 氷の王子エフ・コルベシュタインの噂は。


 王の先妻が御産死とともに残した一粒種の忘れ形見。

 王太子。

 しかし、継母の現王妃からはその存在を忌まれ、義母子の不仲を持て余した王が避暑地区の別荘へ引き離し乳母に育てさせたという、げにいわくつきの筆頭王位継承者。


 そして何より、一切の感情を持たぬかのような冷たい半眼の相貌から、氷の王子として有名だ。その氷は恐ろしく融点が高く、凍てつく無表情が融けゆるむ瞬間を見た者はいまだかつて誰もいない。

 歪んだ生い立ちによるものか、なんでも、見た目通りの冷酷無比な性格らしい。

 

「私のせいなのよ」

 暗い泉を眺め、乳母ミアベルがふと呟いた。


 森の泉はいまだ沈黙している。

 蛍は現れない。


「父王陛下にも乳母の私にも無用な心配をかけぬよう、エフィー坊ちゃまはしだいに泣くことも笑うこともなさらなくなったの。特殊な生い立ちの自分が喜怒哀楽を表現すれば、多かれ少なかれ大人たちの心に波風を立てるのだと、坊ちゃまは早くから悟ってしまわれた。とても賢く、思慮深く、お優しいから」


 密やかな懺悔の告白のように、乳母ミアベルのか細い嘆息が、淡い闇に震えた。


「私は至らなかった。エフィー坊ちゃまの傷付いた心を癒し育んで差し上げるには、乳母としての技量も、経験も、当時もう若くもなかった自分なりに積み重ねたはずの何もかもが、浅はかで足りなかった。小さな体をどんなに抱きしめても、坊ちゃまの中にはけして、私には融かせない氷があった」


 両手で顔を覆い、乳母ミアベルが身体を折る。車椅子が軋む。


 蛍が、出ればいいのに。

 マチルダはただそう思う。

 森の泉に光り舞う、蛍の群れ。

 その光景さえあれば、それを叶える魔法さえあれば、すべての想いが報われるのに、と。


 かつて、この世界には魔法があった。魔導師がいた。

 一説によれば、闇に舞う蛍の輝きもまた、そんな魔法が実在する時代に生きていた精霊たちの末裔なのだという。


 蛍よ。

 マチルダは胸の内で呼びかける。

 蛍よ、出ておいで。

 光り舞え、と。

 精霊さえ操る、太古の魔導師のように。


 その呼びかけにこたえるものはない。

 マチルダは太古の魔導師ではないのだから。

 そんなことはわかっている。

 それでも。


 ただ待ちわびるこの時間、せめてそっと、祈ってみる。

 念じ、唱える。

 繰り返し、幾度でも。

 宵闇よりもっと深い、目を閉じた暗黒の中で。

 蛍よ。

 蛍よ、出ておいで。

 光り舞え、と。 

 

 そして……。


「――ああ、なんて……、なんて素敵なの……」


 乳母ミアベルの感嘆と、まぶたの裏をくすぐる光芒に、マチルダは目を開ける。

 それは奇跡だろうか。偶然の賜物だろうか。

 魔法ではないのだとしたら。


 宵闇に沈む森の泉に、無数の蛍が光り舞う。

 繊細な筋をいくつも引き、淡く強くまたたいて。

 

「あの頃と、あのときと同じねえ……。ねえ、エフィー坊ちゃま」


 乳母ミアベルが、それを見ている。

 水面に舞う、輝きの群れを。

 蛍を。


「どうか、お許しくださいましねえ、エフィー坊ちゃま。私はずっと、ずぅっと、ただあなたの、あなたのための、お母さんになりたかったの……」


 まばゆい森の泉を、濡れる水草を、もの言わぬ木立ちを、宵の空気が狂おしくかき混ぜぼかした。



        ♢


 

