アイスにかける
給料が出た金曜日の夜である。私は大衆居酒屋へ行き、心行くまで、食べ、飲んだ。財布は軽く、足取りも軽く。
そして。
「……どうしようかなあ、これ」
手の中のビニール袋は、ずしりと重かった。
◇
このご時世、飲食店はどこも経営が厳しい。居酒屋なんかは特にそうで、なんせ20時までの営業の上、感染を恐れて客足も遠のき、いつもは満席のテーブルも空席が目立つ、そんな中。
我が行きつけの大衆居酒屋の店主が、とうとうブチ切れたのである。
ビンゴ大会をしよう、彼はそう言って棚から古いビンゴマシーンを取り出してきた。ネズミのプラスチック製の人形が、スイッチを入れるとガラガラとビンゴボールの入ったかごを回すタイプのものである。酔っぱらった銀行員の常連客がおぼつかない手つきでビンゴボールを数えてみたところ、奇跡的に全部そろっていた。
でも、ビンゴカードがねえじゃねえか。
そう言う常連客に対し、店主はにっこり笑うとレジ台から袋に入ったビンゴカードを取り出してきた。ビンゴカードはピカピカの新品で、店主が前々から準備してきたものであることは明白だった。
「さあ、やるか」
「やるっつったってよ、景品は何だよ景品は」
「冷蔵庫の中に入ってるもの全部さ」
「正気かよ」
「正気だよ。どっちみち明日から臨時休業するつもりだったんだ」
そう言う彼の目は据わっていて、彼が本気なのは間違いなさそうだった。その気迫にひるんだ常連客がおずおずと言う。
じゃあ、やるか。ビンゴ。
ルールは簡単であった。店主がビンゴマシーンのスイッチを押し、出てきた数字を読み上げる。ビンゴが出た客から、冷蔵庫の中の好きなものを持って帰ってよい。私はほとんどやる気はなかったのだが、姉ちゃんもやるだろと言われてビンゴカードを押し付けられたのである。あれほど静寂に満ちたビンゴ大会は初めてであった。店主が椅子に座り、ぎらぎらと目を光らせながらビンゴマシーンのスイッチを押す。出た番号を普段は日替わりメニューの描いてあるホワイトボードに書いてゆく。常連客は無言でビンゴカードを調べる。出た客は小声で「ビンゴ」と言って手をあげ、しずしずと冷蔵庫へ向かっていく。これはもはやビンゴ大会ではない、罰ゲームである。
私は早くその場を脱したい一心で、ひたすら読み上げられるままカードに穴を開けていった。ありがたいことにビンゴが出たのは始まってから5番目くらいで、レモンサワーの氷はすっかり解けていた。ぐっと飲みほしてから宣言する。
「ビンゴ」
「姉ちゃん、好きなの持っていきな」
とは言っても冷蔵庫の中のものはほぼすべて業務用で、家の冷蔵庫に納まるかと言えば無理そうだった。業務用の牛筋なんてどうしたらいいか見当もつかない。ふと思って冷凍庫の中を漁ってもいいかと尋ねると、自棄になっている店主からあっさりとお許しが出た。
「あ、これもらっていいですか」
「いいよ、持っていきな」
見つけたのはデザート用の業務用バニラアイス2Lである。これならば家の冷凍庫になんとか収まりそうだった。店主がテイクアウトのお弁当用に使っているビニール袋をくれたので、それをもらって帰宅の途に就いたのである。
◇
「おかえりなさいませ、案外早かったのですね」
「ただいまです、お二人とも」
家に就いたのは八時半ごろであった。玄関を開けるとイサークとリディアが出迎えてくれた。もう慣れっこになってきたので特に驚きはない。アイスを冷凍庫に入れようとすると、イサークが目を輝かせてそれはなんだと聞いてきた。
「アイスクリームです」
「おお、氷菓か!」
アストロ王国にもアイスクリームが存在するらしいが、乳と蜜と天然氷を使った大変贅沢なお菓子なので、王侯貴族でも口にすることは滅多にないのだという。シャリシャリしていて甘いらしい。
「アストロ王国には硝石ってないんですか?」
「硝石?ああ、火薬に使用されるあれか。あれがどうかしたか?」
「あれを氷と混ぜると、氷の温度が下がってアイスクリームを冷やして作るのに使えるって聞いたことがあります」
「なんと、それはまことか!よし、帰ったら魔術師どもに研究させよう」
リディア、氷菓が食べ放題になるかもしれんぞと笑うイサークの顔は、年相応に見えた。
「食べますか、アイスクリーム」
「良いのか?そのような貴重品を……」
「2Lありますんで。リディア妃も食べますか?」
「よいのですか?」
「子供が遠慮なんかしちゃだめですよ。何かかけて食べましょうね」
冷蔵庫を漁ると、この前スーパーで買ったイチゴジャムとチョコレートシロップがかろうじて出てきた。しかしそれだけではなんというか物足りない。私はとっておきのバタースコッチの味がする洋酒を取り出した。
「おお、酒か!」
「この世界では未成年が飲酒なんかしちゃだめなんですけどね。アイスにかけるならいいでしょう」
アイスクリームを食べるのに使えそうな器を三つ取り出し、アイスを容器から削って器にたっぷり盛った。スプーンを取り出し、イサークとリディアに出す。リディアはイチゴジャムをかけ、イサークは洋酒を注ぐことに決めたようだ。スプーンで一口すくい、口に運ぶ。
「まあ……なんて滑らかなの!そしてこの甘さ!この赤いジャムの甘さをこの氷菓の味が引き立てておりますのね……!そして、ジャムもまた氷菓の滑らかな甘さを引き立てている……!まるでわたくしとイサーク様のようだわ!」
「うむ、この酒のくどいほどの甘さを氷菓が中和しておるのだな……そして酒でかっとなった口の中の熱さを、氷菓が優しく沈めてくれる……なんということだ、この氷菓は……引き立て役にも主役にもなれるのだな!」
私は何もかけずにそのまま口に運んだ。滑らかな甘さとひんやりしたくちどけが、金曜日の疲労を癒してくれる。バニラアイスとは偉大な食べ物であるなあと私は思い、食べ過ぎないように気を付けないとなあとも思った。
◇
「わたくし、刺繍をいたしましたの。受け取ってくださると嬉しいですわ」
「光栄です」
今日はリディアから見事な植物の刺繍のされた豪華な紫のハンカチをいただいた。布地の手触りはうっとりするほど柔らかく、良い香りがする。
「使うのがもったいないので額縁に入れて飾ります」
「そんな、大したものではありませんのよ。どうぞお使いになって。刺繍には幸運を呼ぶまじないの意味がありますの」
「わざわざ私のために。ありがとうございます」
「それでは余とリディアは帰る。今宵も素晴らしき馳走であった。次来るまで体には気を付けるのだぞ」
「はい、承知しました」
扉がゆっくりと消えていくのを見守ってから私は寝る準備をすることにした。
今夜はぐっすり眠れそうだった。
バニラアイスには無限の可能性があると思うんです。