第5章ー10
話がずれたので、元に戻すが。
ともかく連合国軍の戦略爆撃は、1942年の晩秋から1943年の春に掛けて特に猛威を揮った。
何故かと言うと、ロシアの極寒故である。
特に酷かったのはモスクワであり、英米の戦略爆撃により、あくまでも平均値だが、モスクワ市街地1ヘクタール当たり2トンの鉄の雨が降った、と推算されている。
必然的に、モスクワにあるほぼ全ての建物が瓦礫の山と化した。
例えば、クレムリン宮殿は、この時に米軍の戦略爆撃により完全に瓦礫の山となり、21世紀になっても(平和への祈念に遺されたのもあるのだが)外壁の一部が再建されていない惨状が遺されている。
それでも、スターリン等、ソ連政府、軍幹部は、モスクワの防空壕等に籠城して、ソ連の国民に対して、不当な侵略者である連合国軍への徹底抗戦を呼びかけ続けていた。
そういった中でも、多くのモスクワ市民が、直接の戦略爆撃からは生き延びることはできた。
それは、モスクワの地下に張り巡らされた地下鉄網等が、防空壕代わりになったからだが。
真の地獄は、それからだった、というのが、多くの生き延びたモスクワ市民の回想である。
日本空軍の戦略爆撃により、モスクワは、特に市民にとっては陸の孤島に近い有様となった。
そうした状況の中でも、モスクワに食料を始めとする物資が届かなかった訳ではないが、その内訳は。
まず、ソ連政府、軍の幹部に対する食料等の物資が最優先され、次に軍関係の物資であり、モスクワ市民に対する物資は優先度が低かった。
そして、モスクワ市民が寒さをしのぐための住まい、建物の多くが、連合国軍の戦略爆撃により、瓦礫の山と化している。
多くの市民が、お互いの空腹の身を寄せ合って、氷点下何十度の寒さに耐えるしかない惨状を呈した。
建物が破壊されている中で、少々の暖房器具がある程度では、懸命に防寒のための工夫を凝らしたとしても、氷点下何十度の寒さで襲い掛かってくる冷気に対して、空腹のモスクワ市民が耐えて生き延びるのは、極めて困難だった。
かと言って、ソ連政府としては、そうそうモスクワ市民のモスクワからの脱出希望を認める訳にはいかない事情があった。
モスクワ市民のモスクワからの脱出をそうそう認めては、最早、モスクワ防衛が困難なことを、ソ連政府自らが積極的に認めることになってしまうことになりかねない。
既にレニングラード(サンクトペテルブルク)を失陥しているソ連政府にしてみれば、連合国軍の地上軍が迫る前にモスクワの防衛を放棄しては、ソ連国内において、ソ連政府の求心力が失われるのではないか、という危惧(実際、それが間違っているとは言い難い)を覚え、モスクワ市民の脱出を容易に認める訳には行かなかったのだ。
もっとも、一応は10代前半以下の子どもや乳幼児の母については、連合国空軍の戦略爆撃が本格化して以降、モスクワからの脱出申請がソ連政府によって認められて、ウラル山脈周辺に何か所か指定された疎開地への避難が認められてはいたのだが。
これまでのソ連政府による恐怖政治もあり、モスクワ市民の多くが、下手に疎開地への避難申請をしては、非国民等の非難を周囲から受けたり、NKVDの監視対象にされたり、するのではないか、といわゆる忖度をしたことから、乳幼児の母や子どもの疎開、避難は進まなかった。
こういった状況から、1942年晩秋から1943年の春に掛けて、多くのモスクワ市民、特に子どもの餓死や凍死が相次ぐことになった。
他のソ連が確保しているロシア地域の多くの都市(特に北部から中部にかけて)でも、規模は異なるものの、そう言った市民が空襲により苦難にあえぐ状況が引き起こされたのだ。
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