 蛍狩りの数日後、乳母ミアベルはまるで満足したかのように、穏やかなまま息を引き取った。


 ほぼ近親者数名のみのしめやかな葬儀も終わり、小雨降るミアベルの墓前にはいま、芝地に跪く氷の王子と、少し後ろに控えるマチルダだけ。

 乳母ミアベルたっての遺言とのことで、マチルダはその場に参じていた。

 傘は差していない。


 王子にならい隣りに両膝をついて、マチルダも白い墓石に献花する。

 傍らでややぼんやりと、エフ・コルベシュタイン王子殿下が静かな息を吐いた。


「正直、いささかほっとしている。君と蛍狩りに行ってから亡くなるまでの数日、ミアベルは本当に穏やかだったから。でもこの幾月かは、そうでないときの方がずっと多かった。夜ふけにおかしな行動をとることもままあったし、明らかに僕が誰だかわかっていない日も少なくなかった。心休まる時期だったとはとても言えない。彼女にとっても、僕にとっても」


 いつもより、どこか冗舌かもしれない。

 けれどやはり、その横顔には表情というものがまるでない。欠落している、とでもいおうか。

 くせ毛の銀髪、端正だが冷めた印象の顔だち、細く高い鼻筋。

 氷のようにすき透った半眼の瞳は、故人の名を刻む墓標をただそのままに映している。


「夜通しミアベルの世話をしながら、避暑地区と大学院を往復するのはなかなか骨でね。もっともそれだって、僕の不在中に使用人が邸を守ってくれたからこそ出来たことだが。いずれにせよ、図書館での君の読み聞かせと寝かしつけがなければ、僕はとうに睡眠不足で倒れて勉学どころではなかっただろうな。あらためて感謝する」


 小雨は柔らかな霧雨にかわり、墓地全体を包んでいく。

 あたかも、外の世界からこの場所だけを隠すように。

 そして氷の王子が、その凍てつく無表情をこちらへ振り向ける。


「ありがとう、マチルダ・アボット伯爵令嬢。今わの際にミアベルは僕に何て言ったと思う? 小さな男の子に噛んで含めるような口ぶりでさ。『いい、エフィー? 好きな女の子ができたんなら、大事にしなくてはダメよ。あのマチルダお嬢ちゃんを、けして放しちゃダメ』って。まるで――」


 そう、それはまるで。


「――僕の本当の、お母さんみたいじゃないか」


 氷の王子の顔が歪む。

 凍てつく無表情が、美しくも不器用に崩れる。


 マチルダは彼を、胸に抱き寄せた。

 霧雨に煙る墓地の真ん中で。

 どうしてそんなことができたのだろう?


 顔をかっかと赤らめながら、そしてほとんど無意識に彼女は(そら)んじる。

 あの魔導書の序文を。



 物質には、沸点と融点がある。

 その閾値をまたぐとき、厳然たる定理によって、あるものは気化し、またあるものは融解する。


 では、心はどうか?

 人の心にもまた、沸点と融点が存在すると言えるだろうか?

 たとえば――。

 この閾をまたぎこえたら、心は恋に沸きたち、あるいは愛の熱に融かされる、といったように。


 魔法を究めし我われ魔導師が追い求める問いと答えとは、つまりはそういうものだ。

 この手を宙にかざし、地、水、火、風、光、闇さらにあまねきものと交信するとき、我われは常にそのあわいに立っている。


 沸点と、融点のあいだに。



        ♢



 臨終の際、乳母ミアベルは夢を見た。

 永遠の眠りへと誘う幻想。

 かけがえのない記憶が描き出す、最期の希望。

 夢。


 エフィーとマチルダ。

 幼い氷の王子と、赤面症の小さなお嬢様。

 二人の将来が見える。


 氷の王子はやがて、城に呼び戻され父王から王位を継ぐことになる。

 継母である王妃とその実子たる第二王子が不祥事を起こし、身分剥奪の上に放逐され、傾きかかるその王威を建て直すために。

 

 王位戴冠に際し、エフィーは愛する女性を城へ伴うだろう。

 新王が妃に迎えるその娘こそ、そう――。


 マチルダ。

 彼女もやがて、運命づけられた力に目覚める。 

 一度は失われた魔法を、この世界にふたたび取りもどす聖女となろう。

 いましばらくの研鑚と、師との巡り会いを経て。

 ミアベルには確信がある。

 蛍狩りのあの宵、マチルダが無自覚なその才によって発動させたのは、光の精霊たちを操る偉大な魔法であったに違いないのだ。


 幻想と希望は混ざりあい、そして消える。

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