33/『きみの気持ちには応えられない』
もう、ずいぶん昔の話。
変わり者の魔鳥は、気まぐれに拾った特異点に名前をつけた。
彼女に個人名がなくて不便だったのもあるが、名によって魂を縛ることで、その支配を完全なものにする意味もあった。
真名を呼ぶのは主だけ。
またその秘密を他に知られぬよう、表立っては別の語意を持たせた略称で呼ぶ。
ムルとは今はもう滅びた言語で「無益」を意味する言葉だ。他の霊属にちょっかいを出されないよう、呼称にはわざと縁起の悪いものを選んだ。
また奴隷に戻されないよう特異点であることを隠し、あるいは魔女を政治や戦争に利用したがる為政者を避けるため、ラーフェンとムルは各地を転々とした。
あるときムルが親とはぐれたコウモリの子を拾った。幼すぎて野生では生きていけないからと、彼を羽を持つ子と名付けて使い魔とし、三人になった。
魔力を授かった者は、もとの生物と同じようには歳を取らない。けれどムル自身が成長を望んだため、薄汚れた奴隷の少女は健やかな娘になり、やがて目を見張るような美女になった。
そうなると、人の姿に身をやつした魔神と並んでも、もはや親子には見えない。コウモリが化けた幼子を連れていれば尚更だ。
そして特異点たる彼女を悪意ある輩から守るためにも、人前では伴侶のふりをするのが都合がよかった。
そんな暮らしの中で、身も心も充分に大人になった彼女が、ラーフェンに恩義以上の感情を抱き始めたのはいつだったのだろう。
あるいは長い年月の間に、魔神がその呪わしい魅了の瞳で彼女を眼差してしまったのは――彼にそのつもりがなくても、ただ眼が合うだけで呪詛が少しずつ染み込んでいく。
けれど特異点からの好意に、魔神が応えるわけにはいかなかった。
ただ、ムルは決してラーフェンに何かを求めたりはしなかった。
そもそも彼女は他に対して一方的に与えることに慣れすぎている。自分が愛されるかどうかより、己が想いを注ぎ続けることのほうが、ムルにとっては遥かに重要だったのだ。
問題があるとすれば、魔女が実際にインプンドゥルへ注いだのは形の見えない愛情ではなく、彼女自身の生き血であったことだろう。
『ムル、もうやめてよ。おれ、ムルがじぶんでけがするの、みたくない』
小さなセディッカが何度そう言って泣いたかわからない。そのたび魔女は使い魔の頭を撫でながら、私なら平気ですよと、ある意味無神経な言葉を返した。
彼女は他人の心身の痛みには過敏なくせに、それが己へ向けられた愛着や憐憫になると恐ろしいほどに鈍い。
そうなればコウモリが責められる相手は魔鳥しかいない。どうして魔女の献血を止めないのかと、細い身体を震わせて訴えたセディッカに、ラーフェンは返す言葉もなかった。
施しがなければ、ムルに彼女自身を救うための魔力を与えられない。何の対価もなしに奇跡は起こせない。
だからラーフェンは考えた。魔女の自傷行為に頼らず、またできるだけ彼女の意思に悖らないで、魔力を贖う方法を。
間違っても魔神の行いが不用意な反作用に繋がらないよう、慎重に試行錯誤を重ねた。さんざん理屈をこね回し、幾度か失敗もしながら、とうとう辿り着いた答えが『異界渡り』。
生身の肉体を持たないからこそできる荒業だ。
それに異なる世界があること自体は理論の上で明らかでも、実際にそれを探して渡った者など前例がない。
たとえラーフェンが渡界にしくじって帰れなくなっても、セディッカがいるからムルは独りにならない。何かあったら自分の代わりに彼女を守ってほしいと頼めば、使い魔は当然だと怒りながら返した。
躊躇いはなかった。
しかしムルは首を縦に振らなかった。彼女が我が儘を言ったのは初めてだった。
今までどんな目に遭おうと微笑みを絶やさなかった魔女が、この世の終わりのように泣きじゃくってラーフェンに縋りついたのだ。
――あなたに何かあったらと思うと耐えられません。どうしても行くというのなら私を連れてください。私はあなたのものです、あなたに生かされている女なのです、どうかお傍に置いてください。愛しています――。
『ごめん、ムル。……僕はきみの気持ちには応えられない』
『どうしてですか? 私が、人間だから? あなたの魔女だから? それとも、特異点だからですか?』
『……その、すべてだよ』
霊と生物はその造りや暮らしが違いすぎて、そもそも同じようには生きられない。魔神と人間が結ばれることはない。
本来ならインプンドゥルにとって魔女は、ありていに言えば下僕だ。魔眼でとりこにして盲目的に従わせ、罪の意識を奪って生け贄を用意させ、己を養わせるための。
そして特異点を愛したりすれば、どれほど均衡を損なうことか。
彼女はただでさえ強い引力を持っている。ともすれば当人の身すら滅ぼしかねないほどの。
そしてラーフェンは魔神、つまり霊属のうちでも邪悪な部類である魔物なうえに、神を名乗れる程度の力がある。その己がムルに魔力以上のものを注げば、反作用は世界にいかなる影響をもたらすか知れない。
だから魔女を突き放した。
それでも代償として――この世界を発つ前に、残していく彼女にしてやれることが、たったひとつだけある。
『ムル、これを』
死人の吐息110ml。
うさぎの角の粉末、ティースプーン5杯。
クジャクのひげ6本。
そして最後に、愛した人の眼球を4つ。
ぜんぶ鍋に入れて、竜の胃液に煮溶かして、弱火でじっくり7日間。
きれいな蜂蜜色になったら出来上がり。
――それは『失恋の痛みを和らげる薬』。
いずれも容易には手に入らない材料ばかりだが、薬屋を営む魔女の家には、ほとんどが揃っていた。
唯一足りないのは眼球だけ。だからラーフェンは自らの目玉を四度抉って渡した。
生身の肉体を持たない魔神であっても、いずれ元通りに再生するとしても、その行為には凄惨な痛みが伴う。
それでも魔女の心痛を思えば耐えられた。身体の傷が癒えるのに、心ほどは永くかからない。
たとえ女としては愛してやれなくても、ある意味では充分すぎるほど、彼女を大切に想っている。
→




