09/「笑ったらどんな感じかなぁ」
魔女になるための勉強を中断されるのは少し悔しいけれども、本来の仕事の邪魔をしては本末転倒だ。アリヤは急いで荷物をまとめた。
セディッカはまだ顔を出していなかったので、今日はひとりで帰らなくては。空はまだかなり明るいから大丈夫だろう。
魔女に軽く会釈をする。お客さんはアリヤには興味がないらしく、ちらりともこちらを見ない。
「じゃあまた明日ね、コウモリちゃん」
――チィッ。
頭を撫でながら挨拶したら、ちょうど返事のような短い鳴き声が返ってきた。
……ばた、ばたばたばた。ばたばた……。
幸い何事もなく家に帰り着けた。
しかし夕食やお風呂を済ませたあとで、いつものように布団に入っても、その日はなかなか寝付けなかった。普段アリヤは寝つきがいいほうなのだが、セディッカとのやりとりがまだ胸につかえていたせいかもしれない。
なかなか眠れず寝台の上で悶々としていた挙句、ようやく微睡んだところで、おかしな夢を見た。
空がべったりと茜色に染まっている。朝焼けとも夕陽ともつかない、なにか妙に毒々しいほど鮮やかな朱に、転々と黒ずんだ雲が散っている。
なんだか嫌な感じだな、と思いながら視線を落とすと、紅蓮の空の下には荒野が果てしなく広がっていた。
草もまばらでそのほとんどが枯れて色褪せ、大地は干からびて稲妻のようなひび割れが走っている。――そこに赤黒い液体が流れ込む。
どきりとしてその元を辿った。
荒涼とした褐色の平野にただ一点、黒い塊がある。
それは、鳥だった。
見上げるほど大きな身体。光を拒んだように深い漆黒の翼。けれどその風切羽根のあたりや頭頂は、相反してミルクのように真っ白だ。
さらに双眸と嘴、それから二本の太い脚は、血のような真紅だった。
そいつの足許にはどろどろとした赤黒い沼が広がっていて、それが旱魃のひびに注いでいる。まるで大地の渇きを癒そうとするように。
よく見れば鳥は何かを踏みつけていて、――それは、人の、形をしている。
「……ッ!」
びちゃ、びちゃり、と薄寒い音を立てて、怪鳥の嘴からそれが滴り落ちた。
鳥は足蹴にした誰かをときどき啄む。それが延々と、もう数え切れないほど繰り返されてこの光景が作られたのだと、アリヤは理解した。
ひとりふたりの犠牲では足りぬほどの、深く冥い底なしの血の池が。
――わたしも殺されるの?
たぶんアリヤはそこで悲鳴を上げたのだと思う。
けれどそれよりももっと大きな、空を砕いたかと思うような轟音によって、少女の叫びなど簡単に掻き消された。
響き渡った雷鳴が、アリヤの視界を黄金に染めた。
「――ぃやぁぁぁあッ!?」
直後、アリヤは自分の叫び声で目を覚ました。自分でもびっくりするほど大きな声だったので、隣の部屋で寝ていた両親が起きてきて、ひどく心配されてしまった。
怖い夢を見て……なんて幼い子どもみたいなことをこの歳になって言うのは、さすがに恥ずかしい。
それでも異様な夢だった。しばらく胸がばくばくと騒ぎっぱなしで、そのあとはますます上手く寝つけなかった。
そんなわけで翌日は朝からすでにぐったりしていたものの、幸か不幸か、学校は休みの曜日である。
普段より少し遅めに起きたアリヤは、健康的な朝食で体調を整えてから家を出た。
もちろん彼女の行き先は、今日も今日とて魔女の薬屋だ。まる一日を修行に費やせる絶好の機会を逃すわけにはいかない。
もっと学んで成長しなくては。
それでまず……早く、セディッカに認めてもらいたい。もちろん最終的な目標は一人前の魔女になることだが、アリヤにとってそれ以前の第一関門は彼なのだった。
魔女の弟子として受け入れてもらえたら、そのとき彼はアリヤになんと言うのだろう。
……なんて、いつになるかわからないことを歩きながらあれこれ考えたけれど、科白の前に表情すらも想像できないことに気づいた。なぜなら今までアリヤの見てきた彼はずっと、不機嫌な仏頂面ばかりだから。
「……笑ったらどんな感じかなぁ」
一度くらい彼の笑顔を見てみたい。そう思うことくらいなら、認めてもいいだろうか。
胸の奥がきゅうっと痛んだけれど、そちらは精一杯気づかないふりをした。
しかし――。
しばらくしてアリヤを出迎えたのは、信じがたい光景だった。
焼け焦げた看板。めちゃくちゃに割れた色硝子、散らばる瓦礫。そして不安や恐怖に染まった声を漏らしている無数の人だかり。
アリヤは慌てて野次馬を掻き分けた。
人の壁の向こうには、無残に半壊した薬屋の姿があった。その残骸を憲兵団の人が調べている。
「何があったんですか!?」
アリヤの悲鳴じみた問いに、近くにいた憲兵が答える。
「調査中だ。危ないから近づかないように」
「でもっ……あ、あの、魔女さんとセディくんは、ふたりはどこですか!? 無事なんですよね!?」
「魔女と誰だって? 今のところ死体や怪我人は見つかってない。いいから下がりなさい」
「そんな」
少しも安心などできない返答だった。呆然と立ち尽くしていたアリヤを、邪魔だというように憲兵がもっと外に押しやろうとする。
だがアリヤははっとして、気づけば駆け出していた。
「おい、何を――」
自分でもわからない。何を感じたとも言えないのに、そこを探さなければならない、という強い衝動だけが湧きあがったのだ。
何の迷いもない。憲兵の制止を無視して、アリヤは無心で瓦礫やら棚の破片を退ける。
するとその下には血にまみれた黒いものが蹲っていた。
「コウモリちゃん……」
「なんだその、小汚い獣は」
「この薬屋さんの子です! ひどい怪我……でも、まだ生きてる。手当てしないと」
アリヤは周囲を見回し、瓦礫の中に散らばっていた薬草の中からいくつか選んで掴み取ると、コウモリを抱き上げて足早にその場をあとにした。
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