まさに地獄
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みるみるうちに、俺の視界は真っ赤に染まっていく。
ゴン、ゴンと音がして、球体が次々と車内に飛び込んできた。
「ウワッ!」
俺は再び悲鳴を上げた。
俺の胸元に飛び込んできたボールのような物、それは生首だった。それらは耳や鼻を削がれ、人間の尊厳はどこにもない。
ゲエ、と声がして誰かが吐いたようだ。饐えた吐瀉物と血の匂いに、胃液がせり上がってくる。
「まだまだ、これからが本番ですよ!」
飛び散る血しぶきで、まだら模様に顔を染めた添乗員が狂ったように叫ぶ。
「もう勘弁してくれ」
俺の前の席の男性が、頭を抱えて泣いている。
今、気がついたが、この男性は著名な経済人で、汚職で逮捕されたこともある人じゃないか。ネットで総叩きの目に遭っていたなあ。しかし、既に亡くなっているんじゃなかったか?
そういえば、美熟女は大丈夫か? きょろきょろと周囲を見回すと、彼女は、血の海の只中で横たわっていた。
真っ白なスーツは血に汚れ、既に瞳孔は開いている。
「なんてこった! ショック死でもしたのか……」
突然の成り行きに、恐怖とパニックで思考が追いつかない。そんな俺の脳裏に、母の最期の姿が浮かんできた。こんな時に助けを求めるのは、やはり母親なのだろうか?
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俺の手を握り、「先に行って待ってるよ」と言って死んだ母。
それだけ聞けば、俺たちの絆が深いと思われそうだが、そういうわけではない。いつも母は俺に厳しかった。いや、違う。冷淡だった。
物心ついた時から、俺の心は母に傷つけられっぱなしだったのだ。
入試に失敗した俺に、「塾代、ドブに捨てたようなもんね」と捨て台詞を吐き、友人と揉めて落ち込んでいる俺を、「友達いなくなっちゃったわね。どうせあんたは嫌われ者だろうし」と罵倒し。人生で初めて出来た彼女にフラれた時には、「あんた体臭がきついからじゃない? お父さんに似たのね」と笑いながら宣った。
どれもこれもつらく嫌な思い出ばかり。
大学受験も、「あんな大学、金の無駄よ」とニベもなく撥ねつけられて、諦めざるを得なかった。あの時は絶望したよ、俺の人生は終わったって。
そのせいで、希望した職にもつけなかった、と今でも恨んでいる。
だが一番辛かったのは、いつも不機嫌で、俺が何を言っても何をしても否定してきたことだ。
故郷を離れ都会で一人暮らしを始めて、ようやく解放された気分で過ごしていたのに。
父が死んで母に呼び戻され、実家に帰ることになった。
今にして思えば、あれが『ほんものの地獄』の始まりだったなあ……。
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ほんものの地獄? あれ?
なぜ俺は『地獄』ツアーなんかに参加することにしたのだろう?
思い出せ、全てを。最初から。
母と二人暮らしになった時は、俺の方が母より強くなっていたなあ。子供時代の仕返しとばかりに、俺は理不尽な怒りを母にぶつけるようになった。母も高齢になって、気が弱くなっていたのだろう。よく泣いていた。
骨が脆くなって何度も骨折し、体調を崩した母は、やがてほぼ寝たきりになった。
世話は大変だった。
辛かった。
一人っ子で、誰に頼ることもできない俺は、仕事も辞めて母にかかりきりになった。
俺なりに頑張ったつもりだったが、後悔することばかりだ、今さら遅いが……。
あの日の朝。
母のおむつを替えてやった時、母が両手を合わせ「ありがとう。先に行って待ってるよ」と言った。
母が亡くなったのは、その後すぐ。
先に行った所が、まさか『ここ』じゃないよな?
添乗員が、俺のそばに来て語りかけてくる。
「そうでございますよ、あなたのお母様はここにいらっしゃる。ほれ、あそこに」
「えっ?」