第2話 母も話します
「お母さんの旧姓は知ってるね。」と、父親が続けた。
母の旧姓。
〈畔出〉と書いて クロイデ と読む。
クロイデ
クロデ
似てるけど、なにか関係があるのかな、と樹は考える。でも、確か親戚にはクロイデはいてもクロデはいないし、不動産屋を営んでるうちなんて聞いたことがなかった。
「〈畔出〉姓も、色々由来があるみたいだけど、樹も、そう思っただろう?クロイデ、クロデ、似てるよね。お母さんの実家のクロイデの由来はこのクロデ筋から来ている。それで、多分地域に馴染むようにその土地に見受けられる似た名前を取り入れたのだろう。」
初めて聞く話だった。
「お母さんもね、」と、それまで黙っていた母親が父の話を受け取る。「お父さんと結婚するまではそんな、自分のうちの名前の由来なんて考えもしなかった。下の名前の方はね、どうしてそう言う名付けをしたか、自分のことだから気になって親に聞いたりもしたけどね。だって、きょうこ、って音だけ聞くと当時は割とあった名前ではあったのよ。でも、漢字がね。鏡の子、だからね。なんで、鏡?響くの響きょうとかじゃダメだったの?って、不思議に思うじゃない。子ども心に。
まあ、それは置いといて、お父さんがね、結婚の挨拶ってヤツよ、娘さんを、のヤツよ、その挨拶をしにスーツできたわけ、お母さんの実家に。カッコよかったよね、お父さん。」と、父に相槌を求める。父親が、まあ。そうかな、と少し照れたようにゴニョゴニョ言う間に母親の話は進む。「そしたらさ、おじいちゃんたら、娘をよろしくでも、やらん、でもなくて、なんか実家の名前の講釈を垂れようとするわけ。実家がそんな由緒正しい家だとかそれまで聞いたことなんかないからさ、もう、よしてよお父さん、って、おじいちゃんのことね、って思ってたら、実は、となって、お母さんもそれまで知らされてなかったんだけど、畔出クロイデのうちは、クロデ組合っていうのに入ってるっていう話になったの。」
ようやく冗漫な母の話の中に興味のある言葉が出てきた。
「クロデ組合はね、漢字で書くと黒い手って書くんだって。それがどうしたって話なんだけどさ、ここで、またおじいちゃんが、自分の母親、おかあさんのおばあちゃん、あんたのひいおばあちゃん、わかる?」
そう聞かれて、まあ、なんとかついていけてる、と、樹が頷く。
「また、話が飛んじゃったなあ、っ思ってると、その人がね、ちょっと変わったこと言ってたの覚えてないか、って、おじいちゃんがいうわけよ。
それで思い返してみてんだけど、そんなに一緒に暮らした時間が長かったわけじゃないから、あんまり覚えていないけど、そういえば、って思い当たったのは、おばあちゃんって、なんか、気まぐれな女だったなあ、って。
その人の旦那さんっていうか、お母さんのおじいちゃん、は、その頃もう亡くなってて、お母さんは会うことはできなかったんだけど、あたしとか、それこそ畔出のおじさんは、小さな頃、このお婆さんのわがままに随分泣かされたものなのよ。家族で出かけようと、随分前から計画を立てていた旅行だったのに、その日の朝になってから、急に、行かない今日はやめようと言い出したり。
お母さんとおじさんはもう、すっごく楽しみしていて、着いたらすぐ近くの海水浴場に行こうって、水着まで着込んで順番万端だったのよ。本当にあの日は海水浴日和だったのになあ。でも、おとうさん、お母さんのね、だから、あんたのおじいちゃんはマザコン男だったから、すぐハイハイってひいおばあちゃんの言うこと聞いて、あんたのおばあちゃんまで、仕方ないみたいになってお母さんとおじさんは泣き寝入りよ。
それが、一番腹が立ったかなあ。でも、思い返してみると、いつも、じゃないけど、今日はやめよう、とか、今日は違う道から行こう、みたいなことを言う人だった。
それで、思い出したことを話しながら、「お父さんもお母さんも、子どもの気持ちより、必ずおばあちゃんの気まぐれを優先したよね。」って、挨拶に来たお父さんの前だったけどさ、おじいちゃんに文句を言わずにはいられなかったの。
そうしたら、おじいちゃん、それは当然だよ、なんて、平然と答えるの。こりゃ、母親が亡くなってかなり経つのに、まだマザコン大爆発か、なんて呆れていたら、命に勝るものはないからな、なんて、おじいちゃん、意外なことをいうの。
その時まで。おばあちゃんの気まぐれだって思ってたものは、ある種の予言めいたもので、それを信じずに行動した人はえらい目に遭う、って、おじいちゃんは言った。多かれ少なかれとはいえ、忠告を聞かなかったらときは、なにか良くないことが起きてきたんだと思う。ただそれまでが些細なことだったので、婿に入ったオヤジも、俺たち夫婦もクロデ組合の話は聞かされてたのに、お袋の忠告を蔑ろにしたんだ。その日オヤジは、出かけてくれるなって言うばあさんの忠告を今回ばかりは、って聞かなかった。違う場合ならわがままを聞いてやってもいいが、仕事なんだからこればっかりはお前の言うことはきけんな、と、止めるばあさんを張り切って出かけてしまった。結局、オヤジは命を落としたよ。俺も母さんも、それまでは、またばあさんの気まぐれが始まった、と思っていたんだが、それですっかり考えを改めたんだ。
忠告を聞かなくても、大したことは起きないかもしれない、し、通り雨に濡れるくらいのことで済むかもしれない。だが、下手をすると、命に関わるんだ。な、ばあさんの言葉に従わないわけにいかないだろう?
そう言われるとそうだけど、でもそんな夢みたいな話すぐには信じられないでしょ?
それに、そんな超能力みたいなことができるんなら、競馬を当てたりとか、大きな事件を未然に防いだりできるんじゃない?
そう思って聞いてみたけど、本当に直前に自分家族とか、身近にいる人に対して、ソワソワするみたいな不安な気持ちがいきなりぐぐっと湧いてくるだけなんだって。何があるのかとか、どうなるのか、とかは、婆さんにもわからないらしい。
本当に、当たり馬券がわかるくらいの能力だとよかったんだがねえ、と、あんたのおじいちゃんは心から残念そうに言ってたわ。
それでね、その、少し先の未来に何が嫌なことが起こる、みたいな力は、先祖から来たもので、その力が残る人がいる家は、クロデ組合の組合員ってわけ。」と、母の話が唐突に終わった。