表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ゼウスの行方

作者: 水色のヤス
掲載日:2020/03/22

 温もりと快適を保証する浴室は、その存在意義を失ってしまった。この地域を襲った大地震により水道管が破裂したからだ。


 冬の暮れ、加入していた野球クラブの練習から帰宅した譲治じょうじが、ユニホーム姿のままで用意されていた夕食を平らげ、不快な汗を流すため風呂に入ろうと歩き出した瞬間に地震は発生した。凄まじい揺れに譲治の両親である金蔵きんぞう安子やすこは悲鳴を上げたが、通っている小学校の敬虔な信者である譲治だけは、発生直後は驚いたものの即座に落ち着きを取り戻し、学校で習得した知識を発揮して夕食の食器が置かれた大机に潜り込む。両親も譲治の行動に追随して机の下に避難した瞬間、次々と食器は墜落して高音を放ちながら割れていった。


 揺れが収まった後の惨状は言うまでもないが、譲治の眼には映らない。当初からの予定である入浴を実現したいからだ。狭い家を移動して浴室へと到達し、譲治が浴槽に温水を注ごうとした時、異変に気付いた。


 汗ばむ体を解消できないことに憤慨した譲治は、子供らしく感情を発露させて泣き叫ぶ。安子と一緒に机から這い出て、視界に入ってくる部屋内の状況に混乱していた金蔵が、この惨状は聞こえてくる泣き声の仕業だったのかと錯覚したほどに、特大の騒音を譲治は放っていた。

 

 落ち着きを取り戻した金蔵は譲治の所へ向かい、泣いている理由を尋ねた。


「どうしたんだ、怪我でもしたのか」

「違うよ、お湯が出ないんだ」

 

 汗臭いユニホームで涙を拭いながら答える。

 蛇口を捻ったけれど温水はおろか冷水さえも出てこず、地震のせいで問題が生じたに違いないと察した金蔵は、息子の放つ汗臭さを不快に感じ始めた。早く譲治の体をキレイにしたいと考え、冷蔵庫に保管していたミネラルウォーターの使用を思いつく。


「譲治、とにかく汗を流してしまおう」


 と譲治に言葉をかけるが、ミネラルウォーターで譲治の体を洗い流すことには問題がある。今日は冬の中でも格段に寒い一日であるため、冷蔵庫に保管していたミネラルウォーターでは冷たすぎるのだ。しかし金蔵は強行する。


「ひゃああ」


 最初は大人しく従っていた譲治だが、服を脱いで水をかけられると悲鳴を上げた。少しの辛抱だと励ましながら、汗まみれの譲治に水をかけていく。薬缶で温める、汗拭きシートで代用する、などの代案は金蔵の頭に浮かばず、ミネラルウォータで一刻も早く譲治の体をキレイにするんだ、という考えに支配されていた。冷たさに耐えきれなくなった譲治は、浴室から逃げようとする。


「もういいよ、寒くて耐えられない」

「もう少しだから頑張れ、タイルに貼ってあるヒーローたちも譲治を応援しているぞ」


 苦しんでいる譲治に向かい、半ば悲鳴のような声で励ます。

 浴室のタイルには、小学生の間で人気を博している戦隊アニメのヒーローがシールとなって存在している。数か月前に金蔵と譲治で貼ったのだが、貼りつける際に金蔵は一枚のシールを破いてしまい、五人組のヒーロ―なのに四人しかタイルにいないのだ。破いてしまったキャラクターはゼウスといい、譲治が一番好きなヒーローであった。


「頑張れないよ、お父さんのせいでゼウスが死んじゃったから」


 ミネラルウォーターをかけていた手は止まり、泣き顔の譲治を凝視する。その顔には悲しみだけでなく、体の奥底から湧出した憎しみがまとわりついていた……。


 

 冬の暮れ、存在意義を失った浴槽の中に譲治はいた。金蔵の十三回忌が終わり、集まった親族たちはそれぞれの帰路に就いたので、自宅にいるのは譲治だけだ。譲治以外に誰もいない沈黙の家で、少年時代に存在した一家団欒を思い返しながら浴室のタイルを眺めている。――あの時は凍てつく寒さに劣勢だった五人のヒーローたちが、窮屈な世界を飛び出して縦横無尽に躍動している。それは果たせなかった金蔵と譲治の遊戯でもあり、尽きることのない悔悟の涙でもあった。本当は存在していたゼウスを見落としたばかりに、譲治は一家団欒の温もりを失ったのだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