第9話 クロデ夫人 いい人です
前日に朝は何時に起きるといいのか忙しさに紛れて樹は失念していた。
引越しの疲れもあってか、9時少し前に目が覚めて、もしかして、これは大寝坊で嫌な顔をされるかと思いながらとりあえず着替えて、洗面のために2階に降りていく。
不動産の事務を手伝っているクロデ夫人がまだ2階にいて、降りてきた樹に、おはよう、と明るく声をかけた。
昨日は、静流がごめんなさいね。樹ちゃんがお風呂に入っているときに初対面の挨拶になっちゃったんだって?と、苦笑している。
「でも、全然見てないから、全く見てないからね、って、あたしにも言ってたから、安心してね。」と、すまなそうに言った。
「だから、〈対面〉はまだってことね。でも、今日は静流は朝イチで用があるとかでもう出かけちゃったのよ。ちゃんとした挨拶はまた今度ね。」
あ、はあ、と、なんとも答えようがなくて頼りない声を出しながら樹は頷いた。
「そうそう、LINE読んでくれた?」と、おっとりとした風なのだが、畳み掛けるようにクロデ夫人が話しかけてくる。
「いえ、まだです。」
そうだ、ここでの暮らしについて、LINEで送ってくれるって言われてたのもすっかり忘れていた。樹は慌ててポケットの辺りをパンパンと平手で叩くがスマホの固さはない。部屋にお置いてきた。
「取りに行きます。」
慌てて引き返そうとする樹をいいのいいの、とクロデ夫人が引き止める。樹ちゃん、真面目よねえ、なんか、うちの子たち、見習うといいのに、と笑った。
「後で確認してくれるといいからね。」と、クロデ夫人の口調は優しい。「とりあえず、うちは仕事があって、高校生は間もなく学校が始まるから、そうしたら7時にあたしと夫と娘は朝食を食べるけど、無理にそこに合わせなくていいって話よ。」
〈7時〉と聞いて、これは大寝坊で顰蹙だったかと、一瞬身を縮こまさせる思いだった樹だが、合わせなくていい、の言葉にほっと胸を撫で下ろした。
「今は春休みだから、娘も起きてこないし。
あたしと夫だけだから、最近は8時くらいに二人で朝ご飯食べてるわ。
静流なんて、いつ起きていつ食べていつ学校行っていつ帰って来てるのか、ほんとよくわからないんだから。」と、やれやれとクロデ夫人は少し芝居じみた様子で言う。
「樹ちゃんも大学生さんだから、生活時間については、あまりうるさく言わないようにしたいの。」と、クロデ夫人が、そうよね、という表情で樹を見る。「でも、生活が乱れた感じがするのはイヤよ。そういうの、あたし、わかるからね、樹ちゃん。樹ちゃんはご実家からお預かりしている大切なお嬢さんなんだから、その時はすっごく文句を言って、説教垂れて、管理するからね。」と、わざとらしく怖い顔をしてみせてから、「でも、会って安心した。樹ちゃんなら、そういう心配は要らないかな。」と、にっこり微笑む。
ありがとうございます、と、思わずお辞儀をする。
ふふふ、「そういうところ。」と、クロデ夫人はいよいよ声を出して笑った。
ご飯については、朝昼夕3食ともに特に樹の分ということでは用意はしない。だが、食べるものがないということではないから安心して。冷蔵庫にカットして洗った野菜があるので、食べたかったらそれをサラダにして、マヨネーズでもドレッシングでも好きなものをかけて召し上がれ。
玉子やベーコンなど、使えるものは自分で調理して。食パンは、ここに常備してあって、ジャムとバターは冷蔵庫のここの段。
ジャーの中はご飯。好きな時に食べて。
おかずは多めに作って冷蔵庫に入れて置くので、よかったら食べて。
食べ切ったものは、LINEメッセージで連絡してください。補充します。
あと、ハンバーグとか焼き魚とか人数分用意したいおかずの時はLINE送るので、食べるか食べないか教えてね。
食事はキッキンのダイニングテーブルでとってもらってもいいし、トレイ、トレイはここね、と場所を教えてもらって、トレイに乗せて自室で食べてもいいし。どっちかというと自分部屋の方が気楽かな?
食器は食器棚のこの辺のものを適当に使って。
洗濯機は、使い方、見てわかる?今の人、機械に強いから大丈夫かな?わからなかったら言ってね。洗剤と柔軟剤はここ。使ってもらって大丈夫。自分のお気に入りのモノがあるなら、それは自分で用意してね。
そんな感じ?
困ったら、LINEでメッセージ送って。直接下の事務所に来てもらってもいいし。
わからないこと、ある?と、聞かれて、樹が、今日はバイト、どうしたらいいでしょう、と、尋ねる。
クロデ夫人は樹の言葉に少し驚いたようで、樹ちゃんて、ほんとに真面目なのねえ、と感心した。
仕事を手伝ってもらうのは、大学が始まってからでいいよ、と、クロデ夫人は言ってくれる。
しかも大学の授業のある日は学業に専念するが良い、ということで、主に土日にお願いしたい、ということだった。それも、たまの、土日でいいらしい。仕事の内容は、外回りで、といっても営業ではなく管理物件の点検とやら。
住み込みのバイトと聞かされていたから、翌日からめっちゃ働かされるのかと思いきや、クロデ家は樹を甘やかしてくれるみたいだ。
ゆっくりやっていきましょ、と、クロデ夫人は温かな笑顔を残して、事務所に降りて行った。
できる女、って感じ、と思いながら後ろ姿を見送って、いい感じでほっといてくれるように気を遣ってもらってることを樹はありがたく感じた。思ったよりも、暮らしていきやすいかも。